吉川英治〔選考委員〕VS 南條範夫〔候補者〕…もっといいものが書けるはずだ、と期待をふくらませ、ふくらませ、どんどんふくらませ……。
直木賞選考委員 吉川英治
●在任期間:通算20年半
第1回(昭和10年/1935年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)、第27回(昭和27年/1952年上半期)~第47回(昭和37年/1962年上半期)
●在任回数:41回
- うち出席回数:25回(出席率:61%)
●対象候補者数(延べ):247名
- うち選評言及候補者数(延べ):130名(言及率:53%)
いろんな人の回想文などによると、かつての直木賞選考会には、何となしに「座長格」とも言うべき委員がいたそうです。その座長格の委員が、場の空気を読みながら、最後に「では、この作家にあげよう」とか「今回は授賞なしで行こう」とか言い、その一言で混乱もつかみ合いの喧嘩もなく場が締まる、みたいな。
……と言っても、選考結果を見渡すかぎり、ほんとにそんな委員、いたのかいな、と首をひねりたくなる、傍からはほとんどうかがい知れない、その場かぎりの茫漠たる雰囲気みたいなハナシです。一時はその役目を川口松太郎さんが担っていたといいますし、それより前は、吉川英治さんがそうだった、なんて言う人もいます。と、これは前に紹介した源氏鶏太さんからの受け売りです。
「その頃(引用者注:吉川と源氏が選考委員をしている頃)、吉川さんの発言は、千鈞の重みがあった。同時に、十人に近い委員会のまとめ役のようになっていられた。後に、まとめ役は、川口松太郎氏になった。が、その川口氏がお辞めになってからは、ぜひ必要なまとめ役をする人がいなくなった。そのせいでもあろうか。昔の委員会は、各自独自の意見をいったが、最後は何んとなく一つにまとまった。今は、そのまとまりが薄れて来たような気がしている。」(『文藝春秋』昭和58年/1983年11月号 源氏鶏太「直木賞選考委員」より)
じつは吉川さんも川口さんも、選考委員のなかではダンのトツに欠席の多かった人です。それでよく「まとめ役」になり得ていたな、と思わざるを得ません。彼らがいないときは、何となく一つにまとまっていなかったんでしょうか。そのことは残念ながら源氏さんは、ここでは語っていません。
まあ、吉川さん(のようなビッグネーム)が一言いえば場が全部そちらになびく、としておいたほうがハナシは単純でわかりやすいですし、外野から語るにも都合がいいです。そこに、海音寺潮五郎敢然と吉川英治に反抗して司馬遼太郎への授賞をもぎ取る、みたいな「伝説」が跋扈する土壌があるとも思います。
それと、もうひとつ、吉川さんの選考委員人生(とくに戦後の第27回 昭和27年/1952年上半期以降)を語るうえで、都合のいいストーリーがあります。吉川さんが時代小説の候補にあまり高い点を入れていないことから、時代作家は時代小説に厳しい、推理作家は推理小説に厳しい、要するに自分のライバルになりそうな候補者を、選考委員は落とそうとする、なんていう、すごく据わりのいい、香ばしい薫りのする、多くの人間が好んで採用する物語です。
……まあ、現にそういう選考委員もいたかもしれません。吉川さんにしても、戦前、第11回(昭和15年/1940年上半期)に河内仙介「軍事郵便」を新聞紙上で激賞したのに始まり、伊地知進「廟行鎮再び」、木村荘十「雲南守備兵」、戦後は白藤茂「亡命記」、長谷川幸延「裏道」「蝶々トンボ」、新田次郎『強力伝』、野口冨士男『二つの虹』、葉山修平「日本いそっぷ噺」、水上勉「雁の寺」などなど、とかく現代物を推奨する機会の多い人でした。それで、司馬『梟の城』や池波正太郎「錯乱」などに、ブーブー文句を言って注文をつける姿勢をとったものですから、よけいに時代物の後進に厳しかった、っつうイメージを助長させたかもしれません。
ただ、ワタクシの見解では、吉川さん、今東光「お吟さま」を直木賞の場にひっぱり出した一大功績もありますし、杜山悠「お陣屋のある村」を褒めてますし、なにより1950年代から60年代前半は、候補に上がる時代小説に対して、吉川さんだけじゃなく、数多くの選考委員がなにがしか注文をつけ、しりぞける姿勢をとっていました。直木賞では時代小説が有利だ、なんていうのは、少なくともこのころに関しては、ウソです。この傾向が、吉川さんひとりの投票行動によってつくられた、などとはとうてい思えません。
