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2013年11月24日 (日)

津本陽〔選考委員〕VS 古処誠二〔候補者〕…人間年をとるとね、珍しいからといって惹かれたり興味をもったりしなくなるんだよ。

直木賞選考委員 津本陽

●在任期間:11年半
 第113回(平成7年/1995年上半期)~第135回(平成18年/2006年上半期)

●在任回数:23回
- うち出席回数:22回(出席率:96%)

●対象候補者数(延べ):135名
- うち選評言及候補者数(延べ):124名(言及率:92%)

 選考委員を馬鹿にする方法には、いくつかの型があります。「あんな小説書いているやつが、よくそんな偉そうなことを言えるな」と、委員自身の実作を引き合いに出すやりかた。「きちんと読んでいれば、そんな評をするはずがない」と、批評能力(あるいは不真面目さ)をあげつらうやりかた。そして王道といえば、「年寄りに新しい文学などわかるはずがない」と、年齢のことを持ち出して攻撃するやりかたです。

 いずれも、選考委員をけなすときはそれだけ言っていれば安全です。テッパン中のテッパン、とでも言いましょうか。

 で、直木賞の選考委員というのは、どのくらいの年齢で就任することが多いかというと、大半は40代、50代です。最近では就任年齢の高齢化が進んでいて、次から参加する東野圭吾さんは55歳、高村薫さんは60歳、3年前に就任した二人、桐野夏生さんは59歳(当時)、伊集院静さんは60歳(当時)と、50代後半から60代にかけてでこの席に就く例が続きました。ただ、60代も後半になって委員になった人は、これまで3人しかいません。石坂洋次郎さん当時67歳、新田次郎さん当時66歳、そして今日の主役、津本陽さん当時66歳。就任したてのときから「年寄りが云々」攻撃を受けることを約束された、直木賞史上でも珍しい選考委員でした。

 平成7年/1995年、相当に年を重ねたうえで選考委員になった津本さんですが、その選考姿勢の根底には、やはりそれから約30年ほどまえ、津本さん自身が最初に候補になったときの経験が色濃くあるようです。あるようです、っていうか、津本さんはそう言っています。

「三十六歳でVIKINGの同人となり、最初の作品が中山義秀氏に認められて直木賞候補になったことが、私を不思議な運命に導いていってくれたのであった。

 中山義秀氏とは一度もお目にかかることがなかった。亡くなられたときお葬式にお参りしたかったが、一面識もないので、なんとなくはばかられて心でお別れを申し上げた。

 小説家の縁というのはそのようなものである。いろいろの因果関係で結ばれるのではなく、作品を通じて理解が生まれる。そういう縁が今も私の中に強い印象を残している。

 私は直木賞選考委員をつとめているが、候補作品にむかうとき、和歌山の一隅に生きていた、私のようなまったく未知の人間の作品を推してくれた中山氏のことをよく思い出す。そして真剣に作品に対して検討をするのである。」(平成13年/2001年9月・光文社刊 津本陽・著『人生に定年なし』「第一章 老いて想うこと」より)

 引用元の『人生に定年なし』もそうですし、これと構成は違えど津本さんが過去を振り返って何かを言う、という意味で似たような内容の『過ぎてきた日々』(平成14年/2002年10月・角川書店刊)もそうなんですけど、当時70代の津本さんが、そりゃあ老いたら関心も変わるもんよ、若い君らにはわからんよね、へへへ、といったおハナシがどんどん繰り出されていまして、ガッツリと爺さん臭を嗅ぐことのできる本となっています。

 たとえば、こんな感じ。

「以前は自由に想像力をはたらかせる小説を書いていたのが、史料を中心とする歴史の小説を書くようになってから、窮屈な思いをするようになった。

 月五百枚も歴史小説、剣豪小説を書けば、疲労がしだいにたまってくる。六十歳前後、八十二、三キロも体重があったのは、疲労によるむくみであったのだろう。

 いまでは体調はわりあい安定している。とりたてて悪いところもない。しかし、何事にもめずらしさを感じることがすくなくなってきた。

 歴史小説を書いても、史料にすなおに従ってゆく。実状はどうであったのだろうかなどと、史料を裏返しにして奇説をうちだそうという意欲をおこすこともない。」(津本陽・著『過ぎてきた日々』「二十二」より)

 要するに、60年も70年も生きてりゃ、もう新奇なストーリーに目を輝かせることもなく、そんなので喜ぶのはジャリだけだ、と言っているわけですが(え? 言ってないですか)、「史料にすなおに従う」っつうのが行きすぎて、『八月の砲声――ノモンハンと辻政信』(平成17年/2005年)とか『天の伽藍』(平成3年/1991年)とかで先行文献の著作権侵害問題をひきおこしています。すばらしい試みですよね、想像力の衰えた男が、想像力を駆使した後輩たちの小説を読んで、点数をつける直木賞。何ひとつ問題などないと思います。

