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2013年9月29日 (日)

片岡鐵兵〔選考委員〕VS 木村荘十〔候補者〕…そうさ、時流に乗ることこそ我が人生。

直木賞選考委員 片岡鐵兵

●在任期間:2年
 第13回(昭和16年/1941年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:2回(出席率:50%)

●対象候補者数(延べ):11名
- うち選評言及候補者数(延べ):5名(言及率:45%)

 直木賞の選考委員史のなかで、これほど面白い人選がかつてあったでしょうか。え、片岡鐵兵さんですよ、よりによって。人柄の好さで文壇を渡り歩き、テキトーに通俗小説を量産して作家としてはほぼ死に体、いったい文藝春秋一派であること以外に何の実績があったのか、誰もわからないまま直木賞そして芥川賞の委員を拝命し、「選考委員になってもよさそうな作家」が当時いかに貧弱だったかをまざまざと物語っています。

 旧制津山中学以来の友人、矢野峰人さんの、片岡鐵兵評です。

「彼は惜しい事に、力作といふ程のもの、代表作と言ひ得る程のものを何一つ残さなかつた。然し、この事が彼の生活態度、一物に固執せず、一所に停滞せず、時と共に流れ世と共に移る彼の態度を、却ってよく表現してゐると思ふ。従って、「彼」といふものは、作品と生活と、全体を引つくるめた所にその真面目を示すと言ふべきであらう。斯くて、彼も亦、或時代の象徴であり、或人間の型であると言へよう。」(昭和23年/1948年1月・関書院刊 矢野峰人・著『思旧帖』所収「片岡鉄兵を憶ふ」より ―引用原文は平成19年/2007年6月・国書刊行会刊『矢野峰人選集1』)

 「時と共に流れ世と共に移る」とあります。ある意味、片岡さんが、第13回(昭和16年/1941年上半期)という戦局はなはだ不穏な動きを見せていたこの時代になって、直木賞なんちゅう吹けば飛ぶような下衆い文学賞の委員になったのは、むしろ、ぴったりだったのかもしれません。

 とにかく片岡さんといえば、文壇内での居場所をコロコロ変えることで有名な人でした。

 大正13年/1924年に『文藝時代』同人に加わり、おれたちゃマルクシズムに抵抗するぞ、と意気軒高。仲間の横光利一さんが、あんなもの何が新しいんだ、とかクソミソに叩かれたときは、こうやって歯むいて反論しました。

「「新進作家などと云つても、何も新しい物は持たないで、単に表現法の奇を衒ふだけで、内容が新しくないのでは詰らない」

 諸君、この言をよく記憶して置きたまへ。この言は既成作家が常に放つ新進攻撃の慣用語である。而して、既成作家に媚びて生活の安きをたのむ真の腰抜け若輩の毒言である。既成作家自衛の言ならば尤もである。然しながら、年若うして既成作家に媚びる輩の毒言ならば、余りにも卑しく、余りにも僭上ではないか!

 何をか内容と云ふ? 内容とは事件か? 材料か? 事大思想の若輩の頭の悪さ、嗤ふに足るべしである。」(『文藝時代』大正13年/1924年12月号 片岡鐵兵「若き讀者に訴ふ」より)

 血気盛んなことで、よろしいのことです。片岡さん30歳。「新感覚派」作家のひとり、などと持て囃されました。

 ところが徐々に左傾の香のほうにふらふらと足が向き、昭和3年/1928年には、旧労農党入党、ナップ(全日本無産者芸術連盟)に参加します。浅原六朗さんから、どうもヤツの左傾は信用ならない、などと言われてキレて、

「僕としては、そんな疑問を持ち出して大に僕の左傾を無意義な事と判断したがる人が、今後何人出て来ようとも、大した問題ではない。(引用者中略)

 僕はこの左傾によって、もし僕を生かすことが出来なかったら、僕自身もうお終いだと云うことを、十分よく覚悟している。敢て第三者の問責を待つまでもなく、その暁には切腹するだろうから安心したまえ。」(『文藝春秋』昭和3年/1928年5月号 片岡鐵兵「左傾に就いて」より)

 などとタンカを切ってみせます。相変らず血気盛んのご様子で、よろしいのことです。

 この辺りから少女小説、通俗小説に手を染めだしてガツガツ稼ぎ出し、昭和5年/1930年に第三次関西共産党事件で検挙、昭和7年/1932年に懲役二年の刑が確定して大阪刑務所に入れられると、今度は、思いっきし「転向」を表明。「切腹する」だのなんだの、自分で言い切っちゃってましたからね、そりゃあ当然、殊勝にザンゲせざるを得ませんでした。

「必死の決意を以てしたことである。生命が惜しくなって転向したのだが、同時に、出獄したら世間から振り向かれもしないだろうという覚悟をしなければ出来ない転向だった。みんなが転向するから俺だって大丈夫だと思ってやったのとは違う。それだけ私のは醜態でもあり、自ら恥じねばならないのである。」(昭和11年/1936年5月・新潮社刊『私の文壇生活を語る』所収 片岡鐵兵「梗概的自伝」より ―初出『新潮』昭和10年/1935年6月号「文学的自叙伝」)

