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2013年5月26日 (日)

長谷川泉(「直木賞事典」編集人) 芥川賞は芥川賞のことだけで語れます。直木賞は、芥川賞といっしょでないと、語ることなどできないのです。と。

長谷川泉(はせがわ・いずみ)

  • 大正7年/1918年2月25日生まれ、平成16年/2004年12月10日没(86歳)。
  • 昭和17年/1942年(24歳)東京帝国大学文学部国文学科を卒業。
  • 昭和24年/1949年(31歳)東京大学大学院修了。医学書院に入社。編集者として活動するかたわら、清泉女子大学教授、学習院大学講師などに就任、文学研究を続ける。
  • 昭和52年/1977年(59歳)至文堂『国文学 解釈と鑑賞』臨時増刊号として「芥川賞事典」(1月)、「直木賞事典」(6月)を編集。
  • 昭和54年/1979年(61歳)医学書院の社長に就任。

 なぜあなたは、芥川賞じゃなく直木賞に、そんなに執心するんですか、とよく訊かれます。

 根本は、物語性重視の時代小説や推理小説、冒険小説その他もろもろが好きだから、なんですが、それは直木賞に興味をもったトバ口にすぎません。そこから直木賞の歴史や、世間の反応、取り扱われ方などを調べるようになりまして、呆然としました。芥川賞のそれに比べたときの格差が、何とまあ、ありすぎること! 正直、驚いて、困って、嘆きました。そんな感想を抱いたまま、払拭することができず、ずぶずぶとドロ沼のなかに歩を進めるようになった。っていうのが正直なところです。

 「直木賞も芥川賞も、そんなに変わんないじゃん」と思いましたか? どうぞ、調べてみてください。ここ十年弱の、「文学賞メッタ斬り!」を中心とした両賞に関する反応だけを見て、満足してはいけません。昭和10年/1935年創設から、時代ごとにおける、直木賞に対する反応を追ってみる。もうそれだけで一生がつぶれること、請け合いです。

 最近はインターネットほか、デジタル環境の整備が進んでいますので、一生をつぶさなくてもいいかもしれませんけど。それはそれとして。

 昭和52年/1977年1月。の奥付ですから、実際はその前月ぐらいには売り出されたんでしょう。『国文学 解釈と鑑賞』が臨時増刊号「芥川賞事典」を発刊しました。ときに世間は、第75回(昭和51年/1976年上半期)芥川賞を、村上龍さんが受賞してからまだ半年も経たないころです。アクタガワショウ・アクタガワショウってうるさいけど、じっさい、それ何なんだ、と思う人も多く、そこに「芥川賞事典」の刊行される土壌がありました。実売数はわかりませんが、編集を担当した長谷川泉さん自身、「広く迎えられた」と表現しています。

「最近「国文学 解釈と鑑賞」一月臨時増刊号として「芥川賞事典」(至文堂)を編んだ。ちょうど村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞して、いろいろ論議を呼んだあとであったので、広く迎えられたようである。

 (引用者中略)「芥川賞事典」が迎えられたのには、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が、石原慎太郎の「太陽の季節」いらいの、芥川賞が世評にのぼったことに支えられているともいえる。」(平成10年/1998年8月・明治書院刊『長谷川泉著作選12 評論・随想』所収「芥川賞の人びと」より ―初出『向陵』昭和52年/1977年4月30日)

 なにしろ芥川賞に対する注目度は、その後も浮き沈みを経ながら、延々と続きました。芥川賞の歴史について何か書こうとする際には、この一冊は欠かせない参考資料ともなって、『回想の芥川・直木賞』を書いた永井龍男さんはじめ、多くの人が恩恵に浴してきました。むろんワタクシもそのひとりです。

 長谷川さんは旧制一高時代には、文芸部の委員として創作にも手を染め、森鴎外、川端康成三島由紀夫の研究に邁進し、まじめな文芸の世界で生きてきた人ですから、芥川賞の対象とするような文芸世界は、お得意分野です。「事典」の巻頭には、「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を寄稿(のちに昭和53年/1978年1月・教育出版センター刊『近代日本文学の側溝』に収録)。ざっくりと芥川賞の歴史を振り返りつつ、「新人賞としての芥川賞」が、純文学界のなかでどのように変容していったか、みたいなことをまとめました。

