矢野八朗=村島健一(『オール讀物』直木賞受賞者インタビュアー) 山本周五郎から拒否されるほど、直木賞本体とは一心同体の〈オマケ〉。
村島健一(むらしま・けんいち)
- 大正14年/1925年3月29日生まれ、平成2年/1990年10月13日没(65歳)。
- 昭和24年/1949年(24歳)東京大学文学部独文科を卒業。毎日新聞社入社、記者となる。
- 昭和34年/1959年(34歳)退社してフリーのライターに。第十五次『新思潮』で知り合った梶山季之の世話で『週刊文春』に出入り。
- 昭和36年/1961年(36歳)『オール讀物』10月号に、第45回直木賞受賞者、水上勉のインタビュー記事「水上勉との一時間」を、矢野八朗(やの・はちろう)名義で発表(以後、「作家との一時間」シリーズは同誌昭和39年/1964年12月号まで)。
- 昭和48年/1973年(48歳)『オール讀物』にインタビュー記事「作家とのQ&A」を、村島健一名義で発表(昭和49年/1974年まで)。
『オール讀物』は直木賞の発表誌です。3月号と9月号に、受賞者・受賞作の発表、受賞のことば、選評が載ります。かつては4月号と10月号でした。
先日2月22日に発売された3月号にも、第148回の発表記事が載っています。そこには、受賞作(長篇の場合は主に抄録、短篇集の場合はいくつかの収録作)や、受賞者の自伝エッセイ、インタビュー記事などなどの〈オマケ〉が付いています。いまでは、こういった定番企画がかならず併載されますが、昔からそうだったわけではありません。
発表号における、直木賞関連の〈オマケ〉記事の先駆。といえば断然、村島健一さんのインタビューでしょう。矢野八朗さんと言い換えてもいいです。
矢野さんの「作家との一時間」シリーズは、文藝春秋の社史にも『オール讀物』の名物だったと取り上げられるほどの好評企画であり、かつ、それほどのものでありながら単行本化もされていない、村島健一の哀しき代表作です。(直木賞発表号以外のものも含めて、一覧にまとめてみました)
「(引用者注:昭和)三十六年十月号の「水上勉との一時間」を皮切りにした四十一人の人気作家のインタビューが評判になった。聞き手の矢野八朗はエッセイスト村島健一のこの欄限りのペンネームだった。毎号『オール』の巻頭にくる長篇と抱き合わせに掲載される決まりだった」(平成18年/2006年12月・文藝春秋刊『文藝春秋の八十五年』「第二章 雑誌の世界」より)
直木賞の発表号では、受賞者が大々的に持ち上げられます。晴れがましい舞台です。しかし、直木賞によって世に出た人は、歴代受賞者たちばかりではありません。矢野=村島さんも、正真正銘、直木賞のおかげで注目された人でした。
「はなはだ僭越だが、もしわたしがほんのちょっぴりでも世に出たといういい方をさせていただくなら、それは『オール読物』に連載させてもらった人物論シリーズによってだろう。当初、署名は「矢野八朗」でスタートした。種をあかせば、「ヤナヤロー」のもじりである。が、来歴は別として、わたしはこの名前が気に入っていた。」(昭和45年/1970年3月・文化服装学院出版局刊 村島帰之・村島健一・著『親馬鹿おやじ二代記――父から子へその子からまた子へ』より)
一時間シリーズの誕生となったしょっぱな、水上勉さんの記事をもとに、それほど評判をとった記事とはどんなものだったのを、軽く紹介してみます。
6ページの記事に、章分けが5つ。「1 ショート小答」「2 ある日ある時」「3 三人称の告白」「4 自宅にて」「5 友は語る」。インタビューをまとめてあるんですが、章ごとに切り口や見せ方を変えていく趣向で、インタビュー記事というより訪問記のようなものです。
もちろん、受賞者インタビューを、主催者のお膝もと雑誌で紹介するわけですから、基本、提灯です。その路線は外せません。提灯にしなきゃいけないんですが、そのなかでも、いかに、シラけさせないようなピックアップの仕方をするか。矢野さんの手腕の見せどころです。
「3 三人称の告白
★(引用者中略)ご本人が語る突っ放した自己分析だ。
(引用者中略)
友人の選びかたもガメつい。仲よさそうに笑いながら飲むだけの友だちは意味ない、と思っているらしい。「徒労な友情はメンドくさい」というとった。不必要な相手とは、つき合いたくないんやろ。
尊敬できるところのある人とだけ交際したがっている。前は、傷をなめ合うような交友もやってたが。
(引用者中略)
5 友は語る
★(引用者中略)吉行(引用者注:吉行淳之介)氏に代表として水上さんを語ってもらった。
(引用者中略)
会いたてのころ、あの男は抒情的な私小説を書いていた。それをわたしは、人物が好すぎるために抒情に流れるのだ――と解釈していた。
人生にウラミ、ツラミの多い人だとは知っていた。当時、高度なユーモアを盛った諷刺小説を発表していたが、ウラミ、ツラミのユーモア化でやっていく人かなと、わたしは考えたものだ。」(『オール讀物』昭和36年/1961年10月号「水上勉との一時間」より)
水上さんの暗ーくてコワーい感じが、なんか伝わってきます。
せっかくなのでもう一本。第49回(昭和38年/1963年・上半期)の佐藤得二さんのハナシもしておきましょう。
当時、『オール讀物』の直木賞発表号は、受賞作ではなく、受賞第一作を載せるのがふつうでした。しかし、佐藤さん、これをすっ飛ばします。貫禄といいましょうか。おチャメといいましょうか。
「本誌でごらんのとおり、この“新進作家”には受賞第一作がない。
