司馬遼太郎〔選考委員〕VS 西村寿行〔候補者〕…賞の選考なんてやりたくない、と言う委員に、賞なんて欲しくねえよ、と返す声。
直木賞選考委員 司馬遼太郎
●在任期間:通算10年半
第62回(昭和44年/1969年下半期)~第82回(昭和54年/1979年下半期)
●在任回数:21回
- うち出席回数:16回(出席率:76%)
●対象候補者数(延べ):156名
- うち選評言及候補者数(延べ):80名(言及率:51%)
こんなお仕事やりたくないのに、強引に頼まれてしまっては拒めないお人好し。でもやっぱりオレ、こういうの向いてないんだよな、とボヤきながら、10年ほどで辞任。けっきょく直木賞に、「何だかんだ言いながら、ぐずぐずと授賞ナシの回を連発した」歴史をもたらして、司馬さんは去っていきました。
就任一発目の第62回(昭和44年/1969年・下半期)、いきなりこの回は、田中穣さんの旋風に、選考委員たちがグラグラとあわてふためき、最終的に授賞ナシとなった回ですが、司馬さんの選評もまた、ボヤキから始まるという、不穏な空気をかもし出していました。
「直木賞的な分野にあたらしい小説がおこることは、ここしばらくないかもしれないと悲観的な、というより絶望的な予想をもっていたやさき、皮肉にも審査員の末席につらなることになった。
わるい時期に顔を出したと思っている。
こんどの候補作品には、賞にあたいするようなものがなかった。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号 司馬遼太郎「わるい時期」より)
「直木賞的な分野にあたらしい小説が」ほんとに出てこないムードだったんでしょうか。ワタクシには、そうは思われません。ただ、直木賞にはすでに60回の歴史があり、何となくの小説的な領域、が築かれていました。そこから外れる小説は受け入れまい、とする状況が高まってきていたことは否めず、そういう意味では、「どれもこれも、新しくはない」と切って捨てようと思えば、そうだったかもしれません。
それじゃあ、直木賞って全然面白くないんですけどね。司馬さんに、直木賞を面白くしてくれ、と拝んでも仕方ないので、先に進みます。
司馬さんは、選考委員という役回りをかなり嫌っていました。それは選評を読んでもわかりますし、田辺聖子さんによる証言もあります。証言、というか思い出です。田辺さんが芥川賞を受賞したころ、すでにお付き合いのあった司馬さんの家を訪問する、という仕事が舞い込んだのですが、その席で司馬さんはこんなことを言いました。
「(引用者前略)司馬サンはいわれた。
〈将来(ルビ:さき)でな、芥川賞や直木賞の選考委員せえ、いわれてもやめたほうがええデ〉
〈いやー、そんなこと、あるはず、ないやん〉
〈いやそら、わからへん。将来(ルビ:さき)はどんなことになるやら。しかしあンたもぼくも大阪ニンゲンやよって、そんなんは似合わへんのと違(ルビ:ちゃ)うか、それにかしこい人は委員なんか、やれへん、井伏サンもやってはらへんやろ〉
――そうかなあ。……そのころの私は文壇事情に昏いのでよく知らない(現在もだが)。しかし井伏鱒二という名はその当時でも、脱俗的超越的な存在として人々に敬意を払われていた記憶がある。」(田辺聖子「浅葱裏―ある日の司馬サン」より)
ここで田辺さんは、司馬さんとの会話に「大阪人の反骨の匂い」を感じたと表現しています。できるなら、司馬さんも委員は避けたかったんでしょうね。選考委員という立場は、どんな理由で、どんな経緯で就こうと、賞=「権威なるもの」と一心同体、にならざるを得ません。その席が、居心地よく感じる人もいるでしょうし、何かイヤだな、と思う人もいることは、容易に想像できます。
司馬さんをよく知る半藤一利さんも、『清張さんと司馬さん』のなかで、文化勲章を受けたときのエピソードを披露し、こう書きます。「司馬さんは、貰うことは貰ったが、権威とか、名誉とか、勲章とかを眼中に入れない人であると、よくわかりました」と。さらに直木賞の選考委員を辞めるについても、司馬さんがたびたび選評で、自分が賞の決定に携わることへの疑いを告白していたことを引き、
「第七十七回(受賞作なし)で、長々と『「偏私」と「公平」』と題して選考ということについての私的な、つらい疑義を述べて、やがて選考委員を辞めてしまう。(引用者中略)司馬さんは論理の人でした。いや、良心的でありすぎ、優しすぎた。」(半藤一利・著『清張さんと司馬さん』「六 巨匠が対立したとき」より)
と、かなり(相当に)擁護チックな表現でまとめています。
