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2013年6月 2日 (日)

小野詮造(文藝春秋新社・事業調査部長→『オール讀物』編集長) 50年代の「直木賞黄金時代」の中枢にいた名部長、名編集長。

小野詮造(おの・せんぞう)

  • 明治45年/1912年7月16日生まれ。
  • 昭和11年/1936年(23歳)早稲田大学国文科卒。
  • 昭和16年/1941年(28歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(33歳)文藝春秋新社の設立に参加。
  • 昭和27年/1952年(39歳)直木賞・芥川賞の運営を担当する事業調査部長に就任。
  • 昭和29年/1954年(41歳)より『オール讀物』編集長を務める。以後、編集局次長(昭和35年/1960年)、編集局長(昭和36年/1961年)、相談役(昭和57年/1982年)など。

 『オール讀物』の編集長っつうポストは、長くてもだいたい4年程度で交代します。……って、人の会社の人事などどうでもいいんですけど、直木賞と密接に関わる話題なので、しかたありません。

 なかで、歴代編集長のうち、長期にわたってその職にあった人。たとえば小野詮造さん、という方がいます。6~7年間は編集長を務めていたみたいです。直木賞でいえば、第30回(昭和28年/1953年下半期)~第44回(昭和35年/1960年下半期)のこととなります。

 この時代は、直木賞黄金時代、とのちに呼ぶ人が現われたほど(ワタクシがたったいま命名しました)、豪華な受賞者陣を生んでいます。戸川幸夫新田次郎南條範夫山崎豊子城山三郎平岩弓枝司馬遼太郎池波正太郎……。〈豪華〉というのは、いま振り返ったときの感想です。受賞当時はだいたいみなさん、まだ本の一冊も出していないとか、そもそも一度も商業誌に小説を書いたことがないとか、そんな人ばっかりでした。直木賞の受賞が引き金となって、これだけ多くの人が職業作家の道に進み、それぞれが小説界の屋台骨を支える地位にまでのぼっていった、という。「黄金時代」と呼ばれるゆえんです。

 で、そのとき『オール讀物』の編集長だったのが小野さんです。小野さんがいなければ、彼らの文壇登場もなかった、……とはさすがに言えませんが、彼の名前は、直木賞受賞者の回想文などにはしばしば登場します。おかげで小野さんも、映画に出たことのある素人役者、としてだけでなく、「名編集者」といった評価を、いまも得ています。おそらく。

 たとえば新田次郎さんは、信頼できる編集者のひとりに、小野詮造さんの名を挙げています。『小説に書けなかった自伝』から。

「私は、この頃(受賞して2年、昭和33年/1958年ごろ)になってもまだ小説家としての確信のようなものが持てず、この世界から突然消えて行く自分の姿におびえていた。(引用者中略)当時、小野詮造氏は「オール讀物」の編集長をしていた。彼は役人作家としての私を認めてくれた第一番目の人であった。

 彼は年の初頭に、何月までに現代ものを何枚、そのつぎには何月までに時代もの何枚というように仕事の予約をしてくれた。大体年三本であったが、このように前から話があると、それまでによいテーマも探せるし、時間の調整もできてまことに助かった。「小説新潮」の方は川野黎子氏が最初から私の担当だったが、やはり私の立場を理解して、原稿を渡した瞬間に次の原稿の予定枚数と期日を知らせてくれた。」

 ここからわかることは、小野さんが、新田さんのことを、きちっと計画を立てて書くことで力量を発揮できる人だ、と見抜いた事実です。そして、わざわざそんな原稿依頼の仕方をした、と。さすがです。

 新田さんのなかで、さらに小野さんの株が上がった、と思わせるエピソードが、そのあとに出てきます。『酒』誌での有名な、文壇酒徒番付と匿名編集者座談会の一件です。これに新田さん、ムッとし、編集者というのは小野さんみたいな人たちばかりでない、と教えられたんだとか。

「私はこの日まで編集者には特別な敬意を払っていた。(引用者中略)ところがその人たちが、匿名をいいことにして、かなり名の通った作家に対しても乱暴な調子でこきおろしているその記事を読んで以来、私は編集者全体に対して、大きな不信感を持つようになった。編集者は小野詮造氏や川野黎子氏のような人ばかりではないと思った。気をつけないとひどい目に会うかもしれないとそれからは注意することにした。

 「酒」の角力番付における私の位置はずっと砂かぶりであったが或る年前頭に昇進させて、敢闘賞をやるから、その言葉を原稿に書いて送ってくれと云って来たことがあった。私はこの番付と座談会がまことに不愉快な存在であることを指摘して執筆を拒否した。現在も尚、このばかげたことが為されているかどうかは知らないが、作家をこきおろすんだったら、堂々と本名を使ってやればまた別な味も出ることだろうと思っている。」(同)

