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2013年4月の4件の記事

2013年4月28日 (日)

松田哲夫(ブックコメンテーター) どこまで伝わるかわからない土曜の朝のお茶の間に、直木賞の話題を流しつづけた人。

松田哲夫(まつだ・てつお)

  • 昭和22年/1947年10月14日生まれ(現在65歳)。
  • 昭和45年/1970年(22歳)筑摩書房に入社。『終末から』編集部員を経て、〈ちくまぶっくす〉編集長。
  • 平成8年/1996年(48歳)TBS系テレビ番組『王様のブランチ』放送開始時より、出版コーナーのコメンテーターを務める(平成13年/2001年~平成14年/2002年の中断を経て、平成21年/2009年まで)。

 直木賞の時期になると、ときどき、土曜の朝っぱらから「直木賞」なんちゅうダークなキーワードが公共の電波にのって流れます。「日本人は賢くなったので、もう誰も、権威的なものには影響されない」はずなのにです。このシュールな図をつくり上げた立役者、と言えば、TBS系『王様のブランチ』番組スタッフであり、本のコーナーの顔を長年にわたって務めた松田哲夫さんでしょう。

 まあ、シュールです。過去の遺物だの、時流にとりのこされた存在だのと言われ、「直木賞」という単語を口から発するだけで羞恥を覚えなくてはならないこの世の中、きらびやかで爆発的影響力をもつ(と言われている)TVショーのなかで、直木賞の話題なんか取り上げて、だいじょうぶなんでしょうか? テレビ局にじゃんじゃん苦情・抗議の電話が殺到しているんじゃないかと、心配です。

 松田さんだって、「そんなクサレ文学賞のことなど、口にできるか!」と怒って席を立ってもよかったと思うのです。『永遠の仔』を落としたぐらいの賞ですから。しかしそこで、深く突っ込まず、かといって身を引かず、冷静に直木賞と向き合うところが、松田さんのやさしさです。

「ぼくは、(引用者注:平成11年/1999年4月17日の)「気になる一冊」に取り上げ、こうコメントした。

《これは、ぼくが、ここ数年の間に読んだ小説の中で、間違いなくベストワンの作品です。(引用者中略)下巻の途中からは随所で涙がほとばしり出て、最後に近づいたころには、嗚咽までもらしていました。でも、読み終えたときには、たとえようもない爽快感がありました。(単行本では)上下二冊で千ページ近い大作ですが、ぼくは、この時代に生きるすべての人に読んでもらいたいと思っています。》

 すると、木村郁美アナウンサーは「登場する人たちを抱きしめたくなった」、関根(引用者注:関根勤)さんは「これを読んだ後は、他の軽い小説がしばらく読めなくなりました」と、ぼくの言葉を熱くフォローしてくれた。その後、寺脇康文さん、はなさん、恵俊彰さんなどの出演者たち、岩村隆史プロデューサーはじめスタッフの多くもこぞって読み、何週間にもわたって、『永遠の仔』の話題で盛り上がっていった。」(松田哲夫・著『「王様のブランチ」のブックガイド200』より)

 ちなみに『王様のブランチ』放送開始は平成8年/1996年4月。毎週、本のコーナーはあったんですが、はじまって数年は、特別に売上と直結するものではなかったといいます。平成10年/1998年11月の『朝日新聞』の記事では、NHK衛星第二「週刊ブックレビュー」、『ダ・ヴィンチ』とともに、『王様のブランチ』本のコーナーが取り上げれらた上で、こう言われています。

「このような面白さを伝える工夫は続いているが、実際の売れ行きにつながるかといえば難しい。昨年から書評で取り上げた本の棚を設けた東京・神田の三省堂書店によると、これらメディアの情報に「問い合わせはあるが、飛び抜けて売れるとはいえない」という。

 出版科学研究所の佐々木利春さんも「売れる、という点からいえば、有名人がワイドショーなどで紹介する本にはかなわない。本を紹介するメディアの功績は大きいが、視聴者層の広がりがほしい」と指摘する。」(『朝日新聞』平成10年/1998年11月15日「本の快楽じわ~り伝える 受け手の広がりに課題」より ―署名:馬場秀司)

