新田次郎〔選考委員〕VS 中山千夏〔候補者〕…力量があるのにまだ注目されていない、そんな作家を励ます存在でありたい。
直木賞選考委員 新田次郎
●在任期間:通算1年半
第80回(昭和53年/1978年下半期)~第82回(昭和54年/1979年下半期)
●在任回数:3回
- うち出席回数:3回(出席率:100%)
●対象候補者数(延べ):22名
- うち選評言及候補者数(延べ):11名(言及率:50%)
先週は、直木賞史上もっとも在任期間の長かった村上元三さんを取り上げました。とくれば、当然今週は「在任最短」記録の保持者でいかなきゃバランスがとれません。新田次郎さんです。「低俗・蒙昧なやつほど直木賞では長く選考委員を続けることができ、高潔な人ほど短く期間を終える」っていう、いまワタクシがテキトーに考えついた直木賞の法則を、じつによく体現した委員でした(テキトーなので、鵜呑みにしないでください)。
いや、何と言っても新田さんは、以前「新田次郎文学賞」のことを紹介したときにも、少し書きましたけど、「文学賞制度」には相当な恩義を感じ、また意気込みをかけていた人です。たぶんご自身、小説家として注目されたきっかけが、同人誌とか、プロ編集者の慧眼とか、そういったものではなく、巷間バカにされる文学賞のおかげだったことを、身にしみてわかっていたからでしょう。
「「文学者」に載っている作品はこの席上(引用者注:合評会)で徹底的に叩かれた。これはいいなと私には思えるような作品があっても、この席で讃める人はいなかった。発言する人も、ほとんどが司会者の附近に陣取っている人たちで、新人の私のところには、発言のチャンスはなかなか廻って来なかった。私が始めてこの席で発言したのは、それから三年ほど経ったころだった。(引用者中略)
私はこのころ書きたくて書きたくてたまらなかった。四十枚ないし、五十枚ぐらいの短篇を書いては「文学者」の編集部に送ったが、活字にはならなかった。「超成層圏の秘密」の経験から、原稿は清書して出すことにしたから、このころ「文学者」で没になった原稿のほとんどは、直木賞を受賞した以後になって、日の目を見た。ほんとうに有難いことだった。直木賞受賞後はこういう手持の原稿に加筆したものを次々と発表した。
「文学者」の他に投稿作家としての自分自身を生かすため、「講談倶楽部」、「オール讀物」、「サンデー毎日」の三誌の懸賞小説に応募した。「講談倶楽部」は何回出しても、予選にも通過しなかった。直木賞受賞後、「講談倶楽部」の新編集長斎藤稔さんから原稿の注文があったとき、この落選原稿「詩吟艦長」を新しい原稿用紙に書き直して持って行ったら、
〈これは面白い。こういう原稿を続けて欲しいですね〉
と云われた。」(昭和51年/1976年9月・新潮社刊 新田次郎・著『小説に書けなかった自伝』「投稿作家の四年間」より ―引用原文は平成24年/2012年6月・新潮社/新潮文庫『小説に書けなかった自伝』)
ええ、文学賞などとらずとも、同人誌でメキメキ小説書きつづけられる人、あるいは、無名時代にどこかのひとりの編集者に拾われて一躍人気作家になった人など、いくらでもいるでしょう。しかし新田さんの場合は違いました。直木賞がなかったら、おそらく、どこかで心折れて、あきらめてしまい、のちの作品も生まれなかったかもしれません。
自分のような立場の人は、いつの時代になってもきっといる……と思ったのかどうかは知りませんけど、とにかく新人発掘機関としての直木賞に、並々ならぬ期待を寄せていました。その異常なほどの文学賞愛を、藤田昌司さんはこう伝えています。
「新田次郎は直木賞選考委員になった時、「僕は候補作を全部読みます」と強調したことがあった。当たり前のことを強調しなければならないおかしさがあったのだ。
