萱原宏一(大日本雄弁会講談社編集者) 次から次へと沸き出る昭和10年代の大衆文壇こぼれ話。
萱原宏一(かやはら・こういち)
- 明治38年/1905年4月10日生まれ、平成6年/1994年1月14日没(88歳)。
- 昭和2年/1927年(22歳)早稲田大学政経学部卒。大日本雄弁会講談社に入社。『講談倶楽部』編集部員。のち編集長、『キング』(改題後『冨士』)編集長、編集局長を歴任。
- 昭和21年/1946年(41歳)世界社に転籍、のち社長となる。
- 昭和47年/1972年(61歳)『私の大衆文壇史』(青蛙房刊)を上梓。
今日び、萱原宏一さんの資料をもとに大衆文芸を語ったりしたら、馬鹿にされますよね。でも、しょうがないじゃん、創設当時の直木賞のことをいろいろと吹聴してくれている人といえば、和田芳恵さんと萱原さんが、両巨頭ですもん。
で、萱原さんです。戦前の大衆文壇についての教科書、『私の大衆文壇史』(昭和47年/1972年・青蛙房刊)を書いた人です。当時の直木賞の様子がわかる、貴重な貴重な文献です。
なんつったって、萱原さんは平記者のころから直木三十五の作品を高く評価して、直木の家に通い詰め、直木その人にも気に入られたほどの人です。
「万人向きを標榜する講談倶楽部には、直木さんはぴったりの作家とは思われていなかった。
といって、無視することのできぬ力を持った異色の作家、淵田(引用者注:淵田忠良)さんや岡田(引用者注:岡田貞三郎)さんの評価はまさにこんなところであった。私がむやみと高い点をつけるので、若い者の感想はこんなもんかなあ、と淵田さんがつぶやいていた。
(引用者中略)
このころ(引用者注:昭和5年/1930年ごろ)になると、もう私は直木家の定連のような格好になり、玄関はフリーパスであった。須磨子夫人が、あなたと笹本(寅)さんは、案内を乞わなくてもいいのよ、いつでも黙って上がって下さいと言われていた。」(『私の大衆文壇史』より)
で、こんな萱原さんだからこそ、次のような文章も書けるわけです。
「直木さんの死と換えた諸作によって、日本の大衆文芸は大きく進展した。昔なら大衆文芸家とその愛好者によって、直木賞の設定のほかに、直木大明神の祠が建ったかも知れないと思うほどだ。」(同)
いま多くの読者に愛され「すごい傑作を書く人」などと言われている作家も、たぶん何十年もたてば、いま直木三十五に向けられているのと同じ無関心と低評価を味わうことになるんだろうな、と寂しくなりますね。
『私の大衆文壇史』を読んで感じるのは、モチ、寂しさだけではありません。昭和10年代の直木賞候補者リストに名前は出てくるけど、あんまり注目されてこなかった多くの作家のことに触れられている。おお、この作家が! えっ、あの作家も! っていうワクワク感が味わえるんです。
竹田敏彦さんとか。
「始めは実話ものを書いた。書いたというより、「沢田正二郎物語」がたいへんよく出来ていたので、実話ものばかり書くのを、余儀なくされたという方が正しい。満洲事変が起ってから、竹田さんの活躍舞台が開けた。(引用者中略)
竹田さんはこういう出方をしたので、実話作家と呼ばれ、際もの作家と呼ばれた。それを言われるごとに、反発を感じていた。(引用者中略)
書くものは、すべて大衆受けをした。ことに看護婦、女工、女教師といった階層の女性や、恵まれない不幸な境遇の女性には、絶対の人気を持っていた。竹田さんは中学生のころ家が没落し、青年時代を惨憺たる境遇のうちに過し、世のあらゆる辛酸をなめつくしているのである。その体験から、不幸な人々、恵まれない境遇の人々に対する同情と共感を、強い正義感をもって描き出し、その人達の行く手に、明るい燈火を点ずるのが、竹田さんの小説の生き方であった。」(同)
ね、こんな紹介のされ方をされたら、竹田さんの小説、読んでみたくなるじゃないですか。
浜本浩さんも、そう。直木三十五さんより一つ年上の〈新進作家〉、萱原さんにとっては書き残しておくべき作家だったようです。
「私が浜本さんを知ったのは、直木三十五の紹介によってである。文芸春秋に「あるエキストラの死」という小説が載り、その後であったと思う。然るべき席を設けて、直木さんが引合わしたのだ。その意味は大衆文芸に進出の意志のあった浜本さんに、助力してほしいということで無論あったわけだ。
(引用者中略)
私はすぐ浜本さんに小説を頼んだ。作家馴れしていない浜本さんは、デビュウでもあり、題材にも迷いに迷い、おいそれとなかなか小説は出来なかった。(引用者中略)長い空白の時間の後、それでも抒情味の豊かな好短篇を、いくつか書いてくれた。
「十二階下の少年たち」や「浅草の灯」は、浜本さんの代表作のようになっているが、私は土佐の農村などを舞台にした素朴な短篇に、あの人の本領があったように思う。」(同)
まあ、直木賞選考委員まで務めた浜本さんのことを「あまり注目されてこなった作家」枠で語っちゃいけないかもしれませんけど。
と、萱原さんの紹介ぶりがあまりにも素晴らしいんで、それに載せられて『私の大衆文壇史』からばかり引用してきましたが、後半は、萱原さん真の代表作(?)をご案内することにしましょう。
○
「代表作」っていうのは、いつもどおりワタクシの大袈裟な表現です。でも、作家エピソード満載感は、『私の大衆文壇史』にも引けをとりません。
