« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

2014年5月の4件の記事

2014年5月25日 (日)

佐佐木茂索〔選考委員〕VS 『新喜劇』同人〔候補者〕…大衆文芸の場合、一作二作では作家の将来を見抜けない、と言い張る。

直木賞選考委員 佐佐木茂索

●在任期間:通算8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:16回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):23名(言及率:33%)

 昨年6月から毎週1人ずつ直木賞選考委員をイジったり、イビったりつづけて48人目。このテーマの最後を飾るのは、全国の直木賞ファンのほぼ全員が、尊敬畏敬してやまない、直木賞史イチの権力者。いまの直木賞をつくった人、でありながら、強烈なキャラクターを有する親分のかげに隠れて、絶対に矢オモテに立たない位置を確保しながら直木賞を操りつづけた真の悪者……いや、真の功績者、佐佐木茂索さんです。

 ワタクシが佐佐木さんのことを好きなのは、ほかでもありません。だいたい直木賞や芥川賞の、文学賞としてのいちばんの特徴は何か、といえば、世間の論調(というか一般的に抱かれるイメージ)と、実態や実際がかけ離れている、っつうことなわけですが、佐佐木さん自身の存在がまさにその代表例だからです。

 この二つの賞について、何かあるたび、まず引き合いに出されるのは、オモテに出て踊り踊らされるピエロ・菊池寛さんばっかりでしょ。直木賞をつくった張本人、佐佐木さんは、いつも脇役というか、そこにいなかった人扱い、の安全地帯。21世紀になってもいまだ頑強に「直木賞・芥川賞=菊池寛」の構図が社会に根を張っていて、その根本を生み出した佐佐木さんの、世評操作能力=出版人としての能力は、何度うちのブログで取り上げても足りないほどのものだと思います。

 たとえば新しめの本で、山本芳明さんに『カネと文学 日本近代文学の経済史』(平成25年/2013年3月・新潮社/新潮選書)っていうのがあります。菊池寛さんが書いた例の有名すぎる言葉――直木賞・芥川賞の発表を一行も取り上げてくれない新聞があった云々、について、「このコメントは事実とやや異なっている」とし、「新聞各紙は大変好意的に芥川賞・直木賞を扱っていたのである。」ととらえた文章もあって、そうだそうだ、とワタクシも膝を打って読んだ本です。

 しかし、山本さんちょっとイタダケないな、と思うひとつは、

「こうして見ると、菊池の怒りには何らかの意図があったと考えるのが妥当だろう。一層の宣伝効果をねらったというわけである。」(同書より)

 と、菊池さんに「意図」があったとしている点です。さらには、この直木賞・芥川賞創設に関する項では、菊池は、菊池は、と(菊池さんが文章を多く残しているので仕方がないとはいえ)、文藝春秋社=直木賞・芥川賞主催者=菊池寛(が中心)、みたいに読めるよう紹介していたりします。佐佐木さんのことも出てきますが、どうしたって脇役の扱いです。これまでの文献とさして変わらずに。

 しかし菊池さんに、何か深い意図などあったのか。単なるその場その場の感想や、思いつきにすぎないんじゃないか。……とは、いずれにしたって想像・解釈するしかないんですが、ワタクシは、こう書く小林和子さんのほうに賛成です。

(引用者注:菊池寛は)社長としては色々と思いつくアイデアマンで、これは佐々木茂索のほうのアイデアとも言われてもいるが、奥さんボーナスなるものや、座談会もそうだったし、しばしば催す小説家や漫画家による文化講演会なるものを事業にしたのも彼のアイデアだった。(引用者中略)

 しかし、思いつきはすぐ実行するのではあったが、それを長く存続させる努力はしなかったので企画倒れになるものも多かった。彼を地道に支えた、佐々木茂索や池島信平らの努力もあったのである。」(小林和子・著『日本の作家100人 人と文学 菊池寛』より)

