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2014年4月の4件の記事

2014年4月27日 (日)

平岩弓枝〔選考委員〕VS 宇江佐真理〔候補者〕…忠告・注意をする先輩と、まったく気にしない能天気な後輩。

直木賞選考委員 平岩弓枝

●在任期間:通算23年
 第97回(昭和62年/1987年上半期)~第142回(平成21年/2009年下半期)

●在任回数:46回
- うち出席回数:46回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):277名
- うち選評言及候補者数(延べ):244名(言及率:88%)

 いまはもう、読めなくなってしまった平岩弓枝さんの新作直木賞選評。まだ平岩さんがブイブイ言わせていた頃(なんてあったのかな)、直木賞ファンなら誰もが、楽しみにしていたはずです。今度の選評では平岩さんの得意技「80パーセント理論」が、出るのかな、出ないのかな、と。

 あまりに有名になりすぎて、ワタクシは平岩さんの名を聞くとすぐ、「80パーセント理論」をイメージするようになってしまいました。ただ、そうでない方もいるでしょう。今日はひとつ、これだけ覚えて帰ってください。平岩さんはこれを言うためだけに直木賞選考委員になった、とも言われる(ワタクシが言っているだけです)、80パーセント理論。

 これが平岩さんの代名詞になる予兆は、選考委員になって2期目、第98回(昭和62年/1987年下半期)にすでに現われていました。

(引用者注:堀和久の)「大久保長安」、今回の候補作の中では唯一の時代小説でした。大久保長安という、とかく悪役にまわされがちだった人物を取り上げたのはいいと思いますし、大作であり労作だと思うのですが、はっきりいって資料の中から人間が起き上って来ないという印象を受けました。資料は多いほどよいが、いざ書く時には、その中のどれだけを捨てられるかが勝負だと、かつて、大先輩から教えられたことがあります。」(『オール讀物』昭和63年/1988年4月号 平岩弓枝「さわやかな受賞」より)

 資料を捨てる、っつうおハナシです。そこから約5年ほど経ち、平岩さんも次第に選考会になじんできたとき、歴史作家、中村彰彦さんの登場によって、このエピソードがついに花開きました。

「「五左衛門坂の敵討」 江戸時代の敵討というものの定義やその実態を把握した上で、この幕末の事件を書くと作家の史観がはっきりわかってテーマを読者に伝えやすい。資料は百パーセント集めて、噛み砕いたら八十パーセントを捨てると良い作品が誕生すると、これは私が師父から教えられたこと。なかなか難しいが。」(『オール讀物』平成4年/1992年9月号 平岩弓枝「足りないもの」より)

 これが世に言う、直木賞史上に燦然とかがやく「80パーセント理論」がお目見えした場面です。

 ここからは、この理論をどの作家、どの作品に対して、どういうふうに切り出すか。平岩さんの選評芸を、しばしお楽しみください。

 まずは現代物の宮部みゆきさんに対して繰り出して、この理論の幅広さを印象づけます。

(引用者注:宮部みゆきの)「火車」は大変、面白かった。才能のあり余るほどの作者が、才能だけでなく仕事を仕上げるというのは、宮部さんにとって一つの方向が出来たというよりも、また一つのひき出しがふえたことであろう。一つだけ、これは私自身、若い日に恩師から教えられたことだが、資料や調査は百パーセントやり抜くこと、ただ、作品にとりかかる時はその八十パーセントは思いきりよく捨てる、それも自分の内部に完全に消化させて捨てるのが、作品を成功させる秘訣だという真実である。」(『オール讀物』平成5年/1993年3月号 平岩弓枝「心に残った「風の渡る町」」より)

 それから松井今朝子さん。彼女の登場が、久しぶりに平岩さんの「80パーセント理論」熱を掘り起こしました。

「かつて私の恩師である長谷川伸先生は、小説を書く上での心得として、調べるのは百パーセント、書く時はその八十パーセントを捨ててかかるように。また、自分の得意の分野、専門的な知識を十二分に持っている世界を書く時にはその九十パーセントを捨てないと良い作品は出来ないといわれた。実をいうと私も長いこと、その点で苦い思いを重ねているけれども、捨てるというのはまことに難かしい。まして自分の知り得たことの過半数を捨てるのは書くのを止めろといわれたような気がするものである。(引用者中略)

暫く、御自分の専門分野に関してはひき出しにしまい込んで、全く知らない世界を一から調べながら書くことを提案したい。」(『オール讀物』平成15年/2003年3月号 平岩弓枝「いま一つの何か」より)