その新田次郎は、芥川賞直木賞の歴史を通じて、“自薦”で選考委員になった空前絶後の作家であった。“太郎、次郎、三郎”の時代とはやされ、昭和五十年代初め、司馬遼太郎、城山三郎と並んで流行作家となっていた新田次郎は、文壇指南役ともいうべき直木賞選考委員のポストを文藝春秋に要求したのである。選考委員にしてくれないなら、文藝春秋から出している作品をすべて引き揚げ、他社に渡す、と文藝春秋の担当者は脅されたという。こうした経緯があっただけに、新田次郎は選考に真剣に取り組んだのだろう。」(平成1年/1989年12月・オール出版刊 藤田昌司・著『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』「III 小説の政治学―文学賞の裏表― 4 芥川賞直木賞の舞台うら」より)
ほんとに藤田さんの文章は、長きにわたる「文芸ジャーナリスト」としてのクセが付きすぎていますよねー。新田さんが、なぜ選考に真剣に取り組んだのか、それは文壇指南役の座につくために文春を脅してまで選考委員になった経緯があったから、ですと? それ、ハナシが逆でしょ。埋もれた才能をひっぱり上げて商業小説の世界で長く活躍できるようにしてあげる、その観点から見たとき(自分の経験上もあって)やっぱり直木賞は、効果を存分に発揮できる立場にある、っていう前提があって、その任をなかなか果たせないでいた1970年代の直木賞の姿を不甲斐なく思い、よしおれがやる、と手を挙げたんじゃないんですか。
だいたい「文壇指南役」って何すか? 直木賞選考委員が、候補者たちを指南? 藤田さん自身が、ほんとにそう思っていたのか、問い詰めたいですよ。川口松太郎さん辺りは、もしかしてそんな気分でいたかもしれないですけど、当時の他の選考委員に、「自分は直木賞を通して、候補作家たちに、何かを教えようと思っている」って感覚の人、もはやいなかったでしょ。
まあ、選考委員たちの気持ちなど無視して、直木賞のことをやたらと高みに置きたがる外野の妄想こそ、直木賞を面白くしているので、ここは深く突っ込まずに先に進みます。
新田さんのいちばん強い思いは、やはり「これからの作家への励まし」にあったととるのが、まず妥当でしょう。新田さんが亡くなった直後、旭丘光志さんがこんなエピソードを紹介してくれています。
「新鷹会という文学会があり「大衆文芸」なる同人誌を毎月出している。その七九年新年号に桐生悠三という若手作家の“残雪”と題する小説が載った。新田次郎はどこかでその小説を読んだらしく、その同人誌の編集者に新田次郎からの葉書が舞い込んだ。
“残雪”は、正三という植字工の世界を通して、明治以来の職人気質をしっかりと書き、描写に無駄がなく、全体の人物もよく生かしている。(中略)近来出色の作であり、本当のプロとして大きく伸ばしてやるよう祈ります。
新田次郎”」(平成24年/2012年7月・山と渓谷社刊『よくわかる新田次郎』所収 旭丘光志「「アラスカ物語」――劇画化を通じて」より ―初出:『別冊新評 新田次郎の世界』昭和55年/1980年)
それで新田さんは、第80回(昭和53年/1978年下半期)から直木賞の選考委員に就きます。昭和55年/1980年2月に67歳で亡くなるまで、出席できた選考会は3回。わずか3回。その新田さんと縁の深い候補作家を選ぶならば、これはもう、学校に上がるまえのお子さんから、社会と隔絶されて生きる独居老人まで、全国民の常識として阿刀田高さんを挙げるべきでしょう。新田次郎といえば阿刀田高。テッパンです。耳タコです。
ただ、それではあまりに新味のない、ありきたりの組み合わせです。ど真ん中を外したい、という意味もこめて、今日は新田さん3度の選考のうち、2度候補に挙がっていた阿刀田高ではないもうひとりの人、中山千夏さんのことに触れたいと思います。以下ほとんど(ひょっとすると最後まで)新田次郎さんは登場しないかもしれません。すみません。
第81回(昭和54年/1979年上半期)は、阿刀田さんを含めて候補者が8名。しかし、誰がどう見てもこの回、もっとも注目を浴びたのは、みんなによく顔を知られた有名人、中山千夏さんでした。