 それが翌年、『永遠の仔』の紹介→売上増、なんていうつながりもあり、徐々に『王様のブランチ』での紹介=売れる、の図式が築かれていきます。

 平成13年/2001年夏の段階で、『永遠の仔』の一件は、売上を伸ばした代表例の扱いをされるまでにいたりました。

「一昨年のベストセラー、『永遠の仔』(天童荒太)もブランチが火付け役といわれる。番組では松田氏が紹介した後で出演者の関根勤氏や寺脇康文氏が興味を抱いて読み、翌週の放送では『永遠の仔』に関するトークで大いに盛り上がった。さらに、そのトークを聞いてレポーターの女性たちも次々に読み始め、次の週ではさらにトークが盛り上がった。

「その場の空気を伝えることができるのはテレビならではの特徴だと思いますが、本の話題で盛り上がっているスタジオのノリや、台本にはない出演者のコメントは、“生きた情報”として視聴者に伝わるのではないでしょうか。そんな生きた情報を意図的にではなく提供できているからこそ、本の売上に影響するのでしょう」(松田氏)」(『放送文化』平成13年/2001年8月号「テレビで奮闘する出版人・松田哲夫氏に聞く 本とテレビの相性」より)

 『永遠の仔』は第121回(平成11年/1999年・上半期)の直木賞候補になって、これだけ売れているし、読者のハートをつかんでいるし、本命でしょうね、などと思われながら、選考会ではさほど高い評価が得られず落選します。

 ちなみにワタクシの感想を言っておきますと、他の候補作に比べて、なにか特別に飛び抜けて感動できるとか、泣けるとか、そんなことはなかったものですから、『永遠の仔』が落ちても平穏に受け止めました。むしろ、読者人気みたいな風を読まない直木賞、さすがだ! などと、そっちに感動を覚えたくらいです。

 松田さんは『王様のブランチ』での紹介が縁で、天童さんと交流がはじまり、その後の天童作品もフォロー。第140回(平成20年/2008年・下半期)に『悼む人』が受賞したときには、天童さんの口から、受賞を一番伝えたいのは『王様のブランチ』のみなさん、っていう冗談なのか本気なのかよくわからない言葉を引き出しました。

「谷原(引用者注:谷原章介) 松田さん、天童さん、直木賞受賞しましたね。

松田 嬉しいですね。この本のコーナーでは、10年前の『永遠の仔』以来、折に触れて、天童さんの作品を応援してきたので、本当に、ともに歓びを分かち合いたいという気持ちですね。」(「松田哲夫の王様のブランチ出版情報ニュース 「王様のブランチ」本のコーナー(2009.1.17)」より)

 オトナだよなあ、松田さんは。直木賞を単なる、作家に対する祝福の場としてのみとらえ、そこにひそむ至らぬ点、短所、害には触れようともしません。あるいは、そんなことをいちいち考慮するのは無意味、ということでしょうか。文学賞なんて、選ばれても落とされても、さしたる意味はないのだから。「受賞した」という事実をもって、喜んだり、本の紹介に活かせばいい。そんな思いが、ひしひし伝わってきます。

「ぼくは「ブランチ」のコメントでは、ネガティブなことは一切言わない主義でいる。自分自身、編集者という本を作る立場にいるので、これまでに、けなす書評を読んで、「世の中に本はたくさんあるんだから、わざわざ悪口を言うために取り上げることはないだろう」と腹が立っていたからだ。」(松田哲夫・著『「王様のブランチ」のブックガイド200』より)

 ネガティブなことは一切言わない……。そうですか。「けなしてナンボ」の直木賞には、とうてい到達できない領域です。うらやましい。直木賞も、絶対に候補作をけなさずに、褒めることに終始して、候補に挙がった作品は全部受賞! とかできたら、少しは怒る人も減って、直木賞を見直してもらえるんでしょうか。

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2013年4月21日 (日)

大竹延(南北社社長) 1960年代、新進作家の背中を押すいっぽうで、売れないはずの「大衆文学研究」分野に挑戦。

大竹延(おおたけ・すすむ)

