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2014年2月の4件の記事

2014年2月23日 (日)

司馬遼太郎〔選考委員〕VS 西村寿行〔候補者〕…賞の選考なんてやりたくない、と言う委員に、賞なんて欲しくねえよ、と返す声。

直木賞選考委員 司馬遼太郎

●在任期間:通算10年半
 第62回(昭和44年/1969年下半期)~第82回(昭和54年/1979年下半期)

●在任回数:21回
- うち出席回数:16回(出席率:76%)

●対象候補者数(延べ):156名
- うち選評言及候補者数(延べ):80名(言及率:51%)

 こんなお仕事やりたくないのに、強引に頼まれてしまっては拒めないお人好し。でもやっぱりオレ、こういうの向いてないんだよな、とボヤきながら、10年ほどで辞任。けっきょく直木賞に、「何だかんだ言いながら、ぐずぐずと授賞ナシの回を連発した」歴史をもたらして、司馬さんは去っていきました。

 就任一発目の第62回(昭和44年/1969年・下半期)、いきなりこの回は、田中穣さんの旋風に、選考委員たちがグラグラとあわてふためき、最終的に授賞ナシとなった回ですが、司馬さんの選評もまた、ボヤキから始まるという、不穏な空気をかもし出していました。

「直木賞的な分野にあたらしい小説がおこることは、ここしばらくないかもしれないと悲観的な、というより絶望的な予想をもっていたやさき、皮肉にも審査員の末席につらなることになった。

 わるい時期に顔を出したと思っている。

 こんどの候補作品には、賞にあたいするようなものがなかった。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号 司馬遼太郎「わるい時期」より)

 「直木賞的な分野にあたらしい小説が」ほんとに出てこないムードだったんでしょうか。ワタクシには、そうは思われません。ただ、直木賞にはすでに60回の歴史があり、何となくの小説的な領域、が築かれていました。そこから外れる小説は受け入れまい、とする状況が高まってきていたことは否めず、そういう意味では、「どれもこれも、新しくはない」と切って捨てようと思えば、そうだったかもしれません。

 それじゃあ、直木賞って全然面白くないんですけどね。司馬さんに、直木賞を面白くしてくれ、と拝んでも仕方ないので、先に進みます。

 司馬さんは、選考委員という役回りをかなり嫌っていました。それは選評を読んでもわかりますし、田辺聖子さんによる証言もあります。証言、というか思い出です。田辺さんが芥川賞を受賞したころ、すでにお付き合いのあった司馬さんの家を訪問する、という仕事が舞い込んだのですが、その席で司馬さんはこんなことを言いました。

(引用者前略)司馬サンはいわれた。

〈将来(ルビ:さき)でな、芥川賞や直木賞の選考委員せえ、いわれてもやめたほうがええデ〉

〈いやー、そんなこと、あるはず、ないやん〉

〈いやそら、わからへん。将来(ルビ:さき)はどんなことになるやら。しかしあンたもぼくも大阪ニンゲンやよって、そんなんは似合わへんのと違(ルビ:ちゃ)うか、それにかしこい人は委員なんか、やれへん、井伏サンもやってはらへんやろ〉

 ――そうかなあ。……そのころの私は文壇事情に昏いのでよく知らない(現在もだが)。しかし井伏鱒二という名はその当時でも、脱俗的超越的な存在として人々に敬意を払われていた記憶がある。」(田辺聖子「浅葱裏―ある日の司馬サン」より)

 ここで田辺さんは、司馬さんとの会話に「大阪人の反骨の匂い」を感じたと表現しています。できるなら、司馬さんも委員は避けたかったんでしょうね。選考委員という立場は、どんな理由で、どんな経緯で就こうと、賞=「権威なるもの」と一心同体、にならざるを得ません。その席が、居心地よく感じる人もいるでしょうし、何かイヤだな、と思う人もいることは、容易に想像できます。