 まあ、イタダケない、とは言いましたが、山本芳明さんは菊池寛が創設時のときは直木賞・芥川賞にそんなに期待していなかった、と指摘しています。それなのに、これらが事業として発展し、やがて並ぶもののない文学賞となった、っつう事実から、おのずとそのミッションを着実に実行しつづけた佐佐木茂索さんの高い経営能力が知れるので、逆に(?)いいのかもしれません。

 ええ、直木賞(と芥川賞)創設者、としての佐佐木さん。まったく揺るぎない力を見せつけてくれました。誰も否定できやしません。ただ、今回のテーマは「選考委員」としての姿なんですよね、困ったことに。こうなってきますと、佐佐木選考委員のビミョーさ、というか、不思議さ、というか、「直木賞」っぽいマト外れ感、奇妙な立ち位置のことに思いが至らないわけにはいかないのです。

 だって、佐佐木さんが「大衆文芸」の新人賞を選考するんですよ。笑えませんか。大衆文芸を書いたこともないような人が。直木賞というと、そもそも大衆文芸プロパーの評論畑が貧弱ってこともあり、あるいは「実績主義」だから小説ひとつひとつを批評する必要がなく、ガキでもできる、っつうこともあって(か)、芥川賞とは違い、「実作家」ばかり選考委員の席に就いてきました。これはこれで、一応、そうだね、あれだけ自分で売れている小説を書いてきた人が選ぶわけだからね、と思わせることで周囲を納得させるところもあります。それが、カネを出す主催者の代表、とかいう立場をカサに着て、少しばかり文芸のことに詳しかったり経営能力に長けている程度のことで口を挟み、偉そうに選考しちゃうんですよ。

 主催者側が、選考会の行方を左右できる立場にあることが、文学賞にとっていいのか悪いのか。……たかが文学賞なので、べつに結果が主催者の意向どおりになびいてもいいと思うんですが、なにしろ親分がだらしのない人だったので、自分が責任をもって運営せねばなるまい、との責任感から、佐佐木さんは直木賞のほうにも委員 として参加した、……と思いたいです。基本、小島政二郎さん以外、直木賞委員はやる気の薄い人たちばっかりだったようですし。

 佐佐木さん自身はこのように弁明(?)しています。

「最初の銓衡委員もね、これは菊池氏の提案で、故人に縁故のあった者を選ぼうじゃないかというので、選んだわけだね。だから両方に縁故のある者は両方かけもちだった。

(引用者中略)

 直木(引用者注:直木三十五)とはまた、僕は裏表に住んで、彼の離婚の証人になってハンコを捺すというようなところまでやっていて、二人に対してはひじょうなる親愛感をもっていたからね。もしそれほどの友情というものがなかったら、また違ったものだったかもしれない。」(佐佐木茂索、永井龍男「芥川賞の生れるまで」より)

 そりゃそうかもしれません。でもなあ、じっさい、直木賞史を見渡しても、佐佐木さんほど、作家としての実績が乏しい……多くの人に読まれる小説を書いた経験に乏しい人はいませんぜ。芥川賞ではそれもアリかもしれませんが、直木賞でこれが通用してしまうところに、暗中模索のスタート、芥川賞以上に期待されていなかった直木賞(だから、まあ体裁だけ整えて、追い追い考えていきましょ)の姿が如実に現われていると思います。

 そりゃ佐佐木さんだって困りますよね。だから、しょっぱなの第1回(昭和10年/1935年・上半期)の選評で、

「大衆文芸の場合は、一二作で其作家の将来を見抜くという事は、純文学の場合より遥かに困難である。私見を以てすれば、大衆文芸は、「習うよりは慣れ」のアアチザン的何物かが可なり必須のものとして存在するようである。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号 佐佐木茂索選評より)

 などと、もっともらしいことを言っているようで、じつは大して説得力のない苦しまぎれの「大衆文芸の選考は実績主義でいこう!」宣言をしてしまった困った人、としていまに名を残すことになってしまったのです。アノ切れ者、佐佐木茂索がこんなことで、みずから名を落とすようなことになってしまい、ほんとうに残念です。

