城山三郎〔選考委員〕VS 胡桃沢耕史〔候補者〕…揉めゴトの好きなまわりの注視を浴び、直木賞史上最大の辞任ニュースを引き起こす。
直木賞選考委員 城山三郎
●在任期間:5年半
第79回(昭和53年/1978年上半期)~第89回(昭和58年/1983年上半期)
●在任回数:11回
- うち出席回数:8回(出席率:73%)
●対象候補者数(延べ):82名
- うち選評言及候補者数(延べ):46名(言及率:56%)
先週、中山義秀さんを取り上げるとき「反骨」っていう言葉を使ってしまいました。「反骨」つながり、ってわけでもないんですが、今週は城山三郎さん。一度は直木賞選考委員になっておきながら、途中でみずから辞任を申し出てしまい、直木賞史上、最も大きく委員辞任でマスコミをにぎわせた人です。
選考委員の辞任というのは、日本人の心をゆさぶる一大事件と言っていいでしょう(いいのか?)。芥川賞のほうでは「オレには最近の小説、わかんね」と捨てゼリフを残して去った石川達三さんにはじまり、うっせえマスコミに嫌気がさした永井龍男さん、文春とのいざこざがあったらしいよと世のゴシップ好きに尾ひれを付けさせた大江健三郎さん、くだらない候補ばっかだなと言い放って田中慎弥さんとともに記者たちの心をわしづかみにした石原慎太郎さん、……と辞任史だけで今夜の夕食のおかずは十分です。
ところが直木賞のほうは、平穏・篤実をむねとする賞の性質からか、さして世間の話題になることがありません。五木寛之さんの、「あ、ごめん、間違っちゃった」辞任ぐらいでしょうか、新聞ネタになったのは。
で、そんな寂しい直木賞委員辞任史のなかにあって、ひときわ輝く辞任委員、城山さん。そらきた揉めゴトだ! とジャーナリストたちが目をランランに輝かせ、何でこんなことに紙面の多くが割かれるのだ、と首をかしげる、文学賞に興味のないまともな読者たちの疑問を無視して、各紙とも社会面で大々的に取り上げるにいたったのは、第89回(昭和58年/1983年上半期)の選考会が終わって1か月ほど経った昭和58年/1983年8月7日(日)朝刊でのことでした。
関係者たちからコメントをいろいろとって大ゴトに仕立て上げた一紙『毎日新聞』から、その記者のワクワク・ウキウキの興奮ぶりを見てみたいと思います。
「「直木賞の選考は、余りにも文壇状況を反映しすぎている。作品の質より“人”を重視する選考にはとてもついていけない」と同賞選考委員の一人である作家の城山三郎氏が第八十九回(本年度上半期)の選考に強い不満を持ち、日本文学振興会(理事長・千葉源蔵文芸春秋社長)に辞任を申し出て了承されていたことが六日明らかになった。受賞作は胡桃沢耕史氏の「黒パン俘虜記」(文芸春秋刊)で十二日に授賞式が行われるが、その矢先の辞任騒動。芥川賞選考委員では六年前、作家の永井龍男氏が池田満寿夫氏の「エーゲ海に捧ぐ」を“文学作品とは認め難い”と授賞に反対して辞任した例があるが、直木賞選考委員が選考結果を不満として辞任したのは初めて。辞任の背景には選考の姿勢に対する批判がふくまれているだけに、大きな波紋を投げかけている。」(『毎日新聞』昭和58年/1983年8月7日「「直木賞」に波紋 城山さん、選考委員を辞任 「作品か人物か」“経歴優先”にイヤ気」より)
「大きな波紋を投げかけている」と言うより、あんたが大きな波紋になるようにしているんでしょうが、とツッコみたくなる雰囲気がぷんぷんしています。……というのも、「実績重視がイヤだ」と言って城山さんが抜けたあとも、他の選考委員がそんなことを意に介して方針を変えるはずもなく、その後も粛々と、「実績本位」と「作品本位」を天秤にかける、それまでの直木賞が継続していった、という歴史をワタクシたちが知っているからかもしれません。
じっさい全然、直木賞に波紋など起こっておらず、「波紋を起こしたい、起こってわーわー騒ぎたい」という、周囲の人たちの切なる願いが、そこには見えるだけです。
城山さんの行動については、毎日の記者も気張りまして、いろんな人に意見を求めて走りまわりました。この記事に書かれたいくつかを紹介しておきます。
井上ひさしさん、「胡桃沢さんの作品は、不満を持ちながらも、かろうじて賞に値する作品の一つに挙げていた。受賞作に決まったことについては選考委員として批判は甘んじて受けたい。城山さんのおっしゃることはよくわかるし、賞の選考にあたっては、その時に俎(そ)上に上がった作品についてのみ選考するのが原則だと思う。城山さんの批判は今後に生かすべきだ。」
村上元三さん、「「黒パン俘虜記」は欠点はあるが、私としては賞に値すると思ったから推したまでだ。欠点のない作品を選べというのは無理な話で、それよりも大乗的な立場に立って直木賞作家を出すことが大切だろう。選考委員をやめるというのは度量が狭い。私も三十年間、直木賞の選考委員をしてきたがそういう場面は何十遍もあった。」