 一回、岩井三四二さんを挟みます。ここでは数字を出さず、お、平岩さんどうしたんだ!? と読者に気をもたせるあたり、選評ファンのツボを心得ていますね。

「岩井三四二さんの「十楽の夢」。資料を柱にして物語を構成するのは悪くはないが、小説の書きはじめになまの資料を長々と書き続けるのは全体のつくりからいって如何なものか。充分な資料を読み込み、それを一度、ふり落してから作品に取り組むのも一つの方法かと思う。」(『オール讀物』平成17年/2005年3月号 平岩弓枝「「対岸の彼女」を推す」より)

 お次の餌食は、森絵都さん。

「森絵都さんの「風に舞いあがるビニールシート」は、作品を書く上で基礎となる取材や資料による下調べをきちんとしている点に好感がもてる。作家として仕事を重ねて行く上で森さんが身につけたこの習慣はかけがえのない武器にもお守りにもなると思う。願わくば調べて知ったものを半分以上、捨ててから作品に取り組むこと。八十パーセント捨てて書けたら大成功と私は教えられました。なかなか出来ませんが。」(『オール讀物』平成18年/2006年9月号 平岩弓枝「三浦しをんさんを推す」より)

 そして第137回で、三たび松井今朝子さんが『吉原手引草』をひっさげて候補に挙がってくるわけですが、こうなりますと、平岩さん、この理論を言いたくて言いたくて仕方ない欲望の、押さえがきくはずもありません。

「時代小説の書き手にとって厄介なのは、背景にする時代について多くのことを調べねばならないが、調べたことが作品の前面に出ると衒学的に見えたり、読者にわずらわしく感じさせる嫌いがある。といって或る程度は書かねば、その時代が明らかにならないので、その兼ね合いが難かしい。若い時分によくいわれたのは、百パーセント調べて八十パーセント捨てて書けというものだが、これが出来たら達人であろう。」(『オール讀物』平成21年/2007年9月号 平岩弓枝「成功した「吉原手引草」より)

 平成21年/2009年下半期にて、直木賞選考委員からしりぞいた後も、この欲望は常に平岩さんのからだに取り憑いているようです。ついこないだの、直木賞委員回顧鼎談でも、しっかりと披露されていました。いいぞ、平岩さん。それでこそ、80パーセント理論の鬼、とまで呼ばれるにふさわしい。

五木(引用者注:五木寛之) ああいう、名伯楽という人、いるもんですね。

平岩 私の場合は長谷川先生ですね。何しろ私の財産はそれしかないんですけど。とにかく一〇〇パーセント調べろとおっしゃるんですよ、たとえば時代ものを書くときに。それで書く時はね、八〇パーセントを捨てろとおっしゃるんですよ。

五木 あ、使うんじゃなくて捨てるほうが八〇。いや、もったいない。

平岩 捨てるんです。それでさらに、九〇パーセント捨てたらなおいいとおっしゃる。だけど、一〇パーセントだって捨てられませんよ。一生懸命調べたんですもん。しがみつくでしょ、やっぱり。捨てられるようになるまでどのくらいの歳月がかかったか。まだ全部捨てられないですもの。(引用者中略)でも、それがもう頭にこびりついてますね。今でもそうなんですけど、捨てたつもりでいても残しますしね。でも、捨てられなかった作品ってやっぱりどっかいけませんね。といって、やっぱり捨てられない。」(『オール讀物』平成26年/2014年2月号 津本陽、平岩弓枝、五木寛之「直木賞と歩んできた」より ―構成:関根徹)

 いずれ、いずれのときには、平岩さんのお墓には、「100パーセント調べて80パーセント捨てる」という言葉が刻まれる予定、とも聞きました。ぜひ実現させてほしいと思います。

 もう今日は、これで十分。平岩さんの直木賞選考委員人生のほぼすべてを語ったようなものですから(って、オイ)、終わりにしちゃいたいです。でも、これまで他の委員の「激闘」を取り上げてきて、激闘多き女・平岩さんだけ、なし、というのも恰好がつきません。80パーセント捨てろ、どころかそもそも100パーセント調べるその前段階のところでミソをつけた、平成の落選王こと、宇江佐真理さんにご登場願いたいと思います。

 直木賞は、時代小説が候補になる割合が高く、そしてそのほとんどが落選する賞。……とはウィキペディアには書いてありませんが、でもじっさい、そのとおりでして、平成の落選王の座を二分する宇江佐さんと東郷隆さん、ともに時代・歴史小説の書き手。6度候補になり、結果、賞は贈られませんでした。

 江戸人情物の女性作家、というと、宇江佐さんはまさに平岩さんの後継にある、とやはり思います。はじめ平岩さんは、直木賞を受賞した「鏨師」をはじめ、現代小説を多く書いていたんですが、昭和48年/1973年から『小説サンデー毎日』に「御宿かわせみ」シリーズを書き、ここら辺りからグッと時代小説中心の作家と目されるようになっていきました。

