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2013年5月12日 (日)

進藤純孝(文芸評論家) 純文学の変質を語るときに、大衆文学の代表、という役を直木賞に当てはめる。

進藤純孝(しんどう・じゅんこう)

  • 大正11年/1922年1月1日生まれ、平成11年/1999年5月9日没(77歳)。
  • 昭和21年/1946年(21歳)東京大学在学中、新潮社に入社(昭和34年/1959年まで)。大学は昭和25年/1950年に卒業、昭和28年/1953年に同大学大学院修士課程修了。
  • 昭和40年/1965年(43歳)「芥川賞始末記―戦後文学の栄光と変貌」(『潮』9月号)をはじめ、さまざまな媒体で同賞に関する評論を発表。
  • 昭和50年/1975年(43歳)第11回から作家賞の選考委員に就任(終了となる第27回平成3年/1991年まで)。

 1950年代の芥川賞を語らせたら、おそらくトップ100に進藤純孝さんの名は挙がると思います。なぜなら、当時の芥川賞を語ろうとする人は日本で100人もいなかったでしょうから。……っていうのは冗談です。作家とごく親密な立場にある文芸評論家、みたいな立場から生の芥川賞を知っている進藤さんのような人には、ねえ芥川賞のこと何か語ってえ、お願い、といったマスコミからの注文がどしどし押し寄せた関係もあり、奥野健男さんと双璧をなして進藤さんは、芥川賞評論界をリードする存在となったのでした。

 評論界というか、あれです。50年代の受賞たちと親しく、しかも、芥川賞の歴史の分岐点に脇役として登場するぐらいの人ですから、それはもう、にわかに芥川賞の話題がさまざまな媒体で語られるようになった60年代、進藤さんほど芥川賞の回想を語るにふさわしい人は、そうそういませんでした。

 拙ブログでおなじみの顔、山本容朗さんが角川書店編集者時代につくった、進藤さんの著書より引いてみます。

「芥川賞といえば、遠藤周作さんに続いて、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞した。

 その受賞決定の一週間前に、石原さんが作品集「太陽の季節」を出版してくれないかと、私のところへ話をもってこられた。(引用者中略)

 一週間経ち、石原さんの受賞がきまった時、ただちに交渉するようにと部長から命令がきた。私は少しもあわてなかった。だいたい、受賞がきまって、その受賞者を追っかけるのはみっともないと、私はつねづね思っていた。

 受賞作は、その前に出版社がきまってない以上、賞の世話をした出版社から出すのが、当り前であり、それを邪魔するのは、横取りみたいで醜悪なことであろう。いくら、ジャアナリズムが、非情冷酷な競争であるといっても、私は編集者が人間の誇りを持つかぎり、そんなことはできたものではないと考えていた。(引用者中略)

 私の仕事は、第三の新人あたりでストップしてしまった。石原さんは例外で、それ以上の新しさに、私は不快をいだいた。

 開高健さんや大江健三郎さんがデビューした時、多くの評論家たちは、「文学に新風を吹き込む」と合唱したが、なにが新しいのか私にはわからなかった。見せかけだけの新しさに、わいわいさわぐ活力を、私はもう持ち合わせていなかった。」(昭和34年/1959年12月・角川書店刊 進藤純孝・著『ジャアナリスト作法』「先取」より)

 「わいわいさわぐ」とは、つまり芥川賞のことを別の表現で示しているのでしょう。自分が「いいぞ!」と思ったものでも、わいわい騒がれると途端に冷めてしまったりするものですが、進藤さんもその病気に罹ったものでしょうか。

 何となれば進藤さんは、その直前、「わいわいさわぐ」と芥川賞が同義でなかったころの芥川賞には、ある程度の理解を示していたからです。

 「太陽の季節」出版の話を引き受けたころのことを、『文壇私記』ではこう書きます。

「呆れ顔でふり返ってみるのだが、やはり、小島信夫の『小銃』と庄野潤三の『愛撫』を手探りで出し、翌年両人が揃って芥川賞を受賞して手柄みたいなことになった、その自信も裏づけになっていたのであろう。

 もっとも、受賞した小島の『アメリカン・スクール』も、庄野の『プールサイド小景』も、みすず書房から上梓されたので、手柄どころではなかった。ついでに言えば、吉行(引用者注:吉行淳之介の『驟雨』も、こっちの担当で新潮社から出ている。当然(?)、これは文藝春秋から出版されるべきものだろうが、『原色の街』を収録したいという吉行の考えに難色を示したとかで、話がこちらに転げ込んだのだったと思う。(引用者中略)

