村上元三〔選考委員〕VS 景山民夫〔候補者〕…「直木賞とSF」の歴史に深く関わりつづけたSFファン(自称)。
直木賞選考委員 村上元三
●在任期間:通算38年
第32回(昭和29年/1954年下半期)~第102回(平成1年/1989年下半期)
●在任回数:71回
- うち出席回数:70回(出席率:99%)
●対象候補者数(延べ):543名
- うち選評言及候補者数(延べ):489名(言及率:90%)
せっかくの直木賞第150回記念です。うちのブログでも、何か派手なことをやれればいいんですけど、残念ながら特別の用意はありません。今日は、150回の直木賞の歴史を彩る、大記録をもつ選考委員を取り上げまして、記念回の祝辞と代えさせていただきます。
村上元三さんです。その記録とは、「直木賞史上もっとも毛嫌いされた」……っていうことじゃ、もちろんないです。やりもやったり35年半、71回。いまの委員のなかで最長在任期間を誇る、例の渡辺淳一さんが、あと5年もつづけなければ到達できないぐらい、直木賞でもっとも長く選考委員を務めた、という記録の保持者です。
まず村上さんとは、どんな選考委員だったのか。ひとを褒めさせて右に並ぶ者のいない(のかな)、「大衆文芸界の良心」こと武蔵野次郎さんに、少し語っていただきましょう。
「村上氏の場合は時代小説作家として第一線に立っているという多忙さと平行して、新人作家の育成には並々ならぬ努力を払っておられるのだ。(引用者中略)自己の輝かしい業績のほかに後進の指導にも大いに尽くした故長谷川伸氏の伝統は、村上氏によってみごとに継承されているということである。(引用者中略)村上元三氏は現在、直木賞の銓衡委員でもあるが(昭和二十九年度から就任)、この新人作家登竜門においても、その卓抜な作品鑑賞眼は生かされていると同時に、ここでも後進育成の努力は営々と為されているのだ。」(昭和52年/1977年9月・中央公論社/中公文庫 村上元三・著『江戸雑記帳』所収 武蔵野次郎「解説」より)
「卓抜な作品鑑賞眼」だという。あまりにザックリした表現すぎて、うなずくこともできなければ、ツッコむこともできません。さすが武蔵野さんの文章は、とらえどころがなく、この場合は、さほど参考にはならないようです。
村上さんが選考委員になったのは第32回(昭和29年/1954年・下半期)からでした。その後(第39回から)選考会に加わった源氏鶏太さんを除いて、当時はまだまだ多くの委員が、「選評ではすべての候補作のことに触れる」という習慣などないころです。しかしそのなかにあって村上さんは、議論にもならずにけっこう早めに落とされた作品に対しても、こつこつと評をしたためる律義者でした。
「昭和三十年から、直木賞の選考委員になった。自分が直木賞を受けたとき、選考委員の選評は、切り抜きを戦災で失ったあとも、よくおぼえている。
だから、候補作品に単行本が何冊あっても、読むのは苦にならないが、原稿用紙二枚の選評を書くときは、神経を使う。」(昭和54年/1979年2月・読売新聞社刊『自伝抄VI』所収 村上元三「四百字の春秋」より)
神経を使う、と書いているので、村上さんなりに神経は使っていたのでしょう。しかしそういった配慮がうまく伝わらず、律儀に落選候補について自分なりの感想を書いていたことが、ある意味裏目に出てしまうのです。意識しないうちに、候補者やその周辺から恨みや中傷を受けることになっていきます。
おそらく最も知られているのは、筒井康隆さんとの因縁でしょう。なぜ知られているかといえば、筒井さんがあけすけに攻撃しているからです。
「「オール讀物」誌上で、直木賞選考委員全員が、ヴェテラン作家阿部牧郎の受賞が話題になったことを契機として座談会をやっているのだが、ある大家が「受賞には運不運がある」うんぬんと発言しているのである。これで頭に血がのぼった。落選した者が自分を慰さめるためにそう言うのならよろしい。とことん議論の限りを尽し、その運不運がないようにと懸命の努力をするのが選考委員の務めではないか。この発言から決定的に欠落しているのは文学史的責任感である。(引用者中略)現在世界的にその要素なくしては純文学はおろか映画や社会現象をさえ語れなくなっているSFに対してひとつも賞をあたえないでおいて不運だとのみ言い、よく夜間眠れるものである。