「昭和の時代小説は、作家も読者も男性が主流だった。だが、『御宿かわせみ』の人気は、江戸の庶民の人情をテーマにした女性作家の時代小説の地平を切り開き、一九九〇年代には宇江佐真理、諸田玲子、松井今朝子の各氏が登場した。」(『東京暮らし 江戸暮らし』所収「『御宿かわせみ』」より)

 と、後輩たち続々と登場したんですが、平岩さん、宇江佐さんが直木賞候補になった6作品は、てんで認められるものではなかったようです。バツ印、バツ印のオンパレードでした。

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2014年4月20日 (日)

永井龍男〔選考委員〕VS 田宮虎彦〔候補者〕…清新さが欲しいよねえ、清新さがないのに賞とったおれが言うのも何だけどねえ。

直木賞選考委員 永井龍男

●在任期間:通算6年
 第27回(昭和27年/1952年上半期)~第38回(昭和32年/1957年下半期)

●在任回数:12回
- うち出席回数:11回(出席率:92%)

●対象候補者数(延べ):84名
- うち選評言及候補者数(延べ):51名(言及率:61%)

 チャッキチャキの東京っ子、気にくわないことがあるとすぐにキレちゃったり、始終、オヤジギャグを放って周囲をドン引きさせたり。その、あまりの傍若無人ぶりに他の直木賞委員たちと肌が合わなかった……わけではないんでしょうけど、せっかく頼まれて引き受けた直木賞選考委員をつづけるのがイヤになって、たった6年で「おれ、やめる」と言い出し、わがままっ子ぶりを存分に発揮した永井龍男さんです。

 永井さんが直木賞委員になったのは、第27回(昭和27年/1952年上半期)のとき。その直後の昭和27年/1952年10月、「直木賞下ばたら記」っつうエッセイを書き、第1回からの直木賞について、タッタッタッと駆け足で回想するお仕事に挑みます。

 そんなこと、なんで委員になったばかりのおれがやらなきゃならんのだ、と不平をもちはしなかったでしょうが、少なくとも48歳の永井さんにとっては、同じ回に再任となった吉川英治さんを含め全員、年長の面々ばかり。気づかいのなかで、その委員生活をスタートさせることになりました。

「さて、「別冊文芸春秋」二十九号で「回想の芥川賞」を書かれた宇野浩二氏にならって、私も一応「ことわり」から始める必要を感じる。

 第一回以来、今日も銓衡委員である、大仏次郎、吉川英治、小島政二郎、佐佐木茂索の中、ことに小島氏あたりが「回想の直木賞」を書かれたら、よい読物になると思うが、たぶん多忙というような理由で、この役が私に廻って来たのだろう。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月] 永井龍男「直木賞下ばたら記」より)

 気づかいなんでしょうね。「お忙しいセンセイがた」とか言う諸先輩に対するイヤミ、あるいは「ひまなおれ」みたいな自虐、などではないんでしょう、きっと。

 で、このエッセイの末尾では、現在の直木賞について語られています。ここに、おのずと新任委員・永井龍男の、目標、意気ごみ、といったかたちが現われていると見ていいでしょう。

「正直に云って、現在直木三十五賞は、芥川竜之介賞に比較すると俗気といったようなものが混り、清新さは少いようである。しかし、これを払拭する方法のない訳はあるまい。私は、直木賞を数人の委員委せにせず、同賞授賞の作家諸氏が、先ず率先して文学賞の実を挙げるように、尽力することが是非望ましいと考えている。」(同)

 出ました、永井さんお得意の、謎めいた文章。……と、別に謎めかしているつもりはないんでしょうが、『回想の芥川・直木賞』を読んでいても、どうもワタクシには意味のとれない表現や論理があって、いったい永井さんは何が言いたいのか、どう思っていたのか、頭を悩ませることしきりなのです。

 直木賞は芥川賞に比べて俗気が混じって清新さが少ない。っていうのは、すでに売れる原稿を書いて巷に迎え入れられている作家に、直木賞は与えがちだ、というハナシに類する指摘なんでしょう。それを払拭する方法もきっとある。ええ、ありますよね。その次に続く文章が、どうつながっていくのかわからないんです。直木賞を受けた作家たちが尽力することが望ましい、という。

 なんで、そうなるの? そこから、どんな清新さが生まれるというんでしょう。名編集者(でもあった)永井さんの頭のなかには、清新になっていく直木賞のイメージがあるんでしょうが、永井さんがキレ物すぎるのか、よくわかりません。

