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2013年3月の5件の記事

2013年3月31日 (日)

池島信平(文藝春秋新社編集局長→文藝春秋社長) 作家の牛耳る直木賞・芥川賞のなかに編集者の血を送り込んだ、根っからのプロデューサー。

池島信平(いけじま・しんぺい)

  • 明治42年/1909年12月22日生まれ、昭和48年/1973年2月13日没(63歳)。
  • 昭和8年/1933年(23歳)東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。文藝春秋社はじめての公募入社試験に合格し、入社。『話』編集、『現地報告』編集などに携わる。
  • 昭和21年/1946年(36歳)文藝春秋新社の設立に加わり、編集局長。『文藝春秋』編集長兼務(昭和23年/1948年~昭和26年/1951年、昭和31年/1956年~昭和32年/1957年)を経て専務(昭和36年/1961年)。
  • 昭和41年/1966年(56歳)株式会社文藝春秋と社名変更したその年、同社社長に就任。日本文学振興会理事長に。

 佐佐木茂索さんがいなければ、いま直木賞はなかった。っていうのと同じレベルで、池島信平さんなかりせば、直木賞はいまのようなかたちになっていなかった、というぐらいの重鎮(裏)人物です。何つっても、戦後の貧乏所帯、文藝春秋新社を、その鋭敏な編集力で救った中心人物のひとりですからね。香西昇・式場俊三といった小モノとはわけがちがいます(……小モノっていうのは冗談ですよ)。

 それはともかく、池島さんです。戦前は『話』とか『現地報告』とか、時流に迎合しないと売れ行きに結びつかないような雑誌で編集者街道をひた走り、それほど直木賞や芥川賞とのつながりはなかったようです。昭和18年/1943年に満洲に行かされて、帰国して『文藝春秋』編集長になれたと思ったら、軍隊に召集されて、戦争が明けるや、尊敬してやまない菊池寛親分の口から「雑誌社をやめる」などという言葉が飛び出す。

 池島さん、憤然として文春存続の音頭をとり、佐佐木茂索さんにお願いして社長になってもらい、文藝春秋新社を設立。ところが世情の混乱はやまず、かつての『文藝春秋』隆盛のころからはほど遠い苦しい船出だったんだとか、何とか。そこから池島さんの貪欲な好奇心と編集の才によって『文藝春秋』は一気に復活……みたいなハナシは、塩澤実信さんの得意とするところです。

「戦後、「文藝春秋」の大躍進のきっかけとなる、昭和二十四年六月号の目玉企画、「天皇陛下大いに笑ふ」は、日記に記された菊池寛の墓参帰りのバスの中で立案されたものだった。

 画家の宮田重雄が、池島信平のすぐ前の席にいて、持ち前の大声で、

「こないだ、ハッちゃんと夢声老と辰野大博士が、天皇さんのまえでバカばなしをして、陛下は生まれてはじめてお笑いになった……」

 と話したのである。

 信平は、咄嗟に閃くものがあって、

「それ、いきましょう!」

 と言い、早速、御前放談会に出席したサトウハチロー、徳川夢声、辰野隆に、「陛下の前と同じようにやってほしい」と注文して、雑誌史上に遺る見事な企画をモノにしたのだった。」(塩澤実信・著『雑誌記者 池島信平』より)

 塩澤さんの筆の快調さはすさまじすぎるばかりで、この年昭和24年/1949年に復活した直木賞・芥川賞のことなど、まったく路傍の石のように扱い、池島さんの大功績を讃えるのでした。

「上昇気流に乗った文藝春秋新社は、こうした中で、昭和二十四年七月に、由緒ある芥川賞、直木賞を復活することに決めた。(引用者中略)最初の両賞選考委員会は、二十四年八月に開かれた。通算二十一回目であった。芥川賞に小谷剛の「確証」、由起しげ子の「本の話」。直木賞は富田常雄「面」及び「刺青」が決定した。

 こんにちでは、両賞は文壇の一大イベントに発展し、受賞者は一夜にしてスターダムにのし上っているが、復活から数年間はほとんど顧みられない地道な賞だった。まして受賞者に出版社からの原稿注文が殺到するわけではなかった。

 むしろ、その年の十月、新たに制定された「文藝春秋読者賞」の方が、話題に上る率は高かった。」(同)

 ほお、ほお。塩澤さんの構成した物語ですから、全部が全部、事実に立脚していなくてもいいんですけど、芥川賞が文藝春秋新社のもとで復活するのが決まって、報道各社に発表されたのは、昭和24年/1949年2月です。芥川賞の選考会は6月、直木賞は7月です。……にしても、両賞よりも文藝春秋読者賞のほうが、当時は話題にのぼった、っつう塩澤さんの説は気になるなあ。これがほんとだったら、たしかに面白い。

 ええと、池島さんの名を今でも高らしめる「天皇陛下大いに笑ふ」については、「あれって占領軍の意向を受けて掲載したものにすぎないんじゃないの?」と言っている方もいるので、一応、紹介しておきます。

