濱本浩〔選考委員〕VS 大林清〔候補者〕…直木賞を受けるチャンスをことごとく逃し、別の社の賞を受けた者たち。
直木賞選考委員 濱本浩
●在任期間:2年
第17回(昭和18年/1943年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)
●在任回数:4回
- うち出席回数:4回(出席率:100%)
●対象候補者数(延べ):17名
- うち選評言及候補者数(延べ):9名(言及率:53%)
この人(と吉川英治さんや中野実さん)が、選考委員を引き受けたりしなければ、山本周五郎さんは直木賞を蹴らなかったのじゃないか。とも言われて、いや、言われちゃいないですけど、賞嫌いの連中がみな、ぽわーんと目にハートを飛ばして憧れる、かの山本さんが直木賞を毒づくときに引き合いに出した、クソ選考委員のひとりとして、もはや濱本浩さんの名はおなじみ感があります。そんなところで有名になって、ほんとうにかわいそうな人です。
人材不足はなはだしい戦中期の大衆文壇界隈。直木賞選考委員になれそうな人材が枯渇し(?)、芥川賞は知らず、だれも注目していない直木賞なんて続ける意味あんの? と多くの人が感じていたでしょう。結果、第17回に委員改選してからの成り行きを見れば、続ける意味なかったね、と総括されてもよさそうなものですが、基本、過ぎ去った直木賞のことは、大半の人にとって興味のないことらしく、当然、戦中のハナシは取り上げられることも少ないわけです。せっかく濱本さん、勢い込んで選考委員にまでなってあげたのに、まじかわいそうな人です。
勢い込んだかどうかは、知りません。ただ、濱本さんといえば、そもそも直木賞を受けてもよかった人です。川口ナンチャラや鷲尾ドウタラなどという、直木三十五さん本人と縁のある人が取っているぐらいの賞ですから、なおさらです。濱本さんもまた、直木さんとは懇意な仲でした。
「私(引用者注:萱原宏一)が浜本さんを知ったのは、直木三十五の紹介によってである。文芸春秋に「あるエキストラの死」という小説が載り、その後であったと思う。然るべき席を設けて、直木さんが引合わしたのだ。その意味は大衆文芸に進出の遺志のあった浜本さんに、助力してほしいということで無論あったわけだ。
浜本さんは「改造」の記者を長く勤めていたので、文壇進出が遅れていたが、年は三上於菟吉、宇野浩二、広津和郎などと同年で、直木さんよりは一歳の年長であった。だから、四十過ぎての出陣というわけで、その意味では、悩みを乗り越えた末の決意であった。」(萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「浜本浩と酒吟味」より)
ところが、第1回、第2回と、直木と顔なじみの人が賞を受けたため、直木賞=縁故主義の旧弊なシロモノ、との印象がつくられてしまい、さすがにもう、直木自身から離れて選考しなきゃまずいだろ、と思われたものか、濱本さんは、いつまで経っても、「いまさらこの人にあげることもない」と言われ続けてしまったのでした。
川口さんが異様に直木賞を欲しがったのと同様、濱本さんも、やはり自分の作家人生のスタートに直木さんの手を借りた、っつうことがあったためか、直木賞を欲しがっていたそうです。第3回受賞の海音寺潮五郎さんも『別冊文藝春秋』に寄せた「のんびりした時代」のなかで、濱本さんが直木賞をほしがっていて、しかも作家としても自分より先輩だから、もう一回選考会のほうで考え直してほしい、と言っていったん断ったことを明かしています。
濱本さんといえば、改造っ子、でありながらも、文藝春秋・オール讀物にひんぱんに寄稿する「文春っ子」であることは衆目の一致するところ。その意味でも、内輪に授賞させて周囲が白けきっているのを尻目にひとりで盛り上がる、直木賞お得意の展開にうってつけの人でした。
『オール讀物』昭和8年/1933年4月号「十二階下の不良少年」は、