 と言うのも、直木賞に何か新しい小説を発見したり、道筋をつくったりする責務はありません。実績もありません。これまでもずーっとそうでした。どうか安心してください。何じゃこの選考は!と盛り上がることが、事業としての大成功です。その点、津本さんのような選考委員はまったく得難い存在でした。

 そして、津本さんのその「得難さ」を掘り出してきて、広く世間に伝えた功労者は、何となっても大森望さんと豊崎由美さんの『文学賞メッタ斬り!』でしょう。『2007年度版 受賞作はありません編』では、「ROUND4 津本先生、さようなら 直木賞と津本陽」と一章まるまる使って、津本さんをフィーチャーし、津本さんが候補・受賞したときの当時の選評から、津本委員の毎回の選評を茶化しつつ、ツッコんでいくという。お二人の「ツモ爺」もしくは「ツモ」に対する惚れ込みぶり、ハンパないものになっています。

豊崎 でも、ツモ爺がいなくなって選考委員が八人になっちゃったじゃないですか。偶数だと票が同数に割れたりして問題が大きいから、ここは急いで一人補填するつもりでしょうね。だれがいいんでしょ。

大森 北村薫(笑)。

豊崎 ええー?(笑)まあ、どなたでもけっこうですけど、ツモ爺みたいに選評ファンを楽しませてくれる人がいいなあ。いやいや、もうホントに津本陽先生には感謝感謝ですよ。こうして一人の選考委員をおいかけるのって面白いですよね。ジュンちゃん(引用者注:渡辺淳一)が辞めるときが今から楽しみっ(笑)。

大森 豊崎さんが生きてるあいだには辞めないと思うよ。」(『文学賞メッタ斬り!2007年度版 受賞作はありません編』より)

 それでここで、豊崎さんが「戦争、ツボですから、津本先生の。」と指摘されているように、一冊前の『リターンズ』「ROUND2 '04~'06年、三年分の選評、選考委員を斬る!」で、槍玉に挙げられた津本さんの選評が、第132回(平成16年/2004年・下半期)の古処誠二さん『七月七日』に対するものでした。っつうことで今週は、津本VS古処で行きたいと思います。

 津本さんが戦争に対して思い入れがある、ってのはそのとおりで、というか当然のことで、昭和4年/1929年の津本さんは昭和20年/1945年の停戦を迎えたとき16歳。私小説ふうのものを数多く書いていた直木賞受賞前後から、当然戦争に関するおハナシは津本さんの関心事のひとつであり、ニューギニア戦線からの帰還兵だった義兄を題材に『わが勲の無きがごと』(初出『文學界』昭和55年/1980年11月号、昭和56年/1981年3月・文藝春秋刊)といった作品もあります。

 そしてメッタ斬り!の対談で大森さんが指摘するように、ちょうどこの選考会が行われていたころは、津本さん、『オール讀物』に「名をこそ惜しめ――硫黄島魂の記録」を、また『小説現代』には「八月の砲声――ノモンハンと辻政信」を連載中でした。空想を働かせる剣豪小説から、徐々に史料に重きをおいた歴史小説に興味の軸が移り、その延長線上で「歴史小説」としての戦記ものに頭いっぱい、みたいなときでした。

「――(引用者中略)戦記物に取り組まれた動機をお聞かせください。

津本 終戦から六十年経っていますが、日本では戦記については、アメリカによる教育指導などもあって興味が持たれていない。歴史がそこでスーッと切れたようになっている。しかし、あと三十年、五十年経ったら、そこにブランクができるということは無視できないと思ったんです。」(『本の話』平成17年/2005年12月号「ロング・インタビュー 硫黄島の戦いに日本人の本質が見える」より ―聞き手・構成:高橋誠)

 で、いろいろと取材して、じかに証言を聞き、自分で小説を書きつづけていた矢先の、古処さん『七月七日』の候補入り。津本さん、力入れて選評を書くのも当然のことと思います。だってほら、基本、「真剣に作品に対して検討」する人ですから。関心あるテーマの小説なら、とくに。

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2013年11月17日 (日)

城山三郎〔選考委員〕VS 胡桃沢耕史〔候補者〕…揉めゴトの好きなまわりの注視を浴び、直木賞史上最大の辞任ニュースを引き起こす。

直木賞選考委員 城山三郎

●在任期間:5年半
 第79回(昭和53年/1978年上半期)~第89回(昭和58年/1983年上半期)

●在任回数:11回
- うち出席回数:8回(出席率:73%)

●対象候補者数(延べ):82名
- うち選評言及候補者数(延べ):46名(言及率:56%)