 これで、じつは匿名座談会の出席者のひとりに、小野詮造さんがまじっていた、なんて真相が明らかになったら仰天です。もちろん、そんなどんでん返しはありません。新田さんにとって、大切な理解ある編集者でした。

 つづいて登場するのは、池波正太郎さんです。五度、直木賞候補に挙がりながら、手が届かず、第43回(昭和35年/1960年上半期)「錯乱」でようやく賞が与えられます。この過程をつぶさに見る立場にあったのが小野さんです。と言いますか、小野さんは、池波さんの受賞に、重要すぎるほどの役割を果たした人です。

 ご本人の回想から。ちょっと長めですが引用してみます。

「私(引用者注:小野詮造)は、昭和廿七年以来、直木賞選考委員会の進行係を受持っていたので、およそのことは記憶にあるが、なかでも惜しかったのは、第三十六回に、『恩田木工』が候補になった時である。『恩田木工』はその回の、有力な本命と目されていた。しかし、遂に受賞作に推されなかった。

 今東光穂積驚両氏が、その時の受賞者である。お二人の直木賞受賞パーティの席で、挨拶に立たれた日本文学振興会の佐佐木茂索理事長が、最后に声を張り、

「池波さん、池波さんはこの席におられますか」

 と呼びかけられ、今度の『恩田木工』が、受賞にはずれたのは残念なことであった。あの作品は受賞作と比べて遜色なかったと、自分は思っている。池波さん、どうかこれからも精進をつづけて、是非近い将来、直木賞を受けて欲しい。そんな風に語られた。

(引用者中略)

 長い間、「オール讀物」を担当していた私として、挨拶をきいたとき、示唆に含んだその言葉の意味を、ただちに悟らねばならなかった筈である。思えば迂闊なことであった。

 池波さんはそれからも、時代物作家として、有力な直木賞候補であった。しかし私は、ずっと何の仕事も頼んでいないのである。」(昭和51年/1976年5月・朝日新聞社刊『池波正太郎作品集3』「付録月報4」所収 小野詮造「『錯乱』の思い出」より)

 ということで、第36回の「恩田木工」から、第37回「眼」、第38回「信濃大名記」、第40回「応仁の乱」、第41回「秘図」まで、5度の候補作はすべて『大衆文藝』に掲載されたもの。そのまま『オール讀物』が、池波さんに小説を依頼していなかったら、どうなっていたのか。知るすべはありません。小野編集長が……いや、池波さんの先輩、北條秀司さんが、小野さんのところに訪ねてきて、こんなやりとりがあったからです。

「北條さんは、

「今日は君に一寸用があって来たのだが、一応二人だけの話としてきいて貰いたい」

 と前書きされて、

「実は池波君のことだが、彼は僕の仲間の一人で、『鬼の会』(北條氏を中心とした劇作家の親睦会)のメンバーでもあり、マジメで、なかなかいい仕事をしているんだよ。御承知の通り、何回も直木賞の候補にもなって、今が大事な時なんだ。君は池波君を、どう思っているのか、ひとつ本気で考えてみてくれないか。彼を励まして、いいものが書けたら、『オール讀物』で取りあげるようにできないものか。よろしく頼みますよ」

 まことに云われる通りで、全く一言もない。

 北條さんは、シビレを切らして態々たずねて来られたのである。それは佐佐木さんの挨拶を聞いた時、すぐ私が思い当らねばならぬことでもあったのだ。

 私は自分の編集者としての怠慢を、ピシャリと一本、正面から打ち込まれたと思った。ハッキリそう思ったのである。」(同)

 それではじめて『オール讀物』が池波さんに「題材は自由に」ということで依頼し、出来上がってきたのが「錯乱」でした。これが、何だかんだと非難を受けつつ、6度目の候補でようやく受賞。

「私も格別嬉しいことであり、正直云って、肩の荷を降ろしたようにホッとした。」(同)

 と小野さん、安堵に包まれたわけです。たかが候補になった程度で、『オール讀物』が声をかけることはない、という当時の直木賞事情、『オール讀物』事情がかいま見えるエピソードではあります。

 池波さん6度目の選考会は、海音寺潮五郎さんが猛反対し、川口松太郎さんが強引に押し切って授賞に導いた、というのはよく知られているところです。『オール讀物』平成25年/2013年5月号「池波正太郎の手紙」でも、そのように紹介されていましたね。いったい、このとき司会役を務めていた小野さんが、どんな気持ちで進行していたのか、想像するのも楽しいことです。