これは何も選考委員すべてに対して怒っているのではない。現在の委員はほとんど新たに就任した人であり、過去の大罪を背負ったままでまだやっている人は前述の発言をした大家ひとりだけである。武士の情で特に名は秘すが、村上元三という人である。」(平成6年/1994年5月・新潮社刊 筒井康隆・著『笑犬樓よりの眺望』「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」より)
まあ、たしかに。「文学史的責任感」など、村上さんにはないでしょうね。たかが直木賞を決めるぐらいで、「文学史」とかそんな大仰なこと、頭に浮かべる委員のほうが、ちょっとイタいです。「いや、だから直木賞はダメなんだ」と言われればそれまでですけど、でも直木賞って、その程度のものでしょ。昔も今も。
村上さんは、他にもいろいろと、知らず知らずのうちに恨みを買っていたらしいです。その一端は、ご自分で明かしています。「村上元三のせいで直木賞に落選した」とのウワサが流れた、とか何とか。
「ある病院の院長に、こう言われたことがある。
「Aという作家が、あなたを恨んでいましたよ。こんどの直木賞で、あなた一人が反対したおかげで、落ちてしまった、とね」
よく考えてみたが、心当りがない。
「なんという人ですか、それは」
院長に訊ねても、なかなか答えない。
「どんな風の作品ですか」
というわたしの問いに、ようやく院長は、扱った題材だけ打明けてくれた。
それで思い当ったが、わたし一人が落したのが原因ではない。選考が始ってすぐに落されてしまった作品であった。
雑誌に載った選考経過、選者たちの批評を読んでもらえば、はっきりするのに、その作者は何か思い違いをしたのであろう。それとも、はたから聞える雑音にまどわされたのかも知れない。
「あなたがわたしを恨むのは、誤解です」
と、わたしはその作者あての手紙を、医師に言伝てた。住所や名前などは訊ねなかった。それで向うは納得してくれたのか、もう二度と医師を通じて苦情を言ってくることはなかった。(引用者中略)好き嫌いで作品をえらんだことはないし、公正無私を心がけたつもりである。だが長いあいだに、病院の医師に文句を言った人のように、どこかでわたしを恨んでいる人がいるかも知れない。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』「三十二」より)
これは、いちおう村上さんも気になることだったらしく、同時期に『産経新聞』の取材を受けたときにも、こう弁明しています。
「(引用者注:昭和)三十年から三十五年間も直木賞選考委員を務めた村上元三(八五)は「選考会に関するゴシップまで書かれるようになったのは嫌だった」と話す。村上が反対したことで賞をもらい損なった人がいるといううわさが流れ、知らないところで恨みを買っているかもしれないという。(引用者中略)
「中には作品より作家で推す人もいたが、僕はだれが書いたかは気にしなかった。基準は、きちんと時代を書いているか、人物を書いているか、その二点。文章のうまいまずいは二の次だった」」(『産経新聞』平成7年/1995年6月30日「戦後史開封 芥川賞・直木賞」より)
「きちんと時代を書いているか、人物を書いているか」だそうです。直木賞マニアにとっては、もうこのフレーズ、聞き飽きましたね。それをもとに懸命に選考し、気をつけて選評を書いても恨みを買い、「文学史的責任感」がない、と筒井さんに怒られる。ほんとに村上さん、長いあいだお疲れさまでした。
で、直木賞選考委員の村上さんといえば、忘れちゃいけないのが、やっぱりSFのことです。それは「SFを落としつづけた大罪ある選考委員」ではなく、「無類の(海外)SF好きの選考委員」としての姿です。
SFが好きすぎて(?)選評上に表われてしまった村上さんのSF関連語録。堪能しましょう。
「筒井康隆氏の「ベトナム観光公社」を、わたしは買わない。日本のSFの中には、フィクションがあって、サイエンスのない作品が多い、と思う。」(『オール讀物』昭和43年/1968年4月号 第58回選評「読みやすい文章を」より)