 先週中山義秀さんを取り上げるとき「反骨」っていう言葉を使ってしまいました。「反骨」つながり、ってわけでもないんですが、今週は城山三郎さん。一度は直木賞選考委員になっておきながら、途中でみずから辞任を申し出てしまい、直木賞史上、最も大きく委員辞任でマスコミをにぎわせた人です。

 選考委員の辞任というのは、日本人の心をゆさぶる一大事件と言っていいでしょう(いいのか?)。芥川賞のほうでは「オレには最近の小説、わかんね」と捨てゼリフを残して去った石川達三さんにはじまり、うっせえマスコミに嫌気がさした永井龍男さん、文春とのいざこざがあったらしいよと世のゴシップ好きに尾ひれを付けさせた大江健三郎さん、くだらない候補ばっかだなと言い放って田中慎弥さんとともに記者たちの心をわしづかみにした石原慎太郎さん、……と辞任史だけで今夜の夕食のおかずは十分です。

 ところが直木賞のほうは、平穏・篤実をむねとする賞の性質からか、さして世間の話題になることがありません。五木寛之さんの、「あ、ごめん、間違っちゃった」辞任ぐらいでしょうか、新聞ネタになったのは。

 で、そんな寂しい直木賞委員辞任史のなかにあって、ひときわ輝く辞任委員、城山さん。そらきた揉めゴトだ! とジャーナリストたちが目をランランに輝かせ、何でこんなことに紙面の多くが割かれるのだ、と首をかしげる、文学賞に興味のないまともな読者たちの疑問を無視して、各紙とも社会面で大々的に取り上げるにいたったのは、第89回(昭和58年/1983年上半期)の選考会が終わって1か月ほど経った昭和58年/1983年8月7日(日)朝刊でのことでした。

 関係者たちからコメントをいろいろとって大ゴトに仕立て上げた一紙『毎日新聞』から、その記者のワクワク・ウキウキの興奮ぶりを見てみたいと思います。

「「直木賞の選考は、余りにも文壇状況を反映しすぎている。作品の質より“人”を重視する選考にはとてもついていけない」と同賞選考委員の一人である作家の城山三郎氏が第八十九回(本年度上半期)の選考に強い不満を持ち、日本文学振興会(理事長・千葉源蔵文芸春秋社長)に辞任を申し出て了承されていたことが六日明らかになった。受賞作は胡桃沢耕史氏の「黒パン俘虜記」(文芸春秋刊)で十二日に授賞式が行われるが、その矢先の辞任騒動。芥川賞選考委員では六年前、作家の永井龍男氏が池田満寿夫氏の「エーゲ海に捧ぐ」を“文学作品とは認め難い”と授賞に反対して辞任した例があるが、直木賞選考委員が選考結果を不満として辞任したのは初めて。辞任の背景には選考の姿勢に対する批判がふくまれているだけに、大きな波紋を投げかけている。」(『毎日新聞』昭和58年/1983年8月7日「「直木賞」に波紋 城山さん、選考委員を辞任 「作品か人物か」“経歴優先”にイヤ気」より)

 「大きな波紋を投げかけている」と言うより、あんたが大きな波紋になるようにしているんでしょうが、とツッコみたくなる雰囲気がぷんぷんしています。……というのも、「実績重視がイヤだ」と言って城山さんが抜けたあとも、他の選考委員がそんなことを意に介して方針を変えるはずもなく、その後も粛々と、「実績本位」と「作品本位」を天秤にかける、それまでの直木賞が継続していった、という歴史をワタクシたちが知っているからかもしれません。

 じっさい全然、直木賞に波紋など起こっておらず、「波紋を起こしたい、起こってわーわー騒ぎたい」という、周囲の人たちの切なる願いが、そこには見えるだけです。

 城山さんの行動については、毎日の記者も気張りまして、いろんな人に意見を求めて走りまわりました。この記事に書かれたいくつかを紹介しておきます。

 井上ひさしさん、「胡桃沢さんの作品は、不満を持ちながらも、かろうじて賞に値する作品の一つに挙げていた。受賞作に決まったことについては選考委員として批判は甘んじて受けたい。城山さんのおっしゃることはよくわかるし、賞の選考にあたっては、その時に俎(そ)上に上がった作品についてのみ選考するのが原則だと思う。城山さんの批判は今後に生かすべきだ。」

 村上元三さん、「「黒パン俘虜記」は欠点はあるが、私としては賞に値すると思ったから推したまでだ。欠点のない作品を選べというのは無理な話で、それよりも大乗的な立場に立って直木賞作家を出すことが大切だろう。選考委員をやめるというのは度量が狭い。私も三十年間、直木賞の選考委員をしてきたがそういう場面は何十遍もあった。」

 池波正太郎さん、「今回の授賞には僕も反対でしたが、賛成者がいて反対者が出るのはいつものことで、そんなことでやめたのではないのではないか。城山さんもその辺はわかっておられるでしょう。ただ、残念ですね。」