  • 大正15年/1926年生まれ、平成17年/2005年10月12日没(79歳)。
  • 昭和31年/1956年(30歳)南北社を設立(昭和43年/1968年に倒産)。
  • 昭和34年/1959年(33歳)南北社より『大衆文学への招待』(荒正人・武蔵野次郎・編)発刊。
  • 昭和36年/1961年(35歳)南北社より『大衆文学研究』創刊、同人として参加。

 新鷹会の『大衆文藝』の影に、新小説社島源四郎さんの功績あり、っていうハナシは長谷川伸さんのエントリーで触れました。その伝でいくと、大衆文学研究会の『大衆文学研究』の影には、南北社大竹延さんがいました。

 『大衆文学研究』といっても、知らない人のほうが多いと思います。軽く紹介しますと、昭和36年/1961年、なかなか系統立った研究の育たなかった大衆文芸の世界に、出版社の南北社が資金を投ずるかたちでつくられた研究誌。その後、発行元の変転や事務局の代替わりなどを経つつ、いまもなお、発行しつづけられています。大衆文芸のはしくれに位置する直木賞を考えるうえでも、見逃せない雑誌です。いわゆる「研究」論文だけでなく、作家や出版編集者のエッセイ、インタビュー、座談会などなど、貴重すぎておなかを壊しそうな記事が、ざっくざっくと掲載されてきました。

 そのいちばん最初が昭和36年/1961年。大衆文学の研究ってテーマだけで雑誌をつくろうぜ、と売れる当てもない、荒涼たる世界に乗り出した英断、はたまた暴挙を成し遂げた中心人物が、主婦の友社編集局にいた大衆文芸オタク富永真平さん。……武蔵野次郎さんですね。それと、元『文芸日本』編集者で、情熱と執念と気配りのひと、尾崎秀樹さん。プラス、エロフィルム収集家として名を馳せるいっぽう、良心的な文芸出版業に挑戦しはじめていた弱小出版社希望の星、大竹延さんだったわけです。

 南北社が、文芸出版界で光芒を放ったのは、わずか十年あまりでした。どちらかといえば芥川賞の話題として触れるべき事項が多いかもしれません。でも、同社からは一冊、林青梧『誰のための大地』が直木賞候補に選ばれているのですもの、というわずかな突破口を理由に、大竹さんを(裏)人物に入れさせてもらうことにしました。

 『誰のための大地』は昭和39年/1964年、南北社の「新鋭創作叢書」の一冊として出版されました。この叢書について、大竹さんはこう回想します。

「図書出版「南北社」(昭和三十一年四月有限会社として設立し、三十六年四月一日株式会社に改組)を創立する時、私は三つの心覚え(誓い)を決めた。

 ①エロもの、際ものは出さない。

 ②時代の潮流に流されず、なるべく新人発掘に努力したい。

 ③「文学」という階段に一段でも半段でもプラスになるものを出版し続けたい。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(III)序章(II)の三」より)

「このテーゼに沿って南北社には三つの柱が出来て行った。(小路はウロウロと沢山あったが)「新鋭創作叢書」、「現代評論選書」、「招待シリーズ」だった。「新鋭創作叢書」と「現代評論選書」はすべてその人の処女出版を基本とした。まだ誰も掘り出していない新鮮な筍を狙った。亭々と伸び行く様を描くことは嬉しく楽しい事だった。勿論失敗もあった。がほゞ間違いはなかった。「新鋭創作」の方からは、吉村昭『少女架刑』、伊藤桂一『ナルシスの鏡』、杉本苑子『二條の后』、萩原葉子『木馬館』など。「評論選書」からは、遠藤周作『宗教と文学』、大久保典夫『岩野泡鳴』、尾崎秀樹『魯迅との対話』、村松剛『文学と詩精神』、村上一郎『日本のロゴス』、このほか佐伯彰一、秋山駿などの初めての評論集は南北社から出版された。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(IV)序章(III)の四」より)