『昭和動乱期を語る――一流雑誌記者の証言』(昭和57年/1982年10月)、『老記者の置土産――昭和を通じての人物談義』(昭和62年/1987年1月)、『続・老記者の置土産――昭和を通じての人物談義』(平成2年/1990年6月)の3冊です。いずれも経済往来社刊。
一冊目は、大草実、下村亮一、下島連、松下英麿、高森栄治との、二、三冊目は大草実、下村亮一との座談をまとめたものです。
今回は、三者鼎談でひとりひとりの発言量も多い二冊目『老記者の置土産』から、萱原さんの茶呑みバナシを引用しておきたいと思います。
第1回直木賞に和田芳恵・萱原宏一の二人が大きく関与していた、っていうのは和田さんが『ひとつの文壇史』で書いたことでした。その件を萱原さんも追従しています。
「萱原 (引用者中略)川口(引用者注:川口松太郎)が直木賞もらったのは、僕と死んだ和田芳恵君の助言のお蔭といっては言い過ぎだけど、いささか功績があるんですよ。(引用者中略)
直木賞をいよいよ決めなくちゃならんときになった或日、例のごとく自動車が動き出すと、先生(引用者注:菊池寛)が「君たち、直木賞のいい候補者いないかねえ」と訊かれた。二人は同時に、「それは決まり、川松さんですよ」と言ったんです。(引用者中略)菊池先生は川口の名前をきいて、ハッと夜が明けたような顔をなさって、「そうだ、川口だ、それに決めた」とおっしゃいました。無論選考委員も居られたわけですが、第一回のことだし、先生の意向は無視できなかったので、すんなり授賞が決まったんです。(引用者中略)
下村 石川達三の第一回芥川賞になった、「蒼氓」の載った「星座」を、文春の永井龍男君のところへ持ちこんで、一方では報知新聞の文芸欄で再三再四「蒼氓」の大提灯を持って、とうとう授賞にこぎつけたのは、僕や萱原君と共通の友人だった片岡貢の執念だったね。片岡はこれを「偶然が歴史になる話」という題で雑誌に書いていたが、芥川賞は片岡君、直木賞は萱原君と、二人が授賞にかかわっていたというのは一奇だね。編集者はエンの下の力持ちで華々しいことには一向縁がないが、まあ、こんなことが楽しみだね。」(『老記者の置土産』「胸臆の人・川口松太郎」より)
ええ、下村さん。華々しいことに一向縁がない編集者たちの、直木賞に関わり合う姿が面白くて、ワタクシはこのブログを書いているようなものです(←かなり言いすぎ)。
まあ、むろん、ン十年もたって老人たちのしゃべる話に、どこまで信憑性があるのか、って問題はつきまといます。ただ、和田・萱原両氏の進言エピソードも、和田さん一人が書くより、萱原さんの同意があったほうが、信頼感は増します。和田さんのハナシを全面的に事実と受け取るわけにはいかない以上。
それから、当ブログで以前触れた「山本周五郎のデビューは懸賞への投稿ではなかったのか」事件。これについても、萱原・大草・下村の三氏、いろいろしゃべっています。
「大草 「文春」に入って、僕の席の横っちょを見たら、木箱があっていっぱい応募原稿がつめてある。ひょっと見たら「須磨寺附近」というのがあるんだ。僕は須磨にいたでしょう。すぐ取って読み始めたんだ。そうしたら、面白いんだ。それで予選通過の箱へポンと放りこんでおいたんだ。それが山本周五郎の出世作になった「須磨寺附近」なんだ。
その話を巻一(引用者注:足立巻一)にしたんだが、巻一は周五郎から、そういう話は聞いていないというんだよ。どういう話をしているかというと、自分は菊池さんに頼んだんで、投稿した覚えはないと言うんだって。
下村 その辺がちょっと嘘になるんだね。そういう話が多いよ。
(引用者中略)
大草 僕が山周の投稿読んだ話を、足立巻一にしたら、彼がやっていた大衆文芸雑誌に、それを書いたんですよ。だから山周も当然読んでいるはずです。
萱原 読んで、これは沽券にかかわると思って、投書説を否定したのかも知れませんね。菊池先生に頼んだものが、投書の応募原稿の中に入っているのもおかしいし、やはり、投書と見るのが、筋が通りますなあ。
大草 つまんないことを言って、偉くなると、大抵、そういうことを帳消しにしたがるんだ。」(『老記者の置土産』「奇物・変物記者総登場の新春爆笑篇」より)
水掛け論としか言いようがありません。文春の奥底に、周五郎さんが〈投書〉したときの封筒でも残っていれば別ですが、まあ、ないでしょうなあ。
ええと、文壇の裏バナシが面白すぎて、ほとんど萱原さんのことはご紹介できませんでした。すみません。ただ萱原さんには、大衆文芸勃興期にその礎を築いたっつう自負があります。こういう方はたいてい、時代を経たのちに「いまの大衆文芸には不満だ」と語らされる役を与えられるんですが、萱原さんもそうでした。
「萱原氏も、最近の大衆小説の傾向については「悪い油を使ったテンプラみたいで、いけませんなあ」と手きびしい。
(引用者中略)
「ひとつ、じいさまにも読めるものを書いてほしいですなあ」――おとなの小説を、というのである。」(『朝日新聞』昭和47年/1972年4月10日より)
何か最近のコメントだとしても全然違和感ないよなあ、と思ったら、げ。昭和47年/1972年って、40年以上も前じゃん。もうそんなころから、「大人の読める小説」信仰が唱えられていたんですか……。
ほんとに「大人の小説」の絶対量が少ないのか。いや、そもそも、ひとはどんな時代にも「大人の小説」の類を渇望するだけのハナシなのか。大衆文壇界隈もおもしろい世界です。
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