 水上勉さん、「城山さんはスジを通したわけで、選考委員にカツを入れることになると思う。受賞作の文章は粗く文学性も高くないが、その粗さに一種のリアリティーがあると思った。このところ直木賞の作品は水準が下がっており、ムリに出すとこういうことになる。あとから委員になられた人に辞められるのでは自分のことも考えなくてはならない、ということですな。」

 山口瞳さん、「城山さんは選考会の最後の方でこの作品には強く反対された。自分の主張が通らなければ委員をやめるといういさぎよい態度は、委員の責任の在り方を考える上でも重要なことで、その点では私も同じだ」「芥川賞は新人の登竜門という性格だが、直木賞はプロ作家としての通行手形を与えるという性格が強いと思う。そこではこれまでの実績とか、作品に取り組むさいの打ち込み方などが評価されて当然だろう。胡桃沢氏は過去三年連続候補になっており、私はこの実績は十分評価すべきだと思う」

 日本文学振興会常務理事の徳田雅彦さん、「五日にお目にかかったが、そのときの理由は“長いこと続けたので疲れた”ということだった。お忙しい方なので仕方がないと判断して了承した」「賞の選考はあくまで人間の仕事だから、多少悪い面を引きずっていくのも仕方がないのではないか。(引用者注:選考は)おおむね公正に行われていると思っているのだが……」

 胡桃沢さんとはとくに古くからの付き合いがあり、自身、胡桃沢さんをモデルに「精力絶倫物語」なる小説を書いたこともあるほどの源氏鶏太さんは、直後のエッセイでこう書いています。

「こんど城山三郎氏が選考委員をお辞めになったのは、思いがけないことであった。私は、軽井沢にいたのでその詳しい理由をよく知らないのだが、新聞には、主として先の胡桃沢氏の受賞について不満があったからだと出ていたようだ。勿論、選考委員会では、城山氏が反対であったことは知っていた。が、思うに城山氏は、黙ってお辞めになりたかったのでなかろうか。また、それが普通だと思う。もし、選考委員にもエチケットというようなものが、かりにあるとすれば、黙って辞めることが即ちエチケットであろう。不満があったとしても、それは雑誌に選評として書けばいいことである。でないと、胡桃沢氏は、せっかく受賞しながら、あのように騒がれると、いくらかの傷を受けるかも知れない。恐らく城山氏が何気なく親しい人にお話になったことが、あのように大きく新聞に出るようになったのだろう。城山氏としても困惑していられるのでなかろうか。私は、比較的少数意見であることの多かった城山氏がお辞めになった最大の理由は、この頃の選考委員会の空気に、どうにも馴染めなかったからでないかと思っている。」(『文藝春秋』昭和58年/1983年11月号「直木賞選考委員」より)

 思っている、って言いますけど源氏さん、新聞を読めば、城山さんは選考会の空気に馴染めなかったから辞めた、と自分で発言していますからね。あるいは、こういった取材に対して城山さんは、再三再四、胡桃沢さんがどうと言うより、作品だけで評価しようという空気ではないことに付き合いきれない、と書いています。「受賞作に不満」だったから辞めた、っつうのは、何か(誰か)特定の作品・作家に対する評価が食い違ったことを不満に辞める、というかたちを好むマスコミの人たちの言葉にすぎません。

 城山さんは、辞任を決意した理由をはっきり語っています。「受賞作に不満」というのではなく、これを受賞させようと他の委員から持ち出された理由、受賞にまでいたった「経緯」が不満だ、というものでした。「受賞作に不満」とは、似ているようでいて、厳密には違います。

「「本当は、そっとやめるつもりでした。ただ、今度の選評を『オール読物』(十月号)に書く必要があり、そのためには、委員をやめるやめないをはっきりさせなければならないので、文芸春秋に出向き、辞任を納得してもらったのです」」「「選考経過そのものに不満があったからです。いい作品の時に賞をあげないと、その人のためにもならないし、賞の権威にもかかわる。もし作家論で選考することになると、候補作家について情報を持たず、田舎(神奈川県茅ケ崎市)に住んで文壇づきあいをしない私のような人間は、選考委員の資格がないことになる」

 選考中、胡桃沢氏をめぐって、どのような「作家論」がかわされたのだろう?