「戦犯の汚名を着たまま“トン死”した菊池寛の跡を継いで出て来た池島信平氏は、とかくマスコミ界では伝説の人物として語り継がれて来ている。

 私などもジャーナリストになり立ての頃はよく先輩あたりに、池島氏の編集手腕を見習えといわれたものだ。そして、彼がいかに編集企画能力がバツグンであったかを、昭和二十四年(一九四九年)に文春本誌で企画した「天皇陛下大いに笑う」が引き合いに出された。

(引用者中略)

 用紙難云々の時代は、CCD検閲第一期の時代。しかも用紙問題では岩波書店の小林勇氏が日本側代表として活躍していた。いわゆる左派系雑誌が開花した時である。それが僅か三年にして、戦犯出版社が不死鳥のようによみがえるという構図は、それこそ絶対的権力を掌握していた連中の仕掛けでなくてなんとするか。」(『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』所収 丸山実「第I部 文春への黒いラブレター」より)

 これはこれで、結構な妄想に貫かれた指摘ではあるんですが、成功者はとかく非難を浴びるものです。

 いずれにせよ、池島さんの活躍ぶりは、『文藝春秋』誌を中心にして切り開かれました。芥川賞の発表誌です。直木賞は蚊帳の外です。池島さんの名は、直木賞史のなかには、それほど登場しません。

 登場しないんですが、それでも何かの折りにはチョロっと顔を見せるところが、いかにも直木賞にとっては、池島信平・影のフィクサー、っぽい感じが匂ってくるところなわけです。

 源氏鶏太さんが『オール讀物』に投稿した原稿を、たまたま見つけ、さらっと読むなり「これ面白いよ」と上林吾郎編集長に助言、源氏さんの大活躍への道すじをつけたのが池島さんだったとか。

 柴田錬三郎さんが「イエスの裔」で芥川賞の予選を通過しそうになっていたところ、芥川賞からは外して直木賞のほうにしてください、と依頼したのが池島さんだったとか。

 邱永漢さんの、直木賞受賞の逸話のなかにもチラッと出てきます。

「この小説(引用者注:「香港」)は、難民で金に困った男が香港の貧民窟生活にうんざりして、詐欺を思い立ち、カサブランカに輸出する茶の葉の中に石ころを詰めて百万ドルの金を横領して日本へ逃げる話である。(引用者中略)

 (引用者注:直木賞の受賞を)真っ先に電話で知らせてくれたのは、私を早くから認めてくれた檀一雄さんだったが、続いて文藝春秋社から、直木賞に当選したからすぐ出頭するように、という電報が届いた。翌日、私が文藝春秋社へ行くと、編集長だった池島信平さんが私の顔を見たとたんに、

「あの小説はおもしろかったですね。あの中に出てくる主人公はご自分がモデルですか」

 ときいた。百万ドルだまして日本へ逃げる話だから、そう思いたくもなるだろうが、

「いやあ、残念ながら私自身のことじゃありません。もし私に百万ドルだましとるだけの勇気と才覚があったら、小説書きなんてミミッチイ仕事はやりませんよ」

 と私は答えた。」(邱永漢・著『私の金儲け自伝』より)

 邱さんが受賞した第34回(昭和30年/1955年下半期)といえば、芥川賞のほうは石原慎太郎さんの「太陽の季節」受賞です。池島さんは『文藝春秋』編集長として、いよいよ芥川賞の爆発力に間近に立ち会ったときでした。

夢声(引用者注:徳川夢声) さて、昭和三十一年もおわろうとしてるんですがね、ひとつ、ことしの大きなできごとを回顧しますか。

池島 わたしの関係した最大のニュースは、「太陽の季節」ですよ。

夢声 これは単に文壇だけの問題ではなく、日本全国の問題だな。太陽の季節を大いに推進したのは、池島気象台でしたか。

池島 弁解さしていただくと、芥川賞委員会できまることってのは、われわれは、どうすることもできないんです。きまった以上、雑誌にのせなきゃならない。あれをのせたら、手紙がずいぶんまいりました。「おまえが元凶である」というんですよ。おもしろいのは、はじめは反対ばかりで、そのうちに、賛成がぽつぽつくるんです。半年ぐらいたったら、賛成のほうがすこし多くなりましたね。

(引用者中略)

夢声 「太陽の季節」の監督でも俳優でもないけども、おたくは、プロデューサーというわけでさあね。

池島 そうなりますかな。ほんとにおもうけになったのは、映画にされた日活さんです。雑誌がすこしよけいに売れたということだけですね、弊社としては。(笑)」(『週刊朝日』昭和31年/1956年12月30日号「問答有用」より)

 いっときの儲けはそれほどでなくとも、のちに渡るまでの文学賞効果をガッツリせしめて、悦に入っている。という感じが、ああいかにも、裏方であることに矜恃と生き甲斐をもっていた池島さんっぽいよなあ。