 本当は、まだ全然売れていない無名に近い作家の出現を、直木賞が後押ししていきたい。でも、同人誌で書いているような人たちのものは、どれも文学ずれしてクソ面白くもなく、結局、まだ「大衆文学を書いている人」の範疇に入っていないぐらいの純文壇出身作家に、あげざるを得ない。……ってな繰り返しで、永井さんはフラストレーションをため込んでいったのではないか、と想像します。

 第33回(昭和30年/1955年上半期)は、受賞作のなかった回ですが、永井さんは一篇の候補にすら触れることなく、積もったフラストレーションをこう表現しています。

「推選したい作品もなく、今回は全く力抜けのした状態だった。

 どの作品も相当な枚数で、読むのに疲れたが、その疲れのはけ場のないような気持で銓衡を終始した。」(『オール讀物』昭和30年/1955年10月号 永井龍男「選評」より)

 疲れ果てています。

 藤原審爾さんに始まり、立野信之さんだの梅崎春生さんだの、有馬頼義さん、今官一さん……。清新さのカケラもない(ってことはないか)連中が候補にあがって、かといって他の候補作はどれも魅力を感じさせるものではなく、直木賞は(おそらく)永井さんの期待するものから遠く離れていくばかり。そして、よりによって旧作家も旧作家、今東光さんが登場するにいたっては、いくら何でも、直木賞=新人賞の概念が崩れすぎちゃう、と思って、「直木賞には不適格」との評を出しました。そして、さすがは永井さんの「言葉足らず」はすさまじく、その選評で思いを正確に伝えることに失敗し、いろいろ物議をかもすことになったわけです。

 と、直木賞では、純文芸の書き手と見なされてきた中堅・ベテラン作家を顕彰するのが、とにかくお家芸といった感がありました。そのなかの代表的なひとりが、田宮虎彦さんでしょう。

 田宮さん。昭和8年/1933年、東京帝国大学生のころに『帝国大学新聞』編集に加わり、森本薫、小西克己とともに『部屋』を創刊。昭和10年/1935年、渋川驍、新田潤の紹介で『日暦』に参加。昭和11年/1936年、大学卒業後に『都新聞』に入社し、『人民文庫』に加わったりなどして、その後は職を転々。戦後にいたって昭和23年/1948年から専業作家となって、続々と小説を発表。

「昭和二十二年、田宮氏は歴史小説『霧の中』を発表する。これが出世作となった。(引用者中略)

 同じく歴史小説の『落城』、後に映画化もされた『足摺岬』、戦時下の希望のない学生生活を描いた『菊坂』『絵本』などの一連の学生物と、続々と代表作、意欲作を書き上げていった。

「当時は流行作家的に書いていたが、決して筆は乱れなかった」と、先輩の作家、渋川驍氏は言う。特に短編集『絵本』は昭和二十六年の毎日出版文化賞を受賞し、田宮氏の作家としての人生は『霧の中』発表からの十年間でピークに達する。」(『週刊文春』昭和63年/1988年4月21日号「自宅マンションで投身自殺 優しい作家田宮虎彦氏の悲しい最期」より)

 あまりに急激に売れっ子になったものですから、第23回(昭和25年/1950年上半期)の芥川賞で候補に挙げられながら、あまりに売れすぎていて「新人賞」対象から敬遠されてしまい、惜しくも辻亮一さんに賞をかっさわられる、っつう芥川賞史上に残るドタバタ選考劇の主役ともなってしまいます。こういうドタバタ選考を語らせたら右に出るもののいない宇野浩二さんが、その威力をまざまざと見せつけた選評を書いたのも、この回のことでした。

「第一回の銓衡会では、文藝春秋新社の係りの人たちが、田宮のことは、「保留」といふことにする、といつたので、なにか「ま」が抜けたやうな感じで、会が、をはつた。

 ところが、第二回の銓衡会のときは、どういふキツカケからであつたか、いつとなく『異邦人』の呼び声が、おこり、それが、しだいに、ひろまつて行つた。これは、第一回の会の時に出なかつた、坂口安吾が、顔を赤くして、最大級と思はれる、いろいろな、言葉で、『異邦人』を激賞したのが、あづかつて、かなり、効果があつたやうである。

 そこで、第一回の会の時から、「なるほど、田宮は、うまいけれど、すでに、『中央公論』、『世界』『展望』、その他の、いはゆる、一流の雑誌に、作品を、出してゐるから、今さら、田宮の小説を、芥川賞として、雑誌に出しても、『文藝春秋』のテガラにならぬ、」とでも思つて、もやもやしてゐたらしい、文藝春秋新社の係りの人たちは、坂口が、いきほひよく調子づいた声で、『異邦人』を激賞する説を述べはじめると、文字どほり、『愁眉』をひらいた顔つきになつた。