で、今日は、吉川さんから大変厳しい評を受けつづけ、授賞のときもやっぱり、高い評価を得られなかった時代小説書きのひとり、南條範夫さんの件を書きます。南條さんが受賞したのは第35回(昭和31年/1956年・上半期)。やがて吉川さん晩年のときに、若い時代作家たちよあまり才能を浪費しないでね、っていうお小言を頂戴することになる司馬遼太郎(第42回受賞)、池波正太郎(第43回受賞)に通ずる萌芽が、南條さんのときに垣間見える、吉川さんの「激闘史」です。
南條さんは、よく知られるがごとく、時代物ではなく現代物から出発しました。昭和25年/1950年『週刊朝日』の「第1回朝日文芸「百万人の小説」百万円懸賞」にユーモア小説「出べそ物語」を投じて入選、10万円の賞金ゲット(南条道之介・名義)。翌年、昭和26年/1951年『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説の「現代小説部門」に「マルフーシャ」を応募すると二席入選、これまた10万円の賞金ゲット(有馬範夫・名義)。このときは、丹羽文雄、林芙美子2人が選者を務めるはずだったのが、途中で林さん急逝のため、丹羽さんひとりで選考を務めたものですが、「歴史小説部門」の選者のひとりが吉川英治さんで、このとき選外佳作に選ばれたことが縁で、杉本苑子さんが吉川さんの家に出入りするようになります。しかし、南條さんと吉川さんとはとくに無縁でした。
はじめて南條さんと吉川さんが接触(?)したのは、さらに2年後、昭和28年/1953年。南條さんがその筆名を使い、第1回オール新人杯に「子守りの殿」を送り、見事、当選してからです。吉川さんが選者だったわけではなく、「子守りの殿」が『オール讀物』3月号に掲載され、これを読んだ吉川さんから南條さんのもとに、励ましの手紙が送られてきたことにありました。
「私がオール讀物の新人杯第一回に当選した時、吉川さんから長文の激励文を頂いた。大変うれしかった。この文を書くのにそれを引用したいと思って探してみたが、転居の際に紛失してしまったものか、どうしてもみつからない。」(平成1年/1989年10月・講談社刊『吉川英治歴史時代文庫43 上杉謙信』所収 南條範夫「私と吉川英治氏」より)
南條さん自身、まだ作家になろうとは思っていなかったと言います。しかし、『週刊朝日』や『サンデー毎日』でお茶を濁す(……って表現が変だな)程度ならよかったものの、オール新人杯に手を出してしまったのが運のツキ。オール新人杯→直木賞、のラインを何とか軌道に乗せようともくろむ上林吾郎編集長の策略にからめ取られ、次々と新作執筆を乞われては、同誌に原稿を書き、何度も直木賞候補に挙げられる日々が訪れるのでした。
「時代物を書いたのは「子守(原文ママ)の殿」が最初であった。(引用者中略)「子守の殿」は、昭和廿八年三月号の「オール讀物」に掲載された。第一回の新人杯当選者だから大いに引き立ててやろうと言う積りだったのだろうと思うが、その後、殆ど毎月、何か書けと言ってくれた。
しかし、当時の私は三つの大学で講義する傍、経団連その他の経済団体の仕事をしていたし、「支配集中論」「日本金融資本論」等、本来の専門の著書をも書いていたので、なかなかその暇がない。
その上、歴史的知識など皆無なので、全く初歩から勉強せねばならず、年に二つか三つの短篇を書くのが精一杯であったが、「不運功名譚」「水妖記」「畏れ多くも将軍家」「燈台鬼」などを「オール讀物」に載せて貰い、「燈台鬼」が、今官一氏の「壁の花」と共に昭和卅一年度上半期の直木賞を受けたのである。」(『オール讀物』昭和37年/1962年6月号 南條範夫「いつのまにか作家に」より)
「子守りの殿」は「不運功名譚」といっしょに第29回(昭和28年/1953年・上半期)の直木賞候補に。「水妖記」で第31回(昭和29年/1954年・上半期)最終候補、「畏れ多くも将軍家」で第32回(昭和29年/1954年・下半期)予選通過、「燈台鬼」で第35回(昭和31年/1956年上半期)候補……。3年半で4度、選考会の場に作品がはかられることになります。
その場には常に、長文の激励文をくれた吉川英治さんがいました。前半2度は欠席でしたけど。
○
一発目、第29回。吉川さん「欠席の弁」というタイトルで、選評を書いています。
「やむをえない会があって、審査委の会合の方を欠席しました。前日の夕、愚見書を社に届けておき、席上の弁に代えさせてもらったのです。(引用者中略)
