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2013年8月 4日 (日)

獅子文六〔選考委員〕VS 徳川夢声〔候補者〕…面倒くさがって直木賞との付き合いを絶った超人気作家。

直木賞選考委員 獅子文六

●在任期間:5年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第26回(昭和26年/1951年下半期)

●在任回数:10回
- うち出席回数:2回(出席率:20%)

●対象候補者数(延べ):59名
- うち選評言及候補者数(延べ):6名(言及率:10%)

 川口松太郎さんの出席率が低かった、などと言っても、甘いもんです。直木賞界のサボリ魔、といったら、誰をさしおいてもまず獅子文六さんでしょう。

 演劇だけで生きていきたかったのに、あれよあれよという間に人気大衆作家になっちゃって、戦中からヒット作連発。並みいる直木賞受賞者など及びもつかないほど、ベストセラーを次々と生み出し、「ユーモア作家および大衆作家の代表として」日本芸術院会員にも選ばれ、「直木賞があげそこねた作家第一号」とすら言っていいほど偉くなった人です。

 当然のことながら、各種文学賞の選考委員にもいろいろ駆り出されます。盟友の名を冠した岸田演劇賞などにはちゃんと出席していたらしいんですけど、他は小説新潮賞にしろ野間文芸賞にしろ長続きせず、直木賞でもまたしかり。全然乗り気じゃなかった、ってことは、以前、名候補作として獅子さんの『遊覧列車』を取り上げたときにも書きました。

 今回もそのハナシの繰り返しです。新しめの獅子さんに関する本、牧村健一郎さんの『獅子文六の二つの昭和』(平成21年/2009年4月・朝日新聞出版/朝日選書)にも、組織になじめない獅子さんの姿が、いろいろ紹介されています。

「そのころ(引用者注:昭和13年ごろ)、陸軍報道部は、この秋に予定されている大作戦「漢口」攻略戦にむけ、作家を大量動員して戦地視察させようと考えた。火野葦平の『麦と兵隊』の爆発的人気に刺激されたからだった。軍部は文芸家協会の会長でもある菊池(引用者注:菊池寛に人選を依頼、菊池はすぐに作家・評論家をリストアップし、協力要請の手紙を出した。(引用者中略)

 菊池と久米(引用者注:久米正雄が大将格だった。大衆文学作家と呼ばれる作家は、ほとんど参加した。彼らはペン部隊と呼ばれ、軍部から将官待遇の手厚い保護を受けた。(引用者中略)

 文六にも菊池から誘いの手紙がきたが、ちょうど毎日新聞に『沙羅乙女』を書いている最中なので、断った。新聞小説の執筆中はとても書斎から動けないからだった。個人主義者の文六は、集団生活が大の苦手でもあった。」(「4章 千駄ヶ谷」より)

「狷介孤高、社交を好まない文六は、文壇付き合いをせず、文士の友人は少なかった。」(「7章 大磯」より)

 そうですか、ほんとうはそういう人にこそ、直木賞の選考を長く続けてもらって、「文壇のガン」とまで目されている直木賞の姿を変えてほしかったわけですけど。別に直木賞の選考会は、仲良し同士のジジババが集まって茶飲みバナシをするところじゃないわけですしね。ただ獅子さん、どうも直木賞の選考会にもなかなか重い腰を上げてくれませんでした。あれですか。新聞連載でお忙しい身、書斎から出るのも億劫だったんですか。

 なにぶん在任期間も短く、出席回数も微少。獅子さんの選考姿勢について語られた文章は、あまりありません。なかで以前も引用しましたが、福本信子さんの文章は、そこに少しだけ触れられています。

「午前中は執筆の時間と決められている先生が、正午前に、二階の書斎から出て背広姿で下りてこられた。そしてしばらくするとNHKから迎えの車が到着し、先生は出かけられた。「脚本賞」審査委員会へ出席されたのであった。

 迎えの車が到着するまで、先生は預かっていた数冊の脚本に目を通されていた。「賞」を決定する審査委員である作家は、推薦作を読まなければならない。それはかなり大変なことらしい。二、三作ならそれほど困難なことでなくても、数十作に及ぶと非常に大変で負担になってくる。その結果、審査にあたって読了し、選択する作家は稀だといわれる。

 以前に、来訪されたY新聞のA文芸部長さんが先生に言われていた。

「飛び抜けた優秀作品がない限り、普段の創作態度で『賞』を決定するんですよ。みんなそうなんですよ。作家は頼まれても読みませんからね」

(引用者中略)対談されていた文六先生は、A文芸部長さんの言葉に、

「う~ん、そうだね。そうなってしまうね」

 ひととき芥川賞(原文ママ)の選考委員を務めていたことがあると言われた先生は、その傾向になりかけた自分に責任を感じ、短期間務めたあとは、委員を辞退されたようであった。」(平成15年/2003年11月・影書房刊 福本信子・著『獅子文六先生の応接室――「文学座」騒動のころ――』「かんしゃく玉」より)