 早くハラ切れよ、ほら、みたいにオチョクラレもしたでしょう。まあ、だいたいあの当時はみんな一時の気の迷い。片岡さんを責めた側の人間にだって、人のことをとやかく言えるような立派なやつ、いなかったんじゃね? と言っているのは中野重治さんです。

「片岡には作品にもいくらか軽いところがあり、生活全体にもそれがあったかも知れない。ただ私の直接した限りでは、彼は気軽で親切ですなおだった。彼を「風のなかの羽根」あつかいした人は少なくなかったが、その人たちが風のなかの重石のようだったか私は疑っている。」(『朝日新聞』昭和42年/1967年11月23日夕刊 中野重治「折り折りの人 片岡鉄兵」より)

 もうおれの作家人生終わった、ぐらいに思っていた片岡さんでしたが、手を差し伸べる人もいろいろいて、また小説で金が稼げるぐらいに復帰し、「花嫁学校」だの「朱と緑」だの新聞小説で人気を博します。和田芳恵さんに言わせると、こうです。

「昭和九年十一月から翌年四月にかけて東西の「朝日新聞」に連載した「花嫁学校」で、片岡鐵兵は本領を発揮、新聞小説のすぐれた書き手の一人に加えられた。筋の運びが早く、また、花やかで、都会風俗に通じていたから、一般教養婦人の人気を集めた。大衆雑誌、婦人雑誌にも連載小説を多く掲載したが、底の浅い点が欠点といえるかもしれない。

(引用者中略)

 片岡鐵兵はジャーナリストとしてすぐれていたため、時流に適合した生き方に押し流され、風俗的な捉え方をした。これが本質を見失ったということになるかもしれない。」(昭和48年/1973年3月・講談社刊『大衆文学大系23 群司次郎正・片岡鐵兵・濱本浩・北村小松・藤澤桓夫集』所収「解説」より)

 時流に流される人としては、当然、昭和10年代は国策に走らなければ名が折れます。そこら辺、片岡さんはさすがの生き方を見せました。昭和13年/1938年には漢口攻略戦の文壇従軍の一員の座を占め、対中国の問題に絶大なる関心をもってしまい、戦争激化のお先棒を担ぐ仕儀となって、それでもウマいものに目のなかった片岡さんは、次第に貧窮する食糧事情にアップアップとなって、それでも通俗小説で稼いだ金で、どうにか美食を求めて生きていた、と。

 昭和13年/1938年、まだ心に余裕があったころ、片岡さんはこんな文章を書いています。この威勢のよさと、最後のタンカが、片岡ブシです。

「私は十一二歳の頃、日露戦争の銃後を経験した。この時の全国民の緊張、つまり挙国一致の態勢というものは、後々まで人々の心に深い印象をとどめているが、今日の国民の緊張は、寧ろ当時のそれよりも真剣であると、この頃、私はつくづく感じる。私は、十一二の、この世に対して眼を瞠くとたんに日露戦争の国民的緊張のさなかに置かれたことを、私の成長にとって大変な幸福だったと思っている。それと同じように、今日の少年も、その精神の若芽のさきに、支那事変の銃後の空気を触覚したことを、後年きっと幸福に感じるに違いないと信じる。このような少年時代で一生の歴史を飾った人間はその浮世のキャリーアに於て、何らかたのもしい底力を持っているようだ、と思うのは私の単なる自惚れであろうか。この記述、三十年後の事実に照らしたら、きっと多数の人の共鳴を博するであろう。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年8月号 片岡鐵兵「渦中閑語」より)

 戦争に勝っていたら、そうだったかもしれませんけどね。片岡さん、敗戦を知ることなく他界したために、その後、あのときおれは馬鹿なことを言いました、とまたまた懺悔する必要がなくなり、幸運なことでした。

 それで片岡さんの晩年、といっても片岡さん47歳のとき、直木賞選考委員のお鉢が回ってきます。基本、最初の直木賞の選考委員たちは、第1回から第16回まで8年間、任期を務めて、途中欠けることはなく、その顔ぶれは変わらなかったのですが、唯一の例外が、片岡さんです。直木賞委員たちのあまりの出席率の悪さに、これじゃ選考会にならないよ、と途中、芥川賞委員に協力をお願いして、選考に加わってもらったんですが、これもうまく行かず、やっぱりちゃんと働いてくれる専任の委員を追加しなきゃ駄目だな、と思い返して、白羽の矢が立ったのが片岡さんでした。昭和16年/1941年上半期です。

 時流は完全に、中国を丸め込んじゃおうぜ、モード。ジャーナリスティックな感覚で生きてきた片岡さんです。当然、この回候補に挙がった木村荘十「雲南守備兵」に、胸をときめかさないわけにはいきませんでした。