 直木賞に関しては、次のごとく、軽ーく触れるにとどまっています。

「芥川賞と対蹠的な賞である直木賞は規定によってあきらかなように「大衆文芸」に対して与えられるものであるが、この賞もまた「新聞雑誌(同人雑誌も含む)に発表されたる無名若しくは新進作家」が対象である。共に「新進作家」の方は、解釈と実際の取り扱い上の境域に微妙な点がある。同じく新人賞であるとは言っても、芥川賞の方が新人たる限界の解釈において厳密である。そのことは、すでに引いたように田宮虎彦の「絵本」が芥川賞の候補作からはずされて辻亮一の「異邦人」が受賞に決定した第二十三回(昭和二十五年上半期)の選評で坂口安吾が触れて、当然候補からはずすべきだと書かれている檀一雄の「石川五右衛門」「長恨歌」が第二十四回(昭和二十五年下半期)直木賞を受賞していることなどによっても察することができる。」(「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」より)

 なるほど、芥川賞は新人解釈が「厳密」で、直木賞はゆるゆる。たしかにそうです。

 ただ、ワタクシなどは、「直木賞と芥川賞が並べられると、たいてい人間は芥川賞側の基準・物差しで思考しようとするもの」っていう、なかば被害妄想があるもんですから、あえてこう言いたいと思います。直木賞のとらえる「新進」のほうが、あいまいでどうとでも取れる分、現実的であると。

 要は、芥川賞が厳密さをもって「新進」を解釈しようとしていた時代がある、または選考委員がいる、ことは否定しませんが、それ、貫徹できましたか? けっきょく形骸化しちゃって、理想論化、空論化して、ときどき直木賞みたいな「新進」解釈をしないと身動きがとれなくなったり、していませんか?

 最初から、より現実的な「新進」解釈をしてきた直木賞のほうこそ、先進性の面で勝っているのじゃないんですか。

 ……すみません。直木賞を擁護していたら、つい熱くなってしまいました。まあ、文学賞としては現実的よりは無謀なほうが面白いし盛り上がる。それは認めます。直木賞が長らく、芥川賞ほどの爆発力を持てなかったのは、大衆文芸が純文芸よりも下に見られて云々の問題もさることながら、どうしても地に足のついたものを望み、現実路線を歩むほかなかった道行きも、影響していたのかもしれません(←思いつきです)。

 さて、長谷川さんです。「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を発表したあと、いよいよ『直木賞事典』を編集・刊行し、日本中のわずかな直木賞ファンに生きる希望と勇気を与えたるにいたるわけですが、その冒頭を飾るための原稿として、「直木三十五と「直木賞」の風雪」を寄稿しました。ほんとうに「風雪」って言葉が好きな方です。

 「~「芥川賞」の風雪」では、自分の興味に身近な、芥川龍之介のことやのちに名をなした受賞者たちのことをわんさか書くことにリキが入っていました。ところが「~「直木賞」の風雪」では様相が一変します。冒頭からいきなり、先ごろ決まったばかりの最新直木賞作、三好京三『子育てごっこ』について筆を費やしているのです。

「第七十六回「直木賞」(昭和五十一年下半期)が、三好京三の「子育てごっこ」に決ったことの意味をまず確認したい。それには「直木賞」選評のなかから「子育てごっこ」の作品評の、「直木賞」そのものへの背反ないしは懐疑の言葉を拾い出すことをなしてみよう。そのことは、芥川賞との関連についても、言及されていることを予想させることにもなる。」(「直木三十五と「直木賞」の風雪」より)

 つまり、どういうことかといえば、長谷川さんのこの文は、直木賞を単独で見る視点ではなく、「芥川賞と常に対にあった直木賞」という状況に主眼をおいて、書かれているってことです。『直木賞事典』の冒頭に掲げられています。

 ここに哀愁を感じない直木賞ファンなど、いるのでしょうか。直木賞が一つの独立した賞として取り上げられることなどあり得ない、絶対的に芥川賞がいっしょになければならない、なぜならオレがそんなことは許さない、と言わんばかりの、編集担当による宣言が、『直木賞事典』のしょっぱなに書いているわけですから。