「広瀬正氏の「ツィス」は、いまに面白くなるだろうなるだろうと思いながら読み続け、とうとう面白くならずに終った。SFには、もっとびっくりするような着想と構成がほしい。」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号 第65回選評「残念ながら」より)
「半村良氏の「黄金伝説」は、SFファンのわたしにも、やはりSFというのは難しいのだな、とつくづく思わせられた。ことに後半は、極彩色の劇画を見るようであった。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号 第69回選評「二つの形」より)
「半村良氏の「不可触領域」は、SFファンの一人としても、わたしには不満であった。フィクションがあって、サイエンスがない、といつも言っていることを、また書かせてもらう。」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号 第71回選評「藤本氏に望む」より)
「半村良氏の「雨やどり」も、前回の参考作品になった「新宿の男」のほうが、短篇としてよくまとまっていた。わたしの慾から言えば、実力のある作家だけに、この人には長篇のSFで、直木賞を得てほしかった。」(『オール讀物』昭和50年/1975年4月号 第72回選評「文句はつけないが」より)
「最後まで残った田中光二氏の「大いなる逃亡」は、わたしがスパイ小説の読みすぎのせいか、作者があとがきに書いている創作姿勢ほどには、この作品に新しさも面白さも感じられなかった。」(『オール讀物』昭和51年/1976年4月号 第74回選評「どすんと手ごたえ」より)
最後の『大いなる逃亡』評には、「SF」の言葉は出てきませんが、似たように、おれはスパイ小説も腐るほど読んでいるんだ、と主張したがっているようなので、付け加えさせてもらいました。
ちなみに昭和52年/1977年の『読売新聞』夕刊一面には、村上さんへの取材記事が、こんな見出しで載ってもいます。ジャーン。「古文書あさるSF通」。
「作品は時代小説ばかりだが、推理、SF小説のファンで、翻訳物はほとんど書庫にとりそろえてある。」(『読売新聞』昭和52年/1977年9月3日夕刊「顔 村上元三 古文書あさるSF通」より ―署名:(中))
しかし、村上さん、どんなSFが好みなんですかね? SF好き、SF通と言っている割りには、具体的な好みがまったく伝わってこないのが、(相当に)言葉足らずです。
そのためか、「これほどのSF小説ファンなのに、選考に当たるとなれば、SFにへこひいきすることなく、まじめに全候補を精査するとは、何と村上さんは公平な人なのだろう」……などと褒め称えたい気持ちが沸き起こりません。そうやって村上さんは、憎まれて怨まれながら選考委員を続けていったわけですが、最後の最後になって、ようやくご褒美が舞い込みました。
景山民夫さんの登場です。
○
景山さん、最初の直木賞候補『虎口からの脱出』が、選考会に挙がったのが第97回(昭和62年/1987年・上半期)のとき。村上さんは、高橋義夫『闇の葬列』推しで、『虎口からの脱出』については「荒唐無稽」と表現したりしています。ただ、景山さんの渾身の冒険小説への挑戦を、けっこう認めて、まんざらでもない感触を表明しました。こんな感じです。
「『虎口からの脱出』を、面白く読み続けた。ずいぶんていねいに調べて書いている、と期待したが、かんじんの西とオライリー、麗華の三人が題名の虎口からの脱走になってから、だんだん現実ばなれがしてきた。自動車で万里の長城の上を突っ走る場面など、わたしは中国の上海しか知らないが、荒唐無稽だし、結末がハッピイエンドになるのも都合がよすぎる。あとがきを読んで、作者がまだ中国へ行ったことがないのだと知って、がっかりした。だがこの作者の、ものを調べる執念はなみなみでないと思うし、違う材料を扱った作品を読ませてほしい。」(『オール讀物』昭和62年/1987年10月号 村上元三「正反対の作品」より)