 司馬さんをよく知る半藤一利さんも、『清張さんと司馬さん』のなかで、文化勲章を受けたときのエピソードを披露し、こう書きます。「司馬さんは、貰うことは貰ったが、権威とか、名誉とか、勲章とかを眼中に入れない人であると、よくわかりました」と。さらに直木賞の選考委員を辞めるについても、司馬さんがたびたび選評で、自分が賞の決定に携わることへの疑いを告白していたことを引き、

「第七十七回(受賞作なし)で、長々と『「偏私」と「公平」』と題して選考ということについての私的な、つらい疑義を述べて、やがて選考委員を辞めてしまう。(引用者中略)司馬さんは論理の人でした。いや、良心的でありすぎ、優しすぎた。」(半藤一利・著『清張さんと司馬さん』「六 巨匠が対立したとき」より)

 と、かなり(相当に)擁護チックな表現でまとめています。

 要するに、自分の推した小説がすいすいと毎回のように授賞作になっていれば、ああ、よかったよかったで、もっと長く続けられたかもしれません。だけど、他の委員の意見や好みに阻まれることが多すぎて、疲れちゃった。……とワタクシの目からは見えるんですけど、どうなんでしょうか。

 司馬さんの、広瀬正に対する推奨、はよく知られるハナシですが、半村良「不可触領域」だの、田中光二『大いなる逃亡』だのにも好意をもちながら、でも、他の委員の顔ぶれを見て、まあみんな推さないようなあ、これが直木賞選考会の現状だもんなあ……と諦観をいだかざるを得ない。その末の、選考委員辞任、という面があったんじゃないんでしょうか。

 ですので、今日の「候補者」はSFの人。……でもいいんですが、SFばかり取り上げていてもつまらないので(ってそんなに取り上げてないですけど)、今日は司馬さんが直面したもうひとつの現象、急激に売れ出した新人作家と直木賞側の対応、ってことで行きたいと思います。

 もうそうなれば、この人しかいません。西村寿行さんです。

 〈三村時代〉と言われた他のふたり、森村誠一さんや半村良さんほど、作家としての実績もなく、それが原稿を書きに書き、にわかに「人気作家」へ駆け上がります。本人いわく、収入ほぼゼロ状態(昭和47年/1972年)→年収250万円(昭和48年/1973年)→1200万円(昭和49年/1974年)→4400万円(昭和50年/1975年)→8800万円(昭和51年/1976年)→1億5000万円(昭和52年/1977年)→2億3000万円(昭和53年/1978年・文壇長者番付3位)→3億4500万円(昭和54年/1979年・文壇長者番付1位)。番付常連だった司馬遼太郎さんをも抜いてしまいました。

 その西村さんが直木賞候補になったのは、第75回(昭和51年/1976年上半期)・第76回(昭和51年/1976年下半期)・第77回(昭和52年/1977年上半期)っていう連続3期。こりゃすげえのがキタな、と出版界、小説界がその存在に気づいた時期です。パーッと現われて、商業小説を牽引する逸材! と目を奪われそうになる候補者に、直木賞が、得意の「文学性に乏しい」シールドで防御を固め、その俊足をとりのがす、っつうおなじみの光景が、ここでも繰り広げられました。

 直木賞、おまえ変わらないでだいじょうぶか? みたいな言説を生んだのも、当然と言えるでしょう。

前田(引用者注:前田愛) いまだに芥川賞があり直木賞があるという、一種の制度としては純文学とエンターテイメントの区別はあるけれども……。

尾崎(引用者注:尾崎秀樹) それと雑誌がね。

前田 ええ、雑誌で「群像」「新潮」等と「小説新潮」「オール読物」等というふうに分かれているけれども、実際にはそういう境界線というのは、殆んどなくなっているのが実情じゃないでしょうか。

