源氏鶏太〔選考委員〕VS 武田八洲満〔候補者〕…「選考委員会」という社会のなかにあっても、懸命にマジメにお勤め。
直木賞選考委員 源氏鶏太
●在任期間:27年
第39回(昭和33年/1958年上半期)~第92回(昭和59年/1984年下半期)
●在任回数:54回
- うち出席回数:54回(出席率:100%)
●対象候補者数(延べ):420名
- うち選評言及候補者数(延べ):357名(言及率:85%)
源氏鶏太さんは昭和5年/1930年から昭和31年/1956年までサラリーマンでした。会社を辞めたのは43歳、住友グループの泉不動産総務部次長の職にあったときでした。
当時のことは源氏さん、いろんなところに書きのこしています。そのうち、ひとつをご紹介します。
「私は、作家としては二流に過ぎないが、サラリーマンとしては、ある期間一流であったと思っている。これは出世ということとは無関係である。一流であったと思う理由の一つに、私なりに仕事を一所懸命に励み、そこに生甲斐のようなものを感じていたことがある。その一例として、入社してからのおよそ二十年間は、無遅刻無早退無欠勤で通している。思うに心身共に充実していたのであろう。だが、その後の数年間は、小説が売れ出したりして、全くダメなサラリーマンになってしまった。辞めたのはそのことを自覚したからでもあるが、今でも申訳のないことをしたと恥入っている。」(昭和46年/1971年9月・集英社刊 源氏鶏太・著『雲に寄せて』所収「やる気――社員教育の難しさ――」より)
「一流社員のあかしとして、無遅刻無早退無欠勤の例を挙げてるの? 古くせえ考え方だな」と野次が飛んできそうではありますが、少なくとも源氏さんの律儀さはわかると思います。20年以上勤めて、このままサラリーマンとして一生を終えようと思っていた人間が、途中で、そうはいかなくなり、「恥入っている」とするところ。まったく立派すぎるほどの社会人です。
で、その目で見ると直木賞選考委員としての源氏さんも、ほんと非の打ちどころのないほど真面目です。無欠席は当然のこと。選評を書く段においても、短い寸評程度のものが多くちゃっても、なるべく多くの候補作に対して感想を書こうとする姿勢。川口松太郎さんの選評と比べても、その「候補言及率」の高さは歴然としています。8割以上の候補作に、何らかの評を残しているのは、当時としてはかなり異例です。
さらに世慣れていると言いますか、気遣いが細かいと言いますか。たとえば直木賞で誰を推した、ということを自分ひとりの功績として声高に主張したりしません。第42回、司馬遼太郎さんが受賞したのは選考委員の海音寺潮五郎さんの粘りがあったからだ、というのは、いまではだいたい定説になっているし、ワタクシもそう思っていますが、これについて源氏さんはいくつもの文章を残しています。
まずはこれ。
「私が直木賞選考委員として、多少とも功績があったとすれば、司馬遼太郎君と黒岩重吾君を極力推したことでなかったかと思っている。勿論、私がいくら推したところで、他の選考委員の賛同が得られなかったらどうにもならない。だからその功績を一人じめにしようなんて夢にも思っていないが、しかし、その後の両君の活躍振りを見ていると、私は、自分が間違っていなかったとの満足感をおぼえるのである。」(昭和44年/1969年1月・東方社刊 源氏鶏太・著『ユーモアと人生』所収「選者冥利」より)
同じく『ユーモアと人生』に収められた「大作家への道」にも、おそらく司馬授賞をめぐるときの逸話、と思われる部分があります。
「ある年のある候補者の作品について、吉川(引用者注:吉川英治)さんは、最後まで反対なさった。はじめ、その詳しい理由をなかなかおっしゃらなかった。しかし、最後になって、
「どうも、初期の僕の作品に似ているのでね。」
と、苦笑しながら告白された。
その頃の吉川さんは、すでに「私本太平記」に精魂を打ち込んでいられた。そういう吉川さんにとって、初期の作品は、最早絵空事に思えていたのでなかったろうか。しかし、私は、そう思わなかったし、吉川さんの今日は、そういう初期の作品を経て来ているからこそ尊いのだと主張し、結局、折れて貰った。その候補者は、授賞され、今や大流行作家になっている。」(同書より)
いずれにしても、海音寺さんのカの字も出てきません。司馬さんを授賞させた影には、確実に自分の推薦も効いていたのだ、と源氏さんは考えていたに違いありません。
ところが別の場所では、こう言っています。