 「苦節四〇年」とか、「元ポルノ作家が心を入れかえて目を輝かせている」というような「論」であったらしい。城山さんに最もこたえたのは、胡桃沢さんが過去三回、候補になるたびに出た「これが最後の機会だから」という意見。「これは困る、順序が逆ではないか、と私は再三いったのですが……」」(『朝日新聞』昭和58年/1983年8月18日「文学賞「作品」か「人物」か 直木賞、城山委員辞任で波紋 激論交わした選考会 背景に新人の質低下」より)

 え、ほんとかよ、と思います。胡桃沢さんの過去3度の候補は、第85回(昭和56年/1981年上半期)「ロン・コン」「ロン・コンPARTII」、第87回(昭和57年/1982年上半期)『ぼくの小さな祖国』、第88回(昭和57年/1982年下半期)『天山を越えて』。うち、第85回と第87回の二度は、城山さん、選考会を欠席しているじゃないですか。つうことは、城山さんが、他の委員による胡桃沢・作家論を聞かされたのは、たった2度だけ。よっぽど苦節ン十年をこれでもかと得意げに語る委員がいたんですかね。源氏+村上の、明治生まれお爺さんコンビとか。

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2013年11月10日 (日)

中山義秀〔選考委員〕VS 永岡慶之助〔候補者〕…稚拙で野暮ったいものこそ「花」だと言い切る反骨ジジイ。

直木賞選考委員 中山義秀

●在任期間:11年半
 第39回(昭和33年/1958年上半期)~第61回(昭和44年/1969年上半期)

●在任回数:23回
- うち出席回数:19回(出席率:83%)

●対象候補者数(延べ):190名
- うち選評言及候補者数(延べ):101名(言及率:53%)

 日本の秋は、中山義秀文学賞の秋。ってことで、昨日行われた第19回中山義秀文学賞の公開選考会の余熱を、当然のことながら、うちのブログでも引き継ぎまして、直木賞選考委員、中山義秀さんのことを取り上げます。まわりの状況に流されず、ただ自らの関心にのみ突き進む、いかにも中山さんらしい11年半の選考委員人生でした。

 中山さんはね、そりゃもう、他の人が褒めないような候補作を敢然と褒めて、授賞に何も貢献しない「死に票」を投じつづけた人、っつうイメージがあります。だいたい選考委員になりたての第39回(昭和33年/1958年・上半期)を見てください。山崎豊子榛葉英治かと、まわりが騒がしいときに、田中敏樹さんの「切腹九人目」をたったひとり推して、他の委員から苦笑(?)まじりの言葉を引き出している、なんていうこの光景を見ただけで、中山さんの姿勢もわかろうってもんです。

「私は「切腹九人目」を推したが、誰も賛成する人がない。推す理由はと問われたから、構想が面白いと答えた。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 中山義秀「選評」より)

「「切腹九人目」を中山義秀君がたった一人で最後まで推した事は田中敏樹君も記憶せられたい。義秀の熱意に応える意味でも好い作品を書いて欲しい。」(同号 川口松太郎「好い作品が多かった」より)

「「切腹九人目」を独り推してうごかなかった中山義秀新委員のたいどなど好ましかった。」(同号 吉川英治「寸感」より)

 あるいは、授賞した作品には、たとえ反対であっても何らか選評を残すのが世の礼儀、なんでしょうけど、中山さんは、そういうやりかたも採用しません。たとえば第42回(昭和34年/1959年・下半期)の直木賞といえば、ひとは戸板康二さんと司馬遼太郎さんのことばかりを語りますが、中山さんはこの二者に対して一行の評も残さず、落選した津田信「女夫ケ池」、新章文子『危険な関係』、杉森久英『黄色のバット』のことしか書いていません。反骨ジジイ、ここにあり、といったところです。

 むろん、いまに義秀精神を伝える(はずの)中山義秀文学賞も、そういった中山さんの姿をなるべく体現しようと心得ています。何しろイマドキ歴史・時代小説一本に絞り、東京中心の商業出版界から離れた白河の地で公開選考会をひらく、という。地方の文学賞の多くは、東京の出版界に色目を使い、選考会も東京の一料理屋でやったりして、あるいは、作家センセイ方の反感を買わないように候補作は非公開にして、キレイごとで済ませようとするこのご時世、しっかりと中山さんの精神を受け継ぐ文学賞に育っているのは、まったく敬服に値します。

中山 (引用者中略)われわれは作家の悪口を互に言ったり言われたりするけれど、悪口言われるようなその個性がみんな資本になって、小説が生れてくるのだからね。厄介なものをわれわれは持って生れてきたものだ。(引用者中略)

テレビなどで、如才なくお世辞なんか言っている年寄を見ると、いやな気がする。」(『新潮』昭和41年/1966年8月号 永井龍男、中山義秀「対談 人生凝視」より ―引用原文は昭和47年/1972年4月・新潮社刊『中山義秀全集第9巻』)

 で、今日の直木賞候補者は、義秀の弟子と名乗って直木賞を受賞した唯一の作家、安西篤子さん。でもいいんですが、昔ちらっと取り上げたことがあるので、別の方にします。こちらも中山義秀および義秀賞とは縁深く、創設のころ安西さんとともに選考委員を務め、またご自身も福島県会津の出身、戦後まもなく中山さんに師事して文学熱を高めた時代小説の雄、永岡慶之助さんです。