意見書 抜萃
(引用者中略)
南條範夫氏の「子守りの殿」は手堅い作風。“史料”というもののこなし方をよく知っている。然し構成や描写に無駄も多く、不必要な鈍重な感じを読者に負担させすぎている。「不運功名譚」の方が前者よりもいい。二作を通してみて、まじめな精進を志していることがわかる。その点に好感をもつ。将来はもっとよい物が書けよう。」(『オール讀物』昭和28年/1953年10月号 吉川英治「欠席の弁」より)
この候補作の並びで「授賞なし」ってことはないだろう、と惜しがりながら、でも自分も強く推薦する一本が見つからなかった、と言っています。
二度目の第31回。今度は吉川さんは病気で欠席。しかも、候補作中、有馬頼義『終身未決囚』が、あとから小島政二郎さんがねじ込んだ候補作だったからか、吉川さんのもとに届かず、それ以外の候補作に関する所感を選考会には出しておいた、とまた弁解から始めています。
「病中のため欠席したことと、手ちがいで、ぼくの所へ廻された候補作品のうちに有馬氏の作品がなかった為に、こんどの銓衡についてはまったく自分には発言の余地がないようなかたちになってしまった。けれどそれは後になって知ったことで、有馬氏の終身未決囚をのぞいた以外の候補諸作品については当日それぞれの意見を附して委員会へは提出しておいた。そしてそれらの中では、一に長谷川幸延氏、二に広池あき子氏、三に南條範夫氏という順に推薦しておいた。
南條氏のその後を特に注目しておいたが、こんどのは氏のものとしても出来がよくないとおもった。もうそろそろ安易に達者な素質が見え出して来たような気がして惜しまれた。こういうよい題材をつかんだとき、なぜもっと大事に磨いて出してくれないかと思った。」(『オール讀物』昭和29年/1954年10月号 吉川英治「直木賞寸感」より)
抱いた期待が大きすぎる、ということはあるでしょう。裏を返せば、だから特別に、自分の歩んできた時代小説家としての道を鑑みて、つい「惜しむ」気持ちが芽生えたのだろうと思います。別の人から見れば、自分のライバルになりそうだから何だかんだキレイごとを連ねながら結局落としている、と見えるのかもしれません。
三度目の第32回は、その半年後です。南條さんの「畏れ多くも将軍家」は、文春が決めた予選通過作には入っていたんですが、1月22日の選考会でまず討議され、永瀬三吾「売国奴」や小田仁二郎「塔の沢」などとともに、議論からは外されてしまいました。吉川さんの選評にも、期待の南條さんに対する言葉は、一片も出てきません。
さらに1年半がたって第35回、南條さん「燈台鬼」で4度目の予選通過となりました。このときも、吉川さんのみならず、ほとんどの委員が南條さんのことを手放しで評価するような選評を書かず、南條さん自身、
「直木賞の選評を見た時、正直のところ、私は少々がっかりした。大佛次郎氏が多少誉めてくれただけで、あとの選者は誰も誉めてくれていない。他にないから仕方がなしに、これにしておくと言った感じだった。」(前掲「いつのまにか作家に」より)
と、ショボーンとさせられます。「誉めてくれていない」選者のひとりが、吉川さんです。以前の選評の蒸し返し、といった内容になっています。
「その点(引用者注:今官一に比べて)、南條範夫氏の方は、あやうげのない作風である。こんどの「燈台鬼」は氏のものとしては、必ずしも傑出している作品ではなかった。しかし新人杯受賞頃からの仕事には概して駄作がない。という事は又、受賞資格として、堂々たるものとは云えない事にもなる。が私は、もっと成長すべき作家だがと氏を観ている。それにしても猶、「燈台鬼」には不足な感を残さずにいられない。末尾において、石根を投身させたような定型的な手法ですましてしまった事だ。道麻呂との邂逅なども、この類の物語としてもちと作為に過ぎはしまいか。挙げれば挙げられる短所は幾つか持つが、しかし一応は読まされる。文学的要意もなくはない。ということが氏の短所だし私の不足だと失礼だが言わせてもらう。
とにかく、一賞に二人を推薦するのは、賞の本旨でないし委員間にも多少意見も出た所だが、今回はこうならざるをえなかった。」(『オール讀物』昭和31年/1956年10月号 吉川英治「寸感」より)