とにかく、みんなが知っている人が候補になると、マスコミの人たちはものすごく喜びます。このときも当然、中山さんの周囲は騒がしくなりました。このときのことを中山さん自身が書いた「拾った馬券」では、あおる記者たち、何そんなに騒いでるの?と冷める中山、の構図がめんめんと綴られています。
「小説を書いたキッカケを記者に問われたのにも困った。「色川武大さんや井上ひさしさん、それに矢崎泰久さんが、顔を合わせれば小説を書け、とやかましく言う。それで書いた。十年位前から、もし小説を書いたら一番に見せる、と文春の鈴木琢二さんという人に約束していたから、そうした。で、別冊文春に載った」と本当のことを言ったら、記者氏はあからさまに落胆と嘲笑の色を見せ、「なんだ、そんな単純なことなんですか、いや、そう言っちゃ悪いけど」と言った。他の人はもっと複雑なキッカケがあるらしい。私は無くて困るから、できれば問わないで欲しい。」(昭和56年/1981年10月・文藝春秋刊 中山千夏・著『偏見人語』「拾った馬券」より)
とにかく、候補になった人のまわりには、直木賞や芥川賞のあれこれを吹き込む人たちがいます。それで中山さんのまわりにも、当然いたらしく、「芥川賞ならいざ知らず、直木賞の候補なんて……」などと言い出す人もいたそうです。
「芥川賞直木賞といえば、私でも知っているくらい有名な賞だ。初めて小説を書いて、それが賞の対象になるなんて、そんなうまい話があるかいな、とこれが半疑。知人のひとりは、そりゃ直木賞は無理かもしれないが、芥川賞なら、全くの新人でも門外漢でも対象になるから可能性はある、と言った。
ところが直木賞の方だったものだから、私はよけいびっくりしたのだ。この賞は、これまでも良い仕事をしてきたし、これからもきっと良い仕事をするだろう、という小説家を対象にすると聞いていた。なんで私みたいな海のものとも山のものともわからぬナンジャモンジャが、候補に紛れ込んだものやら。
(引用者中略)
もちろんその過程には、作品の良し悪しのみならず、出版が企業である以上当然の編集者の商魂や、みんなが人間である以上当然の作者に対する人情が関係することは、当事者も認めるところである。だから、私の小説が直木賞の候補になっちゃったってことは、小説自体ちっとは面白かったのかもしれないけれど、加えて商魂やら人情やらの網の目をちゃっかりくぎり抜けたって感じなのね。」(同「拾った馬券」より)
ええ、たしかに直木賞には、「これまでも良い仕事をしてきたし、これからもきっと良い仕事をするだろう、という小説家を対象」にしてきた面もありました。でも、候補作を選ぶなかで、そんな人・作品ばかり挙げてきたわけじゃないことぐらい、まわりの誰か知っていそうなものです。教えてくれる人、いなかったんですか? そうですか。残念です。
文藝春秋の編集者の商魂、人情、もちろんそれもあったでしょう。だけど、それ「だけ」で候補作が選ばれる、とか言うのは、一側面のみをことさら強調して耳目を引こうとするゴシップライターの常套句じゃないですか。違うでしょ。それだけじゃないでしょ。小説に関しては海のものとも山のものともわからないナンジャモンジャ、だけど文筆の腕は以前からたしか、みたいな人の書いたもののなかから、もしかして選考委員が「コレだ!」と評価するかもしれない可能性を考えて、候補の並びを決めていく、それも(それこそ)直木賞の候補選出の常道だったじゃないですか。中山千夏さんなど、まさにぴったりの候補者だったと思いますよ。
……と、まっとうすぎてツマラない見立てをしたついでに、「子役の時間」誕生に関わった鈴木琢二さんが、ちらりとその頃を回想している座談会を、次に紹介したいと思います。
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