 少し直木賞とは外れますけど、まずは中山さんと永岡さんの縁から。

 よく知られているところですが、中山さんは最初の妻、赤田敏さんとのあいだに4男1女をもうけて、そのうち次男・黎也、三男・大和、四男・晋也の3人を生後1年足らずで次々と亡くし、昭和10年/1935年には敏さんをも喪います。残った長男・哲也さん、長女・玲子さんは、妻の家の「赤田」姓を名乗り、いっとき東京に住む中山さんから離れ、郷里の福島で育てられました。大正12年/1923年生まれの哲也さんは、旧制中学まで福島で学び、卒業後の昭和16年/1941年、妹とともに中山さんのもとに引き取られます。

「私(引用者注:赤田哲也)が中学を卒業して上京するので、それまでアパート住いだった父は、世田谷の梅ヶ丘に家を求めた。私はそこから予備校に通い、妹も恵泉女学院に転向した。(引用者中略)昭和十八年、父は海軍報道班員として南方地域に行き、半年ほど家を留守にした。私たち兄妹は、作家真杉静枝が決めた鎌倉極楽寺の家に移った。何が何だかわからなかったが、彼女と一緒に生活することになった。その年の十二月、私は兵隊に引っぱられた。」(平成12年/2000年10月・中山義秀顕彰会刊『中山義秀の映像』所収 赤田哲也「懐かしの義秀節」より)

 哲也さんが復員したのは昭和20年/1945年。そのとき、中山さんの鎌倉の家には、娘・玲子さんの他に、二番目の妻・真杉静枝さんとその両親、真杉さんの妹(寡婦)と娘4人、あるいは別の妹のもとに生まれた甥2人と、真杉ファミリーがわんさか暮らしていて、

「真杉は両親だけを私たちの家において、妹家族四人は隣家の六畳の間をかりて移し、食事だけいっしょにするようとりはからった。私の長男も復員してきたが、このありさまにおちつけなかったとみえ、会津の祖母の家へ行ってしまった。」(『東京新聞』昭和40年/1965年8月12日~9月17日 中山義秀「私の文壇風月」より ―引用原文は昭和47年/1972年4月・新潮社刊『中山義秀全集第9巻』)

 その後まもなく哲也さんは再度、東京に出てきます。中山さんとは鎌倉文士のお仲間、大佛次郎さんの始めた『苦楽』誌に編集者として働きはじめました。昭和22年/1947年はじめごろ、と推察されます。

 このころ、中山さん一家のまわりは、家族関係でゴタゴタしていた時期でして、真杉ファミリーと玲子さんとのあいだが険悪な仲となり、真杉の甥が玲子さんに暴力をふるって流血騒ぎまで起こすにいたってしまい、中山さん憤然となって、真杉さんと離縁。玲子さんは玲子さんで、中山さんが勧めていた縁談バナシを婚約までしながら断ると、哲也さんの軍隊時代の友人だった山本克巳さんと結婚することを決め、昭和22年/1947年に結婚。これが中山さんの「華燭」のモデルとなったハナシです。翌年、哲也さんも結婚、そして中山さん自身も再婚、という具合にパタパタと縁が結ばれていきます。

 それで永岡慶之助さんですが、このころ鎌倉に住み、中山さんの家に通っていたそうです。哲也さんとの関係だった、といいますから福島の旧制中学で同級だったとか、そういう縁でしょうか。

「昭和二十二年の初夏、当時極楽寺九二番地といった中山邸の小庭の梅樹に、熟れた青い実がのぞかれた季節の夕景、私(引用者注:永岡慶之助)は義秀先生とともに、手廻し式のポータブル蓄音器を前にして神妙に耳を傾けていた。その頃の私は、中山邸の隣家の藤棚のある部屋から、江の電の線路を隔てた月影谷に居を移していたが、ほとんど家人のように師の許に出入りしていたのである。」(前掲『中山義秀の映像』所収 永岡慶之助「虚空鈴慕」より)

 中山さんと三人目の妻とのあいだに生まれた日女子さんは、永岡さんから聞いたこんな話を披露しています。

「永岡慶之助さんは会津出身の小説家でいらっしゃるが、兄(引用者注:哲也)との御縁でその頃鎌倉に住まわれて文学修業をしていらした。ちょうど父と真杉さんの住居の真ン中あたりにしばらく住んでいらしたそうだ。

「ボクはね、両方と会う機会があるでしょう。そうするとね、お互いに安否を尋ねるんだね。道で真杉さんに会うと、『どう、義秀さん元気?』って聞いて来て、義秀先生のところへ行くとね、『真杉、どうしてるかね』って聞くんだね」

 と話して下さった。」(平成9年/1997年4月・講談社刊 中山日女子・著『鎌倉極楽寺九十一番地』「うたかた」より)

