巖谷大四(文芸評論家) 文壇事情にくわしいことがアダとなり、興味もない文学賞のことを何度も書かされて。
巖谷大四(いわや・だいし)
- 大正4年/1915年12月30日生まれ、平成18年/2006年9月6日没(90歳)。
- 昭和15年/1940年(24歳)早稲田大学文学部英文科卒。文藝春秋社の入社試験に落ち、文藝家協会書記となる。戦中は日本文学報国会事業部を経て東方社の調査部に勤務。
- 昭和20年/1945年(29歳)鎌倉文庫に入社し、まもなく出版部長。その後、『文藝』編集長(昭和25年/1950年)、『週刊読書人』編集長(昭和33年/1958年)を歴任。
- 昭和33年/1958年(42歳)『非常時日本文壇史』(中央公論社刊)上梓。以降、文壇にまつわる著作を次々と刊行。
巖谷大四さんの、とくに文壇関係の著述における活躍はめざましいものがありました。その道の大家になったと言っていいほです。しかし、その分、直木賞研究者のあいだからは、やっかみ半分に「直木賞をことさら矮小化してみせた戦犯」と中傷を受けることになったわけです。
いや、ワタクシが中傷しているだけです。
公平な目で見ますと、アレです。巖谷さんくらい文壇に執着し、直木賞・芥川賞の創設のころに青春時代を送り、文藝春秋社に入ることを目標にしていた人が、これほど直木賞に無関心であることが、いかに純文芸の文壇内で直木賞が軽視されていたかを表わしていると思います。
って、「直木賞(裏)人物事典」はこんな人ばっかりだよなあ。……こんな人ばっかり、っつう点で、これまで直木賞の味わってきた散々な扱いを、感じ取ってもらえればうれしいです。
直木賞だけのことではありません。そもそも巖谷さんは文学賞にどれだけ興味があったのかが、よくわかりません。たとえば、創設時の直木賞・芥川賞について、こう紹介しています。
「その年の『文芸春秋』九月号に第一回の受賞者(芥川賞・石川達三「蒼氓」直木賞・川口松太郎「鶴八鶴次郎」)が発表され、十月二十八日に、日比谷公会堂で文芸春秋社が主催した「東京愛読者大会」の席上で、初めての授賞式が催されたのだが、その時、各新聞社を招待したにもかかわらず、ほんのお付き合い程度にしか報道しなかったばかりか、新聞によってはまったく無視した。
これに憤慨した菊池寛は、次の号の『文芸春秋』の「話の屑籠」につぎのように書いた。
「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いてくれない新聞社があつたのには憤慨した。(引用者中略)」」(昭和53年/1978年5月・時事通信社刊 巖谷大四・著『瓦版昭和文壇史』「“二・二六事件”前後」より)
ちなみに巖谷さんは、『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)にも「「直木賞」と商業ジャーナリズム」っていう文章を寄稿しておりまして、その「2」は、上に挙げた文章とほぼ同じです。どちらもだいたい同じ時期に発表されているので、忙しいさなか、二重で使ったんでしょう。
でもね巖谷さん。あなたの引用した菊池寛による、かの有名な一節は、『文藝春秋』昭和10年/1935年10月号に載っているわけじゃないですか。つまり9月発売号。10月28日の授賞式のことを語っているわけがない、と気づきませんでした?
人間の思い込みって怖いものです。菊池寛が新聞社に毒づいた逸話。それと、公衆の面前で盛大に(?)行われた第1回の授賞式。巖谷さんの頭のなかではごっちゃになっていました。あるいはワタクシなどは、こういう勘違いをするとは、よくよく巖谷さんは、創設時の両賞を注目されていなかったことにしたいのかなあ、と思わされるわけですが、それこそワタクシの思い込みかもしれません。
ええと、直木賞と巖谷さんのことにハナシを絞ります。以前にも紹介したことがありますが、巖谷さんには、戦後の直木賞・芥川賞の復活を語った文章があります。
「昭和二十四年六月二十五日、戦後復活第一回(通算二十一回)の芥川賞・直木賞の選衡委員会が、開かれた。
(引用者中略)
芥川賞の方は、ちょっとした波乱があった。新旧委員の間に選衡基準についてまず意見の相違があった。
(引用者中略)
直木賞の方は、必ずしも新人発掘ということにこだわらず、「押しも押されもしない作家で、日本の大衆文芸の野に新生面を拓き、もしくは拓こうとしているもの」にまで間口を拡げ「職業作家として大成する作風が前提条件」という第一回以来の原則が再確認され、すんなりと、既に「姿三四郎」で世に認められていた富田常雄が「面」「刺青」の二作によって受賞した。」(昭和55年/1980年5月・時事通信社刊 巖谷大四・著『瓦版戦後文壇史』「芥川賞、直木賞の復活」より)
ここ、読むたびに気分が悪くなります。悲しくなります。どこが、すんなり、なんですか。直木賞の戦後復活の選考会は、昭和23年/1948年に一度開かれて意見がまとまらず散会し、一年越しでようやく受賞が決まったっつうのに。
