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2013年5月の4件の記事

2013年5月26日 (日)

長谷川泉(「直木賞事典」編集人) 芥川賞は芥川賞のことだけで語れます。直木賞は、芥川賞といっしょでないと、語ることなどできないのです。と。

長谷川泉(はせがわ・いずみ)

  • 大正7年/1918年2月25日生まれ、平成16年/2004年12月10日没(86歳)。
  • 昭和17年/1942年(24歳)東京帝国大学文学部国文学科を卒業。
  • 昭和24年/1949年(31歳)東京大学大学院修了。医学書院に入社。編集者として活動するかたわら、清泉女子大学教授、学習院大学講師などに就任、文学研究を続ける。
  • 昭和52年/1977年(59歳)至文堂『国文学 解釈と鑑賞』臨時増刊号として「芥川賞事典」(1月)、「直木賞事典」(6月)を編集。
  • 昭和54年/1979年(61歳)医学書院の社長に就任。

 なぜあなたは、芥川賞じゃなく直木賞に、そんなに執心するんですか、とよく訊かれます。

 根本は、物語性重視の時代小説や推理小説、冒険小説その他もろもろが好きだから、なんですが、それは直木賞に興味をもったトバ口にすぎません。そこから直木賞の歴史や、世間の反応、取り扱われ方などを調べるようになりまして、呆然としました。芥川賞のそれに比べたときの格差が、何とまあ、ありすぎること! 正直、驚いて、困って、嘆きました。そんな感想を抱いたまま、払拭することができず、ずぶずぶとドロ沼のなかに歩を進めるようになった。っていうのが正直なところです。

 「直木賞も芥川賞も、そんなに変わんないじゃん」と思いましたか? どうぞ、調べてみてください。ここ十年弱の、「文学賞メッタ斬り!」を中心とした両賞に関する反応だけを見て、満足してはいけません。昭和10年/1935年創設から、時代ごとにおける、直木賞に対する反応を追ってみる。もうそれだけで一生がつぶれること、請け合いです。

 最近はインターネットほか、デジタル環境の整備が進んでいますので、一生をつぶさなくてもいいかもしれませんけど。それはそれとして。

 昭和52年/1977年1月。の奥付ですから、実際はその前月ぐらいには売り出されたんでしょう。『国文学 解釈と鑑賞』が臨時増刊号「芥川賞事典」を発刊しました。ときに世間は、第75回(昭和51年/1976年上半期)芥川賞を、村上龍さんが受賞してからまだ半年も経たないころです。アクタガワショウ・アクタガワショウってうるさいけど、じっさい、それ何なんだ、と思う人も多く、そこに「芥川賞事典」の刊行される土壌がありました。実売数はわかりませんが、編集を担当した長谷川泉さん自身、「広く迎えられた」と表現しています。

「最近「国文学 解釈と鑑賞」一月臨時増刊号として「芥川賞事典」(至文堂)を編んだ。ちょうど村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞して、いろいろ論議を呼んだあとであったので、広く迎えられたようである。

 (引用者中略)「芥川賞事典」が迎えられたのには、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が、石原慎太郎の「太陽の季節」いらいの、芥川賞が世評にのぼったことに支えられているともいえる。」(平成10年/1998年8月・明治書院刊『長谷川泉著作選12 評論・随想』所収「芥川賞の人びと」より ―初出『向陵』昭和52年/1977年4月30日)

 なにしろ芥川賞に対する注目度は、その後も浮き沈みを経ながら、延々と続きました。芥川賞の歴史について何か書こうとする際には、この一冊は欠かせない参考資料ともなって、『回想の芥川・直木賞』を書いた永井龍男さんはじめ、多くの人が恩恵に浴してきました。むろんワタクシもそのひとりです。

 長谷川さんは旧制一高時代には、文芸部の委員として創作にも手を染め、森鴎外、川端康成三島由紀夫の研究に邁進し、まじめな文芸の世界で生きてきた人ですから、芥川賞の対象とするような文芸世界は、お得意分野です。「事典」の巻頭には、「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を寄稿(のちに昭和53年/1978年1月・教育出版センター刊『近代日本文学の側溝』に収録)。ざっくりと芥川賞の歴史を振り返りつつ、「新人賞としての芥川賞」が、純文学界のなかでどのように変容していったか、みたいなことをまとめました。