 すると、瀧井孝作も、『異邦人』をおし、第一回の会に出なかつた、川端康成も、「これなら……」といひ、舟橋聖一が、田宮はすでに優等作家である、といふやうなことを、云つた。

 そこで、文藝春秋新社の係りの人は、田宮を、「別格「」といふ言葉で、まつりあげ、さて、こんどの候補者のなかで、「田宮氏をのぞいた人のなかで、芥川賞に該当する作品を……」と、きり出し、しばらくして、『異邦人』は四点……、『断橋』となんとかは、二点……と、いつた。

 ところで、そのあひだのいろいろな話のやりとりのなかで、「政治的」といふやうな言葉を、文藝春秋新社側の人たちがつかふのは仕方ないとしても、委員の人たちのなかに使つた人があつたので、私は、アツケにとられた。」(『文藝春秋』昭和25年/1950年10月号 宇野浩二「銓衡感」より)

 すげえ威力だ、宇野選評。あまりにすごいので、長めに引用してしまいました。

 こうして田宮さんは、けっきょく無冠の士のまま。さすがにこれではもったいない、と翌年の毎日出版文化賞が『絵本』に贈られたのは、『週刊文春』の記事にあるとおりです。実力は折り紙つき(?)、これに文学賞をもらって名実ともに文壇の雄に躍りあがった田宮さん、毎日出版文化賞の祝賀会「田宮虎彦の会」(昭和26年/1951年11月7日、丸の内「山水樓」)の模様を紹介する『週刊朝日』記事では、このように書かれました。

「田宮の先輩という非文壇人の一人が、「田宮は好きだが、もう少し面白い小説を書いてくれ」といった。これも悪くない祝辞であった。

 然し日本の文壇における田宮の地位は、例えていえば、お米みたいなもので毎日食べる御飯を格別においしいという人はあるまい。だから、この注文は、少し無理だ。」(『週刊朝日』昭和26年/1951年12月16日号「文壇二つの会 中島健蔵ご苦労さんの会 田宮虎彦の会」より)

 わかりづらい譬えですが、田宮作品のもっている、何か特別に取り立てて賞讃しづらい地味な感じは伝わってきます。

 それでも大きな賞を授賞して、発表の舞台も数々もち、もうそれで田宮さんには十分でしょう。と、純文壇的にはそうなりそうなものですが、ここで直木賞は田宮さんの、『オール讀物』に掲載されたナニゲない、ナニゲなさすぎてまず田宮さんの代表作とは見なされない地味ーな短篇を候補に挙げちゃうのです。このあたりの、トンチンカンなところが、ワタクシが直木賞を好きなゆえんでもあります。

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2014年4月13日 (日)

桐野夏生〔選考委員〕VS 高野和明〔候補者〕…選評とは、選考経緯を書く場ではなく、作品評をするところ。

直木賞選考委員 桐野夏生

●在任期間:3年半
 第144回(平成22年/2010年下半期)~第150回(平成25年/2013年下半期)在任中

●在任回数:7回
- うち出席回数:7回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):39名
- うち選評言及候補者数(延べ):38名(言及率:97%)

 恐ろしいです、桐野夏生さん。

 いや、桐野さん本人が恐ろしいのではなく、桐野さんの文学賞受賞遍歴が。平成15年/2003年泉鏡花文学賞(『グロテスク』)、平成16年/2004年柴田錬三郎賞(『残虐記』)、平成17年/2005年婦人公論文学賞(『魂萌え!』)、平成20年/2008年谷崎潤一郎賞(『東京島』)、平成21年/2009年紫式部文学賞(『女神記』)、平成22年/2010年島清恋愛文学賞&平成23年/2011年読売文学賞小説賞(『ナニカアル』)。……ワタクシだけがひとり怖がっているのかと思っていたら、桐野さん自身も、やはり、

「'03年に『グロテスク』で泉鏡花文学賞を受賞してからは、今日に至るまで、本人が「順調すぎて怖い」と言うぐらい毎年のように何らかの文学賞を手にしている。」(『週刊現代』平成23年/2011年3月19日号「The Target 桐野夏生 作家の矜持」より ―文:一志治夫)

 と言って怖がっていました。

 こうなってくると、当然、直木賞側としても放っておけません。選考委員就任の打診が桐野さんのもとに飛んでいき、平成23年/2011年1月の第144回(平成22年/2010年下半期)から、伊集院静さんとともに、新しく選考委員会に参加することになります。上記の『週刊現代』の記事は、その最初の選考会まもなくだったこともあって、「直木賞選考委員」桐野さん、の姿も少し紹介してくれています。