 でも佐佐木さん、直木賞の長い歴史のなかで、(大衆向け)実作家としてのバックボーンなしに、批評的、評論的、もしくは雑誌編集者としての視点でのみ選考にいどんだ唯一の人です。このぐらいのテキトー発言は、許してあげてください。

続きを読む "佐佐木茂索〔選考委員〕VS 『新喜劇』同人〔候補者〕…大衆文芸の場合、一作二作では作家の将来を見抜けない、と言い張る。"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年5月18日 (日)

林真理子〔選考委員〕VS 森見登美彦〔候補者〕…緻密さを欠いたところから生まれる選評が、みんなからツッコまれて大人気。

直木賞選考委員 林真理子

●在任期間:14年
 第123回(平成12年/2000年上半期)~第150回(平成25年/2013年下半期)在任中

●在任回数:28回
- うち出席回数:28回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):167名
- うち選評言及候補者数(延べ):167名(言及率:100%)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2014年5月11日 (日)

濱本浩〔選考委員〕VS 大林清〔候補者〕…直木賞を受けるチャンスをことごとく逃し、別の社の賞を受けた者たち。

直木賞選考委員 濱本浩

●在任期間:2年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:4回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):17名
- うち選評言及候補者数(延べ):9名(言及率:53%)

 この人(と吉川英治さんや中野実さん)が、選考委員を引き受けたりしなければ、山本周五郎さんは直木賞を蹴らなかったのじゃないか。とも言われて、いや、言われちゃいないですけど、賞嫌いの連中がみな、ぽわーんと目にハートを飛ばして憧れる、かの山本さんが直木賞を毒づくときに引き合いに出した、クソ選考委員のひとりとして、もはや濱本浩さんの名はおなじみ感があります。そんなところで有名になって、ほんとうにかわいそうな人です。

 人材不足はなはだしい戦中期の大衆文壇界隈。直木賞選考委員になれそうな人材が枯渇し(?)、芥川賞は知らず、だれも注目していない直木賞なんて続ける意味あんの? と多くの人が感じていたでしょう。結果、第17回に委員改選してからの成り行きを見れば、続ける意味なかったね、と総括されてもよさそうなものですが、基本、過ぎ去った直木賞のことは、大半の人にとって興味のないことらしく、当然、戦中のハナシは取り上げられることも少ないわけです。せっかく濱本さん、勢い込んで選考委員にまでなってあげたのに、まじかわいそうな人です。

 勢い込んだかどうかは、知りません。ただ、濱本さんといえば、そもそも直木賞を受けてもよかった人です。川口ナンチャラや鷲尾ドウタラなどという、直木三十五さん本人と縁のある人が取っているぐらいの賞ですから、なおさらです。濱本さんもまた、直木さんとは懇意な仲でした。

「私(引用者注:萱原宏一)が浜本さんを知ったのは、直木三十五の紹介によってである。文芸春秋に「あるエキストラの死」という小説が載り、その後であったと思う。然るべき席を設けて、直木さんが引合わしたのだ。その意味は大衆文芸に進出の遺志のあった浜本さんに、助力してほしいということで無論あったわけだ。

 浜本さんは「改造」の記者を長く勤めていたので、文壇進出が遅れていたが、年は三上於菟吉、宇野浩二、広津和郎などと同年で、直木さんよりは一歳の年長であった。だから、四十過ぎての出陣というわけで、その意味では、悩みを乗り越えた末の決意であった。」(萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「浜本浩と酒吟味」より)

 ところが、第1回、第2回と、直木と顔なじみの人が賞を受けたため、直木賞=縁故主義の旧弊なシロモノ、との印象がつくられてしまい、さすがにもう、直木自身から離れて選考しなきゃまずいだろ、と思われたものか、濱本さんは、いつまで経っても、「いまさらこの人にあげることもない」と言われ続けてしまったのでした。