尾崎 もうないですね。それで読者は、むしろ芥川賞、直木賞というのに当惑を感じる。実際、芥川賞、直木賞というのは入れ替わったほうが早いみたいなところがありますよ。直木賞の受賞作は昔なら芥川賞にえらばれたかもしれない。そういうような小説の質的な転換が大きく進んでいるときだけに、この三人(引用者注:横溝正史、森村誠一、西村寿行)の作家のうけとられ方も過渡期の様相を、非常によく体現しているんじゃないですか。」(『現代読者考』所収「高度成長とその終焉」より ―鼎談日:昭和54年/1979年2月6日)

 制度だ何だと言っています。だけど、ワタクシから見たら、直木賞がずっとエンターテインメントを代表してきた賞だ、なんてハナシはとうてい受け入れられないんですけど。「大衆文芸」の雄たる山岡荘八、山手樹一郎に限らず、梶山季之、笹沢左保、佐賀潜など、「流行作家」と言われるエンターテイメントのドル箱作家もいたし。柴田錬三郎も、受賞作を読んで、のちにあれだけ売れる作家になるとは、やっぱ思えない。直木賞=大衆文芸=エンターテインメント、っつう見立てが間違っている(というのが言いすぎなら、「不正確」)としか思えないわけです。

 だから西村寿行さんが、――文芸など気にせずエンターテインメント街道をひた走る西村さんが、直木賞を受賞しなくても不思議ではない……と言いいますか。いや、直木賞って、権威だ何だとあれだけの注視を浴びながら、ほんと、苦しい(見苦しいとも言う)言い訳を続けて、難しい道を歩んでいるんだな、と思います。

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2014年2月16日 (日)

今日出海〔選考委員〕VS 植草圭之助〔候補者〕…何だかんだと顔が広いので、自分のことが出てくる小説も、選考する羽目に。

直木賞選考委員 今日出海

●在任期間:通算21年
 第45回(昭和36年/1961年上半期)~第86回(昭和56年/1981年下半期)

●在任回数:42回
- うち出席回数:38回(出席率:90%)

●対象候補者数(延べ):325名
- うち選評言及候補者数(延べ):109名(言及率:34%)

 この方の選評は、ほんと独得です。候補作に対する具体的な評や、けっきょく自分は推したのか推さなかったのか、っていうハナシはいつも脇道。今日出海さんの選評といえば、その中心は、全体を俯瞰した概論であったり、はたまた選考会の様子の報告であったり。そういうかたちでお茶を濁す……いや、突っ走ります。選評を読んでも、褒めているのかけなしているのか、よくわからない人、っていう立場に終始しました。

 選考委員になって7年たった昭和43年/1968年。あまり気乗りのしなかった(と本人の言う)文化庁長官の役を振られます。当然、マスコミを主とするまわりの連中からは、何だかんだとうるさい野次が飛びました。その経験から、外野の声のうるさいことにイヤ気がさし、みずから刺激的なことは口にすまい、と決意をかためたんでしょうか。どうなんでしょうか。

「今回の直木賞の候補作品は六篇に過ぎないが、量的には例年になく多く、且つ力作揃いだった。作者たちの知名度の高さも加わり、その選考もむずかしかろうと思っていたが、結局直木賞作品はなしという結果になったのは、粒が揃えば、余程何らかの点で秀れていなければその中から一二篇を選び出しにくいのは当然であり、甲論乙駁が生ずるのも不思議はない。」(『オール讀物』昭和55年/1980年4月号 今日出海「何か欲しかった」より)

 いや、そんな他人ゴトみたいな〈選考会の解説〉を選評に期待しているわけじゃないんだけどなー、とイライラしてしまいます。

 そう、文化庁長官もそうなんですけど、今さんって、直木賞の系譜のなかで見ると、なかなかに愉快な経歴をお持ちです。直木賞をとって間もなく刊行された『私の人物案内』(昭和26年/1951年9月・創元社刊)には「芸術放浪」が収められていて、その冒頭で、今さん自身が、ラジオのインタビューや新聞記者から「あなたの本職は何ですか」と聞かれたハナシが紹介されています。そして、その文庫解説を書く林秀雄さんもまた、こう書いているわけです。

