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2013年6月30日 (日)

白井喬二〔選考委員〕VS 岩下俊作〔候補者〕…「あまり勤勉な審査員ではなかった」と自分で言っちゃう人。

直木賞選考委員 白井喬二

●在任期間:8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:9回(出席率:56%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):35名(言及率:50%)

 大衆文芸、とくに「直木賞における大衆文芸」の志士たちは、血気盛んでした。筆頭は直木三十五さん。軍人たちとツルんで「ファッショ宣言」なんてして、おおかた芸術派の文壇人からはヒかれてしまいました。三上於菟吉さんもそのお仲間。政界に打って出ようとした菊池寛さんは言うに及ばず、川口松太郎さんは、先輩を先輩とも思わない傲岸不遜な態度をとり、蓮實重彦さんから揶揄られたりしています。

 ……みな若かった。「大衆文芸」運動が勃興して、どどーんと文壇に挑戦状を叩きつけたのが大正14年/1925年。直木さんはまだ「三十三」と名乗っていたときですから、つまり三十代前半。第一次『大衆文藝』誌を出すことになった「二十一日会」のメンバーは、最も若くて江戸川乱歩さん31歳、最年長の本山荻舟さんでも44歳。およそ30代の作家たちが、明日の新しい文芸を目指して立ち上がったわけです。

 とくに口角に泡ためて、大衆文芸大衆文芸、とその定着に躍起になったのは、白井喬二さんでした。36歳。ほかの面々が、黙々と実作で自らの姿勢を示そうとしていたとき、白井さんは、いろんなところで、大衆文芸は何か、どうあらねばならないか、みたいなことを宣伝して回ったのです。直木さんも、「三十五」になり流行作家となってからは、そういう活動をどんどんやりましたけど、その先達は白井さんでした。

「大正十四年に始まり昭和三年に及ぶところの白井喬二氏の大衆文芸理論は、かりにこれを前期の理論と呼ぶことができよう。」「白井喬二氏はりっぱな理論家であった。いかにも氏は指導的理論家としての風格を備えておった人である。けれども何と言っても、一方に多忙な作家としての仕事を控えている人だった。」「言わば白井氏は大衆文芸の正統的理論家としては、孤立無援の立ち場にいたのである。」(『大衆文藝』昭和16年/1941年1月号 中谷博「理論家としての白井喬二氏」より)

 それでまあ、当然と言おうか、直木賞創設の折りには委員会のひとりに加えられます。白井さん45歳。40代なかばにして、もうすでに「大衆文芸」界では年輩のほうです。最初の直木賞委員、菊池寛、佐佐木茂索大佛次郎久米正雄小島政二郎、三上於菟吉、吉川英治のなかでは、菊池さんの一つ下、2番めの年長者でした。「ボケたオヤジが、新しい小説が理解できなくてウンヌン」などという、通ぶった人が好んで用いる文学賞観など、まだ通用しない時代でした。

 なにしろ白井さん、理論家です。自分が切り開いてきた、という自負もあります。直木賞委員となって、いろいろ言いたいこともあったでしょう。……と思いきや、さにあらず。それこそ枯れ果てたころになって書いた自伝『さらば富士に立つ影』では、けっこうあっさりと直木賞制定のころを語っています。

「直木三十五の物故で急に直木賞が制定された。同時に芥川賞も決定した。その決定の席にぼくも加わった。原案としては菊池寛賞一つにしぼるはずであったが、席上、久米正雄が、「菊池君、生きている内にそんな賞をつくるよりか、後世にまった方がいいと思うね」といった。ぼくは聞いていて感動した。菊池寛はいい友人を持ったものだと思った。菊池寛も「うん」とすぐうなずいた。名優同士という感じだった。これで二賞がそろって発足した。

 ぼくはその席で直木賞の審査員をたのまれた。直木賞と芥川賞の詮衡室は同じだったから最初のころはどっちの審査員も両方の作に意見をのべ合ったりしたものだった。ぼくは十五回まで審査にあたったが旅行先きから電報で選者評を送るようなこともあって、あまり勤勉な審査員ではなかった。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影』「文藝懇話会」より)