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2013年3月24日 (日)

大村彦次郎(『小説現代』編集長) 資料に忠実に書く、しかも編集者としての回想記も書ける、最強の直木賞記録者。

大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)

  • 昭和8年/1933年生まれ(現在79歳)。
  • 昭和34年/1959年(25歳)早稲田大学政治経済学部から文学部を経て卒業。講談社入社。『婦人倶楽部』編集部に配属。
  • 昭和37年/1962年(28歳)『小説現代』創刊スタッフに加わる。昭和44年/1969年に同誌編集長に(昭和48年/1973年まで)。
  • 昭和63年/1988年(55歳)講談社の経営下に入った短歌研究社の社長に就任(平成12年/2000年まで)。
  • 平成7年/1995年(61歳)『文壇うたかた物語』(筑摩書房刊)を上梓。

 褒めるところしかなくて、ほんと困ります。大村彦次郎さん。

 大村さん自身にとっては、直木賞のことなど、あまたある関心事のなかの一芥にすぎないでしょう。けれども、直木賞の研究史のうえでは、この人を超える人材など未来永劫現れないんじゃないか、っていうぐらい、でっかいものを残してくれました。……いや、いまも残しつづけてくれています。

 『文壇栄華物語』(平成10年/1998年12月)では、昭和20年/1945年夏すぎ~昭和31年/1956年ごろまで。『文壇挽歌物語』(平成13年/2001年5月)では、昭和32年/1957年~昭和41年/1966年ごろまで。『文壇うたかた物語』(平成7年/1995年5月)は、それらと趣きが異なり、大村さん自身の見聞きした経験をふんだんに差し挟んだものですが、時代としては、大村さんが『群像』編集部に移る昭和48年/1973年ごろまでの話題が入っています。

 直木賞でいえば、第21回~第68回ごろ。さらには『時代小説盛衰史』(平成17年/2005年11月)では、明治末期から筆を起こし昭和30年代までを扱っているので、悠々と直木賞の第1回から視野に入っています。大村さんの本を読めば、直木賞のおよそ半分ぐらいの歴史はしっかりわかる、っていう寸法です。

 大村さんの本にあらわれる直木賞観は、(とくに『栄華』『挽歌』『時代小説』の三冊は)とにかく基本に忠実。選評に忠実、と言い換えてもいいです。

「「文壇うたかた物語」はわが現役の折々の体験をあやふやな記憶に頼って綴った、いわば編集者の回想記である。それとは別に、作家の生態や消息に力点を置きながら、それ自体が物語であり、読み物の対象になる文壇史を書けないか。もちろん正史にはほど遠いが、残された資料に忠実に準拠することを心がける。」(『新刊ニュース』平成13年/2001年7月号 大村彦次郎「私のなかの文壇」より)

 そこが大村文壇史、信頼を生むもとになっています。

 だいたい、編集者の回想記ですでに面白く、自分の経験に立脚した文壇バナシを繰り出していくだけでも、大村さんほどの人なら何冊も本が書けましょうに。「いや、今度は資料に忠実な読み物を書きたいぜ!」と発想するところが、異常というか、スゴいわけです。

 ちなみに、三部作を書き終えたあと、大村さんはこんな感想を洩らしていました。

「「作品の値打ちに基づく、正統な文学史とはだいぶ違います。栄枯盛衰の激しい文壇で、もの書きとして精いっぱい表現しよう、生きようとしたこれだけの人間がいた。僭越(せんえつ)ながら、その一人一人を顕彰したいという気持ちが強かった」

(引用者中略)

「流行作家の家に日参して原稿もらうのが、編集者の喜びじゃありませんよ。才能があってもなくても、いいものを書くようどこまでも励まし続ける。目次に出ない作家を追っかけてるのが、実は一番面白かった」」(『読売新聞』平成13年/2001年6月16日夕刊「“文壇物”三部作を完結させた大村彦次郎さんに聞く」より)

 ふうむ。そこがまた大村文壇史のエラいとこなんだよな。……ってことで、直木賞のなかでも光の当てられがちな受賞者ではなく、とれなかった候補者たちを、大村さんがどのように書き残しているか、確認しておきたいと思います。

 『栄華』より。畷文兵さんのこと。第8回講談倶楽部賞の受賞者として名前が出てきます。

(引用者注:第8回講談倶楽部賞の)受賞者の司馬(引用者注:司馬遼太郎は本名福田定一、三十三歳、大阪サンケイ新聞の文化部記者で、偶然に受賞した当日、文化部次長に昇格した。これまでに「名言随筆・サラリーマン」という著書が一冊あって前年の秋、大阪の六月社という小出版社より刊行していた。もう一人の受賞者畷文兵は司馬と同じく新聞記者で、富山師範を卒業後、教員生活を経て、北日本新聞社の西礪波支局長をしていた。当選作の賞金はそれぞれに十万円であった。」(『文壇栄華物語』「第十二章」より)

