「純文学の中堅作家に授賞するのは、直木賞としては筋ちがいだ。」…『随筆 筆一本』昭和31年/1956年1月・鱒書房刊所収「文学賞を斬る」十返肇
■今週の文献
『随筆 筆一本』昭和31年/1956年1月・鱒書房刊
「文学賞を斬る」
十返肇
あれこれの文学賞を斬ってみせたのは、何も大森望さんや豊崎由美さんが初めてではない、なんてことは、言うまでもありませんが、その先達として名前を挙げなければいけないとしたら、ひとりは断然、十返肇さんでしょう。
昭和31年/1956年に出した『随筆 筆一本』で「文学賞を斬る」のタイトルのもとに、芥川賞、直木賞、女流文学者賞、新潮賞、野間文学賞、読売文学賞(表記と順序は掲載ママ)について、選考や文壇事情のウラばなしっぽいことをまじえながら論評し、当時の文学賞好きたちの喝采を浴びました(たぶん)。初出は昭和29年/1954年3月『東京タイムス』他、だそうです。
たとえば、全然うちのブログのテーマとは外れるんですが、なにぶんゴシップ大好き人間なもので、こういうエピソードを散りばめられると、ワタクシはつい引用したくなってしまうのです。文芸評論家の名をかたる単なるゴシップライター、と揶揄されただけのことはある、さすがの十返さんです。
「読売文学賞には正宗(引用者注:正宗白鳥)、宇野(引用者注:宇野浩二)、広津和郎、佐藤春夫、小林秀雄など表向きの選考委員のほかに、下調べ役ともいうべき選者があって丹羽文雄や舟橋聖一など加わっていたのであるが昨年度の同賞に阿川弘之の『春の城』が受賞されたのは、下調べ役を無視するものであった。
なぜなら『春の城』は最初の選考では候補にものぼっていなかったものであるから、彼等としては面白くなかったのは当然である、そこで次回からは丹羽、舟橋も改めて選考委員に加えることになった。『春の城』が受賞したときは、候補の第一としては、丹羽文雄の『厭がらせの年齢』から『遮断機』にいたる作品群があげられていたが、これは小林秀雄が『遮断機』を否定したので失格したともいわれ、また広津和郎も同作品を認めなかったとも伝えられている。」(『随筆 筆一本』所収「文学賞を斬る」より)
ちなみに読売文学賞というのは、いまと違って昔は(十返さんが指摘している回当時は)、選考経緯のなかで他の候補作も公表されていたんですが、いまと同じく、選考委員ひとりひとりの選評は発表されていません。そのため、選考過程に関して、かように外部からの臆測などが飛び交い、おかげで多少の活気をもたらしていた面がありました。
ここで、無責任な流言を封じるために、「じゃあ全委員の選評を公開しよう」という開放路線へ歩む道もあったとは思うんですが、そういう意見が通りづらいのが、組織ってもんかもしれません。残念ながら逆に、「他の候補作を非公開にしてしまおう」と、消極的で後ろ向きな方向に後退していった結果、現在のような、関係者以外ほとんど盛り上がりも面白みもない賞へとなり果てたわけですね。
直木賞の話題にいく前にもうひとつ、十返さんの芥川賞斬りにも触れておきます。
「芥川賞に対する批判」こそ、たいていその種類は最初の20年ぐらいで出尽くしてしまい、あとは同じような批判を違う人が言っているだけ、の繰り返しだったりします。たとえば、昭和29年の十返さんのこんな言葉など、まさにそうです。
「もともと一年に二回も、実力ある新作家を見つけ出そうというのが無理なところへ、おまけに文春側が「該当者ナシ」は困るというものだから、多少のみかは相当な異論があっても受賞してしまう。芥川賞が近時小粒になったといわれるのは、候補線上にのぼる新人全体が小粒になったことと相まって、ここに原因があろう。」(同)