もう、この感じが第43回に6度目の候補でようやく授賞させることになる池波正太郎さんに対して吉川さんが使った表現、「このまとめ方の中に無理があり上手過ぎるきらいがありいくらでも短所をあげればあげられる。」(『オール讀物』昭和35年/1960年10月号)に、相通ずるものを感じてしまうわけです。まあ、やっぱり吉川さんなりに、これらの作家たちの才に対し、(もしかしたら自分も成し遂げられなかった)ものすげー高い水準の仕事ぶりを期待しすぎて、惜しいとか、不足とか、思ったものでしょう。おそらくは。
吉川さんが、まだ日の目を見ない新人、後輩作家たちに、じゅんじゅんと温かな姿勢で接していたことは、吉川さんの関連の文章をあさると、わんさか出てくるほどあります。そちらが基本的な吉川さんの、後輩にそそぐまなざしだったんでしょう。だいたい吉川英治といえば、イコール、偉ぶらない清らかな人柄、で有名です。自分は授賞に積極的でなかった作家にも、受賞と決まれば、きちんと激励の言葉をかける。オトナです。
たとえば池波さんに対しては、こうでした。
「私(引用者注:池波)は、計六回の候補にあげられ、その六回目に直木賞をもらったのだが、第一回目の候補作は、信州・松代藩の御家騒動をあつかった〔恩田木工〕というもので、直木賞の選考委員の一人であった吉川先生は、この小説を大へん気に入っておられ、その後、いつになっても私が賞をとれないでいるものだから、
「池波君は、一回目にとらせたかったなあ……」
と、洩らされたということを人づてに私は何回か耳にした。(引用者中略)
六回目に、好運にも直木賞がとれたとき、吉川先生は軽井沢から祝電を下すった。
その翌年……。
寺内大吉氏が直木賞をもらったときの祝賀パーティで、私は、はじめて吉川先生にお目にかかった。(引用者中略)
「賞がとれて、よかったねえ」
「はい」
「やってますか?」
「一所懸命、やっております」
こういうと、先生は大きくうなずかれ、
「いっしょけんめいに、おやんなさいよ」
と、一句一句、区切りをつけるように、ちからをこめて、私の眼を凝視しながら、そういわれた。」(昭和43年/1968年9月・講談社刊『吉川英治全集第17巻 月報30』所収 池波正太郎「一度だけ」より 下線太字部は原文傍点)
南條さんのときは、文春(日本文学振興会)主催の、ホテルを貸し切ってやるような大きな授賞祝賀会は、まだ行われていない時代でしたが、南條さんの私的な祝賀パーティーに吉川さん、忙しいなかしっかりと足を運んで、直接、南條さんを励ましました。
「初めてお会いしたのは、直木賞を貰い、友人たちが祝賀パーティをやってくれた時である。その時、吉川さんは私のすぐ隣の席に坐られたが、スピーチの中で、私に「少し放蕩をした方がよい」と云われた。私の書くものが生硬なので、私が世間知らずであることを、看破されたからだろう。」(前掲 南條範夫「私と吉川英治氏」より)
まあ、こういう後輩に温かいエピソードは、どっさりお持ちの吉川さんですからね。のち、新田次郎さんをはじめ、吉川英治の名のついた賞だからというので、吉川賞受賞を格別に喜ぶ人が頻出した、っつうのもわかります。南條さんもまた、直木賞から26年後に、吉川賞を受賞しました。「いつのまにか作家」業にひきずり込まれて、四半世紀。きっと「放蕩」などはしなかったでしょう。心配性の吉川さんが、票を出し惜しみするまでもなかったかとは思いますが、それにしてもよくぞ南條さんも、本業を守りながら小説執筆を続けたものだと思います。吉川さんに負けず劣らず、オトナな人だよなあ、南條さんも。
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>「初めてお会いしたのは、直木賞を貰い、友人たちが祝賀パーティをやってくれた時である。その時、吉川さんは私のすぐ隣の席に坐られたが、スピーチの中で、私に「少し放蕩をした方がよい」と云われた。私の書くものが生硬なので、私が世間知らずであることを、看破されたからだろう。」(前掲 南條範夫「私と吉川英治氏」より)
古賀ゼミ生でした者から、申し上げます。
南條(古賀英正)さんは 時間の余裕があれば、世界各国へ旅をされています。
ある時、旅の途上で出会った極貧放浪の若者が「いよいよ困ったら、大根をかじりながらでも、旅を続けます」と答え、「お前偉い」と励まされたと聞いています。
ゼミの終業式時には、渋谷道玄坂の花街へゼミ生一同を案内されたのを覚えています。
吉川さんの忠告を受け、先生のことですから、放蕩の道もその後、研鑽されたのだと思います。
投稿: 読み人知らず | 2015年4月16日 (木) 08時09分