 のちに紹介するように大竹さんは、「エロ事師」などと週刊誌に書き立てられるほど、16ミリエロ映画の収集家であり、また高橋鉄さんの性解放思想の支持者でもあって、高橋さんの娘を南北社に入社させていた人です。胡桃沢耕史さんがまだ清水正二郎で活動していた頃には、お互いに趣味が合ってツルんでいました。もしかして、清水さんの「非エロもの」が南北社から出ていたら、ひょっとすると、万が一にも、このとき直木賞候補になっていたかもしれません。

「清水正二郎さんとは個人的に趣味も合い、一しょに海外旅行や夜のつきあいもしながら彼の本を一冊も刊行しなかったのもこんな理由から(引用者注:エロものは出さないと決めていたから)であった。『近代説話』に書いたもの「壮士両び還らず」などをまとめて上梓の話もしたが、彼は「もう少し待ってほしい。必ず南北社で出しても恥かしくないものを書くから」と辞退した。彼は近代説話の東京事務所兼所長を引き受けていたが、同人たちが次々と芥川賞、直木賞を受賞するのを淋しく悲しみながら世話役に徹していた。」(同)

 いや大竹さん、そこで「芥川賞」を出すのはおかしいでしょう、とツッコむのは野暮ってもんです。当時の大竹さんの意識する「新鋭」作家とは、芥川賞もしくは直木賞を取るか取らぬか、の辺りにいた作家だったのでしょう。芥川賞と直木賞は、どちらにしたって同じようなもの、っつう直木賞観です。たしかに、それも立派な一直木賞像には違いありません。

 大竹さんにとって、芥川賞と直木賞、はそのまま純文学と大衆文学、という区分けだったと思われます。そして昭和30年代、そんなものは崩れた、あるいはグチャグチャになった、との意識があったみたいです。それで南北社の柱の一角〈招待シリーズ〉の2冊目のテーマに、大衆文学を選び、昭和34年/1959年刊行、1万2000部ほど売れた、と。

「昭和三十年代は既成大家たちと戦後の新進作家たちの混乱期にあった感じがする。このカオスの中に果敢に斬り込んだのが『大衆文学への招待』ではなかった、と今でも自負を持っている。大出版社では企画に乗っても必ずつぶされるプランであったろう。

 この『大衆文学への招待』の成功(とはいえないまでも損しなければよいという目的は達成されたこと)によって、南北社に集まってくる人たちが増えて来たことは事実である。人は社業が発展し伸びるところに自然と集まるといわれる。

 またこの単行本の刊行が「大衆文学研究」という特異な雑誌を生む原動力というか基礎になった。」(同)

 『大衆文学研究』は、そこから尾崎秀樹という巨人を生んで育み、また「大衆文学って、研究してもいいんだ」の裾野を広げることに貢献。儲かるはずのないこの雑誌の一切合財、資金面で面倒みた大竹さんなかりせば、まず起こり得なかった歴史だと思います。

「22号(引用者注:南北社で『大衆文学研究』を出していたあいだ)を続けるまで(創刊の話の時代を加えると約十年間)私は尾崎(引用者注:尾崎秀樹)さんからコーヒー一杯ご馳走になった事はない。編集費、交通費(京都・大阪その他都内の人たちに逢いに行く交通費すべて)、例会費用、印刷代などみな私個人の出費だった。大衆文学というジャンルを戦後初めて目に付け斬り込み、育成し続けたのは南北社であり、私であったというのは驕りかもしれないが、大衆文学研究家としての尾崎秀樹の誕生をいささかなりとも育てて行ったのは南北社であり、私であったといっても過言ではないような気がする。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃 序章(I)」より)

 ほんとっすね。それはつまり、随一の大衆文学研究家として尾崎さんが、その後発表しつづけた数々の直木賞に関する文章の礎は、もとをたどれば大竹さんのバックアップにあったと、ワタクシはいま、思っています。

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2013年4月14日 (日)

浜本茂(NPO本屋大賞実行委員会理事長) 思いつきで「打倒直木賞」の名ゼリフを吐き、本屋大賞vs.直木賞の構図を(無意識裡に)予見する。

浜本茂(はまもと・しげる)

