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2014年2月16日 (日)

今日出海〔選考委員〕VS 植草圭之助〔候補者〕…何だかんだと顔が広いので、自分のことが出てくる小説も、選考する羽目に。

直木賞選考委員 今日出海

●在任期間:通算21年
 第45回(昭和36年/1961年上半期)~第86回(昭和56年/1981年下半期)

●在任回数:42回
- うち出席回数:38回(出席率:90%)

●対象候補者数(延べ):325名
- うち選評言及候補者数(延べ):109名(言及率:34%)

 この方の選評は、ほんと独得です。候補作に対する具体的な評や、けっきょく自分は推したのか推さなかったのか、っていうハナシはいつも脇道。今日出海さんの選評といえば、その中心は、全体を俯瞰した概論であったり、はたまた選考会の様子の報告であったり。そういうかたちでお茶を濁す……いや、突っ走ります。選評を読んでも、褒めているのかけなしているのか、よくわからない人、っていう立場に終始しました。

 選考委員になって7年たった昭和43年/1968年。あまり気乗りのしなかった(と本人の言う)文化庁長官の役を振られます。当然、マスコミを主とするまわりの連中からは、何だかんだとうるさい野次が飛びました。その経験から、外野の声のうるさいことにイヤ気がさし、みずから刺激的なことは口にすまい、と決意をかためたんでしょうか。どうなんでしょうか。

「今回の直木賞の候補作品は六篇に過ぎないが、量的には例年になく多く、且つ力作揃いだった。作者たちの知名度の高さも加わり、その選考もむずかしかろうと思っていたが、結局直木賞作品はなしという結果になったのは、粒が揃えば、余程何らかの点で秀れていなければその中から一二篇を選び出しにくいのは当然であり、甲論乙駁が生ずるのも不思議はない。」(『オール讀物』昭和55年/1980年4月号 今日出海「何か欲しかった」より)

 いや、そんな他人ゴトみたいな〈選考会の解説〉を選評に期待しているわけじゃないんだけどなー、とイライラしてしまいます。

 そう、文化庁長官もそうなんですけど、今さんって、直木賞の系譜のなかで見ると、なかなかに愉快な経歴をお持ちです。直木賞をとって間もなく刊行された『私の人物案内』(昭和26年/1951年9月・創元社刊)には「芸術放浪」が収められていて、その冒頭で、今さん自身が、ラジオのインタビューや新聞記者から「あなたの本職は何ですか」と聞かれたハナシが紹介されています。そして、その文庫解説を書く林秀雄さんもまた、こう書いているわけです。

「戦後『天皇の帽子』によって直木賞を受賞し、多数の小説・評論・随筆などによって作家として知られながら、多彩な社会活動から〈本職は何ですか?〉としばしば質ねられた。肩書をつけねばおさまらない日本の常識世界では枠を外れた存在だった。」(昭和60年/1985年7月・中央公論社/中公文庫 今日出海・著『私の人物案内』所収 林秀雄「解説」より)

 学生時代から演劇に夢中になり、心座やら蝙蝠座に参加、また文学同人誌『一九二九』から『作品』に加わって、文学熱も高めたりしますが、黒田清輝美術研究所で美術史の研究、明治大学専門部文芸科のセンセイ、それから映画制作の誘いも受けて、これにも関わります。

 昭和12年/1937年~昭和13年/1938年にはフランスへ外遊、その間、「巴里だより」を『文藝春秋』に送って掲載されました。帰国すると、菊池寛さんから声をかけられて文芸家協会の書記長に就任。昭和16年/1941年、フィリピンに宣撫班員として徴用され、昭和19年/1944年には再び報道班員として召集、里村欣三さんたちとともに、戦地で苦難の生活を送り、戦後は文部省の文化課長から、芸術課長。いまもつづく芸術祭を計画します。

 昭和25年/1950年、直木賞をとると、いちおう小説で金を稼げるようになり、文筆が主になりまして、受賞から11年、昭和36年/1961年には直木賞の選考委員に就任。昭和43年/1968年~昭和47年/1972年に初代文化庁長官を務めますが、こういう仕事には打ってつけ、と見られたものか、国際交流基金の初代理事長、国立劇場会長などなど。

「その他、役職としては放送・演劇・映画・音楽・美術その他広い分野から委嘱を受け、その数は八十近い。」(同)

 手びろくいろんなところに顔を出しては、慕われたり、やっかまれたり、という「本職不明」の生涯を送りました。

 これだけ顔の広さを発揮している人です。自分が選考委員となった直木賞で、見知った人が候補に挙がってくる、っつう経験も避けることはできませんでした。たとえば、うちのブログでは以前、佐藤得二さんの件を紹介したことがあります。昔、上司部下の関係もあってお世話になった人だから今日出海さんが強引に授賞させたんだろ? みたいな空気をかもし出し、ゴシップ好きの人たちの餌食となった回でした。

 ただ、それと双璧のように並ぶ、「今日出海、知り合いの候補作を推す」もうひとつのエピソードのほうも、やはり取り上げないままではアンフェアでしょう(いや、フェアとかアンフェアとかのハナシじゃないんですけど)。

 第70回(昭和48年/1973年・下半期)、植草圭之助さんの『冬の花 悠子』のことです。

 この作品、かなり惜しいところまで行きました。強い対抗馬がほかになかった、っていう幸運もあり、選考会では『冬の花 悠子』に授賞させるかどうするか、が最後の議論になったらしいです。60歳を超えた手だれのシナリオライター、とはいえ小説はまだこれが第一作目だし、次作を待ちたい、みたいに言う反対派が押し切って、ついに授賞はなりませんでした。

 今さんは褒めています。

「植草圭之助氏の「冬の花」は題材も変っているし、全篇を貫く作者の純情は特筆すべきものがある。この純情素朴さに面喰う人もあるかも知れない。(引用者中略)

 私は「冬の花」が単純であることも、近代文学の傾向から見れば古風であることも認めぬではないが、それを補う素朴な人間感情の純粋さや美しさに打たれたことは事実である。

 作者の手放しの告白は生々しすぎて、文学の昇華を経ていないとも言える。だが訥弁な作者の告白は必ずや読者の誰かの胸を打つに違いない。余裕のないほど作者の一途な慕情と悔恨は子供らしいまでに直截で無垢で、私は今どき珍しいものを見るように評価したが、この小説が現代の稀少価値観にも触れなかったことを惜しく思う。」(『オール讀物』昭和49年/1974年4月号 今日出海「「冬の花」に思う」より)

 それどころか、文藝春秋から刊行された『冬の花 悠子』が8年少し経って中公文庫に収められるときには、解説まで担当しています。

 当然と言いましょうか、何と言いましょうか。植草さんと今さんとは、もとからのお知り合い。ってことに加えて、『冬の花 悠子』は植草さんの自伝的な小説なんですけど、今日出海さんと思われる人物も冒頭に登場する、っつうほど、縁の深い作品だったからです。

 両者が知り合ったのは、おそらく昭和13年/1938年ごろ。昭和10年/1935年に菊池寛さんが、上演されることを目的とした脚本家を育成しようと、「脚本研究会」を立ち上げ、その募集に応じたひとりが植草さん。25、26歳のときでした。

上林(引用者注:上林吾郎) 菊池さんが脚本研究会というのをお作りになり、原稿を募集なさった。それで私も短いものを応募したんです。(引用者中略)二回目の応募で入って来た植草圭之助さんもいます。

井上(引用者注:井上ひさし) そのメンバーで勉強したわけですね。

上林 文藝春秋のクラブへ月に一、二度勉強しに行くわけです。そこで自分の書いた脚本を朗読するのです。別に教えてくれるわけではないんですが、指導役というか、先生が高田保さんでした。(引用者中略)ところが高田さんはいい人なんだけれどもズボラでね(笑)。それで世話役が替わり、今日出海さんになりました。」(平成11年/1999年1月・ネスコ刊『菊池寛の仕事』所収 上林吾郎、井上ひさし「対談 歌舞伎の新作運動へ――菊池寛のドラマについて」より)

 ここを今さんの視点で書くと、こうです。

「いざ研究会が出来ると、月に一度か二度文芸家協会の座敷に彼等を集めてみても、氏(引用者注:菊池寛)は多忙だし、不精だったし、会員に話すことは面倒でもあり、そんな経験もないので、私に研究会をやってくれと言って来た。流石に優秀な人がいたので、私も閑だったから、精出して協会に通ったものだ。その中に植草君もいたというのが彼との因縁である。」(昭和57年/1982年3月・中央公論社/中公文庫 植草圭之助・著『冬の花 悠子』所収 今日出海「解説」より)

 植草さんの「片隅の生活」が『文學界』昭和13年/1938年3月号に載って(原稿料35円)、これが昭和15年/1940年には、今さんが演出し、前進座公演で上演されていたりもします。そして昭和16年/1941年。植草作「佐宗医院」が、今さんと尾沢良三さんが文学座とわたりを付けてくれて、築地小劇場(当時「国民劇場」)で上演される、という折りも折り、今さんのもとに突然の徴用令書がやってきて、あわただしく戦地へ出発。市ヶ谷駅から発つその様子が、『冬の花 悠子』の冒頭のシーンです。

「やがてH氏の方から私に気がついたらしく、つかつかと近づいてきて私を輪から離れたところへ連れ出した。

「よく来てくれたね……こんどはいつ還ってこられるかわからんが……君の文学座の芝居、観られなくって残念だよ、デビュー作だし……成功を祈っているよ」

「はあ、先生もどうか御元気で……」

「うむ……ま、次々と頑張れよ、やっと芽が出たんだからな」

(引用者中略)

「ま、赤紙がきたときはきたときさ。そんなことは考えず、最後のときまで自分を見失わず勉強していってほしいな、いまが君にとって一番大事な時なんだ、それを言っておきたかったんだ」

 H氏は眼鏡の奥の眼をまたたかせながら、温かな顔で言った。

 私は胸がつまった。

 H氏は従軍服の胸のポケットから二ツ折にした白い封筒を取り出し、「長い間、先生といわれてきながら何ひとつ君にして上げられなかったが……これはぼくのプレゼントだ、書籍(ルビ:ほん)でも買ってくれたまえ」と私の手におし込んだ。」(『冬の花 悠子』より)

 この「H氏」が、今日出海さんです。要するに今さん、自分が出てくる小説を、選考委員として推すか落とすか、判断しなくちゃいけなくなったわけです。

          ○

 『冬の花 悠子』は全三部から成り立っており、その第一部は初出『別冊文藝春秋』124号[昭和48年/1973年6月]に「吉原脱出」の題で載りました。以下二部、三部は書き下ろしです。

 この作品が直木賞候補になるに当たっては、むろん「文藝春秋刊」であったことは無視できません。ということは、まず最初に『別冊文春』に載ったことが重要な点でもあります。この間、植草さんはシナリオライターの仕事をとめ、とにかく小説を書くことに専心し、

「親しい友人たちに「今さら小説を書こうなんて、そんな難しい馬鹿な真似はやめろ、自滅の道だ」と言われたりした。」(『人と日本』昭和49年/1974年1月号 植草圭之助「スタートライン」より)

 と、さんざん忠告を受けたのだとか。そして諫めたうちのひとりが、植草さんとは菊池寛の脚本研究会でいっしょだった仲間、のちに文春に入社して大出世した編集者、上林吾郎さんでした。

「六十歳を過ぎて小説を書き始める。しかも、全く発表する場のあてもないのに……。その頃、永らく住み慣れた富士見町の家を引き払い、阿佐ヶ谷に移った。そこで一年半、『冬の花 悠子』の執筆に没頭する。無収入であった。友人である文藝春秋の重役・上林吾郎は「絶対に成功しない、やめろ」と反対した。結果的には彼が最初に原稿を読み、それが縁で『別冊文藝春秋』に発表されることになるのだが。」(『創』昭和53年/1978年5月号 吉富健四郎「ドキュメント・人間 漂泊・植草圭之助」より)

 「何でも思いついたことは実行、でも面倒くさがりで飽きっぽいから後が続かない」菊池寛さんに始まって、今日出海さん、上林吾郎さん、っていう二人がいたからこその、『冬の花 悠子』完成と出版、そして大評判(……?)。これだけの役者、小道具が揃っているので、もはや遠くから細目で見れば、『冬の花 悠子』はほとんど直木賞、にしか見えません。

 でも受賞しませんでした。ほんと惜しい。惜しかった。

 何度もスタートラインに立つ性分、と語っていた植草さんが、還暦をすぎてこれが最後のスタート、と言っていた小説家稼業。『冬の花 悠子』は賞からは嫌われましたが、それでも植草さん、次に向けてやる気まんまんだったようです。

「『冬の花 悠子』は発表されるや、あらゆる映画会社、何人かの大女優から映画化の申し入れがあった。植草はそれを全部辞退する。

「あの作品のよって自分の表現力の未熟さを痛いほど感じた。もちろん、直木賞候補になったとき嬉しかったが、あれで賞をもらえるとは思わなかった。だから、素直にもう一度やり直そうと思った。第二作目ができあがり、それが評価されない内は絶対に上すべりになりたくない気持だったんだ。今日出海さんからも、せっかく映像の世界から散文の世界に入ったのだから、散文の世界で決定打を出せといわれた。それで、数ある話もお断りしたのです」」(同)

 『冬の花 悠子』が好評裡に迎え入れられ、そして植草さんは、もうひとつの〈とっておきの実体験ネタ〉、幼なじみにして一時いっしょに仕事もした黒澤明さんとのあれこれを、『別冊文藝春秋』に連載、『けれど夜明けに――わが青春の黒沢明』を発表します。

 その後、植草さんが何を思って生きたのか。よくわかりません。

「生まれつき、アヴァンチュールというか、賭けみたいなものに対する志向があった。その変わり、賭けに破れてそれで駄目なら、そこでくたばるという気持があり、今でも変わらない。

 だから、今だに自分のやりたい様にやっている。大変な被害者は女房だろう。」(同)

 と、昭和53年/1978年の段階で語っていた植草さんでしたが、何というのでしょう、同じくシナリオライター経験の長かった星川清司さんを思わせるように、平成3年/1991年、死んだときには、本人の希望で、身内以外には一切知らせなかったのだとか。

「脚本家としての目立った活動は昭和三十年代までで、その後、小説「冬の花・悠子」が直木賞候補になったこともあったが、晩年は埼玉県日高市で夫人とひっそりと暮らしていた。

「ハートで書く人だったから、当たるものを望む映画界の商業主義についていけなかったのかもしれない」と舟橋(引用者注:舟橋和郎)は言う。」(『読売新聞』平成6年/1994年1月27日夕刊「脚本家の主体性を主張 植草圭之助が死去」より ―署名(ま))

 会ったこともなければ接したこともないので、ワタクシには植草さんがどんな人だったのかはわかりません。ただ、『冬の花 悠子』って、ほんと、作者をモデルとした主人公の、純真さ、ひたむきさ、まわりを顧みない愚直、愚鈍な生きざまが、芯から伝わってくる小説です。こういう小説に授賞させたがった、植草さんをよく知る人、今日出海さんの推奨もむなしく直木賞は落選しましたが、でもそういう、今さんと植草さんを結ぶ奇縁とかを背景に置くと、受賞よりも何十倍も、『冬の花 悠子』が重く、にぶく、光って見えてしまう……そんなところが直木賞にはあるものですから、ワタクシは直木賞が好きなんです。

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コメント

P.L.B.さま

こんにちは。

第150回直木賞の選評をさっそく更新していただき、心から感謝いたします。
2作品の受賞はほんとうに嬉しいですね。宮部みゆきさんのコメントには驚いてしまいました。

今日出海さんという方は、とらえどころのない選評を書きますね。
とりあえず賛成しながら、ほんの少し心残りがあるような。
在任期間の中で、「受賞作なし」という結果が何度もあったのにもびっくりしました。

自分が登場する小説を選考委員の立場で読むって、どんな気持ちなんでしょう・・・。
初候補でも、ここまで票が入れば受賞も十分にアリな感じがします。

投稿: まひろ | 2014年2月17日 (月) 02時25分

まひろ 様

コメントありがとうございます。
『冬の花 悠子』の落選は、ほんと惜しいことでした。

実体験をもとにした懐旧的な作品で、いかにも「直木賞」的な小説と思うんですが、
何を目指して、何を顕彰しようとしてやっているのか、いろいろ変わる直木賞の面白さ、
と言いましょうか。これが落ちてしまうのですから、まったく不思議な賞です。

投稿: P.L.B. | 2014年2月24日 (月) 21時50分

It’s hard to find knowledgeable folks on this matter, but you sound like you know what you’re talking about! Thanks

投稿: Nevaeh | 2014年3月16日 (日) 05時59分

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