 直木賞に関しては、次のごとく、軽ーく触れるにとどまっています。

「芥川賞と対蹠的な賞である直木賞は規定によってあきらかなように「大衆文芸」に対して与えられるものであるが、この賞もまた「新聞雑誌(同人雑誌も含む)に発表されたる無名若しくは新進作家」が対象である。共に「新進作家」の方は、解釈と実際の取り扱い上の境域に微妙な点がある。同じく新人賞であるとは言っても、芥川賞の方が新人たる限界の解釈において厳密である。そのことは、すでに引いたように田宮虎彦の「絵本」が芥川賞の候補作からはずされて辻亮一の「異邦人」が受賞に決定した第二十三回(昭和二十五年上半期)の選評で坂口安吾が触れて、当然候補からはずすべきだと書かれている檀一雄の「石川五右衛門」「長恨歌」が第二十四回(昭和二十五年下半期)直木賞を受賞していることなどによっても察することができる。」(「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」より)

 なるほど、芥川賞は新人解釈が「厳密」で、直木賞はゆるゆる。たしかにそうです。

 ただ、ワタクシなどは、「直木賞と芥川賞が並べられると、たいてい人間は芥川賞側の基準・物差しで思考しようとするもの」っていう、なかば被害妄想があるもんですから、あえてこう言いたいと思います。直木賞のとらえる「新進」のほうが、あいまいでどうとでも取れる分、現実的であると。

 要は、芥川賞が厳密さをもって「新進」を解釈しようとしていた時代がある、または選考委員がいる、ことは否定しませんが、それ、貫徹できましたか? けっきょく形骸化しちゃって、理想論化、空論化して、ときどき直木賞みたいな「新進」解釈をしないと身動きがとれなくなったり、していませんか?

 最初から、より現実的な「新進」解釈をしてきた直木賞のほうこそ、先進性の面で勝っているのじゃないんですか。

 ……すみません。直木賞を擁護していたら、つい熱くなってしまいました。まあ、文学賞としては現実的よりは無謀なほうが面白いし盛り上がる。それは認めます。直木賞が長らく、芥川賞ほどの爆発力を持てなかったのは、大衆文芸が純文芸よりも下に見られて云々の問題もさることながら、どうしても地に足のついたものを望み、現実路線を歩むほかなかった道行きも、影響していたのかもしれません(←思いつきです)。

 さて、長谷川さんです。「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を発表したあと、いよいよ『直木賞事典』を編集・刊行し、日本中のわずかな直木賞ファンに生きる希望と勇気を与えたるにいたるわけですが、その冒頭を飾るための原稿として、「直木三十五と「直木賞」の風雪」を寄稿しました。ほんとうに「風雪」って言葉が好きな方です。

 「~「芥川賞」の風雪」では、自分の興味に身近な、芥川龍之介のことやのちに名をなした受賞者たちのことをわんさか書くことにリキが入っていました。ところが「~「直木賞」の風雪」では様相が一変します。冒頭からいきなり、先ごろ決まったばかりの最新直木賞作、三好京三『子育てごっこ』について筆を費やしているのです。

「第七十六回「直木賞」(昭和五十一年下半期)が、三好京三の「子育てごっこ」に決ったことの意味をまず確認したい。それには「直木賞」選評のなかから「子育てごっこ」の作品評の、「直木賞」そのものへの背反ないしは懐疑の言葉を拾い出すことをなしてみよう。そのことは、芥川賞との関連についても、言及されていることを予想させることにもなる。」(「直木三十五と「直木賞」の風雪」より)

 つまり、どういうことかといえば、長谷川さんのこの文は、直木賞を単独で見る視点ではなく、「芥川賞と常に対にあった直木賞」という状況に主眼をおいて、書かれているってことです。『直木賞事典』の冒頭に掲げられています。

 ここに哀愁を感じない直木賞ファンなど、いるのでしょうか。直木賞が一つの独立した賞として取り上げられることなどあり得ない、絶対的に芥川賞がいっしょになければならない、なぜならオレがそんなことは許さない、と言わんばかりの、編集担当による宣言が、『直木賞事典』のしょっぱなに書いているわけですから。

 ……ええ、被害妄想です。

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2013年5月19日 (日)

平野謙(文芸評論家) 「純文学の変質」を語っていたら、ちょうど直木賞・芥川賞の受賞作の境界があいまいになったので大喜び。

平野謙(ひらの・けん)

  • 明治40年/1907年10月30日生まれ、昭和53年/1978年4月3日没(70歳)。
  • 昭和7年/1932年(25歳)東京帝国大学在学中に、プロレタリア科学研究所に入る。昭和10年/1935年頃から本格的な文芸評論活動を展開。昭和15年/1940年に大学卒。
  • 昭和30年/1955年(48歳)『毎日新聞』にて文芸時評を担当(昭和43年/1968年まで)。
  • 昭和34年/1959年(52歳)『小説新潮』にて「文壇クローズアップ」を担当(昭和35年/1960年まで。昭和43年/1968年に再担当)。