そういえば、上の「直木賞の方は」うんぬんの箇所は、前掲「「直木賞」と商業ジャーナリズム」のなかにも似たような文章が出てきます。人間の思い込みって怖いものリターンズ。
で、その「「直木賞」と商業ジャーナリズム」なんですが、巖谷さんの迷ゼリフがバシバシ登場します。
「(引用者注:戦前は)菊池寛の意図である「芥川・直木という相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けよう」ということには成功したが、商業ジャーナリズムのペースにのせることにはそれほど成功しなかったのである。
(引用者中略)
戦後の受賞者の商業ジャーナリズムでの活躍は目ざましいものがある。菊池寛のはじめの意図は戦後数年にしてようやく達成されたと言えるだろう。」(「「直木賞」と商業ジャーナリズム」より)
さすが菊池寛さんに直接世話になった方だけあって、やたら菊池寛にこだわっています。ところで、どこかで菊池さんが、直木賞受賞者は商業ジャーナリズムのペースにのるべき、とか言ったんでしたっけ? 「新進作家の擡頭を助ける」ことこそ本意だったのでは? だったら、戦前の段階で成功していたんじゃないんですか。
あと、川口松太郎とか鷲尾雨工とか海音寺潮五郎とか木々高太郎とか橘外男とか堤千代とか村上元三とか木村荘十とか、戦前には商業ジャーナリズムに乗っていた、と思いますけど。巖谷さんの関心をひかなかっただけで。
○
巖谷さんは文壇の語り部です。だからなのか、文学賞に関する文章も、おそらく編集者の求めに応じて、いくつも書いています。ワタクシみたいな文学賞厨にとっては、頼もしい存在です。
その分、期待値が高すぎて、ついついワタクシも厳しい目で巖谷さんを見てしまっているのかもしれません。
『週刊読売』昭和42年/1967年8月1日号に、「大宅グループ日本考察32 受賞作家の条件は体力第一? 文学賞に踊る人びと・あやつる人びと」っていう記事が載っています。巖谷大四さんによるものです。
先に紹介した「第1回授賞式と、菊池寛の「話の屑籠」での憤慨」だの、「戦後第21回の富田常雄受賞は、すんなり決まった」だの、そういったハナシがすでに、ここで書かれています。
その件は措いておくとして、ここでは巖谷さん、直木賞の(戦後の)受賞傾向にもかなり踏み込んでくれています。そうだ、そうだよ、そうこなっくちゃ。
「直木賞には、意外に時代小説の入賞が少ないのが注目される。
(引用者中略)
どうして現代小説がふえたか、これは、文学の娯楽化、中間小説化のためであろう。時代小説にしても、柴田(引用者注:柴田錬三郎)、五味(引用者注:五味康祐)、司馬(引用者注:司馬遼太郎)のような「西部劇」的な、現代感覚的な、あるいは、いっそナンセンス的なものしか要求されなくなってきているわけだ。
現代小説も、ドキュメンタリーなもの、風俗的なもの、ミステリーなもの、刺激的なものが多くなってきた。それは作者の創造力の減退を意味しているようだ。」(「受賞作家の条件は体力第一? 文学賞に踊る人びと・あやつる人びと」より)
いいっすねえ、この意味不明感。おそらく戦後の直木賞の候補作どころか、受賞作もあまり追っていないことバレバレの評論。
いや、いいんです巖谷さん。それでいいんです。あなたが直木賞に興味がないことはわかりました。それでも直木賞を無視したりせず、この記事のように、直木賞についてもかなりの誌面を割いて、巖谷さんなりの直木賞観を語ってくれる、そのことがワタクシにはうれしくて、楽しいのです。
当記事は、このように締めくくられています。
「結局「文学賞」というものは、主宰側にすれば、半分は文学の育成であり、半分は宣伝である。応募者側にすれば、半分は自己の文学道の練摩(原文ママ)であり、半分は賭けである。要はそのバランスをくずさないように心がけるということであろう。」(『週刊読売』昭和42年/1967年8月1日号)
10年後の、前掲「「直木賞」と商業ジャーナリズム」のほうは、こうです。
「結局「文学賞」というものは、主催者側にすれば、半分は文学の育成であり、半分は宣伝である。応募者側にすれば、半分は自己の文学道の練磨であり、半分は賭けである。要はそのバランスをくずさないように心がけるしかない、ということだろう。」(『直木賞事典』昭和52年/1977年6月)
己の考えを頑として変えず貫く、っていうのは美しいことです。にしても、直木賞のみならず文学賞全般、60年代70年代にいろいろ動きがあったはずなのに、コピペで済ませるとは、よほどこれぞ真理だと自信があったものか、もしくは文学賞に興味がなかったのか……。
その10年後の昭和62年/1987年、20年後の平成9年/1997年、30年後の亡くなる間際、それぞれ巖谷さんが文学賞に関する文章を発表していたとしたら、それも見てみたくなりますよね。
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