香西昇(『オール讀物』編集長→日比谷出版社経営者) 直木賞の運営をまかされ、思うぞんぶん直木賞を出版社経営に活かせる立場に。
香西昇(こうざい・のぼる)
- 明治37年/1904年1月20日生まれ、昭和53年/1978年10月23日没(74歳)。
- 昭和6年/1931年(27歳)姉・織恵のつてで文藝春秋社入社。
- 昭和14年/1939年(35歳)『オール讀物』編集長に就任(昭和18年/1943年まで)。
- 昭和22年/1946年(42歳)満洲から帰国後、昭和書房より『文藝讀物』創刊。翌年、日比谷出版社を設立し、同誌の刊行をつづける(昭和25年/1950年まで)。
これまで、直木賞の威光に望みをかけつつ、直木賞ごときでは救われることのなかった出版人や編集者を少し紹介してきました。光風社の豊島澂さん、六興出版社の石井英之助さん、あるいは『小説新潮』の川野黎子さんなども、そうかもしれません。
その視点で言ったら、もう代表格はこの方でしょう。香西昇さんこそ、直木賞を盛り立て、直木賞に期待し、でも直木賞のふがいなさのせいで、もろくもすっ飛んでしまった、いちばんの被害者です。
戦前の香西さんは、意気軒昂でした。まったく話題にもならず、それでも芥川賞のおかげで権威だけはいっちょ前にあった直木賞。その運営元、文藝春秋社で『オール讀物』編集長なんちゅう大任につき、はぶりよく、ブイブイ言わせていました。
直木賞周辺の新進作家を集めて「礫々会」なんて会合を持ち、彼らに競争心とやる気を植え付けたのも、香西さんの功績です。
「礫々会は、毎月集っていたのではない。昭和十四年、当時の「オール讀物」編集長香西昇氏が、触れをまわして、若い作家たちが集ってきた。会場は決っていたわけではなく、その度に変ったが、のちには一泊旅行もやった。文学論が主だったが、酒が入ってくると、まず真先に香西編集長が酔っ払ったので、われわれも気がらくになった。
(引用者中略)
礫々会に集ったのは、玉川一郎、長谷川幸延、河内仙介、浅野武男、神崎武雄、山田克郎などで、めいめいどういう径路で集ってきたのか、いちいちは憶えていない。
(引用者中略)
香西氏がふしぎなことを言っても礫々会の会員は、だれも笑ったりはしなかった。編集者としても熱心で、まじめな人であった。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』より)
『増補 大衆文学事典』(昭和55年/1980年2月・青蛙房刊)によれば、他のメンツには蘭郁二郎、宇井無愁、あと挿絵画家では田代光、三芳悌吉、矢島健三、佐藤泰治、カメラマンで杉山吉良がいたそうです。ここから直木賞受賞者は河内(第11回)、村上(第12回)、神崎(第16回)、山田(第22回)の4人が出たことになります。
あ、あと浅野武男さんという名前が出てきました。直木三十五さんが死んだあと、直木の内縁の妻であり香西昇さんの姉だった織恵さんとくっついて、一時、所帯を持っていた人です。『オール讀物』に何篇か、小説を発表しています。
香西さんもこのまま文春に残って編集者道に邁進していたら、のちのち偉くなって、大衆文芸界の巨人編集者として名を残すほどの存在になっていたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。
昭和18年/1943年9月、業務局次長。昭和19年/1944年9月、先に満洲にわたって満洲文藝春秋社の基礎をつくっていた永井龍男、池島信平、千葉源蔵に替わって、式場俊三とともに同地に赴任。やがて敗戦。満洲で帰国を待ちながら、蕎麦屋とかやって急場をしのいでいるあいだに、本国では菊池寛が文藝春秋社を解散。池島信平らが佐佐木茂索をかついで文藝春秋新社を設立。昭和21年/1946年3月のことです。さっそく『文藝春秋』『オール讀物』の復刊に向けて走り出します。同年9月になって、式場、徳田雅彦といっしょに香西昇、ようやく引き揚げ。
香西さんの居場所はありませんでした。……とハタからは見えます。ほんとになかったかはどうかはわかりません。ただ、そこで香西さんと式場さんは文春新社には参加しませんでした。代わりに、自分たちの手で雑誌をつくることを画策したわけです。
すでに戦前から続いていた出版社、昭和書房にもぐり込みます。おそらく、式場さんの兄、隆三郎さんの縁ではないかと思うんですが、どうなんでしょう。〈民藝叢書〉とか出していたアノ昭和書房ですからねえ。
ちょうどそのころ、同社の社長、肥田正次郎さんは公職追放を受けています。