「このことはすでに誰かが書いたかもわからないが、昭和三十四年下期に司馬遼太郎君の「梟の城」が候補になったとき、私は、極力おした。ところが、どういう訳か、吉川英治さんが反対なのである。おんなじ一票だが吉川さんの一票には無限の意味がある。が、そのとき、海音寺さんが吉川さんに、あなたがこの作品をあんまり好まれないのは、自分の初期作品に似ているからではありませんか、しかし、これはこれで立派な作品ですよ、とおっしゃったことでたちまちケリがついたのである。
ところが同席していられた佐佐木茂索さんが、司馬君はすでに週刊誌にも書いているし今更どうであろうかと難色を示されたので、殆んど決まりかけていた雰囲気に動揺が起った。座が白けかかった。私などいいたいことがたくさんあったのだがいえなかった。しかし、ややあって海音寺さんが、そのようにおっしゃってもこれは直木賞に該当する作品ですよ、とはっきり発言されたことによって直木賞作家司馬遼太郎君の誕生となったのである。これに近い例が何度かあった。」(前掲『雲に寄せて』所収「直木賞選考委員海音寺潮五郎氏」より)
「私などいいたいことがたくさんあったのだがいえなかった」の一文が、源氏さんらしくて、微笑ましいですね。この前後、源氏さんは選考会で、こんな経験もしていたそうです。
「まだ、吉川英治氏の御存命中の頃、若かった私がある作家について強硬に推した。私としては珍しいことなのだが、しつっこ過ぎるほど、自分の意見をいい続けた。(引用者中略)が、そのうちに吉川さんから、君、しばらく黙っていてくれ給え、とたしなめられて引っ込まざるを得なかった。その頃、吉川さんの発言には、千鈞の重みがあった。」(『文藝春秋』昭和58年/1983年11月号 源氏鶏太「直木賞選考委員」より)
ここからわかるのは、吉川英治さんの発言に千鈞の重みがあった、っていうことではなくて、源氏さんがこれを千鈞の重みがあったと認識し萎縮することがあった、ということです。だって海音寺さんはやすやすと(?)、その吉川さんの「重み」を越えて自説を主張し、授賞させ得ているわけですから。その座の誰が「上」にいて、誰に敬意を払うべきなのか、どうしても感じずにはいらなかった、そしてその感覚によって自らの行動を律しざるを得なかった、律儀でまじめな源氏さんの姿が立ちのぼってきます。
で、今日、源氏さんのお相手を務めてもらう候補作家なんですが、司馬さんではありません。ちょっと有名すぎますしね。黒岩重吾さんでもありません。ご両名は、「選考委員」としていずれ拙ブログで取り上げる機会もありましょう。
さして源氏さんとは接点のない作家にします。四度の候補に挙がりながら、まだうちのブログであまり触れていない人。武田八洲満さんです。
長谷川伸門下の「新鷹会」に所属していました。「新鷹会の貴公子(プリンス)」、とは、同門の小野孝二さんによる命名です。武田さんは昭和25年/1950年ごろから日本図書館協会事務局に勤め、10年で退職。まもなくオール讀物新人賞に「道」を投じ、最終候補にまで残ります。
「それまで私には、小説を書こうという意欲はまったくなかった。小説になる題材らしいものをひとつ持っていて、それをしきりに心のなかでもてあそんでいただけなのである。それを原稿用紙に書きとめたのは、記録しておきたいためであった。(引用者中略)かさねていわせて頂くが、私はそれまで文学修業らしい勉強は、まったくしていない。そのときの私の貧弱な本棚には、学生時代に使った仙花紙の経済学教科書しかなかった。」(『大衆文芸』昭和53年/1978年7月号 武田八洲満「山手先生と私」より)
で、これは落選するんですが、選考委員だった山手樹一郎の「これは長編の題材である」との評に、なるほどそうであったかと開眼。ひきつづき意欲をもって書いた「大事」が、オール讀物新人賞を受賞します。昭和38年/1963年春のことでした。
大衆文学研究会代々木会に入り、さらに新鷹会にも出入りするようになりまして、昭和41年/1966年には初の著書『宮本武蔵』(鶴書房盛光社刊)を上梓。そして何といっても武田さんの出世作となったのは、『大衆文芸』に昭和45年/1970年連載した「紀伊国屋文左衛門」でした。おっとびっくり、第64回(昭和45年/1970年下半期)の直木賞候補に選出されます。新鷹会の人が『大衆文芸』に発表した作品で直木賞の候補になるのは、第48回(昭和37年/1962年下半期)の小橋博「火と土と水の暦」以来です。久しぶりのことでした。
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