石坂洋次郎〔選考委員〕VS 松代達生〔候補者〕…私はもうボケた、ということを言い始めてから直木賞委員になった人。
直木賞選考委員 石坂洋次郎
●在任期間:通算11年
第57回(昭和42年/1967年上半期)~第78回(昭和52年/1977年下半期)
●在任回数:22回
- うち出席回数:21回(出席率:95%)
●対象候補者数(延べ):167名
- うち選評言及候補者数(延べ):95名(言及率:57%)
直木賞選考委員の職において、「ボケている」ていうレッテルは、よく似合います。いまの直木賞では、選考会後に(とくに高齢の)選考委員が繰り出す評を読んで、何でこんなボケ老人が、ボクらの直木賞をメチャクチャにするんだ!と、不平を語り合うことが、風物詩になっています。
異常だ異常だ、と人に向かって声高に叫ぶやつのほうこそじつは異常、っつう言い伝えからすれば、選考委員はボケてるボケてる、と言ってる人のほうがボケてるわけですが、ボケている人は、もはや自分がボケているかどうかは、正しく判断できないものかもしれないので、完全な水掛け論です。
いや。それってほんとうでしょうか。直木賞史上、最も「ボケた選考委員」として名を残しているのが、何を隠そう、石坂洋次郎さんです。なぜ石坂さんが、ボケ委員として有名になったのか。それは石坂さん本人が、自分はボケている、と公然と言いふらした人だからです。
直木賞委員になる前の、昭和41年/1966年に書かれた自作『あじさいの歌』解説から。
「それにしても、文学には無縁の大衆も目にする新聞に、どうしてこんな明暗相半ばする作品を書く気になったのか、私にもその当時の気持がよく分らない。ただ、ボケてもの忘れがひどくなったこのごろの私の思い出の中には、この作品を書き出すとき、イギリスの作家、クローニンの『帽子屋の城』の印象が、頭の中に投影していたような気がしている。」(昭和41年/1966年7月・新潮社刊『石坂洋次郎文庫13』「著者だより」より)
同年秋、菊池寛賞を受けたときにも、こんなこと、言っています。
「私は小説で賞をもらったのは、若いころの三田文学賞、今度の菊池寛賞と二回ぎりだ。しかも、老来記憶力がボケた私は、三田文学賞をもらった時にどんな気分だったか、ぬぐったようにきれいに忘れ去ってしまっている。」(『三田文学』昭和42年/1967年1月号「私のひとり言 菊池寛賞をいただく」より)
いったい、自分はボケた、ていう自覚のある人は、どこまでボケたといえるのか。単に、年をとってボケたせいにしておけば、それで許してもらえる場面が増えることをいいことに、いっそう強調して、ボケたボケた、と言ってるだけじゃないのか。石坂さんの場合は、その疑いがプンプンするのです。
以前、このブログで触れましたけど、石坂さんが選考委員になったのって、67歳になってからですからね。そして、就任した当初(というか、それ以前)から、すでに石坂さんが好んで使っていた決めゼリフが、つまり、「私はもうボケてきている」ということだったんですから。何と言いますか。就任を要請した主催者は、直木賞に、鋭利で的確な批評みたいなことは何ら求めていなかったんだろうな、と言いますか。
それから77歳までの11年間。石坂さんが残した、もう選評と呼んでは選評側に失礼だと思うぐらいの、自由きまま、我が道をひたはしる輝かんばかりの選評の数々。あ、この人、完全に自分が「ボケ老人」だっつうことを利用して、他の人には書けないところに踏み込んでいるな、という真意が見え見えの、大変面白い選評を、ワタクシたちに提供してくれました。
いくつか引用してみます。ちなみに以下は、顔見知り同士しかやりとりしないどこかのBBSや、読書大好きを公言する読者のブログに書き込まれた何かの感想文ではなく、『オール讀物』に載った公式の選評の一節です。念のため。
「(引用者注:平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」について)細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人(引用者注:津軽人)の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号「はじめて審査に参加して」より)