 「大いに議論したい」と張り切る桐野さんです。

「そんな超多忙で過酷な日々にもかかわらず、今年から直木賞の選考委員を引き受けた。

「もともと私は理屈っぽい。議論好きなんです。選考会では選考委員が大いに議論をするのだろうと思って臨んだんですけど、最初ですので、私は意見を表明するに留まりました(笑)。選考自体は、他の作家の本を読む機会が増えて嬉しいです。いまの作家の書くものの潮流や動向を常に注意しておきたいと思います。また、どういうものが、どういうふうに売れているのか、すごく興味深い」」(同)

 真剣で、まじめな感じが伝わってきます。それで現在のところ、まだ就任して4年足らずですが7度の選考会に臨んだ計算になります。選評を読むかぎりでは、おおむね桐野さんが大反対するような作品が受賞した例は見当りません。桐野さんがしっかり読み込んで(?)票を投じ、しかしそれでも「最近の直木賞受賞作は、低調の一途だ」などと語る世間の声は増すいっぽう。もうもはや、誰が選考委員になろうが、直木賞に対する悪評がなくなることなど、未来永劫ないんじゃないのか、と思ったりもします。「直木賞」というだけでクソミソにけなそうとする攻撃は、いつの時代も盛んですからね。その火の粉が、桐野さんやその作品に降りかからないよう、祈るばかりです。

 とまあ、桐野さんはどう言われようが、何も気にしちゃいけないでしょうけど。

(引用者注:平成23年/2011年の)10月に桐野は還暦を迎える。

「歳を取ることによって、体力は前より落ちますね。でも、人間て不思議。その代わり、結構冴え渡るところもあるんですね。前よりも、嫌なものを我慢しなくなりました。すぐに切り捨てられるし、自分の仕事のテンションが落ちるようなものはすべて遠ざけようと思う。ものすごく自分が強くなって、はっきりしてきている。以前よりもさらに。自分でも恐ろしいくらいですよ」」(同)

 世間の声を気にしないのが、直木賞選考委員としての鉄則でもありますからね。まったく桐野さんにはお似合いの役目・役柄だと思います。

 で、この『週刊現代』ではまったく注目もされていないんですが、桐野さんは、直木賞よりちょっと前、山田風太郎賞の選考委員も引き受けています。平成22年/2010年秋に始まった、直木賞にも似た(酷似した)角川書店の賞です。就任期間は、たったの2年間だけでした。

 奇しくもこの2年は、あれです。『悪の教典』と『ジェノサイド』という、直木賞史上でも問題作と呼べる2つの作品が、ともに山風賞(&このミス1位)をとったときです。山風賞も、いったいどんな賞になるのやら、っていうワクワク感が年々しぼみ、「受賞作だからといって売れるわけでもなし、続ける意味が見つからん」みたいな展開になって、10年ぐらいで「役割を終えた」とコメントを出して終わっちゃうんじゃないだろうな、と不安を覚えつつ、桐野さんの山風賞選評と直木賞のそれを見比べてみます。

 貴志祐介『悪の教典』に対しては、こうでした。

「栄えある初回、山田風太郎の名に相応しい大作を選ぶことができて満足している。(引用者中略)

「B級ホラー」に徹して書いた凄みが横溢している。その作業は、大変に難しいと思われるが、著者は乱暴に見えるほどの揶揄を込めた表現で、うまく外して書いている。最後までノンストップで読ませ続けるパワーは破天荒だ。ご受賞を心から喜びたい。

 ただ、主人公が共感能力が欠如している、という設定は必要だったのだろうか。この「理」が、「悪」を感じさせないのだ。説明しようのない存在である方が、よりリアル、かつ読者を震撼させる真の悪漢小説になったのではないかと思わなくもない。すると、選考会で、「悪事を書いているが、悪は書いていない」という指摘があった。なるほど。「悪事小説」なのだと思ったら、賦に落ちた。」(『小説野性時代』平成23年/2011年1月号 桐野夏生「破天荒のパワー」より)

 「理」を語る小説はつまらない、っつうおハナシが飛び出しています。桐野さんの小説観のひとつとして、おなじみです。もう、それこそ『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』の関口苑生さんとのバトル「ミステリーと弁当箱」論争(……って論争になっていたっけ?)あたりでも垣間見えていましたけど、桐野さん自身、理の小説(ミステリー)からの脱却・脱皮という道を歩んだ方でした。

