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2013年9月29日 (日)

片岡鐵兵〔選考委員〕VS 木村荘十〔候補者〕…そうさ、時流に乗ることこそ我が人生。

直木賞選考委員 片岡鐵兵

●在任期間:2年
 第13回(昭和16年/1941年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:2回(出席率:50%)

●対象候補者数(延べ):11名
- うち選評言及候補者数(延べ):5名(言及率:45%)

 直木賞の選考委員史のなかで、これほど面白い人選がかつてあったでしょうか。え、片岡鐵兵さんですよ、よりによって。人柄の好さで文壇を渡り歩き、テキトーに通俗小説を量産して作家としてはほぼ死に体、いったい文藝春秋一派であること以外に何の実績があったのか、誰もわからないまま直木賞そして芥川賞の委員を拝命し、「選考委員になってもよさそうな作家」が当時いかに貧弱だったかをまざまざと物語っています。

 旧制津山中学以来の友人、矢野峰人さんの、片岡鐵兵評です。

「彼は惜しい事に、力作といふ程のもの、代表作と言ひ得る程のものを何一つ残さなかつた。然し、この事が彼の生活態度、一物に固執せず、一所に停滞せず、時と共に流れ世と共に移る彼の態度を、却ってよく表現してゐると思ふ。従って、「彼」といふものは、作品と生活と、全体を引つくるめた所にその真面目を示すと言ふべきであらう。斯くて、彼も亦、或時代の象徴であり、或人間の型であると言へよう。」(昭和23年/1948年1月・関書院刊 矢野峰人・著『思旧帖』所収「片岡鉄兵を憶ふ」より ―引用原文は平成19年/2007年6月・国書刊行会刊『矢野峰人選集1』)

 「時と共に流れ世と共に移る」とあります。ある意味、片岡さんが、第13回(昭和16年/1941年上半期)という戦局はなはだ不穏な動きを見せていたこの時代になって、直木賞なんちゅう吹けば飛ぶような下衆い文学賞の委員になったのは、むしろ、ぴったりだったのかもしれません。

 とにかく片岡さんといえば、文壇内での居場所をコロコロ変えることで有名な人でした。

 大正13年/1924年に『文藝時代』同人に加わり、おれたちゃマルクシズムに抵抗するぞ、と意気軒高。仲間の横光利一さんが、あんなもの何が新しいんだ、とかクソミソに叩かれたときは、こうやって歯むいて反論しました。

「「新進作家などと云つても、何も新しい物は持たないで、単に表現法の奇を衒ふだけで、内容が新しくないのでは詰らない」

 諸君、この言をよく記憶して置きたまへ。この言は既成作家が常に放つ新進攻撃の慣用語である。而して、既成作家に媚びて生活の安きをたのむ真の腰抜け若輩の毒言である。既成作家自衛の言ならば尤もである。然しながら、年若うして既成作家に媚びる輩の毒言ならば、余りにも卑しく、余りにも僭上ではないか!

 何をか内容と云ふ? 内容とは事件か? 材料か? 事大思想の若輩の頭の悪さ、嗤ふに足るべしである。」(『文藝時代』大正13年/1924年12月号 片岡鐵兵「若き讀者に訴ふ」より)

 血気盛んなことで、よろしいのことです。片岡さん30歳。「新感覚派」作家のひとり、などと持て囃されました。

 ところが徐々に左傾の香のほうにふらふらと足が向き、昭和3年/1928年には、旧労農党入党、ナップ(全日本無産者芸術連盟)に参加します。浅原六朗さんから、どうもヤツの左傾は信用ならない、などと言われてキレて、

「僕としては、そんな疑問を持ち出して大に僕の左傾を無意義な事と判断したがる人が、今後何人出て来ようとも、大した問題ではない。(引用者中略)