 以上。さすがは〈基本の〉大村さん。畷さんといえば司馬遼太郎のデビューを引き立たせるときの脇役、という定石をしっかりを踏み、そこから外れません。信頼の大村ジルシ。

 『挽歌』より。候補回数の多かった落選作家たちについて。

「司馬、戸板(引用者注:戸板康二のように直木賞の候補に一回上げられただけで、直ちに受賞の幸運に恵まれる作家がいる一方で、過去に何度も候補に擬せられながら、そのまま受賞には至らず、不遇をかこつ作家もいた。直木賞だけでも、戦前を入れて数えれば、長谷川幸延が七回、浜本浩中村八朗が六回、池波正太郎が五回、棟田博岩下俊作がそれぞれ四回候補になって落選した。(引用者中略)彼らの才能が乏しいのではなく、そのときの作品の組み合わせや時代の流行によって、運、不運が分れた。」(『文壇挽歌物語』「第五章」より)

 まったくです。まあ、濱本浩さん、長谷川幸延さん、棟田博さんなぞは、それでもずいぶんと職業作家として活躍したほうだと思いますけどね。ワタクシからすると、この三人なんかは「直木賞があげそこねた作家」だと信じています。しかし、そこまでは筆をのばさず、「不遇をかこつ」と表現するなど、あくまで基本に忠実なところが、大村さんのよさです。

 『うたかた』より。津田信さんについて。

「そのご(昭和41年/1966年、津田信が日本経済新聞社を辞めて筆一本の生活に入ったあと)の津田さんは不遇であった。(引用者中略)立原(引用者注:立原正秋主宰の同人誌「犀」は、当初このふたりが中心になって思いつかれたようだ。津田さんは立原さんに貸し家を斡旋したりしておたがいに親密のように見えたが、ほどなく両者の間に確執が生じ、気性のはげしい立原さんが、人前で津田さんに手をかけるようなことがあって、ふたりは気まずいままに袂をわかった。立原さんにいわせれば、津田は志がいやしい、といい、津田さんはこのことについては、終始沈黙した。

(引用者中略)

 津田さんは初志を遂げずに、まもなく亡くなったが、立原さんとの関係で思うと、作家の明暗がはっきりし過ぎる。作家の運、不運は、なにによって決まるのだろう。才能はもちろんだが、才能だけとはいいきれないものがある。人のいい津田さんには、作家として生きる誇りと執念が足りなかったような気がする。」(『文壇うたかた物語』「第五章」より)

 ほんと『うたかた』では、大村さん、かなり踏み込んでいますね。その後、津田さんが、師である小島政二郎さんの向こうを張って私小説作家として再起したものの、数年しか執筆生活を送れなかったことが残念でなりません。もっと生きていれば、立原さんとの愛憎の件もきっと書いてくれていたと思うので。それこそ小島政二郎ばりに。

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2013年3月17日 (日)

植村鞆音(直木三十五の甥) 直木三十五に沁みついた「直木賞ほど知られていない」の状況に、果敢に立ち向かう。

植村鞆音(うえむら・ともね)

  • 昭和13年/1938年3月生まれ(現在75歳)。
  • 昭和37年/1962年(24歳)早稲田大学第一文学部史学科卒。東映に入社。
  • 昭和39年/1964年(26歳)東京12チャンネルプロダクション(現・テレビ東京)に転職。以後、常務取締役(平成6年/1994年)、テレビ東京制作の代表取締役社長(平成11年/1999年)等を歴任。
  • 平成17年/2005年(67歳)『直木三十五伝』(文藝春秋刊)を上梓。

 「直木賞は有名だけど、直木三十五を知る人は少ない」っていう、手アカのついた言葉があります。ワタクシもおそらく、何度か使ってきました。直木賞と直木三十五のことを語るうえでは、まず誰もが言いたがるマクラであり、日本社会に定着した慣用句として、このほど『広辞苑』にも採録された、という噂を耳にしました(……デマ、とも言います)。

 はっきり言って直木賞が、他の文学賞と一線を画していることを表わす、抜群の表現だと思います。

 たいてい個人名の付いた文学賞を見るときには、どうしたってその人名に引きずられてしまいがちです。文学賞の名前に冠された物故作家と、その作家自身や作品とは何の関係もない、とたしか金井美恵子さんも断言していたと思いますが、そんなことをわざわざ言う必要性すらない、文学賞・オブ・ザ・文学賞。直木賞。

 文学賞を「商売道具として活用した」慧眼は断然、佐佐木茂索さんのものでしょう。だけど、菊池寛さんにだって、先を見通す目はあったのだ、と言わざるを得ません。直木さん本人が思っていたとおり、直木の作品は消え、彼のことは忘れられていきました。それでもなお、直木賞のおかげで直木三十五の名が残っているのは、ひとえに、菊池さんの思いつきのおかげですもん。