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2013年9月22日 (日)

藤沢周平〔選考委員〕VS 志水辰夫〔候補者〕…しみじみしっとりしたのもいいけど、娯楽性を忘れたらダメだよね、直木賞は。

直木賞選考委員 藤沢周平

●在任期間:10年半
 第94回(昭和60年/1985年下半期)~第114回(平成7年/1995年下半期)

●在任回数:21回
- うち出席回数:18回(出席率:86%)

●対象候補者数(延べ):132名
- うち選評言及候補者数(延べ):113名(言及率:86%)

 朴訥で堅物で、どうせ人の情がどうしたとか、リアリズムがどうしたとか、そういう視点でしか小説が読めないおジイさんなんだろうと思えば、さにあらず。部類の海外ミステリー好きで、小説の「娯楽性」を重んじ、荒唐無稽な物語にも理解を示した、柔和な選考委員。で、おなじみの藤沢周平さんです。

 平成4年/1992年10月号、といいますから直木賞では、第107回(平成4年/1992年上半期)が終わったあとぐらいの『オール讀物』に載った、藤沢さんのインタビューにこうあります。

「――小説という表現スタイルの可能性はまだまだあるとお考えですか。

藤沢 とてもむずかしい時代に入っていると思いますね。推理小説、SF、時代小説などのジャンル小説はまだ書ける余地があると思うんだけどね。ふつうの現代小説というのは書きにくいと思う。小説をよせつけないようなもの、たとえばエイズにしたって、それを小説にするのはとてもむずかしいでしょうね。もっとも時代小説だから絵空事を書いていればいいかというと、そうではなくて、どこかで現代とつながっていないと古臭くなります。活字のむこうに何かまだある、と思わせるようなものが出ているうちは、望みはあると思いますけどね。

 小説の面白さというものを確保するのは非常にむずかしいですよ。わたしの書くものはわりとシリアスな「市塵」のような小説もありますけど、基本的には娯楽小説だと思うんです。「怪傑黒頭巾」以来の、チャンチャンバラバラを書きたい気持はずっとある。(笑)そういう小説のもつ娯楽性というものを大事にしたいですね。そういうのがなくなると、小説はつまらなくなると思うんです。」(『オール讀物』平成4年/1992年10月号「藤沢周平インタビュー なぜ時代小説を書くのか」より ―聞き手・岡崎満義)

 それでこの時期、伊集院静『受け月』よりも清水義範『柏木誠治の生活』の、あふれんばかりのチャレンジ精神とその成果のほうに票を入れたり、出久根達郎『佃島ふたり書房』と同じくらいの温度で宮部みゆき『火車』を推してみたりしていたわけです。そういう人です。

 藤沢さんが直木賞の選考委員になったのは第94回。昭和61年/1986年1月の選考会からの参加です。この当時の直木賞は、藤沢さんが受賞した第69回(昭和48年/1973年上半期)よりもさらに、マスコミのバカ騒ぎが激しく打ち鳴らされていたときでして、その点、あんまり周囲の喧騒が好きじゃなかった藤沢さんですから、いろいろとイヤな思いをしたことでしょう。

 とにかく権威に楯突きたいだけの連中は、勝手なことを言います。どうせ選考委員は真剣に小説を読んでこない、だとか。小説を読めもしないくせに自分の好みで票を入れてるだけ、だとか。選考委員を引き受けるのは、文壇人事で出世したい奴だけだ、とか。……まあ、そういう人もいたかもしれませんけど、そのなかにあって藤沢さん、不平不満を言うわけでもなく、ただひたすら候補作を読み込み、推すべきと思う候補作を愚直に推す。まわりに何と思われようと、信ずるところを曲げず、堪えしのぶの図。

 自分でそういった小説を書けば、惚れて褒めてくれる読者も、たくさんいましょうが、選考委員なんて、基本、損な役まわりです。どう選考したって、結果について受賞者じゃなく選考委員を褒めようとする人は、ほとんどいません。その仕事が認められることは稀です。しかし人間の真価は、認められるか否かにあるわけじゃない。どんなに影に隠れていても、懸命にやり遂げることが大事だ、と藤沢さんはその背で、ワタクシたちに美しい人間の姿を教えてくれたのです。

 ……って、かなり妄想が突っ走っちゃいました。らしくもないキレイごとを並べて、すみません。

 でもまあ、こういう回想文とか読まされると、つい藤沢さんに肩入れしたくもなるじゃないですか、許してください。

(引用者注:昭和52年/1977年)私が入社して初めて社の倉庫に行ったとき、ひときわ高い返品の山がありました。三、四メートルはある山が二つ。『喜多川歌麿女絵草紙』という書名で、焦茶を基調にした洒落た装丁の本で、著者は藤沢周平とありました。