池波正太郎さん、「今回の授賞には僕も反対でしたが、賛成者がいて反対者が出るのはいつものことで、そんなことでやめたのではないのではないか。城山さんもその辺はわかっておられるでしょう。ただ、残念ですね。」
水上勉さん、「城山さんはスジを通したわけで、選考委員にカツを入れることになると思う。受賞作の文章は粗く文学性も高くないが、その粗さに一種のリアリティーがあると思った。このところ直木賞の作品は水準が下がっており、ムリに出すとこういうことになる。あとから委員になられた人に辞められるのでは自分のことも考えなくてはならない、ということですな。」
山口瞳さん、「城山さんは選考会の最後の方でこの作品には強く反対された。自分の主張が通らなければ委員をやめるといういさぎよい態度は、委員の責任の在り方を考える上でも重要なことで、その点では私も同じだ」「芥川賞は新人の登竜門という性格だが、直木賞はプロ作家としての通行手形を与えるという性格が強いと思う。そこではこれまでの実績とか、作品に取り組むさいの打ち込み方などが評価されて当然だろう。胡桃沢氏は過去三年連続候補になっており、私はこの実績は十分評価すべきだと思う」
日本文学振興会常務理事の徳田雅彦さん、「五日にお目にかかったが、そのときの理由は“長いこと続けたので疲れた”ということだった。お忙しい方なので仕方がないと判断して了承した」「賞の選考はあくまで人間の仕事だから、多少悪い面を引きずっていくのも仕方がないのではないか。(引用者注:選考は)おおむね公正に行われていると思っているのだが……」
胡桃沢さんとはとくに古くからの付き合いがあり、自身、胡桃沢さんをモデルに「精力絶倫物語」なる小説を書いたこともあるほどの源氏鶏太さんは、直後のエッセイでこう書いています。
「こんど城山三郎氏が選考委員をお辞めになったのは、思いがけないことであった。私は、軽井沢にいたのでその詳しい理由をよく知らないのだが、新聞には、主として先の胡桃沢氏の受賞について不満があったからだと出ていたようだ。勿論、選考委員会では、城山氏が反対であったことは知っていた。が、思うに城山氏は、黙ってお辞めになりたかったのでなかろうか。また、それが普通だと思う。もし、選考委員にもエチケットというようなものが、かりにあるとすれば、黙って辞めることが即ちエチケットであろう。不満があったとしても、それは雑誌に選評として書けばいいことである。でないと、胡桃沢氏は、せっかく受賞しながら、あのように騒がれると、いくらかの傷を受けるかも知れない。恐らく城山氏が何気なく親しい人にお話になったことが、あのように大きく新聞に出るようになったのだろう。城山氏としても困惑していられるのでなかろうか。私は、比較的少数意見であることの多かった城山氏がお辞めになった最大の理由は、この頃の選考委員会の空気に、どうにも馴染めなかったからでないかと思っている。」(『文藝春秋』昭和58年/1983年11月号「直木賞選考委員」より)
思っている、って言いますけど源氏さん、新聞を読めば、城山さんは選考会の空気に馴染めなかったから辞めた、と自分で発言していますからね。あるいは、こういった取材に対して城山さんは、再三再四、胡桃沢さんがどうと言うより、作品だけで評価しようという空気ではないことに付き合いきれない、と書いています。「受賞作に不満」だったから辞めた、っつうのは、何か(誰か)特定の作品・作家に対する評価が食い違ったことを不満に辞める、というかたちを好むマスコミの人たちの言葉にすぎません。
城山さんは、辞任を決意した理由をはっきり語っています。「受賞作に不満」というのではなく、これを受賞させようと他の委員から持ち出された理由、受賞にまでいたった「経緯」が不満だ、というものでした。「受賞作に不満」とは、似ているようでいて、厳密には違います。
「「本当は、そっとやめるつもりでした。ただ、今度の選評を『オール読物』(十月号)に書く必要があり、そのためには、委員をやめるやめないをはっきりさせなければならないので、文芸春秋に出向き、辞任を納得してもらったのです」」「「選考経過そのものに不満があったからです。いい作品の時に賞をあげないと、その人のためにもならないし、賞の権威にもかかわる。もし作家論で選考することになると、候補作家について情報を持たず、田舎(神奈川県茅ケ崎市)に住んで文壇づきあいをしない私のような人間は、選考委員の資格がないことになる」
選考中、胡桃沢氏をめぐって、どのような「作家論」がかわされたのだろう?