 川口さんが異様に直木賞を欲しがったのと同様、濱本さんも、やはり自分の作家人生のスタートに直木さんの手を借りた、っつうことがあったためか、直木賞を欲しがっていたそうです。第3回受賞の海音寺潮五郎さんも『別冊文藝春秋』に寄せた「のんびりした時代」のなかで、濱本さんが直木賞をほしがっていて、しかも作家としても自分より先輩だから、もう一回選考会のほうで考え直してほしい、と言っていったん断ったことを明かしています。

 濱本さんといえば、改造っ子、でありながらも、文藝春秋・オール讀物にひんぱんに寄稿する「文春っ子」であることは衆目の一致するところ。その意味でも、内輪に授賞させて周囲が白けきっているのを尻目にひとりで盛り上がる、直木賞お得意の展開にうってつけの人でした。

 『オール讀物』昭和8年/1933年4月号「十二階下の不良少年」は、

「永井龍男は「沈滞せる大衆文壇に清新の気を吹き込むに足る大雄篇」と絶賛、浩にとって大きな自信の作となった。」(平成7年/1995年7月・高知新聞社刊『高知県昭和期小説名作集4 濱本浩』所収 高橋正「解題」より)

 とのことです。永井さんがどこで、どの場面で、そう言っていたかはわかりません。永井さんが、というより、『オール讀物』編集長が、っつう匂いもあって、だとすると、8割がた宣伝の大風呂敷なのじゃないかと思いますが、いずれにせよ『オール讀物』のお気に入り=直木賞ライン、というのはたしかでしたでしょう。

 しかし、代表作とも目される「浅草の灯」ですら、直木賞選考会では拒否られ、新潮社文芸賞などという、あまたある新潮社の失敗した文学賞のひとつを授けられて、逆に、ビミョーな立ち位置の作家に。

「時局が戦時体制に入ってののちは、(引用者注:田中)貢太郎や田岡典夫とともに、大衆小説の側から一種の土佐ブームをあふりたて、貢太郎なきのちしばらく、土佐を代表する作家の第一人者と目されていた。このころの文学者の多くが戦争に協力的であったのに浩も例外ではなく、揚子江方面従軍(昭和一三年)にひきつづいて、昭和十七年には海軍報道班員として長駆、ラバウル方面に遠征している。」(昭和37年/1962年8月・高知新聞社刊『土佐近代文学者列伝』所収 木戸昭平「浜本浩」より)

 と、文春一派の名に恥じず、戦争への協力に励み、その貢献もあって直木賞選考委員の話も舞い込んだ。……のかどうかはわかりませんが、でも明らかに戦争下で目立った働きをみせる人材のひとりではありました。同じく選考委員にさせられた獅子文六さん、中野実さんと同様に。

 というところで、濱本さんが選考委員として激突した候補者、のことに移りたいんですが、中野さんのエントリーでも書いたように、たった4度の選考、しかも選評も少ない。いいお相手が見つかりません。戦時下の選考委員、といったことで言えば、永井龍男さんが『回想の芥川・直木賞』で触れているように、あるいは、それを引用しつつ川崎賢子さんが『蘭の季節――日本文学の二〇世紀』(平成5年/1993年10月・深夜叢書社刊)で注目しているように、久生十蘭候補、でもいいのかもしれません。

(引用者注:久生十蘭が)一九四二年から四三年にかけ、三度、直木賞候補にあげられた際、選考委員の浜本浩は〈技術的には、他の候補作の何れよりも優れてゐると思つたが、今日の直木賞としては何となく物足りない〉と発言、永井龍男はこの選評を〈時局的な意義を持たぬ作品ということ〉(『回想の芥川・直木賞』)といいかえている。十蘭的表現の芸を、〈今日〉性・〈時局〉性から孤立した〈技術〉、とかたづけて、十蘭的表現の方法とその歴史性とを切りはなした読みは、いまだに多い。(引用者中略)〈技術的には優れているが〉といったたぐいの評は、戦後も、そして現在も、ながく十蘭につきまとっているが、その〈優れているが〉という留保に透けてみえるのは、表現技術いっぱんにたいする軽視だ。書くことの技術を軽視することは読むことの技術を軽視することでもある。」(『蘭の季節』所収「いくたびも、十蘭的場所をもとめて」より)