 そうとう曖昧模糊たる記憶のなかで書き記しているんだろうな、ってことは、「十五回まで審査にあたった」とあるところからもわかります。あ、あのう白井さん。第16回も一応、電話回答のかたちで参加されていたらしいんですけど……。

 選考委員として怠惰だったらしいことは、白井さん自身の回想をまつまでもなく、直木賞史上、たいへん有名です。なにしろ最初の最初、誰しもが期待に胸おどらせていたはずの第1回、直木賞委員のなかでただひとり、選評を書かなかった白井さん。あまりに出席率が悪すぎて、小島政二郎さんからマジ切れされている白井さん。

 だいたい戦前の直木賞は、かなり真剣味に欠いていたとも言われています。そのなかで受賞を機に文壇に登場できた人たちはいいとして、何度も落選の報ばかりを受け取った人は、たまったもんじゃないと思うわけです。長谷川幸延さんとか。大庭さち子さんとか。あるいは岩下俊作さんとか。

 ということで岩下さんです。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の「富島松五郎伝」を皮切りに、第11回(昭和15年/1940年・上半期)では同作がふたたび予選にかけられ、第12回(昭和15年/1940年・下半期)「辰次と由松」、第13回(昭和16年/1941年・上半期)「諦めとは言へど」で連続して最終候補に残り、第17回(昭和18年/1943年・上半期)「西域記」が連載途中で候補に挙げられました。都合5度。

 岩下さんが亡くなったのちには、直木賞を引き合いに出して、こんな記事も書かれました。

「地方在住の作家ではあったが、その死亡記事は全国紙にも大きくあつかわれ、直木賞を逸しながら賞にかわる人気を得た作家としてしのばれた。

(引用者中略)

 火野葦平は「無法松の一生」にふれて、「人間の一生の方角を決定する運命の瞬間というものがある。岩下もたしかに、その運命に翻弄された」と書いたが、岩下俊作は無法松の作家として、直木賞以上の庶民的栄誉を手に入れたといえよう。」(『週刊朝日』昭和55年/1980年3月14日号「誌碑 賞は逸したが人気は博した作家」より ―署名「勇み駒」)

 世のなかには「直木賞脳」ってものが、たしかに存在すると思います。どうしたって物事を直木賞との関連で見ようとしてしまう意識(無意識)のことです。ワタクシなど、その病にかかってもう20年以上たちましたが、この「勇み駒」さんも、まさしく直木賞脳の患者でしょう。死してなお、直木賞がどうだこうだと言われてしまう岩下さん。何だか申し訳ない気持ちです。

 ただそれだけ岩下さんは、直木賞史のなかに無視できない足跡をのこした人であり、何度取り上げたって足りないほどの重要人物なのです。すみません、選考委員・白井喬二さんの相手役として、またまたご登場願うことにしました。

 白井さんがもっと熱意をもって直木賞選考に当たっていたら、あるいは岩下さんは受賞していたかもしれません。第10回、選考委員のほとんどが「岩下俊作」の名を知らず、ぽーんと「富島松五郎伝」が候補作のなかにまぎれ込んでいたとき、これに大きな丸を付けたのは白井さんでした。

「私は右の作(引用者注:最終候補に残った5作)を再読考慮した上、「富島松五郎伝」と「妻の戦争」とを選び、次作として「火の十字架」を挙げておいた。(引用者中略)

「富島松五郎伝」は、一車夫の野生と純真さを描いた作である。鈍重な筆致であり、文学形式としては一種の旧套派であろう。然し強く読む者の魂をゆらいで行く所がある。直木賞が第一回より才林に囲繞されている際、斯かる茫野を其の一角に押立てる事も、あながち無意味ではないと信じた。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号より)

 つまりどういうことでしょうか。それまでの受賞者とは、何か違う資質なり作風なりを感じ取り、その点で岩下さんを推した、ということでしょうか。

 ときに第10回は、選考会に芥川賞委員たちも参加させられ、大衆文芸って何なんだ、とそんな話題で時間が費やされた回です。直木賞専任の委員は、吉川英治さんも三上於菟吉さんも欠席。そして白井さんまでも「私は、審査会には欠席勝だったが、意見は通達しておいた。」(同号)と、その場にいない。ずっと直木賞の選考に関わってきた小島政二郎さんや大佛次郎さんが、いかにも直木賞側の代表みたいなかっこうになってしまいました。