 案内してくれた当時の編集長は、「この人のは中身はいいんだけど、地味だからあまり売れないんだよ」とため息まじりに説明してくれました。(引用者中略)こんなことは今だから口にできますが、そのころの藤沢さんは、作風もまだ暗さが残っていて、売行きも芳しくありませんでした。

(引用者中略)

 「ぼくの書くものは、そんな派手で面白いもんじゃないし、そんなに売れない」と、当時から、またその後に流行作家と呼ばれるようになっても、先生はいつもそう恥ずかしそうにおっしゃっていました。あちこちで取り上げられ、マスコミにもてはやされることに、最後まで困惑しているようにも見受けられました。」(『文藝春秋』平成9年/1997年4月臨時増刊号「完全保存版 藤沢周平のすべて」所収 倉科和夫(青樹社取締役編集部長)「先生の書斎のことなど」より)

 で、「売れなかった」つながりってわけでもないんですが、今日、藤沢選考委員のお相手をしてもらうのは、この方、志水辰夫さんにしました。「直木賞のほうが逃してしまった、受賞にふさわしい作家」に属するおひとりです。

 せっかくなので、まずは志水さんの、売れなかったエピソードをひとつ。

志水 (引用者注:デビュー作の)『飢えて狼』の初版が六千部で、受け取ったお金が三十万。それも最初の本だからって百冊ほど買って配ったから手元には二十万ぐらいしか残らなかった。これじゃ食えませんわな。だからライターの仕事をまだ続けてて、なかなか(引用者注:二作目を書く)時間が取れなかった。

逢坂(引用者注:逢坂剛 先にデビューしてた船戸与一の本が全然売れなかったから、後発の我々の発行部数も押さえられたんですよね。(笑)

志水 船戸はあのころから人に迷惑をかけてばかりいた。(笑)」(平成16年/2004年4月・玉川大学出版部刊 逢坂剛著・『逢坂剛対談集II 世界はハードボイルド』所収 逢坂剛、志水辰夫「ハードボイルドの現在、過去、未来」より)

 藤沢さんが日本食品経済社で『日本加工食品新聞』の編集をしながら小説を書き、「溟い海」でデビューを果たしたのが43歳のとき。いっぽう志水さんは高知刑務所での事務職などを経て26歳で上京、週刊誌ライターなどをするうち、だんだんとライター稼業の先行きに不安を感じて小説に取り組み、『飢えて狼』でデビューしたのが44歳のとき。ともに、けっこう遅咲きデビュー、などと言われていたりします。

 共通点を探せば、ほかにもないことはありません。藤沢さんは23歳のときに肺結核が見つかり、以後数年療養。志水さんも22、23歳ごろに結核を患い、上京したころもまだ完治はしていなかったそうです。あるいは、『読売新聞』の短編小説賞への投稿経験もあります。藤沢さんは35歳のとき、昭和38年/1963年1月に「赤い夕日」で選外佳作(選者・吉田健一)。志水さんは高知文学学校に三期生として学び、20代中盤で、この賞に二度入選しました。選者は永井龍男、伊藤整でした。

(引用者注:昭和)三十年代半ばには、公務員の傍ら三期生として学んだ川村光暁さん(70)が、読売短編小説賞を二回受賞する。研究科の勉強会で一緒だったメンバーは「ぐんぐん筆力が伸びて、研究科のホープのひとりだったが、後、志を立てて上京、あちらで同人誌を出したり張り切っていた」と記念誌で振り返っている。

 川村さんとは、後に志水辰夫の名で作品を発表し始め、日本推理作家協会賞や柴田錬三郎賞受賞のほか、直木賞候補に三度推される有名作家となるその人だ。」
(『高知新聞』平成19年/2007年11月30日「土を耕し種を蒔く 高知文学学校半世紀』(4) 文学賞受賞者も誕生」より)

 藤沢さんと志水さん、そういう奇縁もあるんですが、何といってもここで取り上げるのは、藤沢さんの直木賞選考委員人生は、志水辰夫に始まって志水辰夫に終わった、と言ってもいいからです。振り返ってみれば。はじめて藤沢さんが選考会に参加した第94回(昭和60年/1985年下半期)と、最後に出席した第112回(平成6年/1994年下半期)、両回ともに候補者として名を連ねたただひとりの作家が、志水辰夫さんだったんですから。

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2013年9月15日 (日)

久米正雄〔選考委員〕VS 橘外男〔候補者〕…「私」を語り続けられなかった人が、「私」を語る人に送った賛辞。

直木賞選考委員 久米正雄

●在任期間:通算11年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)、第21回(昭和24年/1949年上半期)~第26回(昭和26年/1951年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:16回(出席率:73%)

●対象候補者数(延べ):112名
- うち選評言及候補者数(延べ):27名(言及率:24%)

 選考委員と候補者、っていうとどんな関係を想像するでしょうか。おそらく、盛りをとうに過ぎた時代遅れの老作家が、これから文壇に出ようとしている活きのいい若手を、テキトーにあしらって弄ぶ図を、まっさきに思い浮かべる人がほとんどかと思います。……ってほんとかよ。