  • 昭和35年/1960年生まれ(現在53歳)。
  • 昭和58年/1983年(23歳)中央大学法学部在学中に、本の雑誌社に入社。昭和63年/1988年に一度退社するが、平成2年/1990年に復社。
  • 平成13年/2001年(41歳)目黒考二のあとを受けて『本の雑誌』発行人に。
  • 平成14年/2002年(42歳)書店員の有志で、書店員が決める文学賞の案が語られる。その案が具体化し、平成15年/2003年に本屋大賞の創設が決定。同賞事務局は本の雑誌社内におかれ、浜本、本屋大賞実行委員会の代表となる。
  • 平成17年/2005年(45歳)本屋大賞実行委員会がNPO法人化するにあたり、理事長に就任。

 風のウワサによると、いまは直木賞といっても振り向く人はおらず、本屋大賞というと人が群がるそうなので、うちのブログもその霊験あらたかな本屋大賞の威光に頼りたいと思います。

 で、(裏)人物は杉江由次さんとか嶋浩一郎さんとか、全国の書店員とか、誰でもいいんですけど、いちおうの代表者、浜本茂さんで項目を立てさせてもらいました。何といっても「打倒直木賞!」の名言を残した人ですから。拙ブログにはうってつけの人なのかもしれません。

 本屋大賞のことは3年前、「直木賞のライバル賞」のテーマのときに取り上げたことがありました。ちなみに当時すでに、「本屋大賞は直木賞を抜いた!」と、口角に泡ためて叫び狂っている人がたくさんいました。いつか、そんなことは自明の事実として定着して、誰もそういう煽り方をしなくなるんだろうな、と思うと、直木賞オタクとしてはすでに寂しさを感じています。

 ええと、ひとまず外野の声はおいといて、浜本さんです。本屋大賞を運営するにあたっての浜本さんの、直木賞観はずーっと一貫しています。「打倒直木賞、なんて冗談」です。

「――“打倒直木賞”というのはどこまで本気ですか。第一回目の授賞式で、浜本さんが言っていましたが。

浜本 なんで打倒直木賞だったんだろう。思いつきですよね。前もって考えていたわけじゃない。横山秀夫さんが『半落ち』で賞をとれなかったことに対する憤りが書店員の間にあった、という経緯もありますが。選考に対する不満はずっとありましたね。それがピークになったのが『半落ち』でした。ただ、べつにそういう声を反映したわけじゃないんですけれど。」(『小説トリッパー』平成18年/2006年秋号「本屋大賞の真実」より ―インタビュー・構成:永江朗)

 出ました。半落ち騒動。浜本さん自身はともかく、その騒動が、書店員たちにくすぶる熱い反抗心を一気に噴き出させたのでした。

「本屋大賞のそもそもの始まりは、日ごろの営業活動中、あちこちの書店員から聞いた既存の文学賞に対する不満である。とくに直木賞が槍玉に挙がることが多かった。

(引用者注:本の雑誌社、杉江由次いわく)「みんな不満があるんですね。そのうち、自分たちで選んでみたいよね、なんていう声も聞こえてきました。あくまでお茶を飲みながらの愚痴なんですが」

 とくに書店員の不満が沸騰したのが二〇〇二年下半期(二〇〇三年一月決定発表)。このときは横山秀夫『半落ち』や角田光代『空中庭園』といった候補作がありながら、受賞作なしという結果に終わってしまった。書店員にとっては、受賞して欲しい作家・作品が選ばれなかったというショックに加え、受賞作がない、つまり売場が盛り上がらない、売上が伸びない、というショックが重なる。」(『図書館の学校』74号[平成18年/2006年12月] 永江朗「本はどのように読まれているのか?」より)

 カネの恨みはおそろしい、と言いますか。売上が伸びないのを直木賞のせいにする、というほとんど濡れ衣に近い発想ではありますけど、それだけパワーがあると見なされていたんですね直木賞。しっかりせにゃあかんよ。

 『半落ち』騒動の前の受賞作が、第127回(平成14年/2002年上半期)乙川優三郎『落ちる』。うわー、売れなさそう。書店員の興味ひかなそう。その前、第126回(平成13年/2001年下半期)は山本一力『あかね空』と唯川恵『肩ごしの恋人』。これは2作とも結構売れたって記録が残っているんですけど、それでも不満ですか。その前、第125回(平成13年/2001年上半期)は藤田宜永『愛の領分』。うーん、バカ売れするような作品じゃないでしょうね、たしかに。