 で、小島さんです。堤千代「小指」に惚れ込み、これを推薦することに執着。「小指」を差し置いて受賞に近づくほどの票を得た「富島松五郎伝」を、「断じて大衆小説ではない。仮りに一歩を譲って、大衆小説だとしても、大衆小説としては優れた作品ではない。」(同号)と蹴落とそうと必死でした。これでは、「富島松五郎伝」が受賞する芽もしぼんでしまいます。

 結局、選考会は流れ、受賞作なしとなりました。このあたりの模様を岩下さんの三男、八田昂さんは『霧のなかの赤いランプ――無法松・俊作の一生――』(平成20年/2008年6月・北九州文学協会刊)のなかで、かなり詳しく紹介しています。ここで八田さんは、「富島松五郎伝」に対する評価は、純文壇と大衆文壇の対立を表面化させたもの、との解釈をしています。

「当時、直木賞の不振が続いていたため、芥川賞の委員が加わり、初めて合同の選考が行われた。この席で、芥川賞の委員を中心に「松五郎傳」を直木賞に推す意見が大勢を占めた。しかし、直木賞委員の小島政二郎は「『松五郎傳』は断じて大衆小説ではない」として反対、樋口一葉の片鱗さえ感じさせるという堤千代の「小指」を強く押した。

(引用者中略)

 この直木賞の選考は、作品の評価が分かれただけでなく、小島が「我々は芥川賞の委員という素人大衆小説鑑賞家を教育する義務を負わされた」と語っているように、純文学対大衆文学という対立の根深さが浮き彫りにされた。」

 このあと、その対立を懸念した菊池寛さんが、選考委員に、岩下よりも堤を支持する意向を伝えてその結果、次の回、堤千代「小指」その他が受賞した、というふうな話が続いていきます。

 しかしワタクシは思うのです。第10回の直木賞を襲ったのは、純文学対大衆文学の「対立」などでしたでしょうか、と。

 直木賞委員の大佛さんは、この回、どの作品にも触れていませんが、少なくとも「富島松五郎伝」授賞には反対していません。むしろ多数決の結果を尊重して、受賞作を出すべきだった、と言っています。猛烈な反対者は、小島さんぐらいのものでした。彼の語る「大衆小説」が、とうてい直木賞委員を代表する大衆小説観でなかったことは明らかです。問題は、病気の三上さんは別として、吉川英治さんも白井喬二さんも、選考会に出てこなかったこと。この回ばかりでなく、以前から欠席が目立っていたこと。そのせいで、小島さんがムキになること甚だしく、直木賞委員会では彼の声だけがひときわ強く響いた。そこにあるのではないですか。

 ちなみに欠席の吉川さんも、白井さんと同様、「富島松五郎伝」を推薦していたようです。この作が『オール讀物』に転載されるときには推薦文を寄せ、岩下さんから大感激・大感謝されているほどです。白井さん、吉川さん、二人がこの回、選考会に出ていって、きちんと「富島松五郎伝」への賛意を語っていたら、まず岩下さんの受賞は固かったと思います。

          ○

 白井さんのハナシを続けます。

 大衆文学理論、ということにウルさい人であったことは、冒頭述べました。ただ、白井さん、そういう「理論」を直木賞の場に持ち込むことはしませんでした。

「いったい僕は、直木賞のえらび方を、僕の大衆文学理論とは、別格に置いて、特に直木賞としての独自の角度を決めているのである。直木自身も偽りなく云えば角度の狭い作家であったし、亦、大衆文学それ自体も、こんにち完成のめどが付かず中途進撃中というのが当っているのであるから、勢い直木賞の観点と大衆文学理論の全幅とを合致せしめることは、今の処到底おぼつかないと思わなければならぬ。」(『文藝春秋』昭和16年/1941年3月号より)

 要は、かっちりとした理論をもとに選考などできないと吐露しているわけですね。あるいは、直木賞なぞは、俗にいう「大衆文芸」全般とは違うものなのだから、それに応じた選考をしますよ、っていう姿勢なのでしょうか。つまり、直木賞は「大衆文芸」に贈られる、みたいな一般に信じられている前提には、立っていなかった委員でした。第10回、岩下俊作さんを推したのも、大衆文芸かどうか、という尺度からではなかったに違いありません。第12回古澤元さんへの支持を表明したのも、やはりそうでしょう。