 ほとんどかどうかはともかく、やはり創設のころの直木賞には、とくにそんな面影がありました。なにせ、音頭をとったのが菊池寛さん(46歳)ですからね。昭和10年/1935年当時には、クサレ大衆読物誌にチヤホヤされる程度で、とっくに作家としての人生は終わっていた、っつう筋金入りの「過去の作家」。佐佐木茂索さん(40歳)はもう、新作なんかどこにも発表しないで、ビジネスの世界に邁進していた人ですし、小島政二郎さん(41歳)は通俗物に手を染めて作家的堕落をしちまったよ、と自負・自嘲する典型的な、「むかし文芸、いま通俗」の人でした。

 で、直木賞と芥川賞の委員を兼任していた四人目の人、久米正雄さん(43歳)も、もちろんその類に属します。といいますか久米さんは、大正7年/1918年っていうかなり早い時期に、純文芸から通俗小説へのシフトを見せた先駆者、なんちゅう光栄なる(?)称号を与えられているほどの方です。

「純文学畑の作家で新聞小説に手を染め、それによって新聞読者をふやして画期的な大成功を収め、以後、新聞や婦人雑誌が争って純文学畑に通俗小説の書き手を探すに至ったのは、菊池寛が大正九年に『大阪毎日』『東京日日』両新聞に連載した「真珠夫人」からである。久米正雄の「螢草」は、じつにその二年前にこの先鞭をつけていたのだ。その代り、以後、久米正雄の前には通俗作家としての道が大きくひらけ、純文学作家としては遂に大成せずに終わった。」(昭和55年/1980年5月・講談社刊『日本現代文学全集57 菊池寛・久米正雄集 増補改訂版』所収 浅見淵「菊池寛・久米正雄入門」より)

 この辺りは当然、2年前に出ました小谷野敦さんの『久米正雄伝 微苦笑の人』(平成23年/2011年5月・中央公論新社刊)でも、そうとう丁寧に描かれているところです。久米さんの生涯とか、純文学から通俗小説に至った経緯とか、この一冊が出たことで、ほとんど労なくして追うことができるようになりました。

 久米さんの通俗物を辟易しながら全作読んだ、という小谷野さんは、ともかく久米さんが生活費ほしさに書きつづけた通俗物に、いかにくだらない作品が多いかを、指摘しています。それは純文学VS大衆文学、などという二項対立では語ることのできない、大衆文学に組み入れるのさえ憚られるような、下の下の読み物がたくさんあって、しかも一応は商品として売られ、純文学よりお金を稼げる、そんな世界が厳然としてあったのだ、ということでもありました。

「しばしば、大衆小説にも目を向けようと提言する研究者がいるが、それはまさに「大衆小説―大衆文学」であり、尾崎秀樹が論じるような大衆文学は、こうした通俗小説よりは高級なものであって、多くの大衆は、読み捨てる形でこうした通俗小説を読んでいたのである。だから、一般的な文学史と、尾崎流の研究とを併せ読んで、いわゆる「小説」の全貌を把握したように考えるのは、大変な間違いなのである。(引用者中略)しばしば、純文学と大衆文学などというのは、境界が曖昧だとか、そんな二分法は廃止せよと言ったりする人がいるのは、このことを知らないからである。

 そして久米正雄こそは、純文学作家として出発しながら、僅々三十歳から「直木賞以下」の通俗小説を量産するという、特異な地位を占める作家なのである。」(小谷野敦・著『久米正雄伝 微苦笑の人』「第八章 流行作家の誕生」より)

 こういう人が、直木賞委員に端から加わり、生来の人の好さを発揮して、文壇を渡り歩いていくわけです。いったい、菊池寛さんと仲がよかった以外に、直木賞委員として声がかかる理由がどこにあったのか、という。

 で、丁々発止とやりあう芥川賞委員会に比べて(こちらにも久米さんは参加していましたけども)、直木賞のほうはやたら呑気に、ある意味、真剣味を欠いた雰囲気のなかで決められていくことになります。そして久米さんの、こんな有名な表現が飛び出すもとともなりました。永井龍男さんの回想から引きます。

「「(引用者前略)直木賞委員会の方はのんびりしていた。時には、候補者の名を挙げて『あれは一本だ』(一人前の芸妓)『あれはおしゃくだ』というような言葉が出ることがあって和やかだった」

 以上は、昭和廿七年四月号「文學界」に載せた小文に多少の手を加えた一節、以下の一節も、「文藝春秋の頃」という私の雑文から抜いた。

「早く云えば、芥川賞はお嬢さんだ。みずみずしいとか、若々しいとか、第一に新鮮さを買う。二三年経って、世帯染みたとしても、われわれ審査員に罪はない。作品の新風を買ったんだ。そうなると、差し当り直木賞は、雛妓とか若手の芸者というところかな。受賞作だけでなく、これからどんどんお座敷を稼げる人、譬えがいいか悪いか知らないが、審査員の気持としてそういうところがあるだろうな」