 そろそろ「直木賞(裏)人物事典」も残りわずか。タネ切れ感は否めないところではありますが、いちおう今週も書きます。誰でも知っている(はずの)ビッグネーム、平野謙さんです。

 ミステリー大好き、文壇事情大好き。……平野さんのどうしても隠しきれない、いや、本人も隠そうとはしていないこれらの好みが、直木賞のことに触れざるを得ないかたちで、平野さんの文業のなかに登場するのは、もう当たり前のことです。しかも自身、純文学の変質だどうだ、といったテーマで派手に名を売るぐらいの方です。芥川賞と直木賞、という恰好の材料を巧みに使って、そこから現在の文芸状況を語る芸を身につけるほどの才人でした。

 たとえば、平野さんの有名な「直木賞記事」……有名というか、ワタクシが勝手にこれまで何度も引用しているだけかもしれませんけど、第46回(昭和36年/1961年・下半期)の伊藤桂一「螢の河」受賞について。これなど、直木賞を扱うときの平野さんの手ぎわを代表する文章だと思います。

「今月は芥川賞と直木賞の授賞作発表の月であり、雑誌《文藝》復刊の月である。すでに新聞の報道したように、芥川賞は宇能鴻一郎に、直木賞は伊藤桂一に授賞されたが、宇能鴻一郎の『鯨神』と伊藤桂一の『螢の河』とを読みくらべると、芥川賞と直木賞が逆になったのじゃないかと錯覚するのは、私ひとりではあるまい。芥川賞と直木賞は、よく知られているように、菊池寛が新人奨励のために、亡友芥川龍之介と直木三十五の名にちなんで設けた文学賞である。芥川賞がいわゆる純文学的な新人のために、直木賞がいわゆる大衆文学的な新人のために設定されたのは、おそらく当時としては自明のことだったろう。(引用者中略)以来、星うつり年かわって、宇能鴻一郎と伊藤桂一という二新人にめでたく授賞されたわけだが、その受賞作を読みくらべると、もはや純文学的な芥川賞と大衆文学的な直木賞との境界線が名実ともに崩壊しさっている事実は、何人といえどもこれを疑うことはできまい。」(「文藝時評 昭和三十七年三月」より)

 何といっても一番重要なのは、名実ともに崩壊しさっているのが事実かどうかではない点です。昭和36年/1961年9月に平野さんが『朝日新聞』に「文芸雑誌の役割」(9月13日)を、『週刊読書人』に「『群像』15年の足跡」(9月18日)を書き、いまの文学は中間小説化が甚だしく、「純文学概念」が崩壊する過程にある、みたいなハナシをしたところ、伊藤整さんだの大岡昇平さんだのが反応した、いわゆる「純文学論争」の渦中に、上記の文章が書かれていることこそが、重要です。

 要は、直木賞と芥川賞の受賞作を引き合いに出すことで、ほら見なさい、もうそんな概念は崩壊してるって言ってんだろッ、と平野さんは自説を補強しようとしているわけですね。

 ほかに寄稿した文章では、そのことを、もう少しはっきり文章にしていたりします。

「芥川賞などがはなばなしいマスコミの脚光を浴びて、授賞と同時に受賞者の家にテレビやラジオの報道関係者がワッと押しかける、というような現象は、石原慎太郎の有名な『太陽の季節』以来のことである。たとえば柴田錬三郎は昭和二十六年に直木賞を授賞されたが、当時純文学を志していた柴田錬三郎は、芥川賞ではなくて直木賞を授賞されたことに悲観したそうである。事実、直木賞を授賞された当座、原稿注文はさっぱりなかったという思い出を、柴田錬三郎はどこかに書いていた。ここにも私のいわゆる純文学変質説のひとつの現象がある。

 こんどの『鯨神』と『螢の河』とを読み比べてみると、作品の出来ばえは二の次として、作柄としては『鯨神』が直木賞的なものであり、『螢の河』が芥川賞的なものであることは、だれの目にも明らかだろうと思う。より純文学的な芥川賞と、より大衆文学的な直木賞との境界線は、ここでもしごく曖昧になっている。」(「芥川賞と直木賞に思う」より ―太字下線は引用者による)