 ……ええ、被害妄想です。

          ○

 長谷川さんの言葉には、ワタクシもうなずく箇所はあります。「直木三十五と「直木賞」の風雪」の後半にいたって、ようやく直木三十五や、直木と直木賞との関係を語ってくれているんですが、たとえばこんな記述があります。

「「直木賞」作品そのものにも、SFや、私小説的傾斜や、実録的な傾斜や、歴史小説や、現代小説や、ポルノ風の風俗小説や、規準軸の体系の混淆はあるにしても、さまざまな縦・横軸の蕩揺はある。そのことは、直木三十五という文壇における特異な才能が開花してみせた拡がりである。「直木賞」は、血刀を杖に立つ直木三十五の心霊を受けているかのごとく見える。」(「直木三十五と「直木賞」の風雪」より)

 ただ、長谷川さんです。先ほど、この一稿に対する長谷川さんの思いを、被害妄想まじりに推測しましたけど、被害妄想じゃないんじゃないかと考えを変えたくなるほど、長谷川さんは直木賞を直木賞だけで語ってくれません。

 上の引用文には、じつは続きがあります。こんなふうに。

「「直木賞」は、血刀を杖に立つ直木三十五の心霊を受けているかのごとく見える。そのことは芥川賞においても同様の感が深い。芥川龍之介が文壇の俊才として、その特異な才能を開花してみせた拡がりは大きいからである。芥川龍之介もまた血刀を杖に立つ凄絶な最期が強く印象づけられている。」(同)

 こんな文章、要りますか? 直木賞を解説する場で。

 とにかく、長谷川さんは「芥川賞」や「芥川龍之介」のことを、ことあるごとに言及します。ほんとうは「芥川龍之介と「芥川賞」の風雪(「直木賞」との比較において)」という題名にしたかったのではないか、と思わせるほどです。

「選考委員は両賞の場合、同一ではないから、選考基準と選考委員のものの考え方を反映して、両賞の受賞作品に差違が出るのは当然であるが、両賞の接近は、そのような末梢的な問題を越えて、もっと文学そのものの変質という根本的な課題のところでの偏差として提起されてくるものである。(引用者中略)その意味においては「直木賞」だけが変貌したのではなく、芥川賞もまた変貌したのである。」(同)

 これなんか、完全に芥川賞を語ろうとしています。

「カリエスも、神経痛も、肺結核も、直木三十五の肉体をさいなみはしたが、精神を奪うことはできなかった。その意味では、その死は死の瞬間まで凄絶であった。芥川龍之介の「末期の眼」が澄んでいたように、直木三十五の末期の眼の輝きを改めて認識し直させることになる。」(同)

 どういうことでしょうか。なぜ、この文脈に「芥川龍之介の「末期の眼」」が出てくるんでしょうか。

 と、何だかんだ言いましても、不毛の極致にあった直木賞研究の世界において、『直木賞事典』を編んだ長谷川泉さんの功績が、まったく偉大であることは揺るぎません。たとえ、「『芥川賞事典』、評判よかったね。じゃあ、直木賞のほうも出しちゃおうか。長谷川さん、今度もまた頼みます」と言われて引き受けた、二匹目のドジョウの扱いだったとしても、です。

 さらに、直木賞のことだけを取り上げるはずの『直木賞事典』に、芥川賞の存在を当然のように刻み付けてみせました。直木賞に課せられた「二番手」の運命を、はっきりと表現したのです。「直木三十五と「直木賞」の風雪」を書いたことで、長谷川さんの偉大さは、より増したと言えるでしょう。あるいは、罪悪が増した、と言い換えてもいいかもしれません。

 ワタクシも、もちろん人のことは言えません。直木賞を直木賞だけで取り上げることができず、まずは芥川賞の本を出し、そのあとで芥川賞とセットである関係性を強調して直木賞の本を出した長谷川さん。ワタクシは現状、罪悪感にさいなまれています。長谷川さんは、どうだったんでしょうか。

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