「戦後『天皇の帽子』によって直木賞を受賞し、多数の小説・評論・随筆などによって作家として知られながら、多彩な社会活動から〈本職は何ですか?〉としばしば質ねられた。肩書をつけねばおさまらない日本の常識世界では枠を外れた存在だった。」(昭和60年/1985年7月・中央公論社/中公文庫 今日出海・著『私の人物案内』所収 林秀雄「解説」より)

 学生時代から演劇に夢中になり、心座やら蝙蝠座に参加、また文学同人誌『一九二九』から『作品』に加わって、文学熱も高めたりしますが、黒田清輝美術研究所で美術史の研究、明治大学専門部文芸科のセンセイ、それから映画制作の誘いも受けて、これにも関わります。

 昭和12年/1937年~昭和13年/1938年にはフランスへ外遊、その間、「巴里だより」を『文藝春秋』に送って掲載されました。帰国すると、菊池寛さんから声をかけられて文芸家協会の書記長に就任。昭和16年/1941年、フィリピンに宣撫班員として徴用され、昭和19年/1944年には再び報道班員として召集、里村欣三さんたちとともに、戦地で苦難の生活を送り、戦後は文部省の文化課長から、芸術課長。いまもつづく芸術祭を計画します。

 昭和25年/1950年、直木賞をとると、いちおう小説で金を稼げるようになり、文筆が主になりまして、受賞から11年、昭和36年/1961年には直木賞の選考委員に就任。昭和43年/1968年~昭和47年/1972年に初代文化庁長官を務めますが、こういう仕事には打ってつけ、と見られたものか、国際交流基金の初代理事長、国立劇場会長などなど。

「その他、役職としては放送・演劇・映画・音楽・美術その他広い分野から委嘱を受け、その数は八十近い。」(同)

 手びろくいろんなところに顔を出しては、慕われたり、やっかまれたり、という「本職不明」の生涯を送りました。

 これだけ顔の広さを発揮している人です。自分が選考委員となった直木賞で、見知った人が候補に挙がってくる、っつう経験も避けることはできませんでした。たとえば、うちのブログでは以前、佐藤得二さんの件を紹介したことがあります。昔、上司部下の関係もあってお世話になった人だから今日出海さんが強引に授賞させたんだろ? みたいな空気をかもし出し、ゴシップ好きの人たちの餌食となった回でした。

 ただ、それと双璧のように並ぶ、「今日出海、知り合いの候補作を推す」もうひとつのエピソードのほうも、やはり取り上げないままではアンフェアでしょう(いや、フェアとかアンフェアとかのハナシじゃないんですけど)。

 第70回(昭和48年/1973年・下半期)、植草圭之助さんの『冬の花 悠子』のことです。

 この作品、かなり惜しいところまで行きました。強い対抗馬がほかになかった、っていう幸運もあり、選考会では『冬の花 悠子』に授賞させるかどうするか、が最後の議論になったらしいです。60歳を超えた手だれのシナリオライター、とはいえ小説はまだこれが第一作目だし、次作を待ちたい、みたいに言う反対派が押し切って、ついに授賞はなりませんでした。

 今さんは褒めています。

「植草圭之助氏の「冬の花」は題材も変っているし、全篇を貫く作者の純情は特筆すべきものがある。この純情素朴さに面喰う人もあるかも知れない。(引用者中略)

 私は「冬の花」が単純であることも、近代文学の傾向から見れば古風であることも認めぬではないが、それを補う素朴な人間感情の純粋さや美しさに打たれたことは事実である。

 作者の手放しの告白は生々しすぎて、文学の昇華を経ていないとも言える。だが訥弁な作者の告白は必ずや読者の誰かの胸を打つに違いない。余裕のないほど作者の一途な慕情と悔恨は子供らしいまでに直截で無垢で、私は今どき珍しいものを見るように評価したが、この小説が現代の稀少価値観にも触れなかったことを惜しく思う。」(『オール讀物』昭和49年/1974年4月号 今日出海「「冬の花」に思う」より)