「苦節四〇年」とか、「元ポルノ作家が心を入れかえて目を輝かせている」というような「論」であったらしい。城山さんに最もこたえたのは、胡桃沢さんが過去三回、候補になるたびに出た「これが最後の機会だから」という意見。「これは困る、順序が逆ではないか、と私は再三いったのですが……」」(『朝日新聞』昭和58年/1983年8月18日「文学賞「作品」か「人物」か 直木賞、城山委員辞任で波紋 激論交わした選考会 背景に新人の質低下」より)
え、ほんとかよ、と思います。胡桃沢さんの過去3度の候補は、第85回(昭和56年/1981年上半期)「ロン・コン」「ロン・コンPARTII」、第87回(昭和57年/1982年上半期)『ぼくの小さな祖国』、第88回(昭和57年/1982年下半期)『天山を越えて』。うち、第85回と第87回の二度は、城山さん、選考会を欠席しているじゃないですか。つうことは、城山さんが、他の委員による胡桃沢・作家論を聞かされたのは、たった2度だけ。よっぽど苦節ン十年をこれでもかと得意げに語る委員がいたんですかね。源氏+村上の、明治生まれお爺さんコンビとか。
○
城山さんは、第88回の『天山を越えて』はまだしも、第89回の『黒パン俘虜記』は「積極的にとりあげる必要のない作品」(前掲『朝日新聞』記事)と、まったくの低評価です。
「「天山を越えて」は、奔放でスケールも大きく、パンチもあった。舞台もいい。まさかと思わせる話なのだが、ドラマチックな描写もあり、読者をひきずりこんで行く。ただ細部で首をかしげさせるところがいくつかあるのが惜しい。」(『オール讀物』昭和58年/1983年4月号 城山三郎「「絢爛たる影絵」の読みごたえ」より)
というのが、『天山を越えて』評。そして『黒パン俘虜記』のときは作品名も挙げずに、後半は辞任理由を語って終えています。
「胡桃沢氏の作品の持味は、天馬空を行くが如き奔放さに在った。辺境でのロマンの描写などにも、冴えを見せた。ただ、今回の作品は自伝風のもの。時間をかけて、ていねいに書きたい題材なのに、書き急ぎの感があり、ケアレス・ミスもある。
これまでの抑留ものを抜く鮮烈さが欲しかったが、氏のいつもの持味がうすれ、一応の出来にとどまっている。
十分筆力もある人だけに、この作で受賞されることは、氏の本懐ではないのではないか。
蛇足だが、わたしは今回限りで選考委員を退きたいと思う。
直木賞は年一回でよいという声が、委員の中からも出ている。年に二度だと、候補作の点数をそろえるために無理に候補にされる作品が出てくる。
候補作家はその度に一喜一憂しなければならぬし、また候補回数の多いひとをどう遇するか、という問題が起る。(いずれも今回のことではない。今回は他にもたくましい筆力や、きらめく才能を感じさせる書き手が並んだ)
わたしは、自分の受賞した経緯からも、また選考委員としての短い経験からも、賞の選考は、さまざまな角度から、おおむね公平、かつ率直に行われてきたと信じている。
ただ、わたしがこれ以上続ける自信と気力を失くした、というだけのことである。」(『オール讀物』昭和58年/1983年10月号 城山三郎「選評」より)
さすがオトナですね、だらだら不平を書き連ねることなくキレイにまとめました、って感じの選評です。稚気あふれる胡桃沢さんのほうとは大違いです。
「胡桃沢耕史氏の話「(引用者中略)作品論で評価するなら、前回の候補作『天山を越えて』など自分が全力を上げて書いたフィクションの作品のときに応援してくれればよかったのに。最後まで嫌われたのかな」」(『読売新聞』昭和58年/1983年8月7日「直木賞 城山氏が選考委辞任 「黒パン俘虜記」不満 「受賞最後の機会」も変だ」より)
「「受賞作を批判した筋のいい人たちとぼくとは、人間のタイプが全然違うんです。今度の問題だって、彼らのサロンにぼくのような人間を入れたくないから起こった。(引用者中略)今度のことで、ぼくのような者は、やはり野に捨ておけ、ということになるんだろうなあ」」(前掲『朝日新聞』記事より)