この小説はそもそも、景山さんいわく、「日本冒険小説協会大賞一本狙い」で書き下ろしたものだったそうです。けっきょく大賞はとれませんでしたが、内藤陳さんの計らいで「最優秀新人賞」が贈られることになりました。吉川英治文学新人賞もとり、直木賞候補になったのはその後だったので、そんなに気にはならなかった、のかもしれません。
しかも景山さんが敬慕する青島幸男さんのように、「直木賞をとるぞ!」と目標において書いたものでもないですし。直木賞選考委員が「よし」とするラインから外れていても、問題視するところではありません。
そう、問題は、次の候補『遠い海から来たCOO』にありました。景山さん自身、多少、直木賞に意識を持ちつつ、それでも思っていたのは、さすがにこの作品ではなく、『ガラスの遊園地』のほうだった、と言っています。
「講談社エッセイ賞、吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会最優秀新人賞に、昨年の直木賞ノミネートとくれば、さぞ自信も……と、思いきや「とんでもない。いただけるとすれば『ガラスの遊園地』の方だと踏んでたもんですから、正直言ってびっくり、です。だってこれまでSFっぽいものはダメだったでしょー、ニオイが出ただけでも。そういう意味では選考委員も変わったのかもね。」」(『週刊現代』昭和63年/1988年8月6日号「第99回直木賞 景山民夫氏」より)
第99回の選考会は、景山さんの『遠い海から来たCOO』のほか、西木正明「凍れる瞳」「端島の女」と、藤堂志津子『マドンナのごとく』、この三作が最後まで接戦で、とくに景山作品はやはり現実性・リアリティ、の面で難色があった、と伝えられています。
そしてそういった反対意見と対立し、『遠い海から来たCOO』への授賞を強力にプッシュしたのが、村上さんでした。かなりの激熱推しです。
「「凍れる瞳」「遠い海から来たCOO」の二作に絞って、選考会に出た。
(引用者中略)
こんどの候補作の中で、「遠い海から来たCOO」が一ばん面白かった。プロローグのプレシオザウルスの最期で、先ず読む者を引っつかむ。こういう奇想天外ともいうべき作品が、直木賞候補に選ばれたのを、大いに歓迎したい。作者がフィジー諸島で生活したことがあるのかどうか知らないが、あのあたりの風景がよく描かれている。洋助少年が、クーと名をつけた恐龍の子供との交流を、あるときはユーモラスに、スリルをまじえて、あたたかく描いている。ここには楽しい夢があるし、読みながら空想の世界に遊ばせてくれる。父の徹郎とキャシーと三人で、フランス行動部隊と戦うところは、リアルに描いてあるし、こういう場面が候補作品に出てくると、大ていは減点されるものだが、わたしは嫌いではない。最後の核実験反対のグリーンピースの運動家やフランス艦船よりも、海中から長い首を出した数百頭のプレシオザウルスのほうが、はるかに威力があった、というところ、わたしには痛快だった。真実性がないという批評は、必要がない。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号 村上元三「二作を推す」より)
村上さんの推した二人が授賞と決まったからなのか、単なる持ち回りなのかは知りませんが、8月12日に行われたこの回の授賞式では、選考委員代表として村上さんがスピーチし、SF好きの選考委員がようやく直木賞にSF系統の小説を選ぶことができた、っていう展開に華を添えた(?)のでした。めでたしめでたし。
このときに至っても、おそらく村上さんの頭のなかには、西木正明、景山民夫の両候補作が、日本の文学史のなかに重要な指標と位置づけられるべきもの、とかいう感覚はなかったでしょう。ひょっとしたら、自分がそれまでSFをことごとく落としてきた大罪人のひとり、みたいな意識すらなかったんじゃないでしょうか。大罪もクソも、だって単なる直木賞選考委員ですから。そんな大したことはできないし、村上さんも、それはわかっていたのじゃないかな、と。いいじゃないですかねえ、それで。
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