 たしか久米正雄が、例の微苦笑裡に誰かにそう話しているのを、脇で聞いたことがある。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より)

 このたとえ方、遊び人・久米正雄の面目躍如、といったところでしょう。と同時に、何か選考姿勢にただようテキトーな感じが伝わってきませんか、ええ、ワタクシにはひしひしと伝わってきます。

 と、座も温まったところで、今日の「激闘」に進みたいわけですけど、その前にもうひとつ。久米さんといえば、そして「純文学を書かなくなった通俗作家」久米正雄さんといえば、かならず紹介される一つの文章があります。直木賞のハナシに行く前に、これにちょっと触れておきたいと思います。「「私」小説と「心境」小説」です。

 大正14年/1929年の『文藝講座』7号(1月)、14号(5月、ともに文藝春秋社刊)に発表されたものです。そもそも久米さんが通俗物に乗り出す「螢草」を書かせたのは、失恋の痛手を負った久米に必要なのは慰めじゃない、ゼニだ、と言い切った菊池寛さんだったんですが、この『文藝講座』の発想も、菊池さんいわく、「時勢に鑑みて、文芸教育の普及を計りたいのがその名分だが、もう一つには小説雑文だけでは食えない同人及び関係者に仕事を与えたいためもある。」(『文藝春秋』大正13年/1928年7月号より)ことから出たそうです。直木賞・芥川賞の創設のときの言葉を彷彿とさせますね。態のいい理由+実利に即した理由の混合、ってところが。

 それはそれとして、久米さんの「「私」小説と「心境」小説」です。ざっくりいうと、真の散文芸術の基本は「私」を語る「私小説」にあり、そして「私小説」は、はっきりと腰の据わった人生観なり社会観なりを得て「心境」を語ることで、ただの告白や懺悔、のろけ、愚痴、クダの類から脱した芸術となる、……みたいな主張です。

「私は「私小説」を以て、文芸の最も根本的な、基礎的な形式であると信ずる。そして根本的であり、基礎的であるが故に、最も素直で、最も直接で、自他共に信頼すべき此の形式を措いて、何故に、他に形式を求めなければならぬ必要があるのか、(引用者中略)

 真の意味の「私小説」は、同時に「心境小説」でなければならない。(引用者中略)心境とは、是を最も俗に解り易く云えば、一個の「腰の据わり」である。それは人生観上から来ても、芸術観上から来ても、乃至は昨今のプロレタリア文学の主張の如き、社会観から来てもいい。が、要するに立脚地の確実さである。其処からなら、何処をどう見ようと、常に間違いなく自分であり得る。(茲が大切だ。)心の据えようである。」(昭和47年/1972年1月・角川書店刊『日本近代文学大系58巻 近代評論集II』所収 久米正雄「「私」小説と「心境」小説」より)

 それで久米さんもそこで自嘲するように、主張どおりの小説を書かず、たらたらと通俗小説を書き続けざるを得なかった久米さん、おお、哀れ、って現実があるわけです。

 この主張をしてから10年弱。時代・歴史小説……要するに三人称の、客観小説が、やっぱり主流をなしていた直木賞の世界に、いよいよ「私」語りの作品が、有力な候補として登場する日がやってきました。怪才、異才とすでに誉れ高かった橘外男さんです。

 大正時代に幾冊もの小説を書いたことなどどこ吹く風、昭和11年/1936年に『文藝春秋』の実話原稿募集に「酒場ルーレット紛擾記」が当選してから、実話(!)物の作家として売り出します。「私」が、「私」の体験したことを、いかにも本当のように、いや誇張をまじえて楽しく語る実話……。むろん、当時、そんな読み物は週刊誌や読み物誌に種々さまざま氾濫していたわけですが、当選したのが『文藝春秋』だったのが運のツキ、大衆文芸の枠を広げたい直木賞委員会の意向ともうまくマッチして、「私」語りの有力候補者として、にわかに橘さんの名が取り沙汰されるようになったのです。

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2013年9月 8日 (日)

柴田錬三郎〔選考委員〕VS 三浦浩〔候補者〕…ストーリーらしいストーリーのない純文学なんて、ああ、つまらないなと断言。

直木賞選考委員 柴田錬三郎

●在任期間:12年
 第55回(昭和41年/1966年上半期)~第78回(昭和52年/1977年下半期)

●在任回数:24回
- うち出席回数:24回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):183名
- うち選評言及候補者数(延べ):114名(言及率:62%)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2013年9月 1日 (日)

木々高太郎〔選考委員〕VS 藤井千鶴子〔候補者〕…探偵作家が文学を語り、文学賞の権威を奉って、毀誉褒貶。

直木賞選考委員 木々高太郎

●在任期間:17年
 第21回(昭和24年/1949年上半期)~第54回(昭和40年/1965年下半期)