「永井龍男は「沈滞せる大衆文壇に清新の気を吹き込むに足る大雄篇」と絶賛、浩にとって大きな自信の作となった。」(平成7年/1995年7月・高知新聞社刊『高知県昭和期小説名作集4 濱本浩』所収 高橋正「解題」より)
とのことです。永井さんがどこで、どの場面で、そう言っていたかはわかりません。永井さんが、というより、『オール讀物』編集長が、っつう匂いもあって、だとすると、8割がた宣伝の大風呂敷なのじゃないかと思いますが、いずれにせよ『オール讀物』のお気に入り=直木賞ライン、というのはたしかでしたでしょう。
しかし、代表作とも目される「浅草の灯」ですら、直木賞選考会では拒否られ、新潮社文芸賞などという、あまたある新潮社の失敗した文学賞のひとつを授けられて、逆に、ビミョーな立ち位置の作家に。
「時局が戦時体制に入ってののちは、(引用者注:田中)貢太郎や田岡典夫とともに、大衆小説の側から一種の土佐ブームをあふりたて、貢太郎なきのちしばらく、土佐を代表する作家の第一人者と目されていた。このころの文学者の多くが戦争に協力的であったのに浩も例外ではなく、揚子江方面従軍(昭和一三年)にひきつづいて、昭和十七年には海軍報道班員として長駆、ラバウル方面に遠征している。」(昭和37年/1962年8月・高知新聞社刊『土佐近代文学者列伝』所収 木戸昭平「浜本浩」より)
と、文春一派の名に恥じず、戦争への協力に励み、その貢献もあって直木賞選考委員の話も舞い込んだ。……のかどうかはわかりませんが、でも明らかに戦争下で目立った働きをみせる人材のひとりではありました。同じく選考委員にさせられた獅子文六さん、中野実さんと同様に。
というところで、濱本さんが選考委員として激突した候補者、のことに移りたいんですが、中野さんのエントリーでも書いたように、たった4度の選考、しかも選評も少ない。いいお相手が見つかりません。戦時下の選考委員、といったことで言えば、永井龍男さんが『回想の芥川・直木賞』で触れているように、あるいは、それを引用しつつ川崎賢子さんが『蘭の季節――日本文学の二〇世紀』(平成5年/1993年10月・深夜叢書社刊)で注目しているように、久生十蘭候補、でもいいのかもしれません。
「(引用者注:久生十蘭が)一九四二年から四三年にかけ、三度、直木賞候補にあげられた際、選考委員の浜本浩は〈技術的には、他の候補作の何れよりも優れてゐると思つたが、今日の直木賞としては何となく物足りない〉と発言、永井龍男はこの選評を〈時局的な意義を持たぬ作品ということ〉(『回想の芥川・直木賞』)といいかえている。十蘭的表現の芸を、〈今日〉性・〈時局〉性から孤立した〈技術〉、とかたづけて、十蘭的表現の方法とその歴史性とを切りはなした読みは、いまだに多い。(引用者中略)〈技術的には優れているが〉といったたぐいの評は、戦後も、そして現在も、ながく十蘭につきまとっているが、その〈優れているが〉という留保に透けてみえるのは、表現技術いっぱんにたいする軽視だ。書くことの技術を軽視することは読むことの技術を軽視することでもある。」(『蘭の季節』所収「いくたびも、十蘭的場所をもとめて」より)
直木賞(の選考委員)に、読むことの技術なんて、期待したり希望をもったりしては身がもちませんね。「時局」を意識しない言説を吐いた途端、明日にも仕事を失うかもしれない情勢のなかで、大衆文芸の賞を選考する、などというのが、いかに困難で、四方壁だらけなことか。その業務に果敢に取り組む濱本さんたちの、その勇気と尽力を、ただただ、尊いものと思います。
で、永井さんですが、この回の久生さんを、岩下俊作さんとともに「運に恵まれない作家」としながら、久生さんは戦後、直木賞を受ける機会を得ました。いっぽう岩下さんについては、白井喬二さんの項で取り上げてしまいました。
ええい、となれば、彼らと並ぶほどの「運に恵まれない作家」のもうひとりに、ここで触れないわけにはいかないじゃないですか。直木賞候補2度、予選候補に含まれた回はプラス2度。新潮社文芸賞でも一度候補になりながら、どれも受賞することができなかった戦前・戦中期大衆文壇の期待の星、大林清さんです。