 僕はこの左傾によって、もし僕を生かすことが出来なかったら、僕自身もうお終いだと云うことを、十分よく覚悟している。敢て第三者の問責を待つまでもなく、その暁には切腹するだろうから安心したまえ。」(『文藝春秋』昭和3年/1928年5月号 片岡鐵兵「左傾に就いて」より)

 などとタンカを切ってみせます。相変らず血気盛んのご様子で、よろしいのことです。

 この辺りから少女小説、通俗小説に手を染めだしてガツガツ稼ぎ出し、昭和5年/1930年に第三次関西共産党事件で検挙、昭和7年/1932年に懲役二年の刑が確定して大阪刑務所に入れられると、今度は、思いっきし「転向」を表明。「切腹する」だのなんだの、自分で言い切っちゃってましたからね、そりゃあ当然、殊勝にザンゲせざるを得ませんでした。

「必死の決意を以てしたことである。生命が惜しくなって転向したのだが、同時に、出獄したら世間から振り向かれもしないだろうという覚悟をしなければ出来ない転向だった。みんなが転向するから俺だって大丈夫だと思ってやったのとは違う。それだけ私のは醜態でもあり、自ら恥じねばならないのである。」(昭和11年/1936年5月・新潮社刊『私の文壇生活を語る』所収 片岡鐵兵「梗概的自伝」より ―初出『新潮』昭和10年/1935年6月号「文学的自叙伝」)

 早くハラ切れよ、ほら、みたいにオチョクラレもしたでしょう。まあ、だいたいあの当時はみんな一時の気の迷い。片岡さんを責めた側の人間にだって、人のことをとやかく言えるような立派なやつ、いなかったんじゃね? と言っているのは中野重治さんです。

「片岡には作品にもいくらか軽いところがあり、生活全体にもそれがあったかも知れない。ただ私の直接した限りでは、彼は気軽で親切ですなおだった。彼を「風のなかの羽根」あつかいした人は少なくなかったが、その人たちが風のなかの重石のようだったか私は疑っている。」(『朝日新聞』昭和42年/1967年11月23日夕刊 中野重治「折り折りの人 片岡鉄兵」より)

 もうおれの作家人生終わった、ぐらいに思っていた片岡さんでしたが、手を差し伸べる人もいろいろいて、また小説で金が稼げるぐらいに復帰し、「花嫁学校」だの「朱と緑」だの新聞小説で人気を博します。和田芳恵さんに言わせると、こうです。

「昭和九年十一月から翌年四月にかけて東西の「朝日新聞」に連載した「花嫁学校」で、片岡鐵兵は本領を発揮、新聞小説のすぐれた書き手の一人に加えられた。筋の運びが早く、また、花やかで、都会風俗に通じていたから、一般教養婦人の人気を集めた。大衆雑誌、婦人雑誌にも連載小説を多く掲載したが、底の浅い点が欠点といえるかもしれない。

(引用者中略)

 片岡鐵兵はジャーナリストとしてすぐれていたため、時流に適合した生き方に押し流され、風俗的な捉え方をした。これが本質を見失ったということになるかもしれない。」(昭和48年/1973年3月・講談社刊『大衆文学大系23 群司次郎正・片岡鐵兵・濱本浩・北村小松・藤澤桓夫集』所収「解説」より)

 時流に流される人としては、当然、昭和10年代は国策に走らなければ名が折れます。そこら辺、片岡さんはさすがの生き方を見せました。昭和13年/1938年には漢口攻略戦の文壇従軍の一員の座を占め、対中国の問題に絶大なる関心をもってしまい、戦争激化のお先棒を担ぐ仕儀となって、それでもウマいものに目のなかった片岡さんは、次第に貧窮する食糧事情にアップアップとなって、それでも通俗小説で稼いだ金で、どうにか美食を求めて生きていた、と。