まあ全然違うでしょうね。サロンがどうの、は胡桃沢さんの得意ネタなので、城山さんには当てはまる箇所は少ないでしょうけど、でも没後、その生き方や姿勢を賛美するような記事や本がバンバン出る城山さんと、まるで忘れられていく豪腕読み物ライター胡桃沢さんとでは、まったく相容れるものがありません。
城山さんに関する評伝ビッグ3、と言われる3冊から(4冊目以降がないというウワサもある)、この委員辞任に関する記述を拾ってみますと、次のようになります。
「城山にとっては、親交があろうと、相手が総理大臣であろうと、いうべきことはいうのが「けじめ」であった。」「そうした「けじめ」がある出来事を引き起こした。
七月十四日、第八十九回直木賞は胡桃沢耕史の『黒パン俘虜記』に決定したが、これに対し城山は、日本文芸振興会(理事長、千葉源蔵文藝春秋社長)に選考委員の辞任を申し出たのである。(引用者中略)
ともあれ辞任は受理されたが、事務上の手違いか、十一月になって日本文学振興会から第九十回直木賞に関する郵便物が来た。おまけに返信用封書が速達用切手二六〇円を貼って同封してあった。城山は一瞥すると、その辺に放った。」(平成23年/2011年3月・ミネルヴァ書房刊 西尾典祐・著『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』「第五章 反骨作家」より)
「昭和五十三年、五十歳で日本文学振興会から乞われて直木賞選考委員に就任したが、五年後の昭和五十八年に自らの理由で辞任している。五十歳から五十六歳といえば、作家としてもっとも脂の乗る時期であろうに、心なしか、めぼしい作品はすくない。生真面目な城山にとって、選考委員の職務は予想以上に厳しいものだったのかもしれない。」(平成23年/2011年3月・扶桑社刊 植村鞆音・著『気骨の人 城山三郎』「二 小伝」より)
加藤仁さんの『城山三郎伝 筆に限りなし』(平成21年/2009年3月・講談社刊)には、それらしき場面は出てこないので割愛。
ただ、加藤さんの本からも一か所引用しておきます。城山さん自身は「選考委員会をひとつの読書会と考えることにした」(『オール讀物』昭和60年/1985年11月号)として、つまらない候補作もひとつひとつ読んで参加していたわけですが、本人が選評で言うように、マジ疲れた、気力がなくなった、っていうのは意外と核心をつく本音だったのかもしれません、キレイにまとめました、とかそういうことではなく。
「『男子の本懐』を上梓したあと城山三郎は、さらなる肉体的な衰えや忍びよる老いを実感しはじめていた。昭和五十七年秋、五十五歳の“城山メモ”は、自身の心身の変化を箇条書きにしている。
《・ゴルフ雑誌の記事、ほとんど読まなくなった。
・東京との往復をひどく遠い距離に感じるようになった。出るのも帰るのも、たいへんおっくうになった。辛くさえある。(引用者中略)
・重い仕事『落日』や『本懐』などのような仕事を二度とやる元気も意欲もない。楽しく書きたい(取材は少なく)。(引用者中略)》
かなり疲れていても、眠れず、一度やめた睡眠薬をふたたび服用するようになっていた。」(加藤仁・著『城山三郎伝 筆に限りなし』「第十一章 「城山三郎」という作品」より)
委員を辞任したのはちょうどそのころです。城山さん55歳。58歳のおにいさん、胡桃沢耕史さんの疲れ知らずのパワー全開、直木賞に賭ける意気込みとは好対照をなして、いちいち読んで楽しくもない作品を選考する直木賞にイヤ気が差しちゃったんでしょう。ええ、直木賞なんてものに意欲をそがれてさっさと離れる身の処し方、まっとうな感覚だと思います。胡桃沢さんに比べれば。
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