「審査員の間に十分な意見の交換があって、佐藤(引用者注:佐藤愛子)さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号「津軽の血」より)
「(引用者注:藤本義一「鬼の詩」について)芸能人であれ、作家であれ、私は破滅型の生活には共感がもてない。」「藤本氏よ、作品には破滅型の人物を描いても、貴方自身の私生活を崩すことがないように……。」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号「直木賞所感」より)
うん、うん。いいぞいいぞ石坂のオヤジ。ワタクシは、こういう選評が読みたいのです。ぜひいまの選考委員の方がたにも見ならっていただいて、そんなかしこまったような、文芸評論もどきの評は破り捨てて、実体験、私的なことがら、小説内容に何の関係もない思いつきなどを、どんどん書いてほしいと心から願います。たかが直木賞の選評なんですから、何を書いたっていいんですもん。
オレはボケてる、オレはボケてる、と言い続けながら直木賞委員を務めて時がたち、石坂さんは確実にこれを、自分の芸風のひとつと見定めます。
「「このごろ、もの忘れがひとくなってねえ。こないだは評論家の扇谷正造さんたちと、ゴルフをやって、帰ってバッグをあけてみたら、人の道具と間違えているんだ。そのゴルフも一まわりすれば、フラフラだしねえ。この秋には、私の『光る海』がテレビドラマになる――届けられた脚本の会話を読みながら、はて、登場人物にこんなキザなことをいわせたかなあ、と苦笑してしまった。自分の書いた作品の内容まで忘れているんだから――」
七十二歳の作家、石坂洋次郎氏を、軽井沢の山荘に訊ねたら、しきりに“恍惚ぶり”を自ら強調するのだが、うつくしい銀髪が似合う温顔の色つやもよく、かえって、しのびよる孤独の老いをたのんでいるようにもみえる。」(『週刊朝日』昭和47年/1972年9月1日号「“恍惚”の中に生きる 石坂洋次郎氏(七二)の生活と意見」より ―太字下線は引用者による)
ボケを売りにする人が、直木賞選考委員をしている、ってもう、ほとんど素晴らしい世界としか言いようがないですね。
その就任期間の末期も末期、第77回(昭和52年/1977年上半期)は候補作8篇。色川武大さんの、エッセイチックな『怪しい来客簿』VS. 井口恵之さんの古風極まりない心中もの「つゆ」、っつう激戦の末に、授賞なしとなった回です。ここで、石坂さんは、もとよりハメなどに捕われていなかったんでしょうが、自由なイシザカの姿を存分に発揮することになります。
松代達生さんの『航路』所載「飛べない天使」に、ひとり票を投じて、選評の半分近くを、この落選作について費やしたのです。
これがまた、「石坂さんにしか書けない選評」ど直球の、選評でした。
○
石坂さんは作家で売れ出す前、学校の教師をしていました。そのハナシが、なぜか、文学賞の選考・選評の場で、綴られるのです。
「私が下読みしたかぎりでは、「飛べない天使」が抜群に面白いと思ったが、会議の席上では下位の作品だということにされた。私の鑑賞力がそんなに衰えたのかとユーウツになったが、考え直してみると、私はこの作品にひきつけられたのは、まじめな勤人である夫は元・高校教師、堅実な主婦であるその妻はかつての教え子、健全な兄息子、不具者の二男、などという人物構成だったことによるもののようだ。
私は大学を出てから、十三、四年間、東北地方の中等学校で教師を勤めていた。だから、理屈なしに「飛べない天使」にひきつけられたのであろう。だが、ほかの審査員諸氏は、私が惹きつけられた所に、心理的な空白を感じさせられたのであろう。」(石坂洋次郎「次回を待つ」より)
作者の松代さんも、高校教諭。高校(旧制中学)教諭どうし、何か惹かれるものがあったのか、と石坂さんは言っているわけですが、その推論を選評で書いちゃうところが、何とカワイイおじいちゃま。……と、人に思われることをまんざらでもなく思って書いちゃうところが、一面、憎々しいところでもあります。