 要するに、作品本位ではなく、これまでの作家の実績をもとに推薦する傾向になっていったことに責任を感じて、委員を辞退した「ようであった」というわけです。おまえは城山三郎か!と叫んでしまったのはワタクシだけではありますまい。……いや、ワタクシだけかもしれません。

 まあ、しかしですよ。傾向もへったくれもなく、記録上、獅子さんが出席したのは、就任直後の第17回(昭和18年/1943年上半期)と、戦後復活の第21回(昭和24年/1949年上半期)、このたった2度しかないんですから。責任を感じるのなら、何か他の別のことだと思います。たとえばご本人が書くところでは、選考委員を続けてできない理由は、こういうことらしいです。

「何々賞の審査というものがどうもオックウであって、途中でやめさせてもらう仕儀となる。現在関係してるのは、やむをえざるものの一、二にすぎない。

 私は不精者であるから、他人の作品を沢山読むというのが、大変な骨折りになる。十冊も単行本を持ち込まれたりすると、どうしていいかわからなくなり、仕事も手につかず、睡眠や食慾にも影響してくる。そして、一番いけないのは、審査ということに自信がないことである。私も自分が我儘で、好悪のはげしいことを知っている。つまり、偏狂な審査しかできないのである。それではいけない。」(昭和41年/1966年2月・角川書店刊 獅子文六・著『愚者の楽園』所収「築地移転」より ―引用原文は昭和43年/1968年12月・朝日新聞社刊『獅子文六全集 第十五巻』)

 それではいけないらしいです。ただ、選考委員で自分の審査に自信のある人の割合がどの程度のものか知りませんが、結構、自信なさげに長く続ける人もいます。獅子さん、まじめすぎたのかもわかりません。直木賞なんて、テキトーにやっていればいいのに。だって直木賞ですよ。こんな賞、万能でも何でもありません。日本の文学の動向にさしたる寄与もしないし。偏狂な審査で、別に問題はないと思いますけど。

 もうひとつ、獅子さんが選考会をイヤがる理由。これも以前のエントリーで触れました。選考会場がご大層すぎることです。

「もう一つ、虫の好かないことがある。近ごろの文学賞審査会というと、きまって、新喜楽とか、金田中とかいうところで開かれるが、あんなご大層なところへ、行く気になれない。あれは、政治家だの実業家だのが寄り合う場所であって、ちょっと空気がちがうだろう。(引用者中略)

 戦後、私がまだ直木賞の委員をやってるころには、銀座の飲み屋「はちまき岡田」で、審査会が開かれたこともあった。私は、無論、出席した。」(同)

 戦後、文藝春秋新社の(たぶん)方針で、直木賞・芥川賞に箔をつけるがごとく、立派な格式高い料亭を選考会場に選んだことが、獅子さんの好みと合わなくなった、という。そうなんすよね、直木賞のもつご大層じゃない性質と、築地の料亭のご大層な感じが、どうにもミスマッチなことは否めません。そういうことを気にせず選考委員をやっている人もいるとは思いますけど、いちいち気に障る獅子さんったら、ほんともう、頑固な人です。

 で、おそらくその銀座の岡田で開かれたと思われる、戦後復活の第21回選考会。獅子さんは、ノリノリの中堅作家・富田常雄さんの授賞に賛意を示しつつ、もうひとり、二作同時授賞を主張しました。徳川夢声さんです。

 まあ、なにしろ獅子さんは、都合5年の直木賞選考委員を務めたあいだ、選評でたった6人しか候補者に言及していません。山本周五郎岩下俊作森荘已池、富田常雄、徳川夢声、河内信……。このうち、今回誰をターゲットにしようか迷ったんですが、ここはもう王道中の王道、獅子といえば夢声、一心同体(?)の仲睦まじい親友、徳川夢声さんで行きたいと思います。

          ○

 獅子といえば夢声、というのはあながち冗談でもありません。阿川弘之さんによれば、その財産の多さに関して、

「徳川夢声獅子文六両氏御健在のころ、

「夢声一億文六二億」

 と文壇に、噂が立った。」(昭和52年/1977年8月・講談社刊 阿川弘之・著『論語知らずの論語読み』「先進篇3」より)