 とにかく平野さん、純文学変質説のことで頭がいっぱい。その自説の正しさをもっともっと言いたいがために、たまたま一回、気になる結果が出たから「崩壊しさっている事実」と、ことさらオオゴトのように取り上げたんじゃないのか、っていう匂いがぷんぷんします。

 さすが策士です。

 崩壊しさった例として、これ以上はない、っつう戦後の両賞の例、第28回(昭和27年/1952年・下半期)のときには、平野さん、まったくそんなことオクビにも出していません。それどころか、芥川賞よくやった、みたいなことを言っています。

「第二十八回の芥川賞が決定した。(引用者中略)五味康祐松本清張の二作はそれぞれイヤミのない佳作で、積極的に反対したい気はない。五味康祐の作は立川文庫めいた伝奇的な材料にもかかわらず、一応歴史小説の品格を保っているし、松本清張の作はある不幸な青年の調べ仕事を描いて、題材的にも一種の感銘を与える。(引用者中略)

 今年になってから、読売賞の阿川弘之(『春の城』)、直木賞の立野信之(『叛乱』)が決定したが、作品の内容を一応除外すれば、それぞれの賞の性格にふさわしいものとはいえまい。それにくらべれば、ほとんど海のものとも山のものともわからぬ新人に授賞した芥川賞の英断には、なにかさわやかなものがある。」(「文壇時評 昭和二十八年二月」より)

 このとき純文学変質の話をぶっ放してもよかったのに、しまっておいて、一番効果がある時期を狙って(……いや、無意識でしょうけど)両賞の境界線のハナシを持ち出すんですから。直木賞・芥川賞をしっかり我が武器として活用している、としか見えません。

 個人的な感想をいえば、純文学概念やら中間小説化やらを語るのはいいんですけど、そんなときにかぎって便利な道具のように直木賞を引っ張ってくるのは、なんか都合のいい論に見えちゃいます。戦後15年にわたって、直木賞のいう「大衆文芸」概念は、あっち行ったりこっち行ったり、揺れに揺れまくっていて、かならずしも純文学化とか中間小説化とか、そんな一方向への動きをしていたわけじゃないからです。

 第40回(昭和33年/1958年・下半期)から第48回(昭和37年/1962年・下半期)まで、直木賞の受賞作は『文藝春秋』(『オール讀物』ではない)に転載されました。つまり、この時期だったからこそ、『文藝春秋』一冊を買うだけで、両賞の受賞作を読みくらべることが可能だったわけです。これも、平野さんが文藝時評で取り上げるには、もってこいの状況でした。『文藝春秋』の掲載作品であれば、新聞の文藝時評でこれに言及して、何の不思議もないからです。

 ただ、これは平野さんも言っているんですが、直木賞(=大衆文芸)、芥川賞(=純文芸)という図式そのものが、創設のころにはハッキリしていたかというとそうでもありません。ハッキリはしていないけど、賞が現実に存在していることで、何となしに分類の概念が続いてきた。昭和10年/1935年のころも、昭和37年/1962年のころも、あるいはその後、現在にいたるまで、その茫漠とした感じは何も変わっていないのじゃないでしょうか。あくまで両賞に関するかぎりは。

 だいたい、両賞の概念の境界線が崩壊したと宣言した平野さんでさえ、そのあとも、「直木賞的なるもの」の概念から離れられなかったんですから。

「断わるまでもなく、五木寛之は最近直木賞を受賞した新人で、『さらばモスクワ愚連隊』はその第一創作集である。もっともこの本が企画され、刊行の準備が進行していたときは、まだ直木賞受賞は決定していなかったはずだ。しかし、最近この著者ほど直木賞にピッタリの感じの人はいないし、この本はいかにもそういう著者の処女創作集にふさわしい。」(『新刊時評(下)』「昭和四十二年三月」より)

 ね。「直木賞にピッタリの感じ」とか言っちゃっている。え、そんなもの、とうになくなったんじゃないんですか、とツッコミを入れたくなるところが、平野さんの可愛げのある魅力です。また、そういう人だからこそ、文学賞のことなんか無視すればいいのに、わざわざ、ひんぱんに文学賞について熱っぽく語って、あのひと文芸評論家なの?文壇評論家なの? などと揶揄されたりするわけです。まったく、楽しい人です。

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2013年5月12日 (日)

進藤純孝(文芸評論家) 純文学の変質を語るときに、大衆文学の代表、という役を直木賞に当てはめる。

進藤純孝(しんどう・じゅんこう)