だいたい、「飛べない天使」を自分が推した理由、なんぞをこうして分析している段階で、あまりボケていないんじゃないか、と思われるわけですし、つづいて青山光二「竹生島心中」を推さなかった理由、を書いている箇所もスゴいです。作品をどうこう批評する、っていうレベルを超えて、それを堂々と開陳しています。
「「竹生島心中」も話題にのぼったが、私はこの作品とかぎらず、心中物が好きでないので、推さなかった。
男女の心中というハプニングはヨーロッパやアメリカには存在しないという話をきいた。それらの国々では、男女関係がきびしく制限されていないからであろう。男女それぞれの自殺は珍しくないが、心中という現象はまず存在しないというのだ。その方がより健全な社会ではないだろうか。もっとも、ごく稀れな心中の有無だけで、社会の全体の発展の段階ははかれないだろうが……。」(同)
こんな理由で落とされた青山さんや、「つゆ」の井口さんは、憤慨してもいいと思います。ほんと、ひでえ理由です。ただ、これだけムチャクチャな難癖をつけて、ムッとさせる力をもった選評を書ける一点をもってしても、石坂さんは直木賞委員としての資格は十分に有していると思います。
昭和45年/1970年には、以下のように新聞記事で「読者はいくら続けても苦にならない」とされた石坂さん。
「婦人雑誌の連載も一段落ついたので、しばらく筆を休めて、もっぱら読書に打ち込みたいということだ。昨年は野間文芸賞の選考で、二千枚にのぼる「甲乙丙丁」を読んだが、読書はいくら続けても苦にならない。ソルジェニツィンの長編「ガン病棟」が机上にそろえてあり、直木賞の候補作品を読みおえたら、さっそくそちらに取りかかるのが楽しみ。」(『読売新聞』昭和45年/1970年1月17日夕刊「この人の春 もっぱら読書」より)
しかし7年後の第78回選考会をもって、みずから辞任を発表します。一説には、昭和46年/1971年に妻のうらさんを亡くして、急激に老け込んだらしく、「何か生きる意欲がなくなったような感じでした」(山本容朗、『週刊文春』昭和61年/1986年10月23日号より)ということも遠因にあったのかもしれません。石坂さんが書いた辞任の弁も、また相当に、他の人が言わないような理由で貫かれていました。
「ところで、私は今回かぎりで直木賞の選者をやめさせていただくことにした。率直に言って、私自身が老衰して、たくさんの作品を読みきれなくなったからである。
明治三十三年生れの私は、明けて七十八歳。原稿は書けず、本も読めず、選者としての責任を果しきれなくなったからである。」(石坂洋次郎「辞任の弁」より)
はい、そうでしょうね。ここまでは、いいです。ボケたってことを、ここ何年も(十何年も)言いつづけてきた人ですから。しかし、「飛べない天使」推奨→心中物反対、のときの選評の構成でもそうだったんですが、石坂さんはどうも、あとに余計なことを付け加えたがります。このときは、こんなことを書きました。
「また、別な面から考えると、「直木三十五」というのはどういう作家だったのか、そういう知識もあやふやになっている。「芥川龍之介」となると、そういうおそれもないのだが……。これは私だけでなく、文学好きな青年男女の場合、「直木三十五」と言ってもピンと来ない人々の方が多いのではないだろうか。(これは主催側としても一応は考えておくべき問題であると思う)」(同)
え? あ、あのう、そういうことって、常に選考の場で「これは直木三十五の名を冠した賞にふさわしい作品かどうか」を考え、それを基準に諾否を判断してきた人にしか、許されないセリフじゃないんでしょうか……。自分が心中ぎらいだからって心中物を落とすような人が、威張って語るようなことじゃないと思うんですけど……。
と、その自由さを最後まで忘れず、何ものにもとらわれずに自分の感覚だけで、するすると意見を語るあなたこそが、まさしく「直木三十五」的ではありましょう。石坂さんが直木賞委員にふさわしい人材であったことはたしかだと思います。
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