●在任回数:34回
- うち出席回数:32回(出席率:94%)

●対象候補者数(延べ):260名
- うち選評言及候補者数(延べ):175名(言及率:67%)

 木々高太郎さんというのは、奔放すぎて、どこか人とは違うネジが嵌まっていて、おチャメな人だったようです。

 で、ワタクシの知るかぎり、直木賞選考委員としての木々さんについては、あまりいい話が聞こえてきません。すでに拙ブログの一本目の記事、最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』のなかにも、星新一さんを落とした立役者、みたいに取り上げられていますし、再三再四、紹介してきた青山光二笹沢左保さんの、木々さんへの怒りと殺意の件もあります。碧川浩一=白石潔さんにまつわる直木賞バナシでも、あまりいい印象では語られていません。

 要するに少なからず敵視される性格の人だったらしいです。水谷準さんは、それを敵の少ない江戸川乱歩さんとの比較で、こう綴っていました。

「木々高太郎は探偵小説という呼称を推理小説と変えるいわばモデル・チェンジ主唱者である。小説とは別に、人間的に政治性に富んでいて、よい意味では世界的に視野が広く、逆の意味では交友的に多少の批判者を作ったかもしれない。これは異端的な作風と思われている江戸川乱歩が個人としては八面玲瓏の常識人であったのと比較して、たいへん面白いこととわたしだけで解している。」(『三田文学』昭和45年/1970年1月号 水谷準「推理小説処女作当時のこと」より)

 人間的に政治性に富んでいる……そこが気に食わない、という人たちがいたわけですね。とくに推理文壇の一部の人たちとか。

「直木賞で思い出したが、木々先生が選考委員在任中は、推理小説が候補作に挙げられても、他の委員以上に評価が厳しく、そのため推理作家の受賞者が出難かった。

 それに対する不満を、私(引用者注:山村正夫)も何人かの作家たちから、聞かされた憶えがあった。(引用者中略)

 確かに先生ほど、毀誉褒貶の相半ばした作家も珍しかったが、それは若い頃から“意気高太郎”というニックネームをつけられたほど、エネルギッシュな驀進型で、一見、許容性に富んだ大らかな人柄のごとく見えながら、頑固な自説の主張者であったせいではなかったろうかと、思われてならない。(引用者中略)

 いずれにせよ、医学界、文壇、演劇界を通じて、先生は数々の肩書を持っておられた。それだけにそれぞれの分野で、能力が最大限に発揮され得なかった憾みがあるのだが、それでいながらどの分野でも、先生が口にされるのは途方もない理想だったから、悪く言えば、誇大妄想家的な印象を、周囲に与えかねなかったのかもしれない。

 それも毀誉褒貶が相半ばした、原因の一つに算え得るのではないだろうか。」(山村正夫・著『推理文壇戦後史4』「文学派の総帥、木々高太郎逝去」より)

 まあ自分のことを棚に上げて、押しの強さを武器に、周囲からチヤホヤされる椅子に居座って、傲然として偉そうにしている人は、いつの時代でも嫌われます。木々さんの場合はとくに、直木賞(と芥川賞)っていう権威をバックにつけ、というか権威を権威として盛り立てる姿勢を堅持し、これを受賞することを目標にせよ、みたいに言って後輩や傘下の人たちにハッパをかけていました。けへっ、何が「文学」だよ、けっきょく権威を信奉しているだけの俗物じゃないか、と見られても文句はいえません。

 なにせ、『三田文学』から直木賞・芥川賞受賞者が誕生できたのは、おれがいたからだ、ということを誇りにするぐらいの方でしたから。

丸岡明が三田文学に困って了って、先輩数人を集めて再刊したいという時に、小島政二郎佐藤春夫の二人からすすめられて、三田文学編輯陣に加わったのが、本当に三田文学と関係のついた時であった。(引用者中略)

 そして、誰押すとなく、私が三田文学の編輯主任みたいになってから、私の気がついたのは、今まで三田文学が一人も芥川賞も直木賞も出していないということであった。

 私は、その二つの賞を同人がとるようにならなければ、三田文学はひとりよがりになってゆく――と考えたので、積極的に、これはと思う人に小説をかかすよう工夫をはじめた。そして、二年ばかりの間に芥川賞も直木賞も三田文学から出した。

 これについては、誰もよけいなことをしてくれたとは言わなかった。のみならず、今まで探偵小説を軽蔑していた人も、少し尊敬するようになった。(引用者中略)

 それからあと、私は三田文学と別れたが、三田文学は時々芥川賞も直木賞も出すようになった。」(『三田文学』昭和41年/1966年8月号 木々高太郎「三田文学と私」より)