 で、直木三十五とは無関係に直木賞が運営されて70年。「直木賞は知られているのに直木三十五は知らない」っていう、なかば平穏だった日常をおびやかす人間が、21世紀になって登場します。植村鞆音さんです。

「芥川・直木賞が創設されて70年。(引用者中略)ところが、芥川龍之介に比べて、直木三十五の人物像や作品はそれほど知られていない。このほど刊行された植村鞆音さんの『直木三十五伝』(文芸春秋)は、甥(おい)の立場から長年、直木について考えてきた集大成で、ユニークな生涯を生き生きと伝えている。」(『毎日新聞』平成17年/2005年7月12日夕刊「伝記:『直木三十五伝』 絶えず新しいものを求めて――植村鞆音さんに聞く」より 署名:重里徹也)

 『直木三十五伝』は、オビに「「直木賞」創設70周年記念出版」とありますが、当然ながら直木の評伝に徹し、つまり極力、直木賞の有名度に寄りかからず書かれています。そこにワタクシなぞは植村さんの、反骨というか気概を感じます。

 「直木賞」の語句は、よく知られているけれど、要するに何も知られていないのと同じじゃん。このまま直木三十五を、「直木賞の人」として残しておきたくないぞ、っていう。

 たとえば本書が刊行される14年前に、植村さんは『この人 直木三十五』(鱒書房刊)なる本をつくり上げています。そこに寄せた文章から、直木三十五と直木賞の関係性に対する植村さんの思いが、ひしひしと伝わってくるのです。

「実は、私は、直木の人物と生きざまそのものが、(あまり読んではいないが)彼の小説以上にドラマテックだと思っている。(引用者中略)

 この本の価値は、収録したエピソードが伝聞ではなく、すべて当事者の証言だということにある。また、直木関連の写真がこれほどの量集大成されたのもはじめてのことである。

 他事ながら、私にとってこの編纂の作業は、いつか書くかもしれない「直木三十五伝」の資料整理の意味があった。読者諸兄には、いまはもう文学賞のタイトルの一部としてしか記憶されない作家の貴重な入門書になるはずである。この本をとおし、百年前に生れた一文士の人となりにそれなりの興味と共感を覚えていただければ、もうそれ以上のことはない。」(平成3年/1991年3月・鱒書房刊『この人 直木三十五』所収 植村鞆音「「この人」が出版されるまで 伯父・直木三十五と私」より)

 植村さんが、よおし直木三十五伝を書いてみようと思い立ったのが、昭和35年/1960年。大学生のときでした。前にも少し紹介した、横浜市富岡で行われた直木の建碑式に出席、そこで佛子須磨さんと香西織恵さんの二人に出会って交流の生まれたことがきっかけです。

 以来ン十年。仕事に忙殺されて、どんどん出世して、なかなか筆をとる余裕もなく60歳を超え、ようやくサラリーマンの終着に達した平成15年/2003年。元・文藝春秋の湯川豊さんのおかげで、夢をかなえる道が開けました。

「私の長年の夢の実現に力を貸してくださったのは、東海大学教授(元文藝春秋取締役)の湯川豊さんと文藝春秋の鈴木文彦さん、西山嘉樹さんである。まず、湯川さんが私の構想に賛意を表してくださり、湯川さんから紹介された鈴木さんと西山さんが担当を引き受けてくださった。また、もと丸善の西村みゆきさんには、資料探しや著作年譜作成などで一方ならぬ協力を受けた。四人の方の決断と協力がなければ、私の『直木三十五伝』は、日の目を見ることがなかったろう。」(平成17年/2005年6月・文藝春秋刊 植村鞆音・著『直木三十五伝』「おわりに」)

 すでに父親のように慕っていた城山三郎さんに、オビの推薦文を依頼し、あまりオビを書いたことがないという城山さんの許しを得て、読後の感想をしたためた手紙の一節を使わせてもらった。というエピソードは『気骨の人 城山三郎』(平成23年/2011年3月・扶桑社刊)に出てきます。

 この本は、各紙・各誌で取り上げられました。その紹介記事の多くでは、定番中の定番、「直木賞はよく知られているが、直木三十五のことは知られていない」ふうの慣用句が、ここぞとばかり、惜しげもなく使われました。

 ええ、ワタクシも直木賞への関心から、『直木三十五伝』を読んだ口です。

 この人にして、この賞あり、と思いました。直木と直木賞は何の関係もないとわかっています。わかっていながらも、破天荒というか、規格破りというか、ムチャクチャなところを、直木賞はきちんと直木さんから受け継いだんだなあ、と嬉しくなったものでした。

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2013年3月10日 (日)

香西昇(『オール讀物』編集長→日比谷出版社経営者) 直木賞の運営をまかされ、思うぞんぶん直木賞を出版社経営に活かせる立場に。

香西昇(こうざい・のぼる)