 小野さんが編集長だった頃の直木賞は、いまからは想像できないくらい、『オール讀物』の小説や、文藝春秋新社から出た小説が、候補に挙がる機会が少なく、受賞も稀でした。しかも「錯乱」は、じつは最初、文藝春秋新社の予選では評判が高くなく、外されかかったんですが、「もう一度だけチャンスをあげたい」という声が出て、予選通過作となった、なんて紹介する文献もあるんです。それで何とか受賞したのですから。小野さん、本気で「ホッ」としたのかもしれません。

          ○

 あまりに小野さんの頃と現代とでは、状況がちがうので、いまの直木賞と比べるのは無理のあることです。どちらかというと、戦前に香西昇さんが編集長をしていた頃と、近いかもしれません。

 香西さんが新人作家を集めて〈礫々会〉を結成していたように、小野さんもまた、直木賞付近にいる新人作家を招いて、交流会みたいなものをひらいたんだそうです。香西さん期待の作家たちは何人も直木賞を受賞しました。同じく、小野さんの目をかけた人たちのなかからも、受賞者が生まれていきます。

 永井路子さんとか。

「はじめてものを書き始めたのは懸賞小説だから、全く同人雑誌の経験はなかった。小学館で、雑誌の編集をしていたので、雑誌に載ることと同人雑誌の活動とは、全然別のことだということが早くからわかっていた。その上、自分には暇はなかったし、自分の目指しているものが、いわゆる純文学とは違うので、同人雑誌に入ろうという気にはなれず、懸賞でやっていこうと考えた。」(平成16年/2004年9月・大正大学出版会刊 寺内大吉・永井路子・著『史脈瑞應』「第2章 永井路子の生い立ちから「近代説話」まで」より)

 と、とくにグループに属さず歩んでいた永井さんが、職業作家としてやっていく決心をしたり、『近代説話』に参加するようになったのは、小野さんがいたからでした。

「そのころ、「オール読物」(文藝春秋社発行)は小野詮造さんが編集長で新人作家を十四、五人集めて「しっかりいいものを書け、載せてやろう」と激励してくださった。その席上、清水正二郎(胡桃沢耕史)さんや、直木賞受賞前の池波正太郎さんを知った。その後、小野編集長のおすすめで書き上げた「応天門始末」が「オール読物」に載り、続いて持っていった「青苔記」が直木賞候補になり、それを機に小学館を退社した。一方、清水さんとも親しくなり、「近代説話」に入ることになった。」(同)

 おや。ここに「直木賞受賞前の池波正太郎さん」が出てきているぞ。時期としては、この会合のあったのが、昭和34年/1959年と思われますので、小野さんが、北條秀司さんから直接アツをかけられ、池波さんに原稿を依頼した前後、かもしれません。

 胡桃沢さんは結局、候補になるのはずーっと後ですが、永井さんのように、なんだかんだで、小野さんのお世話のおかげで、直木賞と関わりを持つようになった人は、他にもおりましょう。小野さんはまぎれもなく、直木賞黄金時代を築いたひとりです。ただ、現在の直木賞への影響、って意味で見ますと、黄金時代ははるかかなたの昔となり、関連性を見るのは難しくなっちゃっています。もしかして小野さんからの「置きみやげ」があったとすると、その最大のものは、「新喜楽」かもしれません。

 一年ぐらい前に、直木賞選考会場「新喜楽」の木村さくさんを取り上げたことがありました。そこでワタクシはこう書きました。「当時の文藝春秋新社社長、日本文学振興会理事長だった佐佐木茂索は、戦後まもないころから、「新喜楽後援会」に参加していたほどです。銀座を愛し、料亭文化を愛し、さらにはきっと女将の人柄を愛したゆえの、新喜楽への肩入れだった、と見たいところです」。……ところが、いや、じつは私が、新喜楽を会場に固定化させた張本人なんです、と名乗りをあげる人がいます。小野詮造さんです。

「昭和二十七年、芥川賞・直木賞の運営などのために文藝春秋社内に新設された事業調査部の部長だった小野詮造(現・相談役)が語る。

「選考会場は、戦前は魯山人ゆかりの『星ヶ岡茶寮』を使ったり、戦後しばらくは『藍亭』といった他の料亭だったこともあり、特に決まってはいませんでした。『新喜樂』は、戦災で焼けていなかったことや、女将だった木村さくさんの甥の蒲田良三さんと私の縁もあって、私が事業調査部長になってからは、自然と選考会場は『新喜樂』となりました(引用者中略)

 毎年、一月、七月の選考会を必ず「新喜樂」で行うようになったのは、昭和三十五年からのことである。」(『本の話』平成7年/1995年9月号「芥川賞直木賞六十年のゴシップ」より ―構成・文:編集部)

 ほお、そうだったんですね。小野さん、それはそれは失礼しました。何でもかんでも佐佐木茂索さんや池島信平さんの実績にしてはいけませんね、あなたのような縁の下の編集者がいるから、直木賞はつつがなく、ここまでやってこられたのです。

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