 それどころか、文藝春秋から刊行された『冬の花 悠子』が8年少し経って中公文庫に収められるときには、解説まで担当しています。

 当然と言いましょうか、何と言いましょうか。植草さんと今さんとは、もとからのお知り合い。ってことに加えて、『冬の花 悠子』は植草さんの自伝的な小説なんですけど、今日出海さんと思われる人物も冒頭に登場する、っつうほど、縁の深い作品だったからです。

 両者が知り合ったのは、おそらく昭和13年/1938年ごろ。昭和10年/1935年に菊池寛さんが、上演されることを目的とした脚本家を育成しようと、「脚本研究会」を立ち上げ、その募集に応じたひとりが植草さん。25、26歳のときでした。

上林(引用者注:上林吾郎) 菊池さんが脚本研究会というのをお作りになり、原稿を募集なさった。それで私も短いものを応募したんです。(引用者中略)二回目の応募で入って来た植草圭之助さんもいます。

井上(引用者注:井上ひさし) そのメンバーで勉強したわけですね。

上林 文藝春秋のクラブへ月に一、二度勉強しに行くわけです。そこで自分の書いた脚本を朗読するのです。別に教えてくれるわけではないんですが、指導役というか、先生が高田保さんでした。(引用者中略)ところが高田さんはいい人なんだけれどもズボラでね(笑)。それで世話役が替わり、今日出海さんになりました。」(平成11年/1999年1月・ネスコ刊『菊池寛の仕事』所収 上林吾郎、井上ひさし「対談 歌舞伎の新作運動へ――菊池寛のドラマについて」より)

 ここを今さんの視点で書くと、こうです。

「いざ研究会が出来ると、月に一度か二度文芸家協会の座敷に彼等を集めてみても、氏(引用者注:菊池寛)は多忙だし、不精だったし、会員に話すことは面倒でもあり、そんな経験もないので、私に研究会をやってくれと言って来た。流石に優秀な人がいたので、私も閑だったから、精出して協会に通ったものだ。その中に植草君もいたというのが彼との因縁である。」(昭和57年/1982年3月・中央公論社/中公文庫 植草圭之助・著『冬の花 悠子』所収 今日出海「解説」より)

 植草さんの「片隅の生活」が『文學界』昭和13年/1938年3月号に載って(原稿料35円)、これが昭和15年/1940年には、今さんが演出し、前進座公演で上演されていたりもします。そして昭和16年/1941年。植草作「佐宗医院」が、今さんと尾沢良三さんが文学座とわたりを付けてくれて、築地小劇場(当時「国民劇場」)で上演される、という折りも折り、今さんのもとに突然の徴用令書がやってきて、あわただしく戦地へ出発。市ヶ谷駅から発つその様子が、『冬の花 悠子』の冒頭のシーンです。

「やがてH氏の方から私に気がついたらしく、つかつかと近づいてきて私を輪から離れたところへ連れ出した。

「よく来てくれたね……こんどはいつ還ってこられるかわからんが……君の文学座の芝居、観られなくって残念だよ、デビュー作だし……成功を祈っているよ」

「はあ、先生もどうか御元気で……」

「うむ……ま、次々と頑張れよ、やっと芽が出たんだからな」

(引用者中略)

「ま、赤紙がきたときはきたときさ。そんなことは考えず、最後のときまで自分を見失わず勉強していってほしいな、いまが君にとって一番大事な時なんだ、それを言っておきたかったんだ」

 H氏は眼鏡の奥の眼をまたたかせながら、温かな顔で言った。

 私は胸がつまった。

 H氏は従軍服の胸のポケットから二ツ折にした白い封筒を取り出し、「長い間、先生といわれてきながら何ひとつ君にして上げられなかったが……これはぼくのプレゼントだ、書籍(ルビ:ほん)でも買ってくれたまえ」と私の手におし込んだ。」(『冬の花 悠子』より)