「近時」と言っていますんで、そのころの受賞者を挙げてみます。第29回、安岡章太郎(「悪い仲間」「陰気な愉しみ」)。第28回、五味康祐(「喪神」)、松本清張(「或る「小倉日記」伝」)。第26回、堀田善衛(「広場の孤独」「漢奸」その他)。第25回、石川利光(「春の草」その他)、安部公房(「壁――S・カルマ氏の犯罪」)。
……当時、これらの受賞者を「小粒だ」と言い立てた人たちがいたわけですが、その後、彼らの活躍を見ざるをえなくなったときに、どういうふうに言い訳をして言いつくろったんでしょう。そっちを調べるのも面白いかもしれません。
と誰か、いもしない熱心な芥川賞フリークに下駄をあずけたところで本題です。直木賞です。
今回の十返さんの直木賞斬りは、第30回(昭和28年/1953年・下半期)の結果をもとに駄弁っていますので、中心テーマは「純文学作家に直木賞が与えられること」となっています。この回、田宮虎彦さんが最終選考に残り、しかしもはやジャーナリズムに受け入れられている、いまさら直木賞でもない、過去にもっといい作品がある、などの理由で落とされたからです。
十返さんは首をひねっています。
「しかしそうすると、井伏鱒二、今日出海、小山いと子、立野信之、檀一雄などにも受賞作以上の作品があり、どうも筋が通らぬようだ。」(同)
はい。そうです。筋など通っていません。通っているわけないじゃないですか。半年に一回だけ、文春の編集者が勝手に決めてきた候補のなかから諾否を決める傀儡委員たちに、筋が通っている、という前提で物事を考えるほうがおかしいでしょ。みなさん、自分の仕事で忙しいのです。前はどうだったか、その前はどうだったか、などときっちりと自分の直木賞観を検証しながらその筋を通すような面倒っちいこと、やるわけがありません。
直木賞の授賞姿勢には筋などありません。十返さんがおっしゃるとおり。それで終わりです。
……終わりなんですが、直木賞を外から見て物を言いたがる人間は、それで満足しないのが世の習い。ワタクシもそうですから、わかります。いろいろと直木賞のことやその周辺の小説状況のことを考え(考えすぎて)、じっさいの直木賞がやろうとしていることとは焦点のズレた指摘をしてしまったりします。自分の想像する(期待する)直木賞像をこしらえ、そこから直木賞が外れている! などと問題視してしまう。十返さんといえども、その弊から逃れることはできませんでした。
「それにしても「大衆文学の有力な新人」発見の機関であるはずの直木賞が、井伏鱒二や今日出海などばかりに授賞されるのは、やはり筋違いというべきではないのか。委員の中には、彼らをなんの機会にでもよいから表彰したいというような、是が非でも直木賞でなければならぬというほどの切迫した感情からでなしに選んでいるものもあるのではないかと疑われる。
多少前途が不安でも大衆文芸の新人に授賞し、それを育ててゆくという本筋に立ちもどらなければ意味のない話だ。」(同)
いやいや、全然いいじゃないですか。大衆文芸の新人に授賞しなくったって。直木賞を「「大衆文学の有力な新人」発見の機関」だと、そう考えてしまうのが間違いのもとだと思いますよ。そもそも始まった当初から、直木賞の委員たちは、新人発掘機関としての役割を放棄ぎみでしたし、直木賞なんかが頑張らなくても、大衆文芸の新人たちは、本でカネを稼ぎたい雑誌や出版社がどんどん見つけてくれて、それで育ってゆくものでしたし。
表彰したい作家がいるけど、なかなか機会がなかった、っていう状況のなか、おっと便利な賞があったぞ、と直木賞を贈る。そういう授賞があったって、何の問題もないと思いますよ。
何か直木賞には筋がある、と(漠然とでも)考えて直木賞に期待したり、あるいは失望したりしても、ほぼ無益です。ええ、ワタクシもそうですから、よくわかります。
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