  • 明治37年/1904年1月20日生まれ、昭和53年/1978年10月23日没(74歳)。
  • 昭和6年/1931年(27歳)姉・織恵のつてで文藝春秋社入社。
  • 昭和14年/1939年(35歳)『オール讀物』編集長に就任(昭和18年/1943年まで)。
  • 昭和22年/1946年(42歳)満洲から帰国後、昭和書房より『文藝讀物』創刊。翌年、日比谷出版社を設立し、同誌の刊行をつづける(昭和25年/1950年まで)。

 これまで、直木賞の威光に望みをかけつつ、直木賞ごときでは救われることのなかった出版人や編集者を少し紹介してきました。光風社の豊島澂さん六興出版社の石井英之助さん、あるいは『小説新潮』の川野黎子さんなども、そうかもしれません。

 その視点で言ったら、もう代表格はこの方でしょう。香西昇さんこそ、直木賞を盛り立て、直木賞に期待し、でも直木賞のふがいなさのせいで、もろくもすっ飛んでしまった、いちばんの被害者です。

 戦前の香西さんは、意気軒昂でした。まったく話題にもならず、それでも芥川賞のおかげで権威だけはいっちょ前にあった直木賞。その運営元、文藝春秋社で『オール讀物』編集長なんちゅう大任につき、はぶりよく、ブイブイ言わせていました。

 直木賞周辺の新進作家を集めて「礫々会」なんて会合を持ち、彼らに競争心とやる気を植え付けたのも、香西さんの功績です。

「礫々会は、毎月集っていたのではない。昭和十四年、当時の「オール讀物」編集長香西昇氏が、触れをまわして、若い作家たちが集ってきた。会場は決っていたわけではなく、その度に変ったが、のちには一泊旅行もやった。文学論が主だったが、酒が入ってくると、まず真先に香西編集長が酔っ払ったので、われわれも気がらくになった。

(引用者中略)

 礫々会に集ったのは、玉川一郎長谷川幸延河内仙介、浅野武男、神崎武雄山田克郎などで、めいめいどういう径路で集ってきたのか、いちいちは憶えていない。

(引用者中略)

 香西氏がふしぎなことを言っても礫々会の会員は、だれも笑ったりはしなかった。編集者としても熱心で、まじめな人であった。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』より)

 『増補 大衆文学事典』(昭和55年/1980年2月・青蛙房刊)によれば、他のメンツには蘭郁二郎、宇井無愁、あと挿絵画家では田代光、三芳悌吉、矢島健三、佐藤泰治、カメラマンで杉山吉良がいたそうです。ここから直木賞受賞者は河内(第11回)、村上(第12回)、神崎(第16回)、山田(第22回)の4人が出たことになります。

 あ、あと浅野武男さんという名前が出てきました。直木三十五さんが死んだあと、直木の内縁の妻であり香西昇さんの姉だった織恵さんとくっついて、一時、所帯を持っていた人です。『オール讀物』に何篇か、小説を発表しています。

 香西さんもこのまま文春に残って編集者道に邁進していたら、のちのち偉くなって、大衆文芸界の巨人編集者として名を残すほどの存在になっていたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。

 昭和18年/1943年9月、業務局次長。昭和19年/1944年9月、先に満洲にわたって満洲文藝春秋社の基礎をつくっていた永井龍男、池島信平、千葉源蔵に替わって、式場俊三とともに同地に赴任。やがて敗戦。満洲で帰国を待ちながら、蕎麦屋とかやって急場をしのいでいるあいだに、本国では菊池寛が文藝春秋社を解散。池島信平らが佐佐木茂索をかついで文藝春秋新社を設立。昭和21年/1946年3月のことです。さっそく『文藝春秋』『オール讀物』の復刊に向けて走り出します。同年9月になって、式場、徳田雅彦といっしょに香西昇、ようやく引き揚げ。

 香西さんの居場所はありませんでした。……とハタからは見えます。ほんとになかったかはどうかはわかりません。ただ、そこで香西さんと式場さんは文春新社には参加しませんでした。代わりに、自分たちの手で雑誌をつくることを画策したわけです。

 すでに戦前から続いていた出版社、昭和書房にもぐり込みます。おそらく、式場さんの兄、隆三郎さんの縁ではないかと思うんですが、どうなんでしょう。〈民藝叢書〉とか出していたアノ昭和書房ですからねえ。

 ちょうどそのころ、同社の社長、肥田正次郎さんは公職追放を受けています。

「肥田正次郎は、敗戦後、占領軍によって、公職から追放された。戦時下に、『現代日本政治講座』(全六巻、河野密・本多顕彰・新明正道などが執筆している)を出版し、それが戦犯書の指名を受けたのであった。」(昭和58年/1983年7月・未来社刊 櫻本富雄・著『空白と責任 戦時下の詩人たち』「金子光晴論の虚妄地帯」より)

 まんまと(?)その代わりに香西さんと式場さんが収まったかっこうです。

 香西さんたちが構想したのは、『オール讀物』みたいな雑誌でした。当時、数多くの出版社が手がけていたような、「純文学作家も大衆作家も同じ土俵のうえに作品を載せる読物誌」です。すでに文春から離れた菊池寛さんも、香西さんたちのことを心配し、支援してくれることになりました。