○
委員改選後、一発目の第17回直木賞。この回の濱本さんの選評のなかで、最も特徴的だったのは、「今日の」=つまり時局、戦時下であることをどう考慮するかに筆が割かれているところ。っていうことはもちろんなんですが、いや、それよりも何よりも、直木三十五さんの遺した言葉に敢えて触れているところでしょう。
「山本周五郎氏の「名婦伝」と、渡辺啓助氏の「西北撮影隊」と何れを選ぶべきか思い惑ったが「大衆文学の価値は、その作品が、如何に強く深く読者を動かすかによって決定せられる」と云った故直木三十五氏の言葉を想い起し「名婦伝」を採った。」(『文藝春秋』昭和18年/1943年9月号 濱本浩選評より)
「如何に強く深く読者を動かすか」だってさ、読みの技術が足りないね。などと濱本さんにツッコんだって仕方ありません。直木三十五の賞だからいいじゃないか、むしろ時勢に沿った内容を露骨に反映させたものこそ、直木の賞にはふさわしい、とも言えるかもしれませんし。濱本さんは、より「直木三十五」的なものを順守しようとした選考委員、と見たっていいのじゃないかと思います(って、それは考えすぎか)。
そこから行けば、大林清さんの「華僑伝」なんて、外地シンガポールを扱っているし、これまで積んできた実績も厚いし、けっこう直木賞に向いていました。しかし濱本さんは、斥けてしまうのです。
「大林清氏の「華僑伝」は特異な作品ではあったが、構成の誤謬が気になり、氏が練達の作家だけに見過すことができなかった。」(同)
どういうことでしょうか。練達の作家であっても、ちゃんと選考委員を納得させてくれる作品が採り上げられないと賞を贈るわけにはいかない、ってことでしょうか。
昔、自分が候補だったときに、「此の人が今少し四つ身の角力を取ってくれたらと惜しく思われます。」(白井喬二)と言われて落とされたことの意趣返し、……なわけはないんですが、自分が何度も候補になってとれなかったからと言って、候補回数を重ねている作家を優遇しよう、とまったく思わない潔さが、濱本さんの真摯なところです。
永井さんが言った、直木賞における「運に恵まれない作家」、その第一号は、何といっても濱本さんでしょう。さんざん議論されながら、いま一歩、選考委員たちに清新なものを感じさせることができず、そして、新潮社文芸賞っちゅうどうでもいい(……すみません、筆が滑りました)類似賞を押しつけられ、過去の直木賞受賞作復刻、とかいう企画があっても、絶対にその対象に含まれない位置に置かれました。
戦後、早乙女勝元さんの『下町の故郷』を、濱本さんは直木賞に推薦したらしいんですが、もはや文藝春秋新社が彼の声に耳を傾ける義理もなく、『下町の故郷』は、直木賞本選では議論されることはありませんでした。
「浩の戦後の作品は、浅草もの・土佐もの・時代もの・現代ものと多彩だが、マンネリ化し、新鮮味に欠け、ヒット作も出なかった。特に若い読者をつかみ切れず、不本意な通俗小説へ下降していったのは惜しまれる。」(前掲 高橋正「解題」より)
下降、ですか……。何かせつない書き方するよなあ、高橋さんったら。
そして大林清さんです。これまた、濱本さんらが落としてしまったおかげで、万年直木賞候補の称号がついてしまいます。すると濱本さんにも似て、他の出版社(大日本雄弁会講談社ですね)が手を差し伸べてきて、「華僑伝」を含む近作を授賞対象として、野間文芸奨励賞っちゅうどうでもいい(……ええ、今度はワザとです)類似賞が押しつけられる展開に。戦後、放送分野ではおエラい地位にまでのぼりましたが、大衆文芸の分野では、もはや顧みる者のいない存在になってしまいました。下降したか上昇したかは、はっきりいってワタクシにはわかりません。
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