 だけど、世に文学賞はあまたあります。そのなかで、なぜか直木賞だけが標的にされる展開がひき起こされました。心ふるえない直木賞オタクがいるでしょうか。直木賞に、「書店員の不満を暴発させた文学賞の代表格」という、他の出版社主催の文学賞が手に入れることのできない新たな称号が与えられることになったんですもの。ありがとう書店員。

 第1回授賞式に出席した永江朗さんは語ります。

「これは私の解釈なのだが、あの場に集まった人たちに共通してあったのは、芥川賞・直木賞など既存の文学賞に対する不満と、新しく誕生する賞への期待だったのではないか。とにかく異様な熱気だった。浜本茂『本の雑誌』編集長がスピーチで言った「打倒!直木賞」は拍手喝采された。」(同 太字下線部は引用者による)

 浜本さんの真意は、思いつき、あるいは冗談だったのかもしれません。だけど、言葉はひとり歩きします。賞そのものが、ひとり歩きします。

 たとえば、本屋大賞2回目を終えたあとの、直木賞報道。

「直木賞を取り巻く環境は大きく変化している。

「打倒直木賞」を掲げ、全国の書店員らが選ぶ「本屋大賞」は、昨年の第1回受賞作「博士の愛した数式」の売り上げを30万部以上伸ばし、直木賞に匹敵する宣伝効果を発揮。321万部の「世界の中心で、愛をさけぶ」など、賞の権威に頼らないメガヒット作も増えている。」
(『読売新聞』平成17年/2005年7月7日夕刊「直木賞候補、グーンと若返り」より 太字下線部は引用者による)

 受賞作が売れなきゃ直木賞の意味がない、みたいな視点ですね。そんなこと言い出したら、直木賞史のいったいどこの時代に、意味があったのか、という。

 この記事では、なぜか浜本さんがコメントを求められています。おカネのことで頭がいっぱいの記者をしりめに、浜本さんはしごく冷静です。

「書評誌「本の雑誌」発行人の浜本茂さんは、「本来新人賞だった直木賞が中堅作家の“上がり”の賞になり、旬の作品が受賞できなくなっていた。世代交代などで本来の形に戻るなら歓迎したい」と話す。」(同)

 さすが、直木賞売れなくなったから落ち目だよねー、などとは言いません。そもそも受賞作を売るための賞でないことをわかっているからでしょう。

 とはいえ、運営する人の思いが、なかなか伝わらないのは本屋大賞も直木賞も変わりません。周囲にいる人たちの、事実を無視した妄想はとどまるところを知らず。本屋大賞のひとり歩き、突っ走ります。

「全国の書店員が投票で売りたい本を選ぶ本屋大賞が創設されて5年。直木賞など作家選考の既成の文学賞を脅かすユニークな賞の課題とは。(引用者中略)

 伊坂
(引用者注:伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』の受賞は、作家が選考委員を務める文学賞に先駆けて賞を授けたという点で、やっと「本屋大賞らしさ」が表れたと言えるが、一方で、この賞の難しさもあらわにした。」(『読売新聞』平成20年/2008年4月9日「本屋大賞「らしさ」出た 「旬」逃さず伊坂幸太郎さんに 作品発掘なお課題」より 太字下線部は引用者による)

 こらこら。「作家が選考委員を務める文学賞に先駆けて賞を授けた」とか事実に反することを言って、大衆文芸新人賞界の良心「吉川英治文学新人賞」を、なかったことにしないでください。

 しかし、です。さっき「本屋大賞のひとり歩き」と表現しましたが、これはちょっと正確ではありませんでした。浜本さんら実行委員会の手を離れて、記者だのライターだの読者だの(ワタクシだの)が、なにか本屋大賞の現象を語るときに、多くの場合で引き合いに出される同伴者がいるわけですから。