 ちなみに、この回、岩下俊作さんの「辰次と由松」が候補に残っていました。白井さんは短く、反対意見を書いています。

「岩下俊作氏の「辰次と由松」と長谷川幸延氏の「法善寺横町」とがあったが、前者はこの前の「富島松五郎伝」に遠く及ばず、後者は生憎四頁ほど落丁で読落しの部分があったためか、軽妙さのみが閊え物のように心に留っただけだった。」(同号)

 岩下作品の評はともかく、「法善寺横町」に対する表現がスゴいですね。4ページほど落丁のまま読んで、それで選考に臨んで反対意見を語るという。「真剣味の足りない戦前直木賞」の姿が、ここにもありました。

 半年後の第13回。ふたたび岩下さんと長谷川さんがともに最終候補に残ります。「諦めとは言へど」と「冠婚葬祭」です。この回は選考会の模様が座談会形式で文字起こしされ、そのまま載っていますので、白井さんの選考態度がより明瞭に、読み手に伝わってきます。

白井 長谷川(引用者注:幸延)という人は、「漫才と兵隊」というのがよかった。今度も最後がいい。ほかのは岩下君の「諦めとは言へど」にしても、三分の二は非常にいいけれども、お終いが通俗小説に堕している。

佐佐木 あれからもう少し書くべきですね、あそこでそれをはしょった。

(引用者中略)

白井 しかし、まア本格的に時局物をあれだけの規模で書いたというので、「雲南」(引用者注:木村荘十「雲南守備兵」)なんかいい所じゃないかね。終いがやはり少し甘くなってしまって欠点はありますが、あれはまア仕様がない。

(引用者中略)

白井 岩下氏も度々出て来て惜しいですね。今度のは前のと較べて、前半が私はいいと思った。あれはほんとうか嘘か知らないが科学的な機械のことは、ああいうのはやはりちょっと面白いと思う。

佐佐木 あれだけロープのことや何か詳しく書けば、結末の所ももっと書けばよかった。

白井 あの機械の所は非常に面白い。あそこを飽かさず、寧ろ読む者をして昂奮せしめるような気持に誘って行くところは非常な手腕だ。」(『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号より)

 さすがに今の選考会では、一作一作に対して、こんな感想程度で終わったりはしないでしょうが、要は「諦めとは言へど」は最後がダメだ、と言っています。対して「雲南守備隊」は、最後がダメだけど「あれはまア仕様がない」と弁護しています。何が仕様がないのかは、読んでもよくわかりません。

 ちなみにこの回は、小島政二郎さん、白井さんが選考会に揃い、両者バトルを繰り広げました。結果、小島さんの推す長谷川幸延さんはやぶれ、白井さんの強力プッシュが勝って木村荘十さんの受賞が決まります。この過程を見てしまうと、ああ、第10回のときに白井さんが出席していたらな、と改めて思ってしまうのです。

 当時の岩下さんの心境を、先に引用した八田昂さん『霧のなかの赤いランプ』では、こう紹介してくれていました。

「「松五郎伝」に続いて「辰次と由松」「諦めとは言へど」「防塞おちて」などを相次いで発表するが、直木賞の最終候補に残っても、「松五郎傳」と比較されることもあって選に漏れていった。

 当時の日記には「トレレバ、ウレシ、トラネバ 物ナラズ、未熟ナ才ヲ持ツテ、ナマナカ中央進出ノ機運ニ メグマレタダケ」と記して、弱気になっていた。直木賞をとれば、何かと考えねばと思うこともあったが、たとえ受賞ということになっても、俊作を取り巻く環境は厳しく、作家として一本立ちしたり、上京ということができる筈もなかった。」(前掲『霧のなかの赤いランプ』より)

 まったくねえ、「あまり勤勉な審査員ではなかった」とか言っている場合じゃありませんよ、白井さん。ワタクシは、第10回の直木賞が「富島松五郎伝」を選び得なかったことは直木賞の汚点のひとつだと思いますけど、菊池寛さんに伍して物の言える立場にあったあなたが、もっとしっかり直木賞に関わっていてくれたらなあ、と悲しくなってくるのです。

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