 この「H氏」が、今日出海さんです。要するに今さん、自分が出てくる小説を、選考委員として推すか落とすか、判断しなくちゃいけなくなったわけです。

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2014年2月 9日 (日)

菊池寛〔選考委員〕VS 川口松太郎〔候補者〕…『東京朝日新聞』たった一紙のおかげで、語り継がれる名ゼリフ。

直木賞選考委員 菊池寛

●在任期間:通算8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:14回(出席率:88%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評(「話の屑籠」含む)言及候補者数(延べ):9名(言及率:13%)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2014年2月 2日 (日)

池波正太郎〔選考委員〕VS 落合恵子〔候補者〕…臆せずに迎合せずに、賛成か反対かをはっきり言う。選考委員として当然のこと。

直木賞選考委員 池波正太郎

●在任期間:通算5年半
 第86回(昭和56年/1981年下半期)~第96回(昭和61年/1986年下半期)

●在任回数:11回
- うち出席回数:11回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):80名
- うち選評言及候補者数(延べ):38名(言及率:48%)

 在任期間わずか5年と半。それなのに選考委員としての池波正太郎さんには、とかく多くのエピソードが残されています。さすが池波さんです。その作家的ネームバリューはハンパありません。

 なかでも、ゴシップマニアがまず喰いつくのは、もちろん、池波さんが授賞に猛反対したことで物議をかもした、いくつかのハナシでしょう。

 有名なものには、昔の仲間・胡桃沢耕史さんを認めず、しかも胡桃沢さんが調子に乗ってアレコレとマスコミに語るもんだから、その姿に激怒したこと。あるいは隆慶一郎さんに反対票を投じたために、ほとんど池波さんのせいで落とされた、みたいに尾ひれはひれが付いて言いふらされたこと。……この二大エピソードについては、うちのブログでも何度か取り上げました。よって割愛します。

 池波さんのような、すぐにカッとする怒りんぼで、好き嫌いがハッキリしていて、しかもそれを隠しておけない人は、どうしても目立ちます。しかも有名作家、と来てますから、ゴシップネタになるのも自然なことです。

 ええと、「割愛します」と言っておいて何なんですが、胡桃沢さんとの因縁について、ひとつだけ触れます。この事件は胡桃沢さん本人をはじめ、いろんな人が証言しているんですが、池波さんのことを語らせたら日本で1000位以内に入る(はずの)重金敦之さんの解釈が、なかなか面白いのでぜひ紹介させてください。

「ちょっとした言葉の行き違いからだろうが、(引用者注:第89回の胡桃沢耕史への)授賞式の壇上で挨拶をする胡桃沢氏の真下で、池波さんは拳を握り締め、仁王立ちになって睨み続けていた。後日、「余計なことを言ったら殴りかかろうと思っていた」と私に語ってくれた。不測の事態が起こったら、池波さんを後ろから抱きかかえて止めなくては、と文藝春秋の菊池夏樹さんがぴったり張り付き、当時の藤野健一「オール讀物」編集長も張り込みの刑事のように傍らで見張っていた、という。話が逸れた。どうも池波さん自身も、そんな「騒動」を楽しんでいたところがあったのかもしれない。(平成21年/2009年12月・朝日新聞出版刊 重金敦之・著『小説仕事人・池波正太郎』より ―太字下線部は引用者によるもの)

 ほほう。もしも、ほんとに楽しんでやった部分があったのだとしたら、まったく池波さんも人が悪いですね。……いや、旺盛なサービス精神と言うべきでしょうか。このあたり、第150回までで役目を終えた渡辺淳一さんにも似通ったものを感じてしまいます。

 渡辺さんといえば、30年以上選考委員をやっていた方ですから、池波さんとも選考会でいっしょだった時期があります。池波さんとはどんな委員だったのか。渡辺さんが証言してくれている文章がありますので、うかがっておきましょう。

「昭和五十八年、わたしが直木賞の選考委員になって選考会場でご一緒することになったが、池波さんはあまり口数の多いほうではなかった。ことさらに論理的ではないが、思ったことを短く、さらりと触れる。

