佐佐木茂索〔選考委員〕VS 『新喜劇』同人〔候補者〕…大衆文芸の場合、一作二作では作家の将来を見抜けない、と言い張る。
直木賞選考委員 佐佐木茂索
●在任期間:通算8年
第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)
●在任回数:16回
- うち出席回数:16回(出席率:100%)
●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):23名(言及率:33%)
昨年6月から毎週1人ずつ直木賞選考委員をイジったり、イビったりつづけて48人目。このテーマの最後を飾るのは、全国の直木賞ファンのほぼ全員が、尊敬畏敬してやまない、直木賞史イチの権力者。いまの直木賞をつくった人、でありながら、強烈なキャラクターを有する親分のかげに隠れて、絶対に矢オモテに立たない位置を確保しながら直木賞を操りつづけた真の悪者……いや、真の功績者、佐佐木茂索さんです。
ワタクシが佐佐木さんのことを好きなのは、ほかでもありません。だいたい直木賞や芥川賞の、文学賞としてのいちばんの特徴は何か、といえば、世間の論調(というか一般的に抱かれるイメージ)と、実態や実際がかけ離れている、っつうことなわけですが、佐佐木さん自身の存在がまさにその代表例だからです。
この二つの賞について、何かあるたび、まず引き合いに出されるのは、オモテに出て踊り踊らされるピエロ・菊池寛さんばっかりでしょ。直木賞をつくった張本人、佐佐木さんは、いつも脇役というか、そこにいなかった人扱い、の安全地帯。21世紀になってもいまだ頑強に「直木賞・芥川賞=菊池寛」の構図が社会に根を張っていて、その根本を生み出した佐佐木さんの、世評操作能力=出版人としての能力は、何度うちのブログで取り上げても足りないほどのものだと思います。
たとえば新しめの本で、山本芳明さんに『カネと文学 日本近代文学の経済史』(平成25年/2013年3月・新潮社/新潮選書)っていうのがあります。菊池寛さんが書いた例の有名すぎる言葉――直木賞・芥川賞の発表を一行も取り上げてくれない新聞があった云々、について、「このコメントは事実とやや異なっている」とし、「新聞各紙は大変好意的に芥川賞・直木賞を扱っていたのである。」ととらえた文章もあって、そうだそうだ、とワタクシも膝を打って読んだ本です。
しかし、山本さんちょっとイタダケないな、と思うひとつは、
「こうして見ると、菊池の怒りには何らかの意図があったと考えるのが妥当だろう。一層の宣伝効果をねらったというわけである。」(同書より)
と、菊池さんに「意図」があったとしている点です。さらには、この直木賞・芥川賞創設に関する項では、菊池は、菊池は、と(菊池さんが文章を多く残しているので仕方がないとはいえ)、文藝春秋社=直木賞・芥川賞主催者=菊池寛(が中心)、みたいに読めるよう紹介していたりします。佐佐木さんのことも出てきますが、どうしたって脇役の扱いです。これまでの文献とさして変わらずに。
しかし菊池さんに、何か深い意図などあったのか。単なるその場その場の感想や、思いつきにすぎないんじゃないか。……とは、いずれにしたって想像・解釈するしかないんですが、ワタクシは、こう書く小林和子さんのほうに賛成です。
「(引用者注:菊池寛は)社長としては色々と思いつくアイデアマンで、これは佐々木茂索のほうのアイデアとも言われてもいるが、奥さんボーナスなるものや、座談会もそうだったし、しばしば催す小説家や漫画家による文化講演会なるものを事業にしたのも彼のアイデアだった。(引用者中略)
しかし、思いつきはすぐ実行するのではあったが、それを長く存続させる努力はしなかったので企画倒れになるものも多かった。彼を地道に支えた、佐々木茂索や池島信平らの努力もあったのである。」(小林和子・著『日本の作家100人 人と文学 菊池寛』より)