 その最も大きな支援が、日本文学振興会理事長として、直木賞を、新社の『オール讀物』ではなく、香西さんの新創刊する『文藝讀物』に任せた、ってことでした。

「芥川賞、直木賞の授賞は、戦争中に中絶していたが、今度直木賞の授賞が、「文藝讀物」に依って、再開されることになった。

 「文藝讀物」は、「オール讀物」が、一時改題されたときの名称であり、今度文藝春秋旧社員香西昇、式場俊三等に依って、再刊されることになったので、直木賞の授賞を托することになったのである。

 香西昇は、「オール讀物」の盛大を致した編集者であって、大衆雑誌の編集に対する熱と力倆とは、雑誌界に於て定評のある人間である。殊に、直木三十五の義弟に当るから、直木賞の運営には、最も適当な人物に違いない。」(『文藝讀物』昭和23年/1948年1月号 菊池寛「直木賞のことなど」より)

 というわけで直木賞の運営は、芥川賞から独立して、香西さんのもと、昭和書房『文藝讀物』主導で行うことになります。『文藝讀物』は、創刊号にあたる昭和23年/1948年1月号につづき、2月号では「直木賞詮衡開始さる」の記事を掲載。同年3月、菊池寛の訃報を受けてもめげずに、6月号に「直木賞を繞って」として、各選考委員による評を掲げるなど、発表誌としての責を果たしていきます。

 その間、式場さんが古株の編集者、松本國雄さんを外から引っ張ってきます。

「松本氏を日比谷出版社に引っぱり、「文芸読物」の編集長にしたのは常務の式場俊三氏(式場隆三郎氏実弟)である。それまでかに書房をはじめ二、三の出版社に勤務するなど、編集者生活二十年に及ぶこの道の古強者である。

(引用者中略)

 日比谷出版社時代、松本氏は、藤原てい著「流れる星は生きている」、永井隆著「長崎の鐘」といったベスト・セラーを出版した(引用者後略)(昭和30年/1955年7月・學風書院刊 山崎安雄・著『第二 著者と出版社』所収「四季社と永井龍男」より)

 あるいは松本さんが加わったのは、香西・式場コンビが昭和書房から日比谷出版社と社名を変えた昭和23年/1948年9月ごろだったかもしれません。

「発展途上にあった本社は、昨年(引用者注:昭和23年/1948年)十一月号以降、従来の社名、昭和書房をあらたに日比谷出版社と更め、茲に名実共に健全なる出版界の使命達成にむかって鋭意邁進せんとの所存でありますから、何卒、今後とも益々倍旧の御支援の上御期待下さい。茲に社名変更を兼ね御挨拶申し上げます。」(『文藝讀物』昭和24年/1949年1月号「社告 日比谷出版社」より)

 創刊以来、同誌の編集人は式場俊三さんでしたが、それが松本國雄さんの名に替わるのは、昭和24年/1949年3・4月合併号(4月1日発行)からとなります。

 そして結局、直木賞は同年5月号において、芥川賞とともに再度、復活の発表をする仕儀となり、9月号に第21回(昭和24年/1949年上半期)授賞決定発表することとなりました。

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2013年3月 3日 (日)

巖谷大四(文芸評論家) 文壇事情にくわしいことがアダとなり、興味もない文学賞のことを何度も書かされて。

巖谷大四(いわや・だいし)

  • 大正4年/1915年12月30日生まれ、平成18年/2006年9月6日没(90歳)。
  • 昭和15年/1940年(24歳)早稲田大学文学部英文科卒。文藝春秋社の入社試験に落ち、文藝家協会書記となる。戦中は日本文学報国会事業部を経て東方社の調査部に勤務。
  • 昭和20年/1945年(29歳)鎌倉文庫に入社し、まもなく出版部長。その後、『文藝』編集長(昭和25年/1950年)、『週刊読書人』編集長(昭和33年/1958年)を歴任。
  • 昭和33年/1958年(42歳)『非常時日本文壇史』(中央公論社刊)上梓。以降、文壇にまつわる著作を次々と刊行。

 巖谷大四さんの、とくに文壇関係の著述における活躍はめざましいものがありました。その道の大家になったと言っていいほです。しかし、その分、直木賞研究者のあいだからは、やっかみ半分に「直木賞をことさら矮小化してみせた戦犯」と中傷を受けることになったわけです。

 いや、ワタクシが中傷しているだけです。

 公平な目で見ますと、アレです。巖谷さんくらい文壇に執着し、直木賞・芥川賞の創設のころに青春時代を送り、文藝春秋社に入ることを目標にしていた人が、これほど直木賞に無関心であることが、いかに純文芸の文壇内で直木賞が軽視されていたかを表わしていると思います。