 ともかく、こうして、小島、庄野、吉行と、新進作家の処女作品集あるいは受賞作を手がけて失敗もしなかったことが、一つの思い上りとなり、石原に「おひき受けします」なぞと大きなことを言う始末ともなったようである。」(昭和52年/1977年11月・集英社刊『文壇私記』「文壇の崩壊」より)

 進藤さんの回想は、謙遜や自虐がふんだんに詰め込まれていて、それはそれで味が出ているんですけど、ええと、どういうことですか。自分がこれぞと思った作家の作品集を出したら後から芥川賞が追いかけてきた。芥川賞受賞作をおさめた作品集を、自分の手で出すことができた。それが少なからず編集者としての自信になっていた、みたいなことでしょうか。

 で、結局そういった「わいわいさわぐ」状況に付き合い切れなかった自分を、進藤さんは、編集者の素質に欠けていたのだと判断し、あるいは物書きとの兼業が、新潮社内で嫌がらせを受けたりして居心地が悪くなり、昭和34年/1959年に文筆の道を歩むことを選択します。

 これで立派な文芸評論家。ってことは、自分の好きなことだけ書いてはおまんまの食い上げです。「わいわいさわぐ」芥川賞のことも、やっぱり触れざるを得ません。そこで進藤さんは、「ジャーナリズムのなかの文学」、あるいは「純文学と大衆文学の意味」みたいな、自分の関心分野とひっかけて芥川賞を語る……はい、それはつまり、進藤さんが合わせて直木賞をも語る土壌となったのでした。

 第53回(昭和40年/1965年上半期)、芥川賞は津村節子「玩具」と決まりました。評論界で、これの評判が芳しくなかったことは、『芥川賞物語』でもちらっと触れましたけど、進藤さんも「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」(『潮』昭和40年/1965年9月号)で、まずそのことに言及しています。

「芥川賞という出来事が、新人の登場という清新溌溂たる光景であるにもかかわらずこんなにも薄ぼけた印象しか与えないというのは、いったいどうしたことなのか。

 罪は津村節子の「玩具」にあるのではない。芥川賞受賞の出来事が、新聞やテレビ放送まで詰めかけるといった、昔は想像もできなかった派手な騒ぎようもむなしく、どうにも生彩を欠き、意気上らぬことになったのは、昭和三十六年頃からのことではないか。」(「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」より)

 「薄ぼけた印象しか与えない」というのは、もう進藤さんの主観です。それは、見せかけ(だけかどうかはともかく)の新しさに騒ぎたがる文壇と報道に嫌気が差してしまった進藤さん自身の問題なんだろうな、とは思うのですが、さっこんの女性作家は概して〈話上手〉、という自身の考えから、芥川賞に関してもこう評します。

「ここ三、四年の芥川賞の受賞作も候補作も、ほとんど話上手の才筆が選ばれている。芥川賞の女性化時代といっても差支えあるまいが、その故にこの賞の生彩もとみに喪われてきたのである。」(同)

 ははあ。話上手の才筆が、賞の生彩に関係するのだと。

 後段で進藤さんは、五味康祐松本清張両氏の受賞とその後の活躍に触れています。そこに描かれたのは、話上手な才筆=大衆文芸=直木賞、みたいな構図です。

「『喪神』は受賞後かなり評判が悪かった。直木賞との間違いではないかという批評もあった」と五味自身が語り、また松本の受賞作は、最初、直木賞の候補になっていたという事情からも察せられるように、作品の質が純文学の本質からそれており、これらの作品の受賞は、明らかに文学の変質を告げてもいた。

 端的にいえば、両作品ともに見事な完成度を示しながら、それは話上手な才筆に支えられており、作者の魂の呻きを呼吸し、疼きを息づく苦渋晦渋を、ほとんどとどめていないのである。

 こうした文学の質は、その頃から急激にふくれ上ったマス・コミ現象のなかで、小説の繁昌をもたらし、五味も松本も、純文学どころか、大衆文芸の領域に大きく座を占める作家になっていった」(同)

 なるほど。だから進藤さんにとって、直木賞は、生彩なく見えるのですか。ワタクシも「生彩ならあった!」と胸を張って弁護できないのが悔しいですけど、まあ、話上手な才筆が、賞の生彩を失わせる要因だみたいに言われちゃうと、直木賞、立つ瀬ないです。

          ○

 「直木賞と芥川賞の区別がつきにくくなった」って指摘は、最近では手アカが付きすぎて、誰も使わなくなりましたけど、進藤さんが評論家として立ったころは、もう猫も杓子もこの言葉を使いたがっていた時代でして、じつは隠れた流行語と言っていいと思います。