「肥田正次郎は、敗戦後、占領軍によって、公職から追放された。戦時下に、『現代日本政治講座』(全六巻、河野密・本多顕彰・新明正道などが執筆している)を出版し、それが戦犯書の指名を受けたのであった。」(昭和58年/1983年7月・未来社刊 櫻本富雄・著『空白と責任 戦時下の詩人たち』「金子光晴論の虚妄地帯」より)
まんまと(?)その代わりに香西さんと式場さんが収まったかっこうです。
香西さんたちが構想したのは、『オール讀物』みたいな雑誌でした。当時、数多くの出版社が手がけていたような、「純文学作家も大衆作家も同じ土俵のうえに作品を載せる読物誌」です。すでに文春から離れた菊池寛さんも、香西さんたちのことを心配し、支援してくれることになりました。
その最も大きな支援が、日本文学振興会理事長として、直木賞を、新社の『オール讀物』ではなく、香西さんの新創刊する『文藝讀物』に任せた、ってことでした。
「芥川賞、直木賞の授賞は、戦争中に中絶していたが、今度直木賞の授賞が、「文藝讀物」に依って、再開されることになった。
「文藝讀物」は、「オール讀物」が、一時改題されたときの名称であり、今度文藝春秋旧社員香西昇、式場俊三等に依って、再刊されることになったので、直木賞の授賞を托することになったのである。
香西昇は、「オール讀物」の盛大を致した編集者であって、大衆雑誌の編集に対する熱と力倆とは、雑誌界に於て定評のある人間である。殊に、直木三十五の義弟に当るから、直木賞の運営には、最も適当な人物に違いない。」(『文藝讀物』昭和23年/1948年1月号 菊池寛「直木賞のことなど」より)
というわけで直木賞の運営は、芥川賞から独立して、香西さんのもと、昭和書房『文藝讀物』主導で行うことになります。『文藝讀物』は、創刊号にあたる昭和23年/1948年1月号につづき、2月号では「直木賞詮衡開始さる」の記事を掲載。同年3月、菊池寛の訃報を受けてもめげずに、6月号に「直木賞を繞って」として、各選考委員による評を掲げるなど、発表誌としての責を果たしていきます。
その間、式場さんが古株の編集者、松本國雄さんを外から引っ張ってきます。
「松本氏を日比谷出版社に引っぱり、「文芸読物」の編集長にしたのは常務の式場俊三氏(式場隆三郎氏実弟)である。それまでかに書房をはじめ二、三の出版社に勤務するなど、編集者生活二十年に及ぶこの道の古強者である。
(引用者中略)
日比谷出版社時代、松本氏は、藤原てい著「流れる星は生きている」、永井隆著「長崎の鐘」といったベスト・セラーを出版した(引用者後略)」(昭和30年/1955年7月・學風書院刊 山崎安雄・著『第二 著者と出版社』所収「四季社と永井龍男」より)
あるいは松本さんが加わったのは、香西・式場コンビが昭和書房から日比谷出版社と社名を変えた昭和23年/1948年9月ごろだったかもしれません。
「発展途上にあった本社は、昨年(引用者注:昭和23年/1948年)十一月号以降、従来の社名、昭和書房をあらたに日比谷出版社と更め、茲に名実共に健全なる出版界の使命達成にむかって鋭意邁進せんとの所存でありますから、何卒、今後とも益々倍旧の御支援の上御期待下さい。茲に社名変更を兼ね御挨拶申し上げます。」(『文藝讀物』昭和24年/1949年1月号「社告 日比谷出版社」より)
創刊以来、同誌の編集人は式場俊三さんでしたが、それが松本國雄さんの名に替わるのは、昭和24年/1949年3・4月合併号(4月1日発行)からとなります。
そして結局、直木賞は同年5月号において、芥川賞とともに再度、復活の発表をする仕儀となり、9月号に第21回(昭和24年/1949年上半期)授賞決定発表することとなりました。
○
直木賞って、文春以外にとっちゃホント疫病神だよなあ、と思わされるのは、このあとの展開があるからです。
『流れる星~』と『長崎の鐘』という二大ベストセラーを生み出しながら、日比谷出版社の歩みはヨロついていました。直木賞発表の次月、『文藝讀物』は発行できず、この年2度目の合併号を出さざるを得なくなります。
式場さんに言わせれば、香西さんって方は、
「香西という男は大文芸春秋社の金庫番もしたことのある仁だが、こと算術となると編集屋の私よりも弱い。」(昭和57年/1982年6月・牧羊社刊 式場俊三・著『花や人影』所収「春秋庵始末」より)
とのことで、せっかく直木賞を手もとに置き、活用したい放題の状況だったのに、うまく活かすことができませんでした。どうにか復活2回目の直木賞を昭和25年/1950年4月に開催したあと、首がまわらなくなってしまいます。
「昭和二十四・五年頃は戦後、雨後の筍の如く現れた出版社が、どんどんと崩潰している時代であった。