 直木賞(の選考委員)に、読むことの技術なんて、期待したり希望をもったりしては身がもちませんね。「時局」を意識しない言説を吐いた途端、明日にも仕事を失うかもしれない情勢のなかで、大衆文芸の賞を選考する、などというのが、いかに困難で、四方壁だらけなことか。その業務に果敢に取り組む濱本さんたちの、その勇気と尽力を、ただただ、尊いものと思います。

 で、永井さんですが、この回の久生さんを、岩下俊作さんとともに「運に恵まれない作家」としながら、久生さんは戦後、直木賞を受ける機会を得ました。いっぽう岩下さんについては、白井喬二さんの項で取り上げてしまいました。

 ええい、となれば、彼らと並ぶほどの「運に恵まれない作家」のもうひとりに、ここで触れないわけにはいかないじゃないですか。直木賞候補2度、予選候補に含まれた回はプラス2度。新潮社文芸賞でも一度候補になりながら、どれも受賞することができなかった戦前・戦中期大衆文壇の期待の星、大林清さんです。

続きを読む "濱本浩〔選考委員〕VS 大林清〔候補者〕…直木賞を受けるチャンスをことごとく逃し、別の社の賞を受けた者たち。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月 4日 (日)

阿川弘之〔選考委員〕VS 深田祐介〔候補者〕…賞で結ばれた二人、20数年後またも賞にて相まみえる。

直木賞選考委員 阿川弘之

●在任期間:通算3年
 第83回(昭和55年/1980年上半期)~第88回(昭和57年/1982年下半期)

●在任回数:6回
- うち出席回数:6回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):44名
- うち選評言及候補者数(延べ):18名(言及率:41%)

 いったい、どうしてこの人が直木賞の選考会などに駆り出されたのか。直木賞七不思議のひとつ、として時どき囁かれてはいるものの、ネタが小ぶりすぎて誰も公然と語りたがらない、阿川の父さん、意味不明なたった3年間のお勤めでした。

 この意味不明さこそが直木賞の身上だ! と言っちゃいたいところではありますが、基本文学賞などどうでもいい、と無関心を装う阿川さん。世の中、文学賞=文壇人事となると、関係もないのに何だかんだと騒ぎ立てようとするワタクシのような人種は、昔からたくさんいたでしょうから、おそらく煩わしいだけだったでしょう。阿川さん自身も、文学賞のからむ話を「甚だうつたうしい」と形容していたりします。

 と、その形容が出てくる、開高健さんの追悼文「早すぎた終焉」に、阿川さんの文学賞観が出てきます。問題となったのは昭和62年/1987年の日本文学大賞。このとき阿川さんは、自分では「文芸」のつもりで書いた『井上成美』が、なぜだか学芸部門を受け、文芸部門は開高さんの『耳の物語』に贈られました。開高さんは自身、文芸部門の選考委員として名を連ねています。ずっと文士としての友人だと思ってきたけど、何だよ開高、賞に執着して醜いな、と阿川さん、憤慨し、ほぼ絶交しました。