  • 大正11年/1922年1月1日生まれ、平成11年/1999年5月9日没(77歳)。
  • 昭和21年/1946年(21歳)東京大学在学中、新潮社に入社(昭和34年/1959年まで)。大学は昭和25年/1950年に卒業、昭和28年/1953年に同大学大学院修士課程修了。
  • 昭和40年/1965年(43歳)「芥川賞始末記―戦後文学の栄光と変貌」(『潮』9月号)をはじめ、さまざまな媒体で同賞に関する評論を発表。
  • 昭和50年/1975年(43歳)第11回から作家賞の選考委員に就任(終了となる第27回平成3年/1991年まで)。

 1950年代の芥川賞を語らせたら、おそらくトップ100に進藤純孝さんの名は挙がると思います。なぜなら、当時の芥川賞を語ろうとする人は日本で100人もいなかったでしょうから。……っていうのは冗談です。作家とごく親密な立場にある文芸評論家、みたいな立場から生の芥川賞を知っている進藤さんのような人には、ねえ芥川賞のこと何か語ってえ、お願い、といったマスコミからの注文がどしどし押し寄せた関係もあり、奥野健男さんと双璧をなして進藤さんは、芥川賞評論界をリードする存在となったのでした。

 評論界というか、あれです。50年代の受賞たちと親しく、しかも、芥川賞の歴史の分岐点に脇役として登場するぐらいの人ですから、それはもう、にわかに芥川賞の話題がさまざまな媒体で語られるようになった60年代、進藤さんほど芥川賞の回想を語るにふさわしい人は、そうそういませんでした。

 拙ブログでおなじみの顔、山本容朗さんが角川書店編集者時代につくった、進藤さんの著書より引いてみます。

「芥川賞といえば、遠藤周作さんに続いて、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞した。

 その受賞決定の一週間前に、石原さんが作品集「太陽の季節」を出版してくれないかと、私のところへ話をもってこられた。(引用者中略)

 一週間経ち、石原さんの受賞がきまった時、ただちに交渉するようにと部長から命令がきた。私は少しもあわてなかった。だいたい、受賞がきまって、その受賞者を追っかけるのはみっともないと、私はつねづね思っていた。

 受賞作は、その前に出版社がきまってない以上、賞の世話をした出版社から出すのが、当り前であり、それを邪魔するのは、横取りみたいで醜悪なことであろう。いくら、ジャアナリズムが、非情冷酷な競争であるといっても、私は編集者が人間の誇りを持つかぎり、そんなことはできたものではないと考えていた。(引用者中略)

 私の仕事は、第三の新人あたりでストップしてしまった。石原さんは例外で、それ以上の新しさに、私は不快をいだいた。

 開高健さんや大江健三郎さんがデビューした時、多くの評論家たちは、「文学に新風を吹き込む」と合唱したが、なにが新しいのか私にはわからなかった。見せかけだけの新しさに、わいわいさわぐ活力を、私はもう持ち合わせていなかった。」(昭和34年/1959年12月・角川書店刊 進藤純孝・著『ジャアナリスト作法』「先取」より)

 「わいわいさわぐ」とは、つまり芥川賞のことを別の表現で示しているのでしょう。自分が「いいぞ!」と思ったものでも、わいわい騒がれると途端に冷めてしまったりするものですが、進藤さんもその病気に罹ったものでしょうか。

 何となれば進藤さんは、その直前、「わいわいさわぐ」と芥川賞が同義でなかったころの芥川賞には、ある程度の理解を示していたからです。

 「太陽の季節」出版の話を引き受けたころのことを、『文壇私記』ではこう書きます。

「呆れ顔でふり返ってみるのだが、やはり、小島信夫の『小銃』と庄野潤三の『愛撫』を手探りで出し、翌年両人が揃って芥川賞を受賞して手柄みたいなことになった、その自信も裏づけになっていたのであろう。

 もっとも、受賞した小島の『アメリカン・スクール』も、庄野の『プールサイド小景』も、みすず書房から上梓されたので、手柄どころではなかった。ついでに言えば、吉行(引用者注:吉行淳之介の『驟雨』も、こっちの担当で新潮社から出ている。当然(?)、これは文藝春秋から出版されるべきものだろうが、『原色の街』を収録したいという吉行の考えに難色を示したとかで、話がこちらに転げ込んだのだったと思う。(引用者中略)

 ともかく、こうして、小島、庄野、吉行と、新進作家の処女作品集あるいは受賞作を手がけて失敗もしなかったことが、一つの思い上りとなり、石原に「おひき受けします」なぞと大きなことを言う始末ともなったようである。」(昭和52年/1977年11月・集英社刊『文壇私記』「文壇の崩壊」より)