 昭和13年/1938年、まだ心に余裕があったころ、片岡さんはこんな文章を書いています。この威勢のよさと、最後のタンカが、片岡ブシです。

「私は十一二歳の頃、日露戦争の銃後を経験した。この時の全国民の緊張、つまり挙国一致の態勢というものは、後々まで人々の心に深い印象をとどめているが、今日の国民の緊張は、寧ろ当時のそれよりも真剣であると、この頃、私はつくづく感じる。私は、十一二の、この世に対して眼を瞠くとたんに日露戦争の国民的緊張のさなかに置かれたことを、私の成長にとって大変な幸福だったと思っている。それと同じように、今日の少年も、その精神の若芽のさきに、支那事変の銃後の空気を触覚したことを、後年きっと幸福に感じるに違いないと信じる。このような少年時代で一生の歴史を飾った人間はその浮世のキャリーアに於て、何らかたのもしい底力を持っているようだ、と思うのは私の単なる自惚れであろうか。この記述、三十年後の事実に照らしたら、きっと多数の人の共鳴を博するであろう。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年8月号 片岡鐵兵「渦中閑語」より)

 戦争に勝っていたら、そうだったかもしれませんけどね。片岡さん、敗戦を知ることなく他界したために、その後、あのときおれは馬鹿なことを言いました、とまたまた懺悔する必要がなくなり、幸運なことでした。

 それで片岡さんの晩年、といっても片岡さん47歳のとき、直木賞選考委員のお鉢が回ってきます。基本、最初の直木賞の選考委員たちは、第1回から第16回まで8年間、任期を務めて、途中欠けることはなく、その顔ぶれは変わらなかったのですが、唯一の例外が、片岡さんです。直木賞委員たちのあまりの出席率の悪さに、これじゃ選考会にならないよ、と途中、芥川賞委員に協力をお願いして、選考に加わってもらったんですが、これもうまく行かず、やっぱりちゃんと働いてくれる専任の委員を追加しなきゃ駄目だな、と思い返して、白羽の矢が立ったのが片岡さんでした。昭和16年/1941年上半期です。

 時流は完全に、中国を丸め込んじゃおうぜ、モード。ジャーナリスティックな感覚で生きてきた片岡さんです。当然、この回候補に挙がった木村荘十「雲南守備兵」に、胸をときめかさないわけにはいきませんでした。

          ○

 木村荘十の「雲南守備兵」がどんな話かは、『消えた受賞作 直木賞編』を読んでもらうことにしまして(……おいおい)、ざっくり言うと、ある中国軍人が、抗日を信じて生きていたんですが、じつは少年たちがムチャクチャな条件で鉱山で働かされている、という中国の現状を間のあたりにしてショックを受け、何じゃこれは、抗日なんてマヤカシだと、反旗を翻す、みたいなお話です。

 第13回の選考会の様子は、座談会形式で『文藝春秋』に掲載されました。

佐佐木(引用者注:佐佐木茂索 途中ですが、芥川忌の夜の委員会へお出でにならなかった諸兄に申上げます。片岡鐵兵君が今日から直木賞委員として参加されました。

小島(引用者注:小島政二郎 君は(片岡氏に)何がいい?

片岡 やはり「雲南守備兵」だね。

(引用者中略)

片岡 支那人というものは、主人公として易しいようで書けないものだ。日本人が一人も出て来ないで、支那人だけ仲々書けるものじゃない。

小島 しかし、あの正義感は日本人の正義感のような気がして仕様がない。

片岡 それでいいのだ。どうせ自分が知っている人間しか書けないのだから、それから、日本人が支那の残虐なカラクリを故意に誇張して書いたという形跡は割合ないのだ。

(引用者中略)

白井(引用者注:白井喬二 とにかくあれだけに纏めるということはいい腕前だ。片岡さん、ああいうのはやはり戦争小説の範疇に入るでしょうね。

片岡 入るでしょうね。

白井 そうだとすると、新しい一つの境地じゃないか。」(『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号より)