 永岡さんは、赤田哲也さんと同様にまもなく雑誌編集に仕事の口を見つけ、昭和22年/1947年に公友社に入り、『明日』から娯楽雑誌……といいますから『新読物』か『読物と講談』あたりの編集に携わります。このときに、山手樹一郎さんのところに通ううち、上野一雄さんや横倉辰次さんらが山手さんを巻き込んで始めた勉強会「要会」(かなめ会、とも)に参加するようになります。昭和30年/1955年、公友社がつぶれ、河出書房に移りますが、そこには一年も在籍せず、以後文筆業。倶楽部雑誌などを中心に歴史物を書いていました。

 かなめ会の同人誌『新樹』に第2号から第10号まで連載したのが「斗南藩子弟記」で、これが昭和35年/1960年大和出版から刊行されますと、永岡さん、38歳にしてはじめて直木賞候補に挙げられます。第45回です。

 下馬評ではとにかく、売れっ子作家・水上勉さんの、『別册文藝春秋』に掲載された「雁の寺」の評価が高く、まずこれだろうと思われていたフシもあるんですが、いやいや、『斗南藩子弟記』も相当に認められ、存外に票を集めてしまうのです。とくに熱く推したのが、そう、中山義秀さんでした。

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2013年11月 3日 (日)

松本清張〔選考委員〕VS 笹沢左保〔候補者〕…推理小説好きからの期待を一身に背負い、でもやっぱり、ふつうのひとりの選考委員。

直木賞選考委員 松本清張

●在任期間:19年
 第45回(昭和36年/1961年上半期)~第82回(昭和54年/1979年下半期)

●在任回数:38回
- うち出席回数:33回(出席率:87%)

●対象候補者数(延べ):296名
- うち選評言及候補者数(延べ):148名(言及率:50%)

 松本清張さんといえば、芥川賞から出てきた「文芸」派。……ではなくて、中間小説誌に盛んに時代物を書いていた新進の「時代作家」。……でもなくて、何つっても、『顔』の日本探偵作家クラブ賞受賞から『点と線』『眼の壁』の二大ベストセラーで知られるようになった「推理作家」として、直木賞の選考会で推理小説をしっかり評価してくれる立場を、期待されていたのだと思います。とくに、まわりでガーガーうるさい推理文壇の人たちからは。

 何といっても、直木賞における推理文壇の選考委員には、嫌われ者・木々高太郎さんしかいませんでしたから。小林信彦さんなどは、こう回想しています。

「一九六〇年前後のいわゆる〈推理小説ブーム〉のころ、推理小説では直木賞がとれないというのが常識であった。

 当時の関係者なら誰でも知っていることだが、戦前に直木賞を得た推理作家が選考委員にいて、推理小説を片っぱしから落とした。また、時代小説作家の選考委員は、推理小説などが幅をきかしては迷惑だというわけで目の仇にし、これでは推理作家は浮ばれない。

 記憶で書くが、佐野洋のいくつかの作品、樹下太郎の「銀と青銅の差」、笹沢左保の「人喰い」は、当然、直木賞を得てしかるべきもので、編集者だったぼくはヒフンコウガイしていた。(引用者中略)

 この〈推理小説暗黒時代〉でも、ミステリ的作品が直木賞を得ていないわけではない。ただし、多岐川恭の「落ちる」は〈奇妙な味〉小説として、黒岩重吾の「背徳のメス」は社会小説としての評価であり、戸板康二の「團十郎切腹事件」だけがパズラーだが、〈一流の劇評家の、余技とも思えぬ作〉〈歌舞伎の教養〉という付加価値が大であった。水上勉の「雁の寺」は〈文学性〉が評価された。

 広義のミステリ作家に直木賞があたえられるようになったのは、松本清張が選考委員になってからで、生島治郎(「追いつめる」)、三好徹(「聖少女」)、陳舜臣(「青玉獅子香炉」)、結城昌治(「軍旗はためく下に」)とあいつぐが、――「青玉獅子香炉」だけは読んでいない――いずれも、ミステリとしての評価ではなかったと思う。」(平成5年/1993年10月・本の雑誌社刊 小林信彦・著『小説探険』「13 ミステリが〈わからない〉ということ」より)

 あははは、相変らずの「小林信彦クオリティ」といいますか、ムチャクチャな見立てです。いかにも木々さんがいたから推理小説はとれず、松本さんが就任して以降は、そんなことはなくなかった、とでも言いたげな匂いが漂っていますけど、いやいや、そんなことはないです。「自分は当時、編集業界のなかにいたんだ」という自負だけを頼りにした人の陥るワナだと思います。

 だって松本さんは、ずいぶんと推理小説には厳しかった、と見えるんですよね。「この人には他にもっといい作品がある」と言って反対し、で、結局何度も候補になってから「当然授賞していい力量だ」などといって賛成する、別に他の委員とそう変わらない投票行動が多かった人です。もし、生島、三好、陳、結城の受賞を語るなら、それは松本さん以外の、直木賞の変化を語ったほうが、まだしもしっくり来ます。