「締切りに追われないで、書きたいときだけ書く。それならいいんですがね。約束すると、苦になります。拘束されるのは、イヤですものね。からだも意のごとくならんし」
こんなことを公言できるとは、トクな人である。」(『オール讀物』昭和38年/1963年10月号「佐藤得二との一時間」より)
楽しいのは、矢野=村島さんが、「今日出海の上司」ネタ、「川端康成の旧友」ネタを逃さず、しっかり書きつけているところ。
「「いや、候補になって、そう意外でもありませんでしたよ。コンチャンが……」
直木賞委員の今日出海氏をさす。文部省時代の部下である。
「トクさんのを推薦しといたぜ」
そう電話をもらっていたからだそうだ。(引用者中略)
「アリャアリャといってるうちに、コンちゃんが電話をくれましてね。“満場一致だぜ”」
(引用者中略)
「小説とは、どういうものなんですかね。それよりは、一般社会に訴えたかったまでで」
なるほど、根ッからのセンセイだ。
「だから、川端くんが……」
川端康成氏とは、一高で同級にいた。
「ほめてくれたときも、八百長ジャネエカとおもいましたよ」」(同)
佐藤得二さんがこういうハナシをあけすけに、村島健一さんに語っている、っていうこの状況が楽しいわけです。なんつったって村島さんといえば、この回、同じく候補に挙がっていた梶山季之さんとは大親友、一回前の受賞者、山口瞳さんとは飲み仲間。梶山さんが落ちた夜も、三人で会っていた、っつうぐらいの結びつきですもの。
「(引用者注:昭和)三十八年夏、『李朝残影』が同年上半期の直木賞候補にノミネートされた。(引用者中略)しかし、受賞したのは佐藤得二氏だった。発表があったあと、結果の伝令役を演じさせられた山口瞳さんといっしょに、梶さんは拙宅の家庭騒動をとり鎮めにかけてつけてくれた。なんて男だろう。」(『文藝春秋』昭和50年/1975年7月号 村島健一「流行作家 香港に死す」より)
まあ、佐藤さんの受賞については、その後に、三人が三人とも、いろんな噂を聞きつけたことでしょうし、仲良くグチグチと語り合ったことでしょう。そんな場面が目に浮かびます。村島さんはまさしく、直木賞に、典型的な文壇ゴシップの風を持ち込んだ男のひとりです(←って、それは少し言いすぎか)。
○
矢野八朗さんが「一時間」で取り上げた直木賞受賞者は、水上勉、伊藤桂一、杉森久英、山口瞳、杉本苑子、佐藤得二、安藤鶴夫、和田芳恵、以上8名。作家シリーズは昭和39年/1964年までで終了、昭和40年/1965年には格上げ(?)されて、「社長さんとの一時間」を2年間にわたって続けました。そこら辺が、経営者に取材する提灯記事でならした村島さんらしいところでもあります。
しかし、村島さんは、直木賞とよくよく縁がある人でした。たとえば、山本周五郎さんから拒絶されたところなんぞ、もうほとんど矢野=村島=直木賞、と言っていい構図です。
先に引用した『文藝春秋の八十五年』からの続き。
「(引用者注:「作家との一時間」は)毎号『オール』の巻頭にくる長篇と抱き合わせに掲載される決まりだったが、いろいろ大変だったらしい。「例のオマケがつくなら、おことわり」と拒否した山本周五郎。」(前掲『文藝春秋の八十五年』より)
ね。村島さんもまた、山本さんに嫌われたお仲間です、直木賞とは。
さらに縁はつづきます。矢野八朗の名を自ら捨てて、「村島健一」で活動するようになったのち、おっとびっくり、昭和48年/1973年にふたたび作家訪問記で登場。「~とのQ&A」とタイトルを変えて、やっていることはほとんど一緒、「ショート小答」や「自評自伝」といった往年の切り口でインタビュアーに返り咲きます。
ちょうど直木賞は、受賞者があんまり出なかった時期に当たり、発表号で村島さんがインタビューした受賞者は第69回(昭和48年/1973年・上半期)の二人だけ。藤沢周平さんと長部日出雄さんに限られているのが、残念です。
こちらからも少しだけ引用をして、どんな感じだったかを紹介しておきます。どーでもいいことを、わざわざ聞いて、作家の実像にせまった!ふうをかもし出す「ショート小答」から。
まじめな藤沢周平さんに、あえて下ネタをぶつけてみたり。
「――正常位を軽視する風潮について?
「まぁ、ハハハ」(覚めた目で)「あんまり複雑なことしなくてもいいんじゃないですか」(失笑のてい)「乱用というか」」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号「藤沢周平とのQ&A」より)
あるいは、長部日出雄さんにわざわざ文化庁の質問を向けて、のちに長部さんが芸術選奨文部大臣賞を受賞する展開を予見(?)していたり。
「――文化庁という存在について?
「ンー」(したたかに笑って)「縁のないところだという気がしますね」(硬い一拍)「つまり、映画にしても民俗芸能にしても、文化庁のお世話にならずにやっていけたら、いちばんいいなと思います」」(同号「長部日出雄とのQ&A」より)
村島さんの訪問記は、昭和49年/1974年でお役目終了。そののち、『オール讀物』は、またまた懲りずに、同種の「人気作家の現場検証」っつうのを始めるわけですが、後を受け継いだのは山本容朗さんでした。
こうして、〈直木賞のオマケ〉の魂は後世に引き継がれてきたのでした。……って何が〈オマケ〉だ。こういう脇の読み物こそが、直木賞世界では主役と言ったっていいんじゃないか。と、典型的なノリツッコミ。
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