 とか何とか。いや、それはともかく、またまた牧村健一郎さんの書から引かせてもらいますと、

「戦争中、文六ともっとも親しく交際したのは徳川夢声だった。活動写真弁士出身の夢声は、トーキー出現後は新劇の俳優としても活動、そのころ文六と知り合った。妻を亡くし、男手だけで娘を育てた、という境遇も同じで、親近感があった。互いにずけずけと物言うタイプで、気が合い、文六の数少ない親友といえた。」(前掲『獅子文六の二つの昭和』より)

 時期としては、牧村さんご指摘のとおりなんですけど、やはり二つの結びつきは「ユーモア作家」同士であったことと深く関係しています。

「そもそも、彼と顔を合わせたのは、春陽堂発行の『ユーモア・クラブ』という雑誌の関係からであるから、昭和十二年ごろということになる。いずれ誰かに紹介されて、初対面の挨拶を交わしたのであったろうが、

 ――おや、この人物、いやにヒトをお安く扱うぞ。その儀とあれば、こちらも同調で行くべし。

と、そのとき私は思った。或いは、先方でも、そんなところだったかもしれない。スベリ出しが、その調子で、それが千古の鉄則と相成った。」(平成15年/2003年12月・ネット武蔵野刊 徳川夢声・著『いろは交友録』「岩田豊雄」より)

 お互い『新青年』の軽くて楽しいエッセイが大いに受けて、その後ユーモア作家として遇されるようになり、直木賞を選ぶ委員の人たちからもその作品が愛されていた、っていう点でも似た境遇にありました。夢声さんも、上の『いろは交友録』では、自分の数少ない親友のひとり、として紹介していて、アッツアツの相思相愛。

 その夢声さんが、戦後復活した直木賞の、奇策というか秘策のような感じで選考会の俎上に挙がります。「偏狂な審査」を自負する獅子さん、ここでどう対処したでしょうか。

 この選考会で、徳川夢声さんの名を出したのは誰でしたでしょう。授賞と決まってその人がのちに大成しようものなら、多くの委員がこぞって、あのときオレはあいつを推した、と書いたりするんですが、落選した作家については、あまり誰も語りたがりません。選評から破断すると、小島政二郎、反対。久米正雄、やや賛成。大佛次郎、賛成。木々高太郎、不明。井伏鱒二、不明。川口松太郎、反対。

 獅子さんはこういう態度でした。

「大衆文学と純文学の根は一つだが、枝や葉はちがうので、その意味の区別は大切である。今度の授賞は、まず立場がハッキリしているので、賛成。人としても、賛成。富田(引用者注:富田常雄)説が出た時、最初に手を揚げた理由は、それである。

 徳川夢声説にも、賛成。賞をやっても嬉しがるまいという人があったが、私は夢声大いに喜ぶことと考えている。彼はそんなケチ臭い人間ではない。

 私が賛成したのは、以上の二人。」(『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号「寸感」より)

 これは偏狂とは呼べないかもしれません。そりゃ推すでしょうね。自分の敬愛する作品を生み出す、敬愛する作家なんだから、個人的に親しかろうが何だろうが推薦して何が悪い、っていう。そもそも、誰が言ったか知りませんが、「賞をやっても嬉しがるまい」とは何たる言いぐさ。海音寺潮五郎だの大池唯雄だの山本周五郎だの、嬉しがらない連中にだって賞を贈ろうとしてきたではないですか、一人からは断られたけど。

 これが獅子さん、直木賞選考会に出席した最後だったようです。直木賞は「単行本を何冊も持ち込まれる」なんて賞では全然なかったんですが、もう億劫がって出席しようとしませんでした。まじめな獅子さん、のらりくらりと毎回方針を変える雰囲気をかもし出していた直木賞には、あるいは付き合いきれなかったのかもしれません。わかりません。

 わからないといえば、徳川夢声さんです。夢声研究家として名高い濱田研吾さんによれば、直木賞落選について、夢声さんはまったく文章を残していないようです。

「この一件について、夢声はなにも発言していないようだが、ガッカリしたと思う。ガッカリするどころか、自らの作家的才能に限界を感じとったのではあるまいか。その翌年には、「私のブンガクはアマチュアの域を出て居ない」(『文学界』昭和二十五年十二月号)という、消極的な心境を吐露しているぐらいだ。好意的な編集者や作家がいたにもかかわらず、夢声には物書き一本で生きていく自信がなかった。」(平成15年/2003年12月・晶文社刊 濱田研吾・著『徳川夢声と出会った』「5 文学老年」より)

 仲良くお二人、直木賞なんちゅうものとはソリが合わず、その後は両人ともそんなケチ臭い賞から離れた場所で、大衆のハートをがっつりつかみ、大いに大衆文化に貢献したのでした。ザッツ・ハッピーエンド。

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