「まぁ、短編も長編も書き続けるわけですが、理に落ちるのだけはやめようかなって。こうなって、こうなって、最後、ああ、カタルシスみたいな、そういうものはやめようって。なぜやめようかって思ったかというと、私、そういう話、おもしろくないんですよ。生きてる人って、理に落ちないじゃないですか。なのにミステリでデビューして、必ず理に落ちなきゃだめだって、前は思いこんでいて、そういう反省を込めて、理に落ちない物語を書こうと思っていますね、いまは……。」(『宝石』平成10年/1998年11月号「笑ってタラタラ生きていくほうがいい ハードボイルド主婦作家 桐野夏生」より ―インタビュー・構成:山田陽一)

 このインタビューは、直木賞でいうと『OUT』で落選して、『柔らかな頬』で受賞する、ちょうど中間ぐらいの、『柔らかな頬』をせっせと書き直しているぐらいの時期のものです。あれですね、直木賞の選考委員をはじめ、いろんな読者たちから、後半のあの展開が意味わからん、とか、死体処理とか自分でできもしないことを、あんなふうに書くもんじゃないか、とか、さんざん言われて桐野さん、怒った時期ですね。「理」で説明されたものしか評価しないなんて、何と、イヤだわ、と。

 『悪の教典』に戻りますと、山風賞では授賞しましたが、ごぞんじのとおり直木賞では落選します。桐野さんですが、他の候補作に比べて、この作品を評価する言葉で貫きました。

「『悪の教典』は、あるコンセプトのもとに、強い気持ちで書かれた画期的な作品である。つまりは、文体もスピードも内容もトーンも、すべてをB級ホラーに徹しようというコンセプトに準じているのだ。「蓮実は遠い目をした」「蓮実は爽やかな弁舌をふるった」等の乱暴な描写、決まり切った台詞、滑るギャグ。できるようでできない力業であるし、好悪を超えて評価されるべき仕事だと思う。言い換えれば、この世にまったく適応できない「共感性の欠如した」主人公のサバイバル話でもある。表現の自由が狭まりつつある現在、意義ある仕事だと思う。」(『オール讀物』平成23年/2011年3月号 桐野夏生「選評」より)

 「好悪を超えて評価されるべき」のあたりに、桐野さんの思いがこもっている、と読みました。『OUT』が直木賞と吉川新人賞を落選したことを「その「反社会性」とやらで、メジャーの賞から弾き出されたのだ」(「『OUT』という名の運命」より)と受け止めていた桐野さんですもんね。あれ、『OUT』が選ばれなかったのって、ほんとにそんな理由でしたっけ……? と思わないでもないですが、桐野さん自身がそう感じているのですから、いいでしょう。

 ハナシは、次の第145回(平成23年/2011年上半期)へとつづきます。

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2014年4月 6日 (日)

石坂洋次郎〔選考委員〕VS 松代達生〔候補者〕…私はもうボケた、ということを言い始めてから直木賞委員になった人。

直木賞選考委員 石坂洋次郎

●在任期間:通算11年
 第57回(昭和42年/1967年上半期)~第78回(昭和52年/1977年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:21回(出席率:95%)

●対象候補者数(延べ):167名
- うち選評言及候補者数(延べ):95名(言及率:57%)

 直木賞選考委員の職において、「ボケている」ていうレッテルは、よく似合います。いまの直木賞では、選考会後に(とくに高齢の)選考委員が繰り出す評を読んで、何でこんなボケ老人が、ボクらの直木賞をメチャクチャにするんだ!と、不平を語り合うことが、風物詩になっています。

 異常だ異常だ、と人に向かって声高に叫ぶやつのほうこそじつは異常、っつう言い伝えからすれば、選考委員はボケてるボケてる、と言ってる人のほうがボケてるわけですが、ボケている人は、もはや自分がボケているかどうかは、正しく判断できないものかもしれないので、完全な水掛け論です。

 いや。それってほんとうでしょうか。直木賞史上、最も「ボケた選考委員」として名を残しているのが、何を隠そう、石坂洋次郎さんです。なぜ石坂さんが、ボケ委員として有名になったのか。それは石坂さん本人が、自分はボケている、と公然と言いふらした人だからです。

 直木賞委員になる前の、昭和41年/1966年に書かれた自作『あじさいの歌』解説から。

「それにしても、文学には無縁の大衆も目にする新聞に、どうしてこんな明暗相半ばする作品を書く気になったのか、私にもその当時の気持がよく分らない。ただ、ボケてもの忘れがひどくなったこのごろの私の思い出の中には、この作品を書き出すとき、イギリスの作家、クローニンの『帽子屋の城』の印象が、頭の中に投影していたような気がしている。」(昭和41年/1966年7月・新潮社刊『石坂洋次郎文庫13』「著者だより」より)