 たとえば、こんな選評などは、多少木々さんより優しくなったように見えて、そのじつ、言っていることは大して違わないんじゃないか、という。第50回(昭和38年/1963年・下半期)戸川昌子『猟人日記』に対する松本さんの評です。

「文章的には最初の部分がいい。但し、犯人を隠しすぎたために、人物の性格が全然出てこない。」「意外性もなければいけないし、性格もはっきりと持たせなければならないところに普通の小説と違う推理小説の困難さがある。しかし、これを両立させるのが推理作家の宿命である。」(『オール讀物』昭和39年/1964年4月号より)

 あるいは、松本さんの影響を受けた「推理作家」のひとり、水上勉さんが第45回を「雁の寺」で受賞したのは、たしかに小林さんの指摘どおり「文学性」が評価されたからだと思います。このとき松本さんが、他の委員と違って水上さんの推理小説性を高く見ていたら、いやあ、松本さんすさまじい推理小説愛ですね、などとほのぼのできるんですけど、全然そうじゃないんですもん。それこそ、木々さんのお株を奪うがごとき「文学性」>「推理小説性」の選評を書いています。

「もとより、些少の瑕を指摘するのは容易だが、重量感がそれを圧している。ただ、小僧が和尚を殺す経過の裏の段になると、それまでの迫力が一挙に落ちてくるのは、いわゆる推理小説の持つ宿命的な欠陥であろう。」(『オール讀物』昭和36年/1961年10月号より)

 そして、木々高太郎さん、松本清張さん、という二人の選考委員が出ましたので、当然今日の「候補者」は笹沢左保さんしかいません。直木賞をとれなかった推理文壇の代表格、といいますか、直木賞をとれなかった売れっ子人気作家の代表格、としていまだに語り継がれ、「木々高太郎、殺す」の名ゼリフでおなじみの笹沢さんです。

 笹沢さんが「招かざる客」(のち『招かれざる客』)を書いて乱歩賞に応募しようと思うにいたった理由には、さまざまあるらしいですが、そのひとつには、やっぱ清張作品を読んでいたことがあったみたいです。

「松本清張の後に出て、それぞれに個性的な仕事を続けている佐野洋、結城昌治、三好徹といった小説家たちは、松本の作品を読みこむなかで、どんな形であるにせよ、学びとったものは少なくないのではないでしょうか。

 雑誌「EQ」No.38でも、「郷原宏のミステリー調書」のゲスト笹沢左保は、新鮮な文体と小説の持つリアリティに惹かれて清張のものは全部読み、「それが自分でも推理小説を書けそうだという強い刺激になったことは確か」だと言っています。」(昭和59年/1984年12月・光文社刊 安間隆次・著『清張ミステリーの本質』「第二部 さまざまの意匠」より)

 松本さんが選考委員になる一期前、第44回(昭和35年/1960年・下半期)ではカッパノベルスの『人喰い』がはじめて候補となり、このときは寺内大吉黒岩重吾の『近代説話』二人に受賞を持っていかれます。とくに黒岩さんの『背徳のメス』は、やはり小説の構造からして「推理小説」の一冊と言ってよく、これとの比較で票は積まれなかった、っていう観は否めません。……あれですか、推理文壇の人たちは、じゃあ、寺内さんを落として黒岩、笹沢の二者授賞にすべきだった、とおっしゃるんでしょうか。だとすれば、ずいぶんと我が畑かわいさの、自己中心的な主張ですよね。「推理小説では直木賞がとれない」とか、悲劇のヒロインを気取りながら、まあ傲慢ですこと。

 さて、推理文壇の救世主(のはずの)松本さんが、はじめて笹沢作品と選考会で対峙したのは、第46回(昭和36年/1961年・下半期)となります。このときは、松本さん、笹沢さんの『空白の起点』と、陳舜臣さん『枯草の根』、二作に対して厳しく接しました。

「推理小説の候補作二篇のうち「枯草の根」は、在日華僑の生活が出て珍しい背景設置であった。しかし、犯罪の点となると、案外に古めかしいトリックなどが使われて、現実性が失われたのは惜しい。「空白の起点」もいわゆる本格派のものだが、可能性の犯罪トリックに無理がある。また、このような作品は現在の状況からみて一応のレベルに達しているというだけで、直木賞に推すには力不足とったところだ。もっとユニークなものが欲しい。」(『オール讀物』昭和37年/1962年4月号 松本清張「淡彩の佳さ」より)

 この辺りまでは、ある意味、平穏だったかもしれません。ここから二度、笹沢さんは直木賞候補になるんですが、まるで松本さん、救世主になり切れず、笹沢さんとその周辺の編集者の心に、暗ーい怨念の火をともすことになるわけです。

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