要するに、自分の推した小説がすいすいと毎回のように授賞作になっていれば、ああ、よかったよかったで、もっと長く続けられたかもしれません。だけど、他の委員の意見や好みに阻まれることが多すぎて、疲れちゃった。……とワタクシの目からは見えるんですけど、どうなんでしょうか。
司馬さんの、広瀬正に対する推奨、はよく知られるハナシですが、半村良「不可触領域」だの、田中光二『大いなる逃亡』だのにも好意をもちながら、でも、他の委員の顔ぶれを見て、まあみんな推さないようなあ、これが直木賞選考会の現状だもんなあ……と諦観をいだかざるを得ない。その末の、選考委員辞任、という面があったんじゃないんでしょうか。
ですので、今日の「候補者」はSFの人。……でもいいんですが、SFばかり取り上げていてもつまらないので(ってそんなに取り上げてないですけど)、今日は司馬さんが直面したもうひとつの現象、急激に売れ出した新人作家と直木賞側の対応、ってことで行きたいと思います。
もうそうなれば、この人しかいません。西村寿行さんです。
〈三村時代〉と言われた他のふたり、森村誠一さんや半村良さんほど、作家としての実績もなく、それが原稿を書きに書き、にわかに「人気作家」へ駆け上がります。本人いわく、収入ほぼゼロ状態(昭和47年/1972年)→年収250万円(昭和48年/1973年)→1200万円(昭和49年/1974年)→4400万円(昭和50年/1975年)→8800万円(昭和51年/1976年)→1億5000万円(昭和52年/1977年)→2億3000万円(昭和53年/1978年・文壇長者番付3位)→3億4500万円(昭和54年/1979年・文壇長者番付1位)。番付常連だった司馬遼太郎さんをも抜いてしまいました。
その西村さんが直木賞候補になったのは、第75回(昭和51年/1976年上半期)・第76回(昭和51年/1976年下半期)・第77回(昭和52年/1977年上半期)っていう連続3期。こりゃすげえのがキタな、と出版界、小説界がその存在に気づいた時期です。パーッと現われて、商業小説を牽引する逸材! と目を奪われそうになる候補者に、直木賞が、得意の「文学性に乏しい」シールドで防御を固め、その俊足をとりのがす、っつうおなじみの光景が、ここでも繰り広げられました。
直木賞、おまえ変わらないでだいじょうぶか? みたいな言説を生んだのも、当然と言えるでしょう。
「前田(引用者注:前田愛) いまだに芥川賞があり直木賞があるという、一種の制度としては純文学とエンターテイメントの区別はあるけれども……。
尾崎(引用者注:尾崎秀樹) それと雑誌がね。
前田 ええ、雑誌で「群像」「新潮」等と「小説新潮」「オール読物」等というふうに分かれているけれども、実際にはそういう境界線というのは、殆んどなくなっているのが実情じゃないでしょうか。
尾崎 もうないですね。それで読者は、むしろ芥川賞、直木賞というのに当惑を感じる。実際、芥川賞、直木賞というのは入れ替わったほうが早いみたいなところがありますよ。直木賞の受賞作は昔なら芥川賞にえらばれたかもしれない。そういうような小説の質的な転換が大きく進んでいるときだけに、この三人(引用者注:横溝正史、森村誠一、西村寿行)の作家のうけとられ方も過渡期の様相を、非常によく体現しているんじゃないですか。」(『現代読者考』所収「高度成長とその終焉」より ―鼎談日:昭和54年/1979年2月6日)
制度だ何だと言っています。だけど、ワタクシから見たら、直木賞がずっとエンターテインメントを代表してきた賞だ、なんてハナシはとうてい受け入れられないんですけど。「大衆文芸」の雄たる山岡荘八、山手樹一郎に限らず、梶山季之、笹沢左保、佐賀潜など、「流行作家」と言われるエンターテイメントのドル箱作家もいたし。柴田錬三郎も、受賞作を読んで、のちにあれだけ売れる作家になるとは、やっぱ思えない。直木賞=大衆文芸=エンターテインメント、っつう見立てが間違っている(というのが言いすぎなら、「不正確」)としか思えないわけです。
だから西村寿行さんが、――文芸など気にせずエンターテインメント街道をひた走る西村さんが、直木賞を受賞しなくても不思議ではない……と言いいますか。いや、直木賞って、権威だ何だとあれだけの注視を浴びながら、ほんと、苦しい(見苦しいとも言う)言い訳を続けて、難しい道を歩んでいるんだな、と思います。
○
空想モノに理解のある選考委員、として、直木賞では珍しい部類に入る司馬さんでしたが、しかし西村寿行さんの作品は、どうしても評価できなかったようです。
しょっぱなの第75回、「咆哮は消えた」については、何だかんだと言葉を選びつつ、「陳腐な感じ」だったと言っています。
「このように不作の季節に出くわすと、気が滅入ってしまう。
(引用者中略)
西村寿行氏「咆哮は消えた」も、せっかくの作品にひとことで片づけるような言葉を使いたくないが陳腐な感じがした。」(『オール讀物』昭和51年/1976年9月号 司馬遼太郎「人間の稀薄さ」より)
第76回は、選考会では三好京三『子育てごっこ』と三浦浩『さらば静かなる時』の激戦回。司馬さんはこの二作品ともに推したんですが、西村さんの『滅びの笛』については、元・産経新聞の同僚、三浦さんの作品との対比として、持ち出しています。
「ごく一般的にいって、人間はその精神のなかに多量の子供の部分を残しているらしい。(引用者中略)むろん「子供の部分」ということの内容は一般に複雑だが、そのある一面を堪能するほどに満足させてくれるのは「滅びの笛」と「さらば静かなる時」である。
前者は自然破壊の現実を前提に、それによっておこる特殊な自然の異常肥大をたんねんに書き、それが、人間を文明からひきずり出して弱い一個の自然物に化せしめることによって報復するという主題を活劇的な小説に仕立てたものである。(引用者中略)
右の両作のような小説は子供っぽい想像性から創造されるだけに、高い知性と文章力が必要とされるのだが、その点では後者(引用者注:『さらば静かなる時』)のほうが精巧なカットグラスを見るように造形されている。」(『オール讀物』昭和52年/1977年4月号 司馬遼太郎「こども・おとな」より)
要は、西村さんのほうは、知性や文章力を感じさせず、精巧ではない、と。それはたしかに、そう思います。
つづく第77回は、先に半藤さんの文章を引用したとおり、司馬さんはとにかく自分が、どうして選考委員に向いていないのか、を滔々と語って、候補作への言及はいっさいありませんでした。
「私はこの賞を頂いたから、恩返しのつもりで選考委員の一人をつとめてきたが、どうも自分の性格からみて、こういう仕事に適合しているとは思えない。
(引用者中略)
自分が推さなかった作品を他の委員がつよく推した場合、そういうこともあるのかと驚いてしまい、これは今後何年も(引用者注:後味の悪さが)残るな、とその瞬間から思い、気持が暗くなってしまう。小説を書く側の大変さからいえば選考などそうでもなかろうといってしまえばそうだが、しかしあと何度もやれるか、といわれれば自信がない。このたびは、私は最初から受賞作がないと思っていたから、個々の選評は勝手ながら省かせて頂く。」(『オール讀物』昭和52年/1977年10月号 司馬遼太郎「「偏私」と「公平」」より)
西村さんの「魔笛が聴こえる」は、川口松太郎さんが、欠点がありすぎる、としながら他の数作とともに一応推した程度で、ほとんどの委員から酷評されています。司馬さんもまず、この小説を擁護することはしなかったでしょう。
しかし西村さんはこの間、異常なほどの読者人気を獲得してしまっていました。直木賞など、まるで適わないぐらいの人気ぶりでした。
現実に売れている作家を、なぜ直木賞は認められないんだ! とは、とくに戦後、「数多く売るために書かれる小説」=「大衆小説」=「直木賞」っていう枠組みにがんじがらめになった人なら、誰でも思うようです。このあたり、昔とか今とか、あまり関係がありません。西村さんの周囲にも、そんな雰囲気が漂った様子がうかがわれます。
といいますのも、昭和52年/1977年から、西村さんは新鋭の(そして売れる)バイオレンス作家として、数々の雑誌メディアで取り上げられますが、たいてい「直木賞の候補にはなったものの受賞できない」、っていう話題が盛り込まれているからです。もちろん、その背景には西村さん自身が、直木賞に対する姿勢を、いろんなところでキッパリと言い放っている、っていう事情もあったでしょう。ライターにとっては、直木賞をダシにすることで、「これまでの文壇作家とは違うぜ」といったストーリーで記事を構成しやすかったでしょうから。
2度目の候補『滅びの笛』が落ちたときに、西村さんは思ったらしいです。読者に喜んで読まれる小説さえ書けりゃいい、おれは直木賞は欲しくないよ、と。
「このところ三回続けて、直木賞候補になった。候補までである。文章が荒い、話が荒唐無稽なんだそうだ。
ある直木賞選考委員は、こう評したという。
「十二歳の中学生でもこんな文章は書かない。これを大出版社が候補に出してくるのがおかしいよ」
小説じゃない、劇画じゃないかという評もある。どうですか?