 進藤さんの回想は、謙遜や自虐がふんだんに詰め込まれていて、それはそれで味が出ているんですけど、ええと、どういうことですか。自分がこれぞと思った作家の作品集を出したら後から芥川賞が追いかけてきた。芥川賞受賞作をおさめた作品集を、自分の手で出すことができた。それが少なからず編集者としての自信になっていた、みたいなことでしょうか。

 で、結局そういった「わいわいさわぐ」状況に付き合い切れなかった自分を、進藤さんは、編集者の素質に欠けていたのだと判断し、あるいは物書きとの兼業が、新潮社内で嫌がらせを受けたりして居心地が悪くなり、昭和34年/1959年に文筆の道を歩むことを選択します。

 これで立派な文芸評論家。ってことは、自分の好きなことだけ書いてはおまんまの食い上げです。「わいわいさわぐ」芥川賞のことも、やっぱり触れざるを得ません。そこで進藤さんは、「ジャーナリズムのなかの文学」、あるいは「純文学と大衆文学の意味」みたいな、自分の関心分野とひっかけて芥川賞を語る……はい、それはつまり、進藤さんが合わせて直木賞をも語る土壌となったのでした。

 第53回(昭和40年/1965年上半期)、芥川賞は津村節子「玩具」と決まりました。評論界で、これの評判が芳しくなかったことは、『芥川賞物語』でもちらっと触れましたけど、進藤さんも「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」(『潮』昭和40年/1965年9月号)で、まずそのことに言及しています。

「芥川賞という出来事が、新人の登場という清新溌溂たる光景であるにもかかわらずこんなにも薄ぼけた印象しか与えないというのは、いったいどうしたことなのか。

 罪は津村節子の「玩具」にあるのではない。芥川賞受賞の出来事が、新聞やテレビ放送まで詰めかけるといった、昔は想像もできなかった派手な騒ぎようもむなしく、どうにも生彩を欠き、意気上らぬことになったのは、昭和三十六年頃からのことではないか。」(「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」より)

 「薄ぼけた印象しか与えない」というのは、もう進藤さんの主観です。それは、見せかけ(だけかどうかはともかく)の新しさに騒ぎたがる文壇と報道に嫌気が差してしまった進藤さん自身の問題なんだろうな、とは思うのですが、さっこんの女性作家は概して〈話上手〉、という自身の考えから、芥川賞に関してもこう評します。

「ここ三、四年の芥川賞の受賞作も候補作も、ほとんど話上手の才筆が選ばれている。芥川賞の女性化時代といっても差支えあるまいが、その故にこの賞の生彩もとみに喪われてきたのである。」(同)

 ははあ。話上手の才筆が、賞の生彩に関係するのだと。

 後段で進藤さんは、五味康祐松本清張両氏の受賞とその後の活躍に触れています。そこに描かれたのは、話上手な才筆=大衆文芸=直木賞、みたいな構図です。

「『喪神』は受賞後かなり評判が悪かった。直木賞との間違いではないかという批評もあった」と五味自身が語り、また松本の受賞作は、最初、直木賞の候補になっていたという事情からも察せられるように、作品の質が純文学の本質からそれており、これらの作品の受賞は、明らかに文学の変質を告げてもいた。

 端的にいえば、両作品ともに見事な完成度を示しながら、それは話上手な才筆に支えられており、作者の魂の呻きを呼吸し、疼きを息づく苦渋晦渋を、ほとんどとどめていないのである。

 こうした文学の質は、その頃から急激にふくれ上ったマス・コミ現象のなかで、小説の繁昌をもたらし、五味も松本も、純文学どころか、大衆文芸の領域に大きく座を占める作家になっていった」(同)

 なるほど。だから進藤さんにとって、直木賞は、生彩なく見えるのですか。ワタクシも「生彩ならあった!」と胸を張って弁護できないのが悔しいですけど、まあ、話上手な才筆が、賞の生彩を失わせる要因だみたいに言われちゃうと、直木賞、立つ瀬ないです。

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2013年5月 5日 (日)

豊田健次(『別冊文藝春秋』編集長→『オール讀物』編集長) 文芸編集者として直木賞を最大限に活用するとともに、「文芸編集者のための直木賞」をつくり上げる。

豊田健次(とよだ・けんじ)

