「今回の芥川賞受賞作は、これが直木賞だと言われても、誰も不思議に思わない。」…『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号「芥川賞」〈糸+圭〉秀実
■今週の文献
『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号
「芥川賞」
「巧みに平易に「時代」を描くが
「芥川賞」の持つ新鮮さが……
〈糸+圭〉秀実
文学賞に対する批判、といったとき、直木賞に関するものよりも芥川賞のそれのほうが、断然に楽しい。ってことには、多くの人がうなずくかと思います。
芥川賞に向けられた文句・悪口・揶揄・罵倒。80年の歴史の、どの時代を切ってみても、ほぼかならず目に止まります。現にいまも(いまだに)、目にできていますよね。すごいことです。
我々のじいちゃんばあちゃんや、その上の世代から絶え間なく脈々と受け継がれてきた、芥川賞批判。ひとつの文化と見なしてもいいでしょう。これがないと芥川賞とは言えない、というぐらい、賞そのものと一心同体です。しかも、批判の声を挙げているうちの大部分が、自分は伝統を継承しているっつう意識がなさそう(要は、昔っから同じようなことが、さんざん言われ続けている事実を知らなそう)なのも、その楽しさをぐっと高めている原因かと思います。
伝えようとか、教わろうとかしていないのに、おのずと次の世代に、似たような感想が生まれていってしまう。それが、芥川賞批判の特徴なのかもしれません。
文学賞っていったい何が面白いのか。それは、候補者と選考委員たちが織りなす人間ドラマ、なのだからじゃなくて、それに対して、外部の人間があれこれ意見を言ったり、囃し立てたりする(観客たちを含めた)人間ドラマ、だから楽しいんです。
その意味では(でも)、直木賞ははなはだ分が悪い。なにしろ、批判者は、芥川賞分野に比べて熱意に乏しく(そう見える)、真剣さに欠けており(そう見える)、そもそも直木賞に興味がありません(そう見える)。直木賞批判が、芥川賞批判ほどは文化として根づかず、育ってこなかったのは、ワタクシとしては寂しいかぎりです。
今週の文献の、〈糸+圭〉(←じっさいは漢字一字)秀実さんも、注目しているのはやはり芥川賞オンリーです。24年前の文章です。
「文学賞の性格はその時代で変化するものだが、芥川賞が今の時代にそぐわなくなってきているという感想を、最近あちこちで耳にする。筆者自身、当日までその日が芥川賞の発表の日だと知らず、その日たまたま会った関係者に聞いて、「あっ、そうなの」と知った次第である。自分の怠惰な感性を普遍化するつもりもないが、やっぱり「時代は変わった」と思わざるをえない。」(『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号「芥川賞」より)
ご安心ください、〈糸+圭〉さん。たぶん、〈糸+圭〉さんの怠惰な感性のせいじゃありません。直木賞・芥川賞なんて、ひとりの人間が長い年月、関心を持ち続けられるような、そんなシロモノじゃなくて、子供だましの目くらまし、というか、何度か気にしているうちすぐ飽きてしまうのが、普通の感性だと思います。
むろん、「時代が変わった」せいでもないと思います。一般人は当然のこと、文芸に携わる人たちだって、「昔はみな、直木賞・芥川賞の発表日は、きちんと毎回、気にかけていた」なんて聞いたことがありません。こんなものを、欠かさず毎回(←ココ重要)、注視しているのは、文春に勤務している人か、直接商売・仕事に関係する人、それと狂人ぐらいなもので、それはいつの時代も変わらないでしょう。
それで、〈糸+圭〉さんの記事です。決まったばかりの第102回(平成1年/1989年・下半期)芥川賞の、瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」、大岡玲「表層生活」について、思うところを述べていまして、直木賞の話題など出る幕があるとは思えません。
「われわれが芥川賞に期待していたのは、強度な抵抗感のある新人だったのではないだろうか。」(同)
と指摘し、えっ、そんな「われわれ」とかくくれるほど、芥川賞への期待って、世間全般(あるいは文壇関係者全般)に共有されていたの? と驚かせてくれるんですが、まあ、どんな立場の人がどれほど突飛な攻撃をしても許される芥川賞のおハナシだしね、直木賞のほうには関係ないよね、と余裕をぶっこいていました。
しかし、出てくるのです、直木賞の話題が。〈糸+圭〉さんの口から。こういうふうに。
「別段、今回の受賞二作品に難クセをつけるのではない。両方とも達者なものだとは思う。(引用者中略)しかし、それだけなのだ。これら二作が直木賞だと言われても、誰もが不思議に思わないだろう。実際、瀧澤氏の作品を前回の直木賞受賞作であるねじめ正一氏の「高円寺純情商店街」と比べて、両者を芥川賞と直木賞にふりわける根拠はほとんど見当たらない。大岡氏についても、つまり「文学」というのは大衆社会やテクノロジーに対する抒情的なニヒリズムのことではないだろう、という疑問がわく。」(同)
ほんとに、やめてほしいですよね。芥川賞の受賞作が(自分が勝手に空想する)「芥川賞」なるものにふさわしくない、と言いたいときに、軽がるしく直木賞を持ってくるの。
そりゃあ直木賞は、「ネコババのいる町で」だろうが「表層生活」だろうが、大歓迎でしょうよ(でも、第102回の直木賞の候補に入ってきて、そうたやすく受賞にたどりつけるほど、甘くはないです。他の候補のメンツを見ても)。直木賞はフトコロの深い賞ですから。
でも、芥川賞の側が、「高円寺純情商店街」を採ることはまずないでしょ。それは、だって「強度な抵抗感のある新人」を、無条件で選ぼうという賞じゃないんですから。歴史的に、ずーっと、そういう賞じゃなかったんですから。『小説新潮』連載作ってだけで即アウト(いや、単行本なので即アウト)、みたいな、ボケっぷり全開のこだわりを、何か大切なもののように抱えつづけてきた文学賞と、直木賞をいっしょにしてほしくありませんわ。
何といいますか。「純文学」とは言えない(どちらかというと、大衆文芸の作品だ)みたいな感想を持つのはいいです。だから芥川賞にはふさわしくない、って言うのも許せます。でも、そこで、そもそも「芥川賞が見ている純文学」と、同じ尺度・同じ目線で大衆文芸を見てきたわけじゃない直木賞を、あたかも芥川賞と並べることのできる比較対象、みたいに持ってこないでほしいです。
……持ってこないでほしい、といくら頼んだって、持ってくる人は後を絶たないんでしょうけけども。日本人のDNAのなかに埋め込まれた、芥川賞批判を連綿と繰り返しつづける文化伝承力は、ほんと、強固ですからね。ほとほと参ります。参りますし、直木賞(批判)ファンとしては、うらやましくもあります。
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