 同年秋、菊池寛賞を受けたときにも、こんなこと、言っています。

「私は小説で賞をもらったのは、若いころの三田文学賞、今度の菊池寛賞と二回ぎりだ。しかも、老来記憶力がボケた私は、三田文学賞をもらった時にどんな気分だったか、ぬぐったようにきれいに忘れ去ってしまっている。」(『三田文学』昭和42年/1967年1月号「私のひとり言 菊池寛賞をいただく」より)

 いったい、自分はボケた、ていう自覚のある人は、どこまでボケたといえるのか。単に、年をとってボケたせいにしておけば、それで許してもらえる場面が増えることをいいことに、いっそう強調して、ボケたボケた、と言ってるだけじゃないのか。石坂さんの場合は、その疑いがプンプンするのです。

 以前、このブログで触れましたけど、石坂さんが選考委員になったのって、67歳になってからですからね。そして、就任した当初(というか、それ以前)から、すでに石坂さんが好んで使っていた決めゼリフが、つまり、「私はもうボケてきている」ということだったんですから。何と言いますか。就任を要請した主催者は、直木賞に、鋭利で的確な批評みたいなことは何ら求めていなかったんだろうな、と言いますか。

 それから77歳までの11年間。石坂さんが残した、もう選評と呼んでは選評側に失礼だと思うぐらいの、自由きまま、我が道をひたはしる輝かんばかりの選評の数々。あ、この人、完全に自分が「ボケ老人」だっつうことを利用して、他の人には書けないところに踏み込んでいるな、という真意が見え見えの、大変面白い選評を、ワタクシたちに提供してくれました。

 いくつか引用してみます。ちなみに以下は、顔見知り同士しかやりとりしないどこかのBBSや、読書大好きを公言する読者のブログに書き込まれた何かの感想文ではなく、『オール讀物』に載った公式の選評の一節です。念のため。

(引用者注:平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」について)細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人(引用者注:津軽人)の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号「はじめて審査に参加して」より)

「審査員の間に十分な意見の交換があって、佐藤(引用者注:佐藤愛子)さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号「津軽の血」より)

(引用者注:藤本義一「鬼の詩」について)芸能人であれ、作家であれ、私は破滅型の生活には共感がもてない。」「藤本氏よ、作品には破滅型の人物を描いても、貴方自身の私生活を崩すことがないように……。」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号「直木賞所感」より)

 うん、うん。いいぞいいぞ石坂のオヤジ。ワタクシは、こういう選評が読みたいのです。ぜひいまの選考委員の方がたにも見ならっていただいて、そんなかしこまったような、文芸評論もどきの評は破り捨てて、実体験、私的なことがら、小説内容に何の関係もない思いつきなどを、どんどん書いてほしいと心から願います。たかが直木賞の選評なんですから、何を書いたっていいんですもん。

 オレはボケてる、オレはボケてる、と言い続けながら直木賞委員を務めて時がたち、石坂さんは確実にこれを、自分の芸風のひとつと見定めます。

「「このごろ、もの忘れがひとくなってねえ。こないだは評論家の扇谷正造さんたちと、ゴルフをやって、帰ってバッグをあけてみたら、人の道具と間違えているんだ。そのゴルフも一まわりすれば、フラフラだしねえ。この秋には、私の『光る海』がテレビドラマになる――届けられた脚本の会話を読みながら、はて、登場人物にこんなキザなことをいわせたかなあ、と苦笑してしまった。自分の書いた作品の内容まで忘れているんだから――」

 七十二歳の作家、石坂洋次郎氏を、軽井沢の山荘に訊ねたら、しきりに“恍惚ぶり”を自ら強調するのだが、うつくしい銀髪が似合う温顔の色つやもよく、かえって、しのびよる孤独の老いをたのんでいるようにもみえる。」(『週刊朝日』昭和47年/1972年9月1日号「“恍惚”の中に生きる 石坂洋次郎氏(七二)の生活と意見」より ―太字下線は引用者による)

 ボケを売りにする人が、直木賞選考委員をしている、ってもう、ほとんど素晴らしい世界としか言いようがないですね。

 その就任期間の末期も末期、第77回(昭和52年/1977年上半期)は候補作8篇。色川武大さんの、エッセイチックな『怪しい来客簿』VS. 井口恵之さんの古風極まりない心中もの「つゆ」、っつう激戦の末に、授賞なしとなった回です。ここで、石坂さんは、もとよりハメなどに捕われていなかったんでしょうが、自由なイシザカの姿を存分に発揮することになります。

 松代達生さんの『航路』所載「飛べない天使」に、ひとり票を投じて、選評の半分近くを、この落選作について費やしたのです。

 これがまた、「石坂さんにしか書けない選評」ど直球の、選評でした。

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