  • 昭和11年/1936年生まれ(現在76歳)。
  • 昭和34年/1959年(23歳)文藝春秋新社入社。『週刊文春』、出版部を経て『文學界』『別冊文藝春秋』編集部員(昭和41年/1966年~昭和43年/1968年、昭和46年/1971年に復帰)となる。
  • 昭和51年/1976年(40歳)より『文學界』『別冊文藝春秋』編集長を務める。
  • 昭和54年/1979年(43歳)より『オール讀物』編集長を務める。その後は文春文庫部長や出版局長、取締役出版総局長、日本文学振興会担当などを歴任。
  • 平成11年/1999年(63歳)文藝春秋を退社。

 この人選は、日本全国民、文句ないでしょう。「直木賞(裏)人物事典」のなかでも、他の追随を許さない、ぶっちぎりの、抜きん出た功績者。豊田健次さん、略してトヨケン、またの名を「ミスター直木賞」、「直木賞中興の祖」、ひところは豊田さんのことを「豊田ナオキショウさん」と呼ぶ人が現われたり、また直木賞が「トヨダ賞」と呼びならわされていた、などという逸話すら……あるわけないです。

 いや、でも、昭和の時代、何人の日本人が生きてきたかは知りませんけど、豊田さんの直木賞に対する功績は、尋常の域をはるかに超えています。いつも芥川賞の陰に隠れてくすぶっていたこの賞に、文芸編集者の視点から、「職業作家のケツを叩くための賞」という役割をしっかりと設定して、「商業主義にすぎる」なんちゅう外野の批判に臆することなく、直木賞の活性化に尽力し、ときに「中のひと」となっては、心ない非難に反論しながら、直木賞文化を盛り立ててきた、という。

 豊田さんの、直木賞に対する業績はきっと語り尽くせないほどでしょう。公にされていないこともゴマンとありましょうし。ここでは、ざっと目ぼしいところだけ挙げてみます。

  • 五木寛之さん(第56回 昭和41年/1966年下半期受賞)、野坂昭如さん(第58回 昭和42年/1967年下半期受賞)と『別冊文藝春秋』に小説を書いてもらい、直木賞受賞を御膳立てした。友人の大村彦次郎さんと語らっての連携プレーのたまものだった。

  • 『別冊文藝春秋』を、文藝春秋が直木賞をとらせたい作家のための媒体として確立させた。

  • 直木賞に遠い存在だった田中小実昌さんの、『香具師の旅』所収の作品を第81回(昭和54年/1979年上半期)の予選委員会で強く推薦し、最終候補にまで残した(そして結果受賞となった)。

  • 第83回(昭和55年/1980年上半期)選考会で分が悪かった向田邦子さんの作品を、無事受賞に着地させた。

  • 直木賞をとりたがっていた胡桃沢耕史さんに、直木賞がとれると囁き、本意ではない私小説もの『黒パン俘虜記』を書かせた。そして第89回(昭和58年/1983年上半期)受賞へと導いた。

  • 『別冊文藝春秋』編集長として、筒井康隆さんの「大いなる助走」を連載(昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月)し、直木賞の権威を神格化したい面々から投げつけられる攻撃の矢面に立たされた。

  • 『文學界』編集長として、永井龍男さん「回想の芥川・直木賞」(昭和53年/1978年1月号~12月号)の担当となり、同作を完成させた。

  • 退社後、山口瞳さん・向田邦子さんと直木賞にまつわるエピソードなどを入れた『それぞれの芥川賞 直木賞』(平成16年/2004年2月・文藝春秋/文春新書)を上梓した。

 どれをとっても、直木賞を語るうえでは欠かせない事項でしょうよ。以前に拙ブログで触れたものがほとんどですけど、豊田さんの功績はいつまで経っても色褪せない、って意味もこめて、上に挙げた事象それぞれにおける、豊田さんの存在感を再確認しておきます。

 まずは、『小説現代』との連携プレー。

豊田 例えば、五木寛之さんが「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞されたとき、「大型新人、現わる」と各社の編集者が殺到して原稿依頼をしました。当然僕も依頼してお引き受けいただいたんですが、『別册文藝春秋』に発表すれば直木賞に近いと『小説現代』の編集者が五木さんにささやいてくれるわけです。

(引用者中略)

 野坂昭如さんのときは、講談社の大村彦次郎さんとそういう話をして、「野坂さんに直木賞を取らせたい。『小説現代』のほうは待っているから、君のところで頼むよ」と言われて、「アメリカひじき」が『別册』に、「火垂るの墓」が『オール讀物』に掲載になってこの二作品で受賞されました(第五八回)。こんなふうに賞を取っていただけるように作戦を巡らしたことは何回かありましたね。」(『文蔵』平成20年/2008年1月号 「対談 直木賞のウチとソト」より ―対談相手:中村彰彦)