 ちなみに直木賞を受けた『三田文学』同人は、柴田錬三郎さん(第26回 昭和26年/1951年下半期)。和田芳恵さん(第50回 昭和38年/1963年下半期)。渡辺喜恵子さん(第41回 昭和34年/1959年上半期)も三田派でしょう。芥川賞では、まず何といっても木々さん自身が見出した松本清張さん(第28回 昭和27年/1952年下半期)ですね、同人じゃなくて外部から入れた血ですが。それから安岡章太郎さん(第29回 昭和28年/1953年上半期)。あるいは遠藤周作さん(第30年/1955年上半期)もここに含めちゃっていいでしょうか。

 『三田文学』関係者は、内心ではどう思っていたか知らないですけど、木々さんに向かって「よけいなことをするな」とは言わなかったと。ははあ、そうですか。

 文学賞をとりたがっているなんて公言したら、みんなに馬鹿にされますからね。そういうことを外に表わすのは避けるでしょう。でも木々さんがひとり、ブンブンと直木賞・芥川賞への欲望を隠さずに『三田文学』を両賞にアピールする姿は、きっとまんざらではなかったのではないか。悪役はすべて木々さんに押し付け、自分たちは「文学賞なんて興味ないっすよ」と、素知らぬ顔を押し通す、『三田文学』の人たち……っていうのは、まあワタクシの妄想が多分に入っています。

 木々さんはそれから『三田文学』を離れ、やがて『小説と詩と評論』っていう同人誌を主宰する立場に就きます。そこでも往年の「三田文学メソッド」を適用しようとして、同人たちには、君たち直木賞・芥川賞の候補になるぐらいの作品、書かなきゃダメだよ、と事あるごとに言ってまわったとか。で、『三田文学』時代から引き続いて『小説と詩と評論』に参加したなかで、直木賞と関わりのある人といえば、かつて渡辺祐一=氷川瓏さんを取り上げたことがありました。今回はもうひとりの、木々チルドレンを紹介したいと思います。

 藤井千鶴子さんです。

 昭和のはじめ、実践女子専門学校に通っていた頃から短歌に目覚め、物理学者の石原純さんが主導した自由律口語短歌=新短歌の『立像』同人になって、バシバシ歌を詠みはじめます。21歳で卒業して、3年後に結婚。夫は満鉄に勤務する医師、千種峯蔵さんです。峯蔵さんはおそらく40歳ぐらいでしたでしょう、年の離れた夫婦でしたが、知り合いに言わせると仲睦まじい夫婦だったそうで、藤井さんは夫とともに満洲に渡り、二人の子を産みます。その間、短歌の活動もつづけ、こういう文献にもその名が見えます。

「歌壇では、神山哲三、田中俊資、白井尚子、田山一雄、奉天新聞の平田茂(歌集「山〈木+査〉子」)、奉天毎日新聞編集長の三井実雄、藤井千鶴子(本名千種千鶴子、歌集「真旅」)、三宅豊子(歌集「七草」)、西沢茂富らがいて、満洲の短歌誌「あかしや」(甲斐水棹子主宰)、「くさふね」(西田猪之助主宰)、「満洲歌人」などに作品を発表した。」(昭和51年/1976年1月・謙光社刊 福田實・著『満洲奉天日本人史 動乱の大陸に生きた人々』「第五編 満洲国時代 第十二章 奉天文壇」より)

 戦後帰国して、小説を書くようになり、『三田文学』に参加。これは佐藤春夫さんに師事してのこと、と匂わす文章もありますが、夫の峯蔵さんが医師で、しかも慶應義塾大学出身だったそうなので、木々さんとの縁がすでにあったのかもしれません。藤井さんの活躍の場は『三田文学』にとどまらず、『文芸日本』に発表した「義歯」で、はじめて直木賞候補に挙がります。第37回(昭和32年/1957年上半期)のことでした。昭和32年/1957年『別冊宝石 木々高太郎読本』には「火傷」を発表、昭和34年/1959年には夫に先立たれ、

「千鶴子はこの予期しない運命の中で、二人の愛児を擁し、一人戦う足ならしに、長編小説の執筆を思いついた。それが「櫛」で直木賞候補作品となった。」(『女性教育』昭和36年/1961年4月号「女性文化人の面影 藤井千鶴子女史」より)

 という展開に。この『櫛』の出版記念会が開かれたときに、のちに『小説と詩と評論』の中心人物となる城夏子さんと、木々さんとが初対面を果たしたのでした。

「昭和二十七、八年頃だったらうか。私は「三田文学」を毎月購読してゐた。時々、藤井千鶴子という人の短篇小説が掲載され、その新鮮さに私は感動した。その後、佐藤春夫先生の春の日の会で、藤井千鶴子さんと知己となった。藤井さんの小説「櫛」のお祝ひの会で木々高太郎氏に初めておめにかかった。(引用者中略)藤井さんの後見人みたいに思はれた。」(『三田文学』昭和45年/1970年1月号 城夏子「「小説と詩と評論」のこと」より)

 他人の目から「後見人」と見えるほどに、木々さん、藤井さんの文壇進出には相当に力が入っていたのでしょう。

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