 誰の作品であったか、いささかどぎつくて池波さんは反対されたが、そのときも一言、「品がないねえ……」と、つぶやかれただけだった。

 論客ではないが、短い言葉のなかに存分の思いをこめられて、そっと告げる。」(平成10年/1998年5月・講談社刊『完本池波正太郎大成』「第四巻 月報」所収 渡辺淳一「横向きのポーズ」より)

 要するに、さまざまな直木賞選考委員のことを「小説を批評できない連中」と言いたくてウズウズしている、直木賞に対して過剰な期待を寄せる人たちにとっては、池波さんなど、かっこうの攻撃対象なんでしょうね。「論理的に批評できないやつが、偉そうに」とか何とか。ちなみにワタクシは、直木賞の場にカンペキな小説評論など必要ないと思っていますので、好悪の感情で推したり反対したりする委員がいても、べつにいいと思います。

 池波さんって、おれの意向どおりに当落が決まらないのは許さん! みたいなこと言ってエバりくさっていた人でもなかったようですし。気に食わないものは気に食わないと言う、好みの作家・作品は強力にプッシュする。でも、そのとおりに結果が出なくても、そこは受け止める。そのぐらいの節度はわきまえた委員でした。大のオトナですから、当たり前っちゃあ当たり前のことですけど。

「本音を言えばね、選考委員にはなりたくなかったんだよ。責任が重すぎるからね。でも引きうけたからには一所懸命やる。

(引用者中略)

いろんな雑誌の新人賞選考委員をやったけど、若い人の小説にはピンとこないこともあるね。でも、僕が全部を評価しなくてもいい。そのためにいろんなタイプの選考委員がいるんだから。」(『週刊文春』昭和56年/1981年9月3日号「ぴいぷる 選考委員 池波正太郎」より)

 そう、合議っていうことを、よくわかっていらっしゃる。

 しかも池波さんのイイところは、「みんなで決めるから」と周囲や時流になびいたりしなかった点です。推すものは推す、認めないものは認めない、とはっきり主張する。たとえば、受賞者のなかでは、光岡明『機雷』、神吉拓郎『私生活』、逢坂剛『カディスの赤い星』、常盤新平『遠いアメリカ』あたりをゲキ推し。対して、村松友視「時代屋の女房」、胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』、林真理子「最終便に間に合えば」「京都まで」などは、まったく認めずに、選評でも酷評。とくに林真理子さんについては、池波さん自身も、自分は評価しないと〈公言〉していたそうです。

 選考会だけでコソコソ反対票を投じず、白黒はっきりとオモテに示すたあ、選考委員のカガミだ、池波さん。当然、彼が強力に推しながら、選に洩れた例もありました。赤瀬川隼さんの「捕手はまだか」「影のプレーヤー」という野球郷愁モノ、森瑤子さんの『風少女』などなど。そして、今日の「激闘史」はそのなかに属する、落合恵子さんのことで行きたいと思います。

 なにしろ池波さんも落合作品好き。落合さんも池波作品好き。相思相愛のおふたりでした。

 落合さんのことは、説明を要しますまい。作家になる以前から、言わずと知れた人気者で、昭和46年/1971年には処女小説を執筆している、っていうことが週刊誌記事になるほどでした(『週刊平凡』昭和46年/1971年9月16日号「意外!レモンたん落合恵子が初めて書いた大胆な小説」)。

 直木賞候補に挙がる前には、すでに月に250~350枚、月10本ほどの連載をもち、昭和56年/1981年から昭和57年/1982年には『氷の女』、『ザ・レイプ』と話題作を上梓して、当然、直木賞のほうからも手を出さなきゃいけない状況に。第88回(昭和57年/1982年・下半期)に『結婚以上』ではじめて予選を通過させます。

 このあと第96回(昭和61年/1986年・下半期)までの4年間で5度、候補に挙がるわけですが、そこにかならず選考委員のひとりとして待ち構えていたのが、池波さんでした。

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