 以下、病床の開高さんから届いた、そのときの言い訳めいた手紙に、こう返信を書いた、と語る場面です。

「もし僕が選考委員だとしたら、先づ自分のものを候補作のリストから除いて貰ふやうに頼んだだらう。信じてくれるかどうか分らないが、僕は志賀直哉に師事して、志賀先生といふ人が生涯文学賞と無縁の人だつたせゐもあつて、文学賞にそれほど執着が無い。少くとも、なりふり構はずといふ風にはなれない。どちらかと言へば文壇嫌ひだし、文学賞が欲しくて身も世もあらぬといふ感じはいやなのだ。だから選考委員自ら受賞の醜態が起らぬやうに、ちやんと手を打つて、その上で、友人の作品が他の候補作と較べてさほど遜色無いと思へば、何とかやはり、友達に賞が行くやう努力しただらう。」(平成19年/2007年1月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十八巻』所収「早すぎた終焉」より ―初出『新潮』平成2年/1990年2月号)

 文学賞完全否定、ではありません。ただ、自分でよだれダラダラ流してその世界に居座ろうとするのは、みっともない、ちゅうぐらいのスタンスです。

 何より面白いのが、「友達に賞が行くやう努力しただらう」のところですよね。

 だいたい文芸作品をモノサシで計れるわけはなく、言えるのは「他の候補作と較べてさほど遜色」があるかないか、程度のこと。そこで「いや、おれは人間関係など超越して、作品の出来のみをもって評価をくだすことできる有能な評論家でもあるのだ!」などと、カッコつけたりせず、そういうときは友達に賞が行くよう努力するもんでしょ、と言っちゃうところが、阿川さんの可愛さであり、またカッコよさでもあります。

 いいじゃん、情実選考。それの、何が悪いの? 情に流されるなど言語道断、賞は作品本位で選ばれるべき、などとほざいて悦に入っているほうが、よっぽどカッコ悪いです。たかが文学賞のことで、何、カッコつけているのさ、っつう感じで。

 阿川さんの直木賞選考委員生活は、たった3年で終わりました。そのたった3年。さして大衆文壇・中間小説界隈に顔が広かったわけでもない(んでしょう)阿川さんの目前に、知り合いも知り合い、よく知る作家が候補として挙げられてしまうのですから、縁も縁です。

 遠く20数年前、自分が文學界新人賞の選考委員だったときに、けっこう推して当選にこぎつけた新人。深田祐介さんです。

 第7回新人賞の決定発表は、『文學界』昭和33年/1958年10月号に載りました。ここに、おそらく深田さんが文春を訪れたときに撮られた写真が掲げてあるんですが、選考委員、阿川弘之さんとの2ショット! ここから始まって昭和57年/1982年上半期の第87回直木賞へとつながる、という。……運命のめぐり合わせ、とも表現したくなります(おおげさ)。

 選考経過いわく

「残った三篇(引用者注:千早耿一郎「銅像の町」、山下宏「王国とその抒情」、深田祐介「あざやかなひとびと」)について激論が交わされたが「銅像の町」を野間(引用者注:野間宏)委員が、「王国」を福田(引用者注:福田恆存)委員が、それぞれ強く推されたほかは、阿川、椎名(引用者注:椎名麟三)、臼井(引用者注:臼井吉見)三委員とも深田氏作を推薦し、結局、「あざやかなひとびと」が当選と決定した。」(『文學界』昭和33年/1958年10月号より)

 っつうことでした。そんなわけで、推していたという阿川さんの評が、これです。

「深田祐介氏の「あざやかなひとびと」は、外国の航空会社の羽田の事務所へ新しく採用された二人の日本人の青年を中心に、角田という二世や、おゆりというしたたか者のスチュワーデスや、様々の人物が此の近代的な職場で繰りひろげる人世絵模様で、通俗臭はあるが、新鮮で活き活きしているところが、私には大きな魅力であった。中々ユーモアもある。角田という二世は、特によく書けていた。」(同号「新鮮な魅力」より)

 このとき阿川さん38歳、深田さん27歳。初のご対面となりました。

深田 当時の文藝春秋の社屋が銀座の旧電通通り、日航ホテルの前にあったんですね。受賞の知らせがあって、そこの文學界編集部に来るように、と担当のYさんに呼ばれた。編集長のあいさつがあって、そのあとYさんから「選考委員を代表して、阿川さんからいろいろ注文があります」というので、別室に行って、初めてお目にかかった。