その頃、私は日比谷出版社を経営していたが、生来、数字と言うものに弱いため、それが禍いをなして遂に解散の憂目をさらすことになった。」(昭和38年/1963年2月・文藝春秋新社刊『わたしの吉川英治―その書簡と追憶』所収 香西昇「昭和二十四年」より)
自分が目をかけていた〈礫々会〉メンバーの山田克郎さんを、最後の最後に受賞者に選んで、香西さんは直木賞の現場から去っていったのでした。ありがとう。そして、さようなら。
ここからは後日談となります。
香西さんは吉川英治さんからの好意で10万円を贈られ、日比谷出版社の社員たちに配ったあと、残ったお金をもとに、昭和25年/1950年12月〈四季社〉設立に参加。社長となります。いちおう日比谷出版社の社長の座についてもらっていた永井龍男さんにお願いして、そのまま四季社の相談役になってもらいます。
「なかなか好調のスタートだったが、翌々年(昭和二十七年)には早くも行詰って役員改選となった。といっても大したかわりはなく、香西氏が社長のイスを退いて平取締役となり、松本(引用者注:松本國雄)氏が代表取締役となって一切を切りまわすことになっただけである。」(前掲『第二 著者と出版社』より)
香西さん、50歳前後ぐらい。もはや出版編集を続けていく気力が失せたか、まもなく銀座にあった文春クラブの支配人、というかたちで文春に戻っていきました。
式場俊三さんは、四季社に参加したかどうかはわかりません。昭和27年/1952年頃からバラ栽培に凝りはじめ、
「おそらく昭和三十八年から四十四、五年までの間のことと思われる。
五月の終わりに近い頃、式場俊三さんは、ガーデン・パーティーに石川淳、井伏鱒二、河上徹太郎さんらを招いて、知友と酒を酌み交した。(引用者中略)その頃には式場さんは、編集の仕事から身を退いて、半ばは隠居暮らしの気分に浸っていたようだ。兄が経営する病院の庭で薔薇づくりに熱中して、そんな酒宴を年に一、二度催していた。」(平成19年/2007年12月・河出書房新社刊 長谷川郁夫・著『本の背表紙』所収「ガーデン・パーティー――式場俊三」より)
平成16年/2004年12月9日に亡くなりました。
四季社を切り盛りした松本國雄さんも、出版で成功するところまでは行かず、やがて鎌倉で釣りのことや戦中回想記を書く日々に。
「(引用者注:筆者である永井龍男は)戦中戦後の、松本君の来歴を知らず、共通の友人の経営する日比谷出版社の一員として共に働いた。(引用者中略)日比谷出版社が倒産すると、松本君は有志と語らって四季社を創立し、独力で幾つかの出版事業に専心した。いずれも、見つけどころの面白い仕事であったが、一歩か一歩半当時の時世の先きを行く企画ばかりであった。採算の合わぬ途を、彼は独りで歩み続けた。」(昭和52年/1977年10月・金剛出版刊 松本國雄・著『回想のキナバル』所収 永井龍男「松本君のこと」より)
昭和31年/1956年、永井龍男さんが筑摩書房の『現代日本文学全集』に収録される際には、永井さん自らが、松本さんに「年譜」作成を依頼。昭和56年/1981年~昭和57年/1982年に永井さんの全集が出るにいたって、その解題や年譜を担当しています。
さて、香西さんです。文春クラブ支配人、なんちゅう文壇の片隅で生きつづけた香西さんの姿を、団鬼六さんが回想してくれています。昭和32年/1957年、団さんが黒岩松次郎名義で第11回オール新人杯次席になって、母親に言われて香西のところに挨拶に行った場面です。
「「館長の香西さんて方、どこにいるんです」とウエイトレスに聞くと、片隅の将棋盤を挟んで劇作家の中野実と詩人の野上彰が将棋を指し、それをウイスキーのコップを手に立ったまま観戦しているのが香西さんだと教えてくれた。六十歳くらいの初老に達した男である。
私が近づいて挨拶すると、「ああ、お母さんから電話があったよ」といって傍らのテーブルに連れて行き、「君の入賞作品読んだよ、なかなかよく書けていた」といって、次に何か書くなら、まず僕に見せなさい、といい、今の作家でなんとかと、なんとかなんか、皆、僕が面倒見て作家に育て上げたんだ、と自慢した。」(平成16年/2004年3月・文藝春秋刊 団鬼六・著『生きかた下手』所収「母と直木三十五」より)
ええ、ええ、香西さんですもの。昔の自慢バナシをどんどん披露して、何の遜色もないぐらいの方だと思います。直木賞が、日比谷出版社一社を盛り立てるほどの力もなく、香西さんに、さほどイイ思いをさせてあげられなかったことが、残念でなりません。
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