 そう。直木賞です。

 去年は去年で、

「本屋大賞は、「売りたい本が直木賞で選ばれない」という書店員の飲み会での不満から始まった。1回目の発表会では、浜本茂理事長(「本の雑誌」発行人)が「打倒! 直木賞」と打ち上げた。」(『朝日新聞』平成24年/2012年4月16日「本屋大賞、売れ筋が本命 「埋もれた本に光を」から変化」より)

 と、しっかりと定番の役者を揃えつつ、

「今回変わったのは(引用者注:投票の)ルールだけではない。受賞者の三浦しをんは2006年に直木賞を受けている。直木賞作家が本屋大賞に選ばれたのは初めてのことだ。

 「直木賞をとれない、候補にもならない埋もれた作品を顕彰するのが当初の意図だった。しかし人気投票で選ぶ以上、候補作を決める段階からあらゆる読者に読まれて、売れている本が点を集めやすい」と文芸評論家の大森望さんは言う。」(同)

 と、本屋大賞の歩みの横には、常に直木賞の影あり、の構図を堅持していました。

 ワタクシは「直木賞なんて、いまでは話題にもならない」という話をよく耳にします。へえ、そうなのかあ、直木賞について話題にするのなんてワタクシひとりなのかあ、と思っていましたら、本屋大賞のおかげで、受賞の時期でも何でもないのに、直木賞が話題になっているではないですか。まったく、本屋大賞実行委員会には足を向けて寝られません。

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2013年4月 7日 (日)

小川和佑(文芸評論家) まじめな文学研究界のなかに埋もれていた、磨けば輝く文学賞批評の逸材。

小川和佑(おがわ・かずすけ)

  • 昭和5年/1930年4月29日生まれ(現在82歳)。
  • 昭和26年/1951年(21歳)明治大学専門部文芸科卒。このころから中村真一郎に師事し、詩作を始める。栃木県公立高校の教諭、その後、関東短期大学、水戸短期大学などで講師。
  • 昭和48年/1973年(43歳)明治大学にて講師(平成12年/2000年まで)。その間、昭和女子大学助教授などを歴任。
  • 昭和52年/1977年(47歳)『芥川賞事典』および『直木賞事典』の原稿を一部担当。
  • 昭和56年/1981年(51歳)より『サンデー毎日』誌上にて武蔵野次郎との文壇回顧対談を担当(昭和58年/1983年まで)。

 直木賞に関する散逸した文献をあさっていると、けっこうな人数で、大学で近代日本文学を専攻している先生方が直木賞を語っている、っていう状況に出くわします。そういう文章、ほんとうに大量にあります。掃いて捨てるほど、です。

 はなから大衆文芸界では批評文化が育たず、さらに直木賞は周囲から盛り立てる援軍が少なく、注目を浴びないこと甚だしい時代が続きました。直木賞が、一般ニュースとタメを張るほどに報道価値をもったのは、昭和30年(1955年)代以降ではありますが、名のある偉い文芸評論家の方がたは、芥川賞のことは真剣に語っても、直木賞に関しては、鼻クソほじくりながら文章を書き流していた……と思わせるような散々たる有り様で、気合いを入れて向き合ってはくれませんでした。

 となると、直木賞を扱うときに狩り出されるのは、パイの少ない大衆文芸評論界から見慣れた顔ぶれ、または、向学心旺盛な大学の先生たち、と相場が決まっています(たぶん)。大学の先生が直木賞なんちゅう文壇行事の傍流中の傍流のことを語る図、なんて、いまでは考えられないでしょうが(いや、そんなことないか)、彼らが直木賞を下で支えてくれた時期もあったのです、ありがとう、若き文学研究者たちよ。

 ……若かったかどうかはともかく、小川和佑さんも、そのひとりです。専門は詩の分野でありながら、小説のほうも等しく研究対象に据えて、

「私自身の昭和期の文学への関心は常に小説と詩の二つの領域を等価値的な視野によって、思考されている。」(昭和52年/1977年12月・明治書院刊 小川和佑・著『昭和文学の一側面――詩的饗宴者の文学』「初出誌一覧」より)