 「作戦を巡らしたことが何回かあった」とサラッと言っているところが、スゴイでしょ。他にどれがその作戦だったのかと、想像をめぐらせるように仕向けるとこなんぞ、さすが豊田さんです、格がちがいます。

 第81回受賞、田中小実昌さんの件は『文士のたたずまい――私の文藝手帖』(平成19年/2007年11月・ランダムハウス講談社刊)から。

「コミさん(引用者注:田中小実昌)を、ことさら推さなくとも、おそらく候補から洩れることはなかったと思うが、いささか不安にかられて、田中作品を下読み選考会の席で強く推奨したのである。むろん、その必要もなく大方の支持を得て候補となり、受賞したわけだが、(引用者後略)(豊田健次・著『文士のたたずまい』所収「ぽくぽくコミさん――田中小実昌」より)

 豊田さんの推薦が必要もないものだったのか、判ずる術はないんですが、しかし第66回(昭和46年/1971年下半期)の『自動巻時計の一日』以来、いくらでも田中さんを候補にするチャンスはあったでしょうに、なぜにあそこで、単行本に収録された二篇、なんてかたちで候補にする? 誰かの強引な推しがなきゃ、予選通過はできなかったのじゃないか、と想像するのが自然な気がします。

 向田邦子さんの件は、以前、向田さんを取り上げたエントリーで紹介しましたので割愛。

 第89回(昭和58年/1983年・上半期)の胡桃沢耕史さんの受賞のハナシは、なにせ胡桃沢さんがおしゃべりなものですから、相当有名なエピソードとなっちゃいました。

「「実は本人も、ロマンあふれる堂々としたものでとりたかったと言っていた」。「オール讀物」で「黒パン俘虜記」の編集を担当した豊田健次(五八)=現文藝春秋取締役文芸総局長=はこう打ち明ける。胡桃沢作品の持ち味は気宇壮大な冒険物語だが、「黒パン俘虜記」は捕虜体験を描いた自伝的小説だった。

 「数奇な体験をなさっているのにそれを書かない手はないですよ、と連載してもらった。本人は『私は書きたくなかった。この人に書かせられた』と話していた。でも、直木賞はぜひとりたいといつも言っていたし、その悲願成就に少しでもお手伝いができたのではないかとは思っている」」(『産経新聞』平成7年/1995年6月30日「戦後史開封 芥川賞・直木賞(4)」より)

 胡桃沢さんの『黒パン俘虜記』の件で豊田さんがエラいと思うのは、別に直木賞では私小説ものが有利、なんて傾向はまったくなかったのに、胡桃沢さんが私小説風に書けばとれる!と考えて、本人に打診した点です。しかもそれで、ほんとうに胡桃沢さん、受賞しちゃうという。トヨケンよ、おまえは神か、と言いたくもなります。

 筒井さんの「大いなる助走」騒動。これについては、まえに紹介したとおり、編集長だった豊田さん自身、だれか選考委員から直接抗議された、とは証言していないっぽいのですが、こういうかたちで当時の状況を回想しています。

「さらに、(引用者注:「大いなる助走」を)連載していたのが直木賞を制定している文藝春秋の雑誌「別册文藝春秋」だったことも話題に拍車をかけた。

 
(引用者注:筒井康隆いわく)「でも直木賞の選考委員の人たちは直接、僕には言えませんよ。ただ、文藝春秋には文句を言っていった人がいたらしい。『連載をやめさせろ』って」

 別冊の編集長だった豊田健次(五八)=現文藝春秋取締役文藝総局長=は、「最初から直木賞の選考はけしからんというのではなかった。極端な戯画化は筒井さんの一つの手法だが、次の選考会では何か言われるのでは、と冷や冷やした」と言う。」
(『産経新聞』平成7年/1995年7月1日「戦後史開封 芥川賞・直木賞(5)」より)

 つまり、あれですかね。当初の話し合いでは、豊田さんは、あんな小説になるとは聞いていなかったと。で、そのまま押し切っちゃうあたりが、直木賞の楽しみ方と盛り上げ方をよく知っている豊田さんならでは、というか、豊田さんが直木賞ファンたちから愛されるゆえんだと思います。

 だって、芥川賞の選考に怒ってオレ辞めるっつって自ら縁を切ったオコリンボ永井龍男さんに、「回想の芥川・直木賞」を書いてもらおう、と発想して実現させちゃうんですもの。まったく、直木賞ファンひとりひとりがいまも神棚に豊田さんの写真を掲げて、毎朝お参りを欠かさないのも、当然だと思わざるをえません。

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