まあ、イタダケない、とは言いましたが、山本芳明さんは菊池寛が創設時のときは直木賞・芥川賞にそんなに期待していなかった、と指摘しています。それなのに、これらが事業として発展し、やがて並ぶもののない文学賞となった、っつう事実から、おのずとそのミッションを着実に実行しつづけた佐佐木茂索さんの高い経営能力が知れるので、逆に(?)いいのかもしれません。
ええ、直木賞(と芥川賞)創設者、としての佐佐木さん。まったく揺るぎない力を見せつけてくれました。誰も否定できやしません。ただ、今回のテーマは「選考委員」としての姿なんですよね、困ったことに。こうなってきますと、佐佐木選考委員のビミョーさ、というか、不思議さ、というか、「直木賞」っぽいマト外れ感、奇妙な立ち位置のことに思いが至らないわけにはいかないのです。
だって、佐佐木さんが「大衆文芸」の新人賞を選考するんですよ。笑えませんか。大衆文芸を書いたこともないような人が。直木賞というと、そもそも大衆文芸プロパーの評論畑が貧弱ってこともあり、あるいは「実績主義」だから小説ひとつひとつを批評する必要がなく、ガキでもできる、っつうこともあって(か)、芥川賞とは違い、「実作家」ばかり選考委員の席に就いてきました。これはこれで、一応、そうだね、あれだけ自分で売れている小説を書いてきた人が選ぶわけだからね、と思わせることで周囲を納得させるところもあります。それが、カネを出す主催者の代表、とかいう立場をカサに着て、少しばかり文芸のことに詳しかったり経営能力に長けている程度のことで口を挟み、偉そうに選考しちゃうんですよ。
主催者側が、選考会の行方を左右できる立場にあることが、文学賞にとっていいのか悪いのか。……たかが文学賞なので、べつに結果が主催者の意向どおりになびいてもいいと思うんですが、なにしろ親分がだらしのない人だったので、自分が責任をもって運営せねばなるまい、との責任感から、佐佐木さんは直木賞のほうにも委員 として参加した、……と思いたいです。基本、小島政二郎さん以外、直木賞委員はやる気の薄い人たちばっかりだったようですし。
佐佐木さん自身はこのように弁明(?)しています。
「最初の銓衡委員もね、これは菊池氏の提案で、故人に縁故のあった者を選ぼうじゃないかというので、選んだわけだね。だから両方に縁故のある者は両方かけもちだった。
(引用者中略)
直木(引用者注:直木三十五)とはまた、僕は裏表に住んで、彼の離婚の証人になってハンコを捺すというようなところまでやっていて、二人に対してはひじょうなる親愛感をもっていたからね。もしそれほどの友情というものがなかったら、また違ったものだったかもしれない。」(佐佐木茂索、永井龍男「芥川賞の生れるまで」より)
そりゃそうかもしれません。でもなあ、じっさい、直木賞史を見渡しても、佐佐木さんほど、作家としての実績が乏しい……多くの人に読まれる小説を書いた経験に乏しい人はいませんぜ。芥川賞ではそれもアリかもしれませんが、直木賞でこれが通用してしまうところに、暗中模索のスタート、芥川賞以上に期待されていなかった直木賞(だから、まあ体裁だけ整えて、追い追い考えていきましょ)の姿が如実に現われていると思います。
そりゃ佐佐木さんだって困りますよね。だから、しょっぱなの第1回(昭和10年/1935年・上半期)の選評で、
「大衆文芸の場合は、一二作で其作家の将来を見抜くという事は、純文学の場合より遥かに困難である。私見を以てすれば、大衆文芸は、「習うよりは慣れ」のアアチザン的何物かが可なり必須のものとして存在するようである。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号 佐佐木茂索選評より)
などと、もっともらしいことを言っているようで、じつは大して説得力のない苦しまぎれの「大衆文芸の選考は実績主義でいこう!」宣言をしてしまった困った人、としていまに名を残すことになってしまったのです。アノ切れ者、佐佐木茂索がこんなことで、みずから名を落とすようなことになってしまい、ほんとうに残念です。