 と語るぐらいの方です。とうてい、うちみたいな腐れブログで取り上げるような方ではありません。

 昭和52年/1977年、長谷川泉さんが編集責任者となって、大学の先生たちに声をかけて『直木賞事典』が作成されました。ここに小川さんも参加しているのが運のツキです。果たして、直木賞にどれほど興味を持ってくれていたか、と不安になる直木賞オタクの心配をよそに、きっちりと小川ブシを存分に発揮して、ワタクシの心を癒してくれたのでした。

 たとえば、城山三郎さん受賞に関する文章。のっけから、小川和佑ここにあり、のテイストです。

「城山三郎は最初、杉浦英一の本名で詩誌「時間」「零度」に詩を書いていた。詩人として出発した杉浦英一はその十年後に城山三郎として処女作「輸出」によって「文学界」新人賞を得て順当に作家の道を歩みはじめていた。

(引用者中略)

経済小説の書き手が詩人であったことを選考委員の誰一人知らなかった所が、大変愉快である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より)

 あはははは。そんなところを愉快がる人、小川さん以外にいないんじゃないの? っつう点が愉快です。

 それから第41回、渡辺喜恵子平岩弓枝の二人受賞についてにも、「オレは詩には詳しいんだぞ」の顔をチラッと覗かせつつ、根拠なきゴシップを放り込んできます。

「この頃、文学、詩壇を問わず、女流ブーム、才女ブームの時代であり、女流二名の受賞に村上元三も気がとがめたと見えて「偶然、こんどの直木賞は二人とも女性になったが、委員たちは何も才女ブームを煽り立てようという気はない。」とわざわざ断わりを書いているのは、中間読み物は買い手市場の動向が芥川賞よりも敏感なだけに、暗黙裡に、文春の出版部の意向を受け取ってしまった後めたさか。」(同)

 いいっすねえ。あの村上さんの選評を読んで「気がとがめたと見え」てしまう目をもっている、という。「われわれ選考委員は、文藝春秋編集者の意向を意識的に無視して、今後いっさい受賞作は出さないことに決めた」ぐらい言わないと、どんな選評が書かれようが、裏の意図を読もうとするのでしょう。

 いや、小川さんがこのように書くのには、理由がありました。あとの文でこんなハナシが明かされています。

「この回(引用者注:第41回)の選評は各委員ともどうも歯切れが悪いことは既に書いた。仄聞するところによれば、当時の噂では、該当者なしと決まりかけたが、一転受賞者を作りあげたという風聞がしきりに流れた由である。但し、風聞である。」(同)

 つまり、無理やり女性二人の受賞者をつくり出した、っていう「風聞」を重要視して、村上さんの選評を解釈しているわけです。素晴らしい。どうしても風聞は風聞として、こんな場所に書くのを控えたがるものだと思いますが、小川さんの、直木賞観戦者たる資質の十分なことが、非常によくわかる文章だと思います。

 こういう文学賞を文学賞として楽しむ姿勢は、同書に集った他の先生たちに比べても抜きん出たものがあり、だからこそワタクシも『芥川賞物語』では小川さんの発言を、つい引き合いに出してしまったわけです。同志臭がぷんぷん臭うのです。

 『芥川賞事典』のほうでも、小川さんの全開な様子が楽しめます。

「ともあれ今回(引用者注:第58回)は明治学院大助教授・柏原兵三と国学院大学教授丸谷才一という講壇派作家によって、賞が争われたところに芥川賞史を枠組にして考えた場合の面白さがある。」(『芥川賞事典』「選評と受賞作家の運命」より)

(引用者注:第60回で)注目すべきは石川達三の候補作決定までの過程に対する不信と疑問である。この石川説には筆者も全面的に共感している。芥川賞をつまらぬものにしているのは文春社内の一次選考であろう。芥川賞の質低下の責任は彼らの文学観の矮小さにあること石川達三の指摘通りであろう。この回の選評は芥川賞史の注目に価するものである。」(同)

 まったく、小川さんに、きちんとまとまった芥川賞史、書いておいてほしかったっす……。いまから突如、小川史観による芥川賞史が、書かれる可能性はなくはないんでしょうが、おそらく、ないでしょう。心から悔まれます(これは裏の文意なんかありません、ワタクシの本心です)。

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