 って、「直木賞(裏)人物事典」はこんな人ばっかりだよなあ。……こんな人ばっかり、っつう点で、これまで直木賞の味わってきた散々な扱いを、感じ取ってもらえればうれしいです。

 直木賞だけのことではありません。そもそも巖谷さんは文学賞にどれだけ興味があったのかが、よくわかりません。たとえば、創設時の直木賞・芥川賞について、こう紹介しています。

「その年の『文芸春秋』九月号に第一回の受賞者(芥川賞・石川達三「蒼氓」直木賞・川口松太郎「鶴八鶴次郎」)が発表され、十月二十八日に、日比谷公会堂で文芸春秋社が主催した「東京愛読者大会」の席上で、初めての授賞式が催されたのだが、その時、各新聞社を招待したにもかかわらず、ほんのお付き合い程度にしか報道しなかったばかりか、新聞によってはまったく無視した。

 これに憤慨した菊池寛は、次の号の『文芸春秋』の「話の屑籠」につぎのように書いた。

「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いてくれない新聞社があつたのには憤慨した。(引用者中略)」」(昭和53年/1978年5月・時事通信社刊 巖谷大四・著『瓦版昭和文壇史』「“二・二六事件”前後」より)

 ちなみに巖谷さんは、『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)にも「「直木賞」と商業ジャーナリズム」っていう文章を寄稿しておりまして、その「2」は、上に挙げた文章とほぼ同じです。どちらもだいたい同じ時期に発表されているので、忙しいさなか、二重で使ったんでしょう。

 でもね巖谷さん。あなたの引用した菊池寛による、かの有名な一節は、『文藝春秋』昭和10年/1935年10月号に載っているわけじゃないですか。つまり9月発売号。10月28日の授賞式のことを語っているわけがない、と気づきませんでした?

 人間の思い込みって怖いものです。菊池寛が新聞社に毒づいた逸話。それと、公衆の面前で盛大に(?)行われた第1回の授賞式。巖谷さんの頭のなかではごっちゃになっていました。あるいはワタクシなどは、こういう勘違いをするとは、よくよく巖谷さんは、創設時の両賞を注目されていなかったことにしたいのかなあ、と思わされるわけですが、それこそワタクシの思い込みかもしれません。

 ええと、直木賞と巖谷さんのことにハナシを絞ります。以前にも紹介したことがありますが、巖谷さんには、戦後の直木賞・芥川賞の復活を語った文章があります。

「昭和二十四年六月二十五日、戦後復活第一回(通算二十一回)の芥川賞・直木賞の選衡委員会が、開かれた。

(引用者中略)

 芥川賞の方は、ちょっとした波乱があった。新旧委員の間に選衡基準についてまず意見の相違があった。

(引用者中略)

 直木賞の方は、必ずしも新人発掘ということにこだわらず、「押しも押されもしない作家で、日本の大衆文芸の野に新生面を拓き、もしくは拓こうとしているもの」にまで間口を拡げ「職業作家として大成する作風が前提条件」という第一回以来の原則が再確認され、すんなりと、既に「姿三四郎」で世に認められていた富田常雄が「面」「刺青」の二作によって受賞した。」(昭和55年/1980年5月・時事通信社刊 巖谷大四・著『瓦版戦後文壇史』「芥川賞、直木賞の復活」より)

 ここ、読むたびに気分が悪くなります。悲しくなります。どこが、すんなり、なんですか。直木賞の戦後復活の選考会は、昭和23年/1948年に一度開かれて意見がまとまらず散会し、一年越しでようやく受賞が決まったっつうのに。

 そういえば、上の「直木賞の方は」うんぬんの箇所は、前掲「「直木賞」と商業ジャーナリズム」のなかにも似たような文章が出てきます。人間の思い込みって怖いものリターンズ。

 で、その「「直木賞」と商業ジャーナリズム」なんですが、巖谷さんの迷ゼリフがバシバシ登場します。

(引用者注:戦前は)菊池寛の意図である「芥川・直木という相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けよう」ということには成功したが、商業ジャーナリズムのペースにのせることにはそれほど成功しなかったのである。

(引用者中略)

戦後の受賞者の商業ジャーナリズムでの活躍は目ざましいものがある。菊池寛のはじめの意図は戦後数年にしてようやく達成されたと言えるだろう。」(「「直木賞」と商業ジャーナリズム」より)

 さすが菊池寛さんに直接世話になった方だけあって、やたら菊池寛にこだわっています。ところで、どこかで菊池さんが、直木賞受賞者は商業ジャーナリズムのペースにのるべき、とか言ったんでしたっけ? 「新進作家の擡頭を助ける」ことこそ本意だったのでは? だったら、戦前の段階で成功していたんじゃないんですか。

 あと、川口松太郎とか鷲尾雨工とか海音寺潮五郎とか木々高太郎とか橘外男とか堤千代とか村上元三とか木村荘十とか、戦前には商業ジャーナリズムに乗っていた、と思いますけど。巖谷さんの関心をひかなかっただけで。

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