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2013年9月15日 (日)

久米正雄〔選考委員〕VS 橘外男〔候補者〕…「私」を語り続けられなかった人が、「私」を語る人に送った賛辞。

直木賞選考委員 久米正雄

●在任期間:通算11年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)、第21回(昭和24年/1949年上半期)~第26回(昭和26年/1951年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:16回(出席率:73%)

●対象候補者数(延べ):112名
- うち選評言及候補者数(延べ):27名(言及率:24%)

 選考委員と候補者、っていうとどんな関係を想像するでしょうか。おそらく、盛りをとうに過ぎた時代遅れの老作家が、これから文壇に出ようとしている活きのいい若手を、テキトーにあしらって弄ぶ図を、まっさきに思い浮かべる人がほとんどかと思います。……ってほんとかよ。

 ほとんどかどうかはともかく、やはり創設のころの直木賞には、とくにそんな面影がありました。なにせ、音頭をとったのが菊池寛さん(46歳)ですからね。昭和10年/1935年当時には、クサレ大衆読物誌にチヤホヤされる程度で、とっくに作家としての人生は終わっていた、っつう筋金入りの「過去の作家」。佐佐木茂索さん(40歳)はもう、新作なんかどこにも発表しないで、ビジネスの世界に邁進していた人ですし、小島政二郎さん(41歳)は通俗物に手を染めて作家的堕落をしちまったよ、と自負・自嘲する典型的な、「むかし文芸、いま通俗」の人でした。

 で、直木賞と芥川賞の委員を兼任していた四人目の人、久米正雄さん(43歳)も、もちろんその類に属します。といいますか久米さんは、大正7年/1918年っていうかなり早い時期に、純文芸から通俗小説へのシフトを見せた先駆者、なんちゅう光栄なる(?)称号を与えられているほどの方です。

「純文学畑の作家で新聞小説に手を染め、それによって新聞読者をふやして画期的な大成功を収め、以後、新聞や婦人雑誌が争って純文学畑に通俗小説の書き手を探すに至ったのは、菊池寛が大正九年に『大阪毎日』『東京日日』両新聞に連載した「真珠夫人」からである。久米正雄の「螢草」は、じつにその二年前にこの先鞭をつけていたのだ。その代り、以後、久米正雄の前には通俗作家としての道が大きくひらけ、純文学作家としては遂に大成せずに終わった。」(昭和55年/1980年5月・講談社刊『日本現代文学全集57 菊池寛・久米正雄集 増補改訂版』所収 浅見淵「菊池寛・久米正雄入門」より)

 この辺りは当然、2年前に出ました小谷野敦さんの『久米正雄伝 微苦笑の人』(平成23年/2011年5月・中央公論新社刊)でも、そうとう丁寧に描かれているところです。久米さんの生涯とか、純文学から通俗小説に至った経緯とか、この一冊が出たことで、ほとんど労なくして追うことができるようになりました。

 久米さんの通俗物を辟易しながら全作読んだ、という小谷野さんは、ともかく久米さんが生活費ほしさに書きつづけた通俗物に、いかにくだらない作品が多いかを、指摘しています。それは純文学VS大衆文学、などという二項対立では語ることのできない、大衆文学に組み入れるのさえ憚られるような、下の下の読み物がたくさんあって、しかも一応は商品として売られ、純文学よりお金を稼げる、そんな世界が厳然としてあったのだ、ということでもありました。

「しばしば、大衆小説にも目を向けようと提言する研究者がいるが、それはまさに「大衆小説―大衆文学」であり、尾崎秀樹が論じるような大衆文学は、こうした通俗小説よりは高級なものであって、多くの大衆は、読み捨てる形でこうした通俗小説を読んでいたのである。だから、一般的な文学史と、尾崎流の研究とを併せ読んで、いわゆる「小説」の全貌を把握したように考えるのは、大変な間違いなのである。(引用者中略)しばしば、純文学と大衆文学などというのは、境界が曖昧だとか、そんな二分法は廃止せよと言ったりする人がいるのは、このことを知らないからである。

 そして久米正雄こそは、純文学作家として出発しながら、僅々三十歳から「直木賞以下」の通俗小説を量産するという、特異な地位を占める作家なのである。」(小谷野敦・著『久米正雄伝 微苦笑の人』「第八章 流行作家の誕生」より)

 こういう人が、直木賞委員に端から加わり、生来の人の好さを発揮して、文壇を渡り歩いていくわけです。いったい、菊池寛さんと仲がよかった以外に、直木賞委員として声がかかる理由がどこにあったのか、という。

 で、丁々発止とやりあう芥川賞委員会に比べて(こちらにも久米さんは参加していましたけども)、直木賞のほうはやたら呑気に、ある意味、真剣味を欠いた雰囲気のなかで決められていくことになります。そして久米さんの、こんな有名な表現が飛び出すもとともなりました。永井龍男さんの回想から引きます。

「「(引用者前略)直木賞委員会の方はのんびりしていた。時には、候補者の名を挙げて『あれは一本だ』(一人前の芸妓)『あれはおしゃくだ』というような言葉が出ることがあって和やかだった」

 以上は、昭和廿七年四月号「文學界」に載せた小文に多少の手を加えた一節、以下の一節も、「文藝春秋の頃」という私の雑文から抜いた。

「早く云えば、芥川賞はお嬢さんだ。みずみずしいとか、若々しいとか、第一に新鮮さを買う。二三年経って、世帯染みたとしても、われわれ審査員に罪はない。作品の新風を買ったんだ。そうなると、差し当り直木賞は、雛妓とか若手の芸者というところかな。受賞作だけでなく、これからどんどんお座敷を稼げる人、譬えがいいか悪いか知らないが、審査員の気持としてそういうところがあるだろうな」

 たしか久米正雄が、例の微苦笑裡に誰かにそう話しているのを、脇で聞いたことがある。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より)

 このたとえ方、遊び人・久米正雄の面目躍如、といったところでしょう。と同時に、何か選考姿勢にただようテキトーな感じが伝わってきませんか、ええ、ワタクシにはひしひしと伝わってきます。

 と、座も温まったところで、今日の「激闘」に進みたいわけですけど、その前にもうひとつ。久米さんといえば、そして「純文学を書かなくなった通俗作家」久米正雄さんといえば、かならず紹介される一つの文章があります。直木賞のハナシに行く前に、これにちょっと触れておきたいと思います。「「私」小説と「心境」小説」です。

 大正14年/1929年の『文藝講座』7号(1月)、14号(5月、ともに文藝春秋社刊)に発表されたものです。そもそも久米さんが通俗物に乗り出す「螢草」を書かせたのは、失恋の痛手を負った久米に必要なのは慰めじゃない、ゼニだ、と言い切った菊池寛さんだったんですが、この『文藝講座』の発想も、菊池さんいわく、「時勢に鑑みて、文芸教育の普及を計りたいのがその名分だが、もう一つには小説雑文だけでは食えない同人及び関係者に仕事を与えたいためもある。」(『文藝春秋』大正13年/1928年7月号より)ことから出たそうです。直木賞・芥川賞の創設のときの言葉を彷彿とさせますね。態のいい理由+実利に即した理由の混合、ってところが。

 それはそれとして、久米さんの「「私」小説と「心境」小説」です。ざっくりいうと、真の散文芸術の基本は「私」を語る「私小説」にあり、そして「私小説」は、はっきりと腰の据わった人生観なり社会観なりを得て「心境」を語ることで、ただの告白や懺悔、のろけ、愚痴、クダの類から脱した芸術となる、……みたいな主張です。

「私は「私小説」を以て、文芸の最も根本的な、基礎的な形式であると信ずる。そして根本的であり、基礎的であるが故に、最も素直で、最も直接で、自他共に信頼すべき此の形式を措いて、何故に、他に形式を求めなければならぬ必要があるのか、(引用者中略)

 真の意味の「私小説」は、同時に「心境小説」でなければならない。(引用者中略)心境とは、是を最も俗に解り易く云えば、一個の「腰の据わり」である。それは人生観上から来ても、芸術観上から来ても、乃至は昨今のプロレタリア文学の主張の如き、社会観から来てもいい。が、要するに立脚地の確実さである。其処からなら、何処をどう見ようと、常に間違いなく自分であり得る。(茲が大切だ。)心の据えようである。」(昭和47年/1972年1月・角川書店刊『日本近代文学大系58巻 近代評論集II』所収 久米正雄「「私」小説と「心境」小説」より)

 それで久米さんもそこで自嘲するように、主張どおりの小説を書かず、たらたらと通俗小説を書き続けざるを得なかった久米さん、おお、哀れ、って現実があるわけです。

 この主張をしてから10年弱。時代・歴史小説……要するに三人称の、客観小説が、やっぱり主流をなしていた直木賞の世界に、いよいよ「私」語りの作品が、有力な候補として登場する日がやってきました。怪才、異才とすでに誉れ高かった橘外男さんです。

 大正時代に幾冊もの小説を書いたことなどどこ吹く風、昭和11年/1936年に『文藝春秋』の実話原稿募集に「酒場ルーレット紛擾記」が当選してから、実話(!)物の作家として売り出します。「私」が、「私」の体験したことを、いかにも本当のように、いや誇張をまじえて楽しく語る実話……。むろん、当時、そんな読み物は週刊誌や読み物誌に種々さまざま氾濫していたわけですが、当選したのが『文藝春秋』だったのが運のツキ、大衆文芸の枠を広げたい直木賞委員会の意向ともうまくマッチして、「私」語りの有力候補者として、にわかに橘さんの名が取り沙汰されるようになったのです。