阿川 いや、いや、どうも汗顔のいたり。大変失礼いたしましたようで……(笑)。

深田 そこで雑誌のゲラを渡されて、誤字、脱字、表現の、たとえば「エンプロイ」(Employee=従業員)は、「エンプロイイ」と一字足さなければならない、とか。

阿川 そんなこといったかね、ろくに英語もできない人間が(笑)。

(引用者中略)

深田 第一回の文學界新人賞は石原慎太郎氏の「太陽の季節」ですけど、阿川さんは選考委員でしたか。

阿川 いや、ちがう。ぼくは、あなたからだけど、あまり他の人の記憶がないんだよ。わたしが推薦した深田祐介だけ、とにかく功なり名遂げて立派な文章書かれる大流行作家におなりになって、わたしら嬉しいですよ。

深田 よくおっしゃるよ、もう。返す言葉がないですよ。」(平成17年/2005年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第五巻』所収「[対談]昭和史と私」より ―初出『別冊文藝春秋』183号[昭和63年/1988年4月])

 阿川さんが選考委員だったのは「深田さんのときから」ではなく、第5回から第8回までの4回分。最後第8回の佳作は、三好徹さん(当時の筆名は三好漠)でしたけど、もちろん、そういう野暮なことは言わず、阿川さんのオトボケ(のふり)全開、って感じです。

 このあと、深田さんはいっとき小説の執筆に挫折感を味わい、日航のほうでバリバリ(?)働きます。あいだ、阿川さんとは縁が切れなかったようで、復帰作といってもいい『新西洋事情』出版の折りには、文壇パーティーぎらいを自称する阿川さんも出かけていった、っつうエピソードが、『新西洋事情』新潮文庫の解説に書かれています。

「日本航空の同僚上役と文壇関係の知友とが集まつて、小さな出版記念会が開かれた。だが、依然大して世間の評判にはならなかつた。出版記念会の帰り、私は車の中で、「面白いんだがなあ。再版にならないかねえ」、「どうも、再版の話なんか一向無いやうでして」と、著者と話し合つたのを覚えてゐる。それが、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した途端、再版どころか、突如爆発的な売れ行きを見せ始めた。」(平成18年/2006年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十七巻』所収「深田祐介著「新西洋事情」」より ―初出 昭和52年/1977年7月・新潮社/新潮文庫『新西洋事情』)

 この解説では、「あざやかなひとびと」を受けてから、『新西洋事情』で再登場するまでの深田さんのことが、簡潔にまとめられています。阿川さんは、そのなかに「深田祐介には、沈黙の時期もふくめて二十数年間、文章で苦労した下地が」あるととらえ、こう期待を寄せました。

「『新西洋事情』以後深田祐介の書くものを注意して見てゐると、これはこれで、一つの新しい文学的ジャンルを切り拓いたのではないかといふ気がする。

 小説らしい小説だけを文学と見なさなくてはならぬ理由は無い。しかしまた、この手の素材と手法とにだけ著者がとどまつてゐなくてはならぬ理由も無い。深田祐介には、プラスに転化出来るマイナス・エネルギーが、未だ未だ残つてゐるはずである。」(同)

 この文庫解説が、昭和52年/1977年7月のもの。まだこのとき、阿川さんがゆくゆく直木賞の選考委員になろうとは、誰も予想していなかったでしょう。そもそも深田さんにしても、第40回(昭和33年/1958年下半期)に直木賞候補になって以来、直木賞とはとくに関係のない時期でした。

 翌年の昭和53年/1978年7月。『日本悪妻に乾杯』が第79回の候補に挙がってから、怒濤のごとき深田さんの、直木賞候補ラッシュが始まります。

続きを読む "阿川弘之〔選考委員〕VS 深田祐介〔候補者〕…賞で結ばれた二人、20数年後またも賞にて相まみえる。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »