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2013年3月31日 (日)

池島信平(文藝春秋新社編集局長→文藝春秋社長) 作家の牛耳る直木賞・芥川賞のなかに編集者の血を送り込んだ、根っからのプロデューサー。

池島信平(いけじま・しんぺい)

  • 明治42年/1909年12月22日生まれ、昭和48年/1973年2月13日没(63歳)。
  • 昭和8年/1933年(23歳)東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。文藝春秋社はじめての公募入社試験に合格し、入社。『話』編集、『現地報告』編集などに携わる。
  • 昭和21年/1946年(36歳)文藝春秋新社の設立に加わり、編集局長。『文藝春秋』編集長兼務(昭和23年/1948年~昭和26年/1951年、昭和31年/1956年~昭和32年/1957年)を経て専務(昭和36年/1961年)。
  • 昭和41年/1966年(56歳)株式会社文藝春秋と社名変更したその年、同社社長に就任。日本文学振興会理事長に。

 佐佐木茂索さんがいなければ、いま直木賞はなかった。っていうのと同じレベルで、池島信平さんなかりせば、直木賞はいまのようなかたちになっていなかった、というぐらいの重鎮(裏)人物です。何つっても、戦後の貧乏所帯、文藝春秋新社を、その鋭敏な編集力で救った中心人物のひとりですからね。香西昇・式場俊三といった小モノとはわけがちがいます(……小モノっていうのは冗談ですよ)。

 それはともかく、池島さんです。戦前は『話』とか『現地報告』とか、時流に迎合しないと売れ行きに結びつかないような雑誌で編集者街道をひた走り、それほど直木賞や芥川賞とのつながりはなかったようです。昭和18年/1943年に満洲に行かされて、帰国して『文藝春秋』編集長になれたと思ったら、軍隊に召集されて、戦争が明けるや、尊敬してやまない菊池寛親分の口から「雑誌社をやめる」などという言葉が飛び出す。

 池島さん、憤然として文春存続の音頭をとり、佐佐木茂索さんにお願いして社長になってもらい、文藝春秋新社を設立。ところが世情の混乱はやまず、かつての『文藝春秋』隆盛のころからはほど遠い苦しい船出だったんだとか、何とか。そこから池島さんの貪欲な好奇心と編集の才によって『文藝春秋』は一気に復活……みたいなハナシは、塩澤実信さんの得意とするところです。

「戦後、「文藝春秋」の大躍進のきっかけとなる、昭和二十四年六月号の目玉企画、「天皇陛下大いに笑ふ」は、日記に記された菊池寛の墓参帰りのバスの中で立案されたものだった。

 画家の宮田重雄が、池島信平のすぐ前の席にいて、持ち前の大声で、

「こないだ、ハッちゃんと夢声老と辰野大博士が、天皇さんのまえでバカばなしをして、陛下は生まれてはじめてお笑いになった……」

 と話したのである。

 信平は、咄嗟に閃くものがあって、

「それ、いきましょう!」

 と言い、早速、御前放談会に出席したサトウハチロー、徳川夢声、辰野隆に、「陛下の前と同じようにやってほしい」と注文して、雑誌史上に遺る見事な企画をモノにしたのだった。」(塩澤実信・著『雑誌記者 池島信平』より)

 塩澤さんの筆の快調さはすさまじすぎるばかりで、この年昭和24年/1949年に復活した直木賞・芥川賞のことなど、まったく路傍の石のように扱い、池島さんの大功績を讃えるのでした。

「上昇気流に乗った文藝春秋新社は、こうした中で、昭和二十四年七月に、由緒ある芥川賞、直木賞を復活することに決めた。(引用者中略)最初の両賞選考委員会は、二十四年八月に開かれた。通算二十一回目であった。芥川賞に小谷剛の「確証」、由起しげ子の「本の話」。直木賞は富田常雄「面」及び「刺青」が決定した。

 こんにちでは、両賞は文壇の一大イベントに発展し、受賞者は一夜にしてスターダムにのし上っているが、復活から数年間はほとんど顧みられない地道な賞だった。まして受賞者に出版社からの原稿注文が殺到するわけではなかった。

 むしろ、その年の十月、新たに制定された「文藝春秋読者賞」の方が、話題に上る率は高かった。」(同)

 ほお、ほお。塩澤さんの構成した物語ですから、全部が全部、事実に立脚していなくてもいいんですけど、芥川賞が文藝春秋新社のもとで復活するのが決まって、報道各社に発表されたのは、昭和24年/1949年2月です。芥川賞の選考会は6月、直木賞は7月です。……にしても、両賞よりも文藝春秋読者賞のほうが、当時は話題にのぼった、っつう塩澤さんの説は気になるなあ。これがほんとだったら、たしかに面白い。

 ええと、池島さんの名を今でも高らしめる「天皇陛下大いに笑ふ」については、「あれって占領軍の意向を受けて掲載したものにすぎないんじゃないの?」と言っている方もいるので、一応、紹介しておきます。

「戦犯の汚名を着たまま“トン死”した菊池寛の跡を継いで出て来た池島信平氏は、とかくマスコミ界では伝説の人物として語り継がれて来ている。

 私などもジャーナリストになり立ての頃はよく先輩あたりに、池島氏の編集手腕を見習えといわれたものだ。そして、彼がいかに編集企画能力がバツグンであったかを、昭和二十四年(一九四九年)に文春本誌で企画した「天皇陛下大いに笑う」が引き合いに出された。

(引用者中略)

 用紙難云々の時代は、CCD検閲第一期の時代。しかも用紙問題では岩波書店の小林勇氏が日本側代表として活躍していた。いわゆる左派系雑誌が開花した時である。それが僅か三年にして、戦犯出版社が不死鳥のようによみがえるという構図は、それこそ絶対的権力を掌握していた連中の仕掛けでなくてなんとするか。」(『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』所収 丸山実「第I部 文春への黒いラブレター」より)

 これはこれで、結構な妄想に貫かれた指摘ではあるんですが、成功者はとかく非難を浴びるものです。

 いずれにせよ、池島さんの活躍ぶりは、『文藝春秋』誌を中心にして切り開かれました。芥川賞の発表誌です。直木賞は蚊帳の外です。池島さんの名は、直木賞史のなかには、それほど登場しません。

 登場しないんですが、それでも何かの折りにはチョロっと顔を見せるところが、いかにも直木賞にとっては、池島信平・影のフィクサー、っぽい感じが匂ってくるところなわけです。

 源氏鶏太さんが『オール讀物』に投稿した原稿を、たまたま見つけ、さらっと読むなり「これ面白いよ」と上林吾郎編集長に助言、源氏さんの大活躍への道すじをつけたのが池島さんだったとか。

 柴田錬三郎さんが「イエスの裔」で芥川賞の予選を通過しそうになっていたところ、芥川賞からは外して直木賞のほうにしてください、と依頼したのが池島さんだったとか。

 邱永漢さんの、直木賞受賞の逸話のなかにもチラッと出てきます。

「この小説(引用者注:「香港」)は、難民で金に困った男が香港の貧民窟生活にうんざりして、詐欺を思い立ち、カサブランカに輸出する茶の葉の中に石ころを詰めて百万ドルの金を横領して日本へ逃げる話である。(引用者中略)

 (引用者注:直木賞の受賞を)真っ先に電話で知らせてくれたのは、私を早くから認めてくれた檀一雄さんだったが、続いて文藝春秋社から、直木賞に当選したからすぐ出頭するように、という電報が届いた。翌日、私が文藝春秋社へ行くと、編集長だった池島信平さんが私の顔を見たとたんに、

「あの小説はおもしろかったですね。あの中に出てくる主人公はご自分がモデルですか」

 ときいた。百万ドルだまして日本へ逃げる話だから、そう思いたくもなるだろうが、

「いやあ、残念ながら私自身のことじゃありません。もし私に百万ドルだましとるだけの勇気と才覚があったら、小説書きなんてミミッチイ仕事はやりませんよ」

 と私は答えた。」(邱永漢・著『私の金儲け自伝』より)

 邱さんが受賞した第34回(昭和30年/1955年下半期)といえば、芥川賞のほうは石原慎太郎さんの「太陽の季節」受賞です。池島さんは『文藝春秋』編集長として、いよいよ芥川賞の爆発力に間近に立ち会ったときでした。

夢声(引用者注:徳川夢声) さて、昭和三十一年もおわろうとしてるんですがね、ひとつ、ことしの大きなできごとを回顧しますか。

池島 わたしの関係した最大のニュースは、「太陽の季節」ですよ。

夢声 これは単に文壇だけの問題ではなく、日本全国の問題だな。太陽の季節を大いに推進したのは、池島気象台でしたか。

池島 弁解さしていただくと、芥川賞委員会できまることってのは、われわれは、どうすることもできないんです。きまった以上、雑誌にのせなきゃならない。あれをのせたら、手紙がずいぶんまいりました。「おまえが元凶である」というんですよ。おもしろいのは、はじめは反対ばかりで、そのうちに、賛成がぽつぽつくるんです。半年ぐらいたったら、賛成のほうがすこし多くなりましたね。

(引用者中略)

夢声 「太陽の季節」の監督でも俳優でもないけども、おたくは、プロデューサーというわけでさあね。

池島 そうなりますかな。ほんとにおもうけになったのは、映画にされた日活さんです。雑誌がすこしよけいに売れたということだけですね、弊社としては。(笑)」(『週刊朝日』昭和31年/1956年12月30日号「問答有用」より)

 いっときの儲けはそれほどでなくとも、のちに渡るまでの文学賞効果をガッツリせしめて、悦に入っている。という感じが、ああいかにも、裏方であることに矜恃と生き甲斐をもっていた池島さんっぽいよなあ。

          ○

 昭和31年/1956年、あれだけ石原慎太郎フォーバーが起きたのも、そもそも『文藝春秋』が戦後立ち直り、毎月数十万部を売り上げる一大雑誌に伸長していたからこそです。

 ……ということで、少し戻りまして、池島さん率いる同社の社業発展について。当時の社長佐佐木茂索さんが、その原因を、やや冗談まじりに語っています。

嶋中(引用者注:嶋中鵬二) しかしその戦後「文藝春秋」の部数が伸びたというのは、これはもう歴史的にも珍らしいことだし、大変に驚異的な現象だと思うんですけれども、その一番大きな原因は、どこにあったんでしょう?

佐佐木 一番大きな原因は、ま、やっぱり池島がですね、思い切って、僕なんか気恥かしいと思うような標題でですね、内容もそういったものを……(笑)臆面もなく……(笑)載せたと、それが世間に受けたと、こういうことじゃないですか。つまり僕の方が常識人であって、池島の方が非常識人で、非常識人が勝ったということじゃないですか。(笑)

嶋中 ははあ。

佐佐木 今までの編集者だったらですね、少なくとも作家をやって来た人間だったら、気恥かしいと思うようなことが、彼には欠けて居ったと……(笑)いうことじゃないですか。

池島 それをまた黙って見ている臆面なさ……。(笑)」(『文壇よもやま話』「佐佐木茂索の巻」より)

 ここの部分について、手厳しい見解を示しているのが、池島信平さんの薫陶をうけた堤堯さんです。僕は常識人・このひと非常識人、みたいな物言いをしているけど、非常識人だからこそ8万部の雑誌を40万部にできたんじゃないか、と力説しています。

「ここ(引用者注:佐佐木茂索の発言)には明らかに嫉妬がある。この社長が死んだとき、「佐々木さんが生きていれば、池島さんは社長になれなかったろう」という先輩社員の観測をずいぶんと聞いた。「非常識人」を社長にするわけもあるまい。ただし、「常識人」の編集が、八万部から四十万部への荒業を成し遂げることは到底出来ない。「非常識」が「大常識」に通じる逆説を、この人は見ていない。」(『WiLL』平成20年/2008年9月号 堤堯「ある編集者のオデッセイ 文藝春秋とともに 「非常識人」・池島信平さんの死」より)

 なるほど。結果論のようなハナシではありますが、直木賞が世間で持てはやされるようになった土台には、芥川賞に対する報道の過熱があったわけで、芥川賞が注目されるようになるためには、40万雑誌『文藝春秋』誌っていう礎が不可欠だったわけで、それはつまり、池島信平さんの非常識さ=大常識さのおかげであった、と。

 よく生き残ったと思います。『文藝春秋』。池島さんは、直木賞・芥川賞の拠って立つ土壌を盤石なものに仕立て上げたひとでした。

 ただ、池島さんがトップになってから、佐佐木さんが社長だった時代の、ざっくばらんで自由で、ちょっとチャランポランな文春の気風がずいぶんと変わった、っていう証言があります。

「この気風が失われだしたのが、紀尾井町に壮麗な社屋を新築してからである。(引用者中略)その後、社長になった頃から私の目には、少し尊大な態度になってきたように思えた。(引用者中略)

 のちに考えると、高血圧症に悩まされていた時期のようで、社長になって人間が変わったわけではなかったのだが、そのときはそう思ってしまった。とはいえ、池島社長の下で社員の体質がずい分と変わったことは事実である。それがいいのか悪いのかはわからないが、私がうらやましがったおっとりとした社風は、次第に影を潜めてきている。」(『図書館の学校』平成12年/2000年11月号 櫻井秀勲「戦後編集者列伝 第一回「文藝春秋」の体質をつくった池島信平」より)

 菊池寛や佐佐木茂索がいた頃の直木賞・芥川賞は、たしかに〈作家によって作家を顕彰する〉賞でした。佐佐木さんいわく、そもそも自分らとは資質が違う、っていう池島さんは、両賞が〈編集者視点で作家を顕彰する〉賞へと変わっていく、橋渡し役的な存在だったと言っていいんでしょう。

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