          ○

 第4回(昭和11年/1936年下半期)、実話募集の当選から次々と『文藝春秋』に作品をしはじめた橘さんを、直木賞に強く推したのは、専務・佐佐木茂索さんでした。ただこのときは、実績も豊かだった木々高太郎さんの評判の前に、その推薦の声はかき消されてしまいます。

 第5回、いい候補者いねえなあ、と不満噴出のなか、はじめて授賞該当者なしとなり、第6回は、もう大衆文芸の枠とか外しちゃわね? とばかりに井伏鱒二さんに受賞させて、周囲を唖然とさせます。そして第7回(昭和13年/1938年上半期)。候補になりそうな作家のタマは、相変わらず不足していたんですが、ここで名の挙がったのが橘さんでした。

 久米さんのイチオシは、橘さんではありませんでした。井伏鱒二がアリなら、これもどうだ、とばかりに久保栄さんの戯曲「火山灰地」を推しています。いや、これもどうだ、というより、「私は候補者に苦しんで、敢えて」と久米さんは述懐しています。

 そして橘さんに対しては、こんな評し方をしています。

「橘外男氏に就いては、度々噂にも上った事ではあり、実力に申分は無いので、挙げられて見ると、一も二もなく私も賛成した。只此人は、いかにも文藝春秋育ちなので、其点、内輪に近い吾々として、聊か推奨に遠慮するような傾があったが、考えて見れば、文藝春秋であろうとオール讀物だろうと、いいものを書いたいい作家を推奨するに何の憚る処があろうぞ。寧ろ其遠慮が可笑しいのであって敢然と持ち出す方こそ当然でなければならないのだ。

 橘氏は、一言にして云えば、否一言にして云わなくても、怪作家である。ひょっとすると牧逸馬以上の怪才人であるかも知れない。加うるに、文壇垣外にいる此人の地位も、面白く、且つ意義があると思う。是を機会に、益々本格的な作家として、怪腕を振って貰いたいと思う。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号より)

 要するに、さして作品についての批評はしていません。久米さんが、橘さんの作品のなかに、作品の「私」のなかに、何を見たのか。わかりませんし、あるいは「実力に申分が無い」とは、何をもってしての感想なのかすら、よくわかりません。

 ほんとうは、やっぱりここで、「実話」を名乗る橘さんの諸作を、どのように評価したのか久米さんは書いておいてほしかったところです。いかにウソッぱちな「私」であっても、その背後に確かな立脚がある、と見たとか。……まあ、芥川賞ならともかく、直木賞なんちゅう、ゆるゆる・ダラダラした世界で、そんな真面目なことは語れませんか、そうですか。……涙。

 ちなみにその後、橘さんの歩みは、多くは異端、はてまた「怪作家」との名にふさわしいものでした。

 谷口基さんはこう表現します。

「〈探偵小説〉の衰退と、ソデに引っ込む探偵作家たちを後目に、〈実話〉という特殊な作風をひっさげてマスコミの舞台に躍り出た橘は、文壇登場からわずか二年数ヶ月で直木賞を獲得、一気に大衆文学の頂点に駆け上がるという幸運に恵まれながら、いわゆる文壇作家たちとは終生異質のスタンスをとり続けた、異端作家中の異端作家である。(引用者中略)

 前途洋々たるこの新進作家に文壇や出版界が競って贈った讃辞の中から、彼が最も愛着を示して掬い上げ、生涯自らの名に冠した称号はただひとつであった。すなわち〈実話作家〉。」(平成21年/2009年5月・新典社/新典社研究叢書 谷口基・著『戦前戦後異端文学論――奇想と反骨――』「第五章 橘外男論――〈実話〉に生き、〈実話〉に死す――」より)

 まあ、直木賞の受賞は別に、大衆文学の頂点じゃあないんですけどね。今も昔も。ただ、橘さんが「実話作家」と名乗りたがっていた、とは何と面白いことです。

 山下武さんには、こんな文章があります。

「戦後の彼の創作活動が「ナリン殿下への回想」や「酒場ルーレット紛擾記」級の傑作を齎さなかったのは、大陸から引き揚げ後の生活に追われたせいもあったが、家族の幸福を築くためには自分の名は捨てても稼ぎまくるという、通俗作家に徹した姿勢の結果でもあった。」(平成8年/1996年5月・筑摩書房刊 山下武・著『「新青年」をめぐる作家たち』「「怪作家」橘外男のグリンプス」より)

 久米さんは、橘さんに「本格的な作家」、「怪腕を振う」の二つを期待している、と選評で書きました。久米さんの「本格的」が何を表しているのかは、いまいちわからないのですが、でも生涯、怪腕をふるったことは、たしかでしょう。しかも、「通俗作家に徹した」うえで、橘さん独特の世界を築き上げた、っつうんですから、久米さんより一枚も二枚も上手だったかもわかりません。

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