 1960年前後、盛んに純文学と大衆文学の差が、注目を浴びていた時代ですね。進藤さんもこのテーマで、よく直木賞と芥川賞のことを語ってくれています。

「芥川賞と直木賞はどう違うのかと問いつめられると、私は返答に困る。純文学と大衆文学とのけじめについても同様である。(引用者中略)

 大衆よりも半歩前進して、読み手をよろこばすように書けば事足りた大衆文学も、大衆よりも一歩前進して、書きたいことを書いていればよかった純文学も、今日の読者にはもの足りなく感じられるようになった。それだけ、読者は気むずかしくなってきたと言えよう。

 芥川賞と直木賞との差別がつけにくくなり、はっきりどちらと決められる作品はどこかに否めぬ欠陥があるというようなことになったのも、こうした読者の気むずかしさの反映と考えられる。」(『読売新聞』昭和36年/1961年5月24日夕刊 進藤純孝「読者の求めるもの 純文学と大衆文学について」より)

 ん、大衆からの前進の距離を比喩に使って、いかにも純文学のほうが先に行っているかのようなイメージ操作。ニクイっすね。みたいな不毛なツッコミはおいておくとして。

 ここで疑問に思うのは、直木賞や芥川賞の結果に、ほんとうに「読者の気むずかしさ」なんてものが反映されていたんだろうか、ということです。芥川賞のほうは知りませんけど、直木賞のほうは、何で笹沢左保がとれないんだよ!とか、星新一を低く評価するなんて許せぬ!とか、結構そんなふうに「読者」は思っていたんじゃないですか。「そんな人種は文芸作品の読者とは呼べません」などと言われたら、それこそ立つ瀬ないですけど。

 進藤さんはとにかく、大衆文学と純文学、という文学(文壇)概念を強く意識し、あるいはそれを突き崩そうと懸命に筆をふるいました。そのなかで、直木賞と芥川賞、という恰好のトレース紙を携え、大衆文学=直木賞、純文学=芥川賞、の見立てをさまざまな場面で利用、活用、援用しました。

「いったい六〇年代に始まった「純文学の風化」は、この二十年間にどうなったのであろうか。芥川賞は純文学の賞として、直木賞は大衆文学の賞として、相変らず新人、新進作家を登場させ、「人道と車道」の区別は常識としてあり、「双方向上」の趣である。(引用者中略)

 「純文学作家と大衆作家の区別など、とっくの昔からなくなっている」とはいえ、「一応の区別は立っている」というこの奇妙な一九六一年の状況は、二十年後の今日にまで及び、芥川賞と直木賞は相も変らず、新人、新進の登龍を純文学と大衆文学に区別している。(引用者中略)区別などなくなっているのに、なおも区別を立てようとするこの粘りには、最初に述べたように、よくもわるくも、日本文学、日本文化の特異体質が喰い入っている。

 そうした粘りを促したものは、文化、文芸の商業化である。」(昭和59年/1984年4月・明治書院刊 進藤純孝・著『現代文章講義』「第一部・理論篇「筆を執る前に」 四、誰に向って書くのか」より)

 と、進藤さんが概説してから、さらに30年弱がたちました。直木賞と芥川賞、相も変わりません。区別などなくなっているのに、なおも区別を立てようとする粘り、と言って言えないことはありません。

 進藤さんは、これらの区別は「常識して存在している」と言っていましたが、はてさて、いまの常識はどうなっているのでしょう。大衆文学と純文学の区別などもはやない、と言われていた数十年前と、いまとでは何がどう違うのか。直木賞と芥川賞がさっぱりなくなってみたら、それも判然とするのかなあ。

 ちなみにワタクシの実感は、直木賞のいう「大衆文芸」とは、いわば芸術性も大衆性も等しく重きをおく作品を指していて、それは昔からいままで、あまり変わっていないと思います(もちろん、そういう作品ばかりを選んでくることができなかったのは、直木賞の責任ですけど)。なので直木賞を、大衆文学と純文学の二項対立の状況をひき延ばしてきた元凶、とするのは直木賞にとっては無意識の罪、と言いますか、責任をかぶせるなら他を当たってくれ、という感じです。

 でもじつは、こうも思います。純文学の変質に関心がある進藤さんのような人に、純文学に相対する大衆文学の代表のように取り上げてもらえて、直木賞、買いかぶられた観ぷんぷんですけど幸せな賞だなと。なにせ、さして生彩を放つ賞でもないんですから。

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