 何が新しい境地なのか、ずいぶん話が飛躍しているように思いますが、ともかく。はじめての参加でありながら、出席わずか4人のうちの1人となって議論に入り込み、対抗候補の長谷川幸延「冠婚葬祭」を読んでこなかったくせに、とにかく「雲南守備兵」推しで押し通し、この「時流」にのっとった受賞者・受賞作を生み出す中核となったのですから、片岡さんの働きぶりが輝いています。

 とにかく片岡さんの晩年を語るときには、たいてい「中国への関心」といった話題が出てくるぐらいです。「雲南守備兵」を偉そうに褒め称えたのも、まず妥当だったと言えましょう。

「太平洋戦争のさなか、旅行さきの和歌山県田辺で片岡鐵兵が急逝したとき、新感覚派時代の僚友であり、その後もこの作家とは親しい附きあいをもった横光利一は追悼記として「典型人の死」と題する一文を書いた。「近来文壇の二十年史を誰か書こうとして、もしこの時代の典型を文壇人から求めるとしたら、片岡鐵兵の生活と人以外には、一人もいないだろう。(中略)新感覚派の創始者、速力に対する感覚の発見者、ひいては唯物史観への行転と実践者、またそれからの転向と伝統への憧憬者にして、支那への橋梁の建設者。」とあるのは、その一節である。(引用者中略)「支那への橋梁」とあるのは、その晩年に軍の要請で中国におもむいたときのことをいうのであろう。「転向」以後の片岡は、そのいたましさを漸次深めていっているようにみえる。」(昭和55年/1980年5月・講談社刊『日本現代文学全集67 新感覚派文学集 増補改訂版』所収 保昌正夫「新感覚派文学入門」より)

 ここで選ばれた木村荘十さんは、片岡さんよりたった3歳若いだけの、44歳のいい大人。同世代人として、片岡さんの言うように「何らかたのもしい底力」を持っていたのでしょう。満洲での評論雑誌経営を畳んで帰国してからは、北村小松さんのもとに出入りして、大衆作家としての修行を積み、いろいろ懸賞小説に挑戦しては入選したり落ちたりで売文生活を送り、ようやくたどりついた直木賞です。そこから木村さんも、時流を感じるに敏な感覚を発揮して、戦局に合わせた読み物を大量に書いては、ぐいぐいと文壇に入り込み、

「私は、海軍の要望で、空と海の重要性を国民に認識させるために、北村(引用者注:北村小松)氏と文芸春秋の菊池寛社長をかついで、航空文学会を組織し、くろがね会、国防文学聯盟の組織に参画して奔走した。」(昭和34年/1959年12月・雪華社刊 木村荘十・著『嗤う自画像』より)

 と、軍部と文壇の「橋梁」として働いたりします。

 戦後にいたっても、とにかく大衆誌に書いて金を稼ぎ、それでも何か一作、自分でこれぞと思える小説が書きたい! と強く思いながら幾星霜。代表作と呼べるものはない、と言われた片岡鐵兵さんにも似て、満足のいく創作を残さないままで、生涯を終えました。……でも『嗤う自画像』は、木村さんが精魂こめて書いた「私小説」ですからね、どこかが復刊して、もう少し多くの人が読めるようになってほしいです。

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コメント

直木賞の選評って座談会だった時期があったんですね!ビックリ!
昔の山周賞や小説推理新人賞だけじゃなかったんですネ(笑)

投稿: しょう | 2013年9月29日 (日) 22時30分

しょうさん、

そうなんですよ、なぜかあの一回だけ、
直木賞・芥川賞合同選考会が座談会式に掲載されまして……。

昔はオール讀物新人賞とか群像新人文学賞とか、座談会式の選評だったんですけど、
直木賞も、ほかとの区別をはかるために、というかマンネリ化を打破するために、
どこかでもう一回、座談会式、やらないかなあ、とひそかに期待しています。

投稿: P.L.B. | 2013年10月 5日 (土) 21時51分

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