でも佐佐木さん、直木賞の長い歴史のなかで、(大衆向け)実作家としてのバックボーンなしに、批評的、評論的、もしくは雑誌編集者としての視点でのみ選考にいどんだ唯一の人です。このぐらいのテキトー発言は、許してあげてください。
○
佐佐木さんの、むちゃくちゃな直木賞選考、といってその極致が、第5回(昭和12年/1937年上半期)のものでしょう。
だいたい創設のときに、自分で「直木三十五賞は個人賞にして」(『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号「直木三十五賞規定」より)と決めたんですよ。それを始まってまだ2年ちょいで、完全に先行きの希望を失い、この「個人賞」の部分を崩そうと思っちゃうところが、むちゃくちゃと言わずして何という、って感じです。
「自分は「新喜劇」の同人に直木賞をと考えていた。もう少し強く主張したら、そう決定したに違いない。しかし敢て主張を貫徹しようとしなかったのは、此上半期に作品を発表した「新喜劇」同人と限定する事が無理だと思ったからである。と云って作品を発表しない作家にまで及ぼすのも変である。自然消滅的になったのも止むを得ない事か。唯、この機に「新喜劇」同人の才智に敬意を表し、同好の士の注意を喚起出来れば幸いである。」(『文藝春秋』昭和12年/1937年9月号 佐佐木茂索選評より)
強く主張しなかった理由は、直木賞は個人に贈るという規定に反するから、ではなく、要するに『新喜劇』同人、当時は35名~38名ほどいた全員に贈りたいんだけど、それだと昭和12年/1937年上半期の業績に対して賞を出す、という直木賞の規定に合わないから、だという。……ええっ!? 規定を気にするなら、そっちじゃないでしょ、専務、(だってそれまでも、過去の業績とか、年の半期以外の仕事をも大いに評価に組み入れて賞を贈っていたじゃん)と声をかけてあげたい場面ですが、身にまとった佐佐木さんのオーラが怖すぎて、だれも指摘できなかったのでしょうか。わかりません。
何だか、わかっているような口を利きながらじつは、あまりスジが通っていない選考、っていうのが直木賞の魅力です。少なくともワタクシにとっては。その意味において、いかにも鋭く正解を言っていそうな、数字にも強いマシーンのごとき佐佐木さんも、直木賞がここまでいいかげんな賞になったことに加担したひとりだったのですね。うれしいです。いや、そもそも直木賞をつくった人が佐佐木さんなのですから、いいかげんな賞であることの根本は、佐佐木さんの手腕によるところが大きいのかもしれません。
戦後は(戦中から)選考委員からは外れますが、文藝春秋新社社長=日本文学振興会理事長、っつう強大なる権力を背負って選考会にちゃっかり臨席。もちろん、票決には加わらないながらも、
「この委員会でも、佐佐木茂索が「芥川賞は一生に一つしかいゝものを書かなかった人にやってもよいが、こちらは将来の活動が期待される人でないと困る」と言ったのは、賛成だった。」(『オール讀物』昭和25年/1950年11月号 木々高太郎「遠慮のない委員会」より)
などと、なぜかいっぱしの直木賞観を委員会の席でぶってしまい、そういう佐佐木さんの発言が委員間に何の影響も与えないはずもなく(逆に与えないのであれば、選考の場でなぜそんな発言をしたのかわからないし)、裏でモノゴトを操る佐佐木さんの手が、戦後も確実に、直木賞の底を支えつづけました。オモテに顔を出さず、巧みに文学賞事業をビジネスにつなげる、という、おそらく菊池寛さんの能力ではできなかったことを、佐佐木さんはやり抜きました。ほんと、佐佐木さんは、オモテで選考委員などやるより、そっちのほうがお似合いです。
○
直木賞の歴代選考委員の激闘(ってほどのものでないのも含め)は、これでひとまず終わり。来週から、新たなテーマで直木賞のおハナシ、まだまだ続けます。
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コメント
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