「劇画ねえ。ウーン、オレのは、本当に劇画なんだなァ。しかし老大家がナニいったって関係ないよ。担当の編集者しか読まねえ小説書いたってしようがねえよ」
「オレの本は最低でも六、七万売れている。買ってくれてるうちは書く。一万でも落ちたら、スッパリやめるよ」
男らしくあろう。それだけしか考えていない、という。賞なんか欲しくない。未来永劫、断り続ける、とイバってみせた。」(『週刊朝日』昭和52年/1977年9月30日号「月産900枚の裏街道一匹狼 売れに売れるバイオレンス作家・西村寿行」より ―文:宮本貢 ―太字下線部は原文傍点)
「直木賞なんて、あんなもんオレはほしくねえよ」とサブタイトルに付けられた記事もあります。
「転身六年、いま時流にのっている。
「直木賞なんて、僕はほしくないですね」
アウトロー、どこまでも強さのある人だ。」(『週刊ポスト』昭和52年/1977年12月9日号「人間探険 西村寿行 「直木賞なんて、あんなもんオレはほしくねえよ」」より ―文:香村正光 ―太字下線部は原文傍点)
で、西村さんは、単に「欲しくない」と言っただけじゃないのでした。もう賞の候補にはしないでくれ、とじっさいに出版社に伝えたそうです。「くれるものはもらっておく」とか、そういう展開すら、西村さん、拒否したんですね。
「「直木賞候補が三回か。しかし、二回目のときに賞は貰わないと覚悟を決めた。以来、どこの賞も候補になるのは断っている。もう飯食えるので賞はいらない。俺の小説なんてしっちゃかめっちゃかで、賞の対象にならんよ。でも、同業者が選ぶ賞は欲しくないが、前に小説現代がやっていたような読者賞ならいい。俺は芸術家じゃなくて、職人だから、面白おかしく書いて、たくさんの人に読んでもらえればいいんだ。(引用者後略)」」(『週刊現代』昭和55年/1980年5月22日号「データバンクにっぽん人 西村寿行」より ―取材:栃久保昭道、構成:佐藤正弥)
明確に「文藝春秋に対して断っている」と書かれているのが、次の文献です。
「パーティーぎらい、文壇ぎらい、そして銀座が大きらい。直木賞に三回ノミネートされたが、昨年は文芸春秋社に断り状を出している。」(『サンデー毎日』昭和53年/1978年3月19日号「森村誠一・半村良・西村寿行 人呼んで文壇三村時代」より ―文:山本茂)
すばらしいです、この徹底した姿勢が。当時、西村さんがTwitterとかやっていたら、「そうです、先生の小説は直木賞よりずっと価値があります!」とかファンからの熱いメッセージがわんさか届けられたことでしょう。
権威やら勲章やらに関心をもてない人が選考委員をやって、老大家に認められなきゃいけない賞なんて欲しくない、と公言する作家が候補になって落選する。……いったい直木賞は、何をやっているんでしょうか。馬鹿バカしすぎて、ほんと直木賞はどの時代も、面白すぎます。
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コメント
本日の朝日新聞朝刊に、「文学賞を楽しむとっておきガイド」なる4面広告が入ってまして、いろんな記事が載っております。一応ご報告まで。
浅田次郎さんが黒岩重吾さんに「文学賞ほど公平な世界はない」と励まされた話などなかなか面白かったです。
投稿: 毒太 | 2014年2月26日 (水) 09時57分
毒太さん、
お久しぶりです!カキコミありがとうございます。
朝日朝刊別刷の広告特集の件、教えていただき、心より感謝です。
早速、先ほど目を通しました。
鈴木文彦×北上次郎の対談を読んだら、
北上さんが『直木賞物語』に触れてくださっていてビックリ!
(……すみません、自分のことで)
文学賞だけでこういう特集企画が組まれるのは、ほんと楽しくて
直木賞ファンとしても嬉しいことこのうえなし。
どんどんやってほしいです。
投稿: P.L.B. | 2014年2月26日 (水) 20時32分