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2012年12月23日 (日)

戸川貞雄(日本文学報国会理事) 営業政策で始めただけの文学賞が、やたら権威化することに、イラッとする。

戸川貞雄(とがわ・さだお)

  • 明治27年/1894年12月25日生まれ、昭和49年/1974年7月5日没(79歳)。
  • 大正7年/1918年(23歳)早稲田大学英文科卒。東京社が『婦人界』を創刊するのに際し、編集記者となるが3年目に辞職。
  • 昭和13年/1938年(43歳)同志の大衆作家たちと「二十七日会」結成。
  • 昭和15年/1940年(45歳)同じく「国防文藝聯盟」を結成。
  • 昭和17年/1942年(47歳)日本文学報国会の創立に伴い事業部長に就任。

 一年に一度の大イベント、12月25日。かの戸川貞雄さんが生誕した日として、日本中がお祭りムードに包まれます。やっぱり日本人は戸川さんのことをいつまでたっても忘れられないんですね。

 ええ、そりゃそうでしょう。ワタクシだって、直木賞を愛する者として、また文学賞を気にして生きている人間のひとりです。この〈戸川貞雄の日〉を間近に控えて、彼を取り上げないわけにはいきません。

 戸川さんって人は、あまり直木賞と縁のない人でした。でも、じつはそれが、戸川さんを「直木賞(裏)人物事典」のひとりと数える最大の理由だ、といえるかもしれません。文春のやることにケチをつけながら、それでも文学賞のことは無視できなかった文壇人のひとりだったからです。

 さかのぼれば大正10年/1921年、「蠢く」一作をもって、力量ある新進作家として注目されました。そんな戸川さんが、誰と仲間意識を共有したか。菊池寛さんやその子分たちではなく、中村武羅夫さんたちの『不同調』でした。戸川さんが、文藝春秋一派、というか菊池寛さんとソリが合わなかったのは、本人も語っているところです。

「もっともその頃、文壇の大御所と呼ばれていた菊池寛と喧嘩すると、メシが食えなくなる、なんて評判されていたものだが、不同調のもっとも忠実なる同人戸川貞雄は当初から『文春』さんとは面白くなく、従って文筆稼ぎの市場としてはシャット・アウト同様、今またおのれの居城不同調のスポンサー『新潮』からもオフ・リミットを喰っては、なるほど文士としちゃあメシの食い上げ同然だッたかも知れないが、実際はそんなこと被害妄想だな。」(平成2年/1990年6月・戸川雄次郎刊 戸川貞雄・著『ピエロの口笛 おかしくもあり哀しくもあり』より)

 その後、発表舞台を探す一新人作家を見兼ねて、いろいろ助言してくれたのが中村武羅夫の書生、嘉村礒多さんだったそうです。嘉村さんの紹介で、三上於菟吉さんと縁ができ、戸川さんはせせこましい文芸界なぞ知ったことか、と新聞や通俗誌にガンガン書き出し、一気に売れっ子通俗作家として名を馳せるまでになりました。

 直木賞・芥川賞が船出した昭和10年代には、戸川さんはもう、ひとかどの大衆通俗作家の地位にありました。つるむ相手も竹田敏彦木々高太郎、大下宇陀児、海野十三などなど、それまでの文壇とは別のグループ。これが「二十七日会」と名乗り、毎月集まっていろいろ懇談するうちに、まあやっぱり社会的な状況にも無関心ではいられんよね、ってことで軍・官・財あたりの人たちを招いて親交を深め合いました。

 これがムクムクふくらんで、次第に戸川さんも力み返って、「国防文藝聯盟」結成とか、「くろがね会」入会とか、作家業というより作家組織まとめ役、みたいなことに汗水流すことになってしまうわけです。

「僕は、或る一部の人びとから時局便乗作家だといって罵られた。今でも、そう見ている人はあるだろう。ところが、僕は国防文藝聯盟が結成されてから以来、便乗にも何にも、作家として何一つ仕事はしていない。」(昭和17年/1942年3月・育生社弘道閣/新世代叢書 戸川貞雄・著『国防文学論』所収「時局便乗作家の苦悶」より)

 当初はそれでも、一大衆作家としての発言が多く、大衆文芸はこのままじゃいかん、当局に迎合阿諛しているような大衆文芸ではいかん、といった殊勝なことを語って済んでいました。それが日本文芸中央会の準備委員となり、日本文学報国会で重要なポストを任されるようになり、と進行するうちに、戸川さんのなかにある責任感、と言いますか、〈周囲に持ち上げられて踊らされる気質〉が目覚めていってしまいます。

「「文学報国会」という名もわたしがつけたのである。文学者の集まりゆえ、やれ××、やれ○○なぞと、文学的な名前が議案となったが、要するにこれは報国団体なのだ、文学関係者の職能団体でもなければ研究団体でもない、産業報国会結成と同じ理念以外の何ものによって組織されたのだろうか。この際、割り切ってその性格に即してすなわち文学報国会とすべきではないか、というのがわたしの主張であった。(引用者中略)

(引用者注:持病の痔のため平塚の病院に入院中、久米正雄がやってきて)情報局側の意向としては、事業部長には戸川貞雄ということだ。キミ引受けてはくれぬか、キミが引受けてくれないと、僕も事務局長は引受けかねるというのであった。わたしは病気がなおりしだい引受けると快諾した。」(昭和52年/1977年3月・平塚市教育委員会/平塚市文化財研究叢書『戸川貞翁の著書・自筆略歴と建碑』所収 戸川貞雄「略歴」より)

 かくして戸川さんは、報国会で活躍をはじめます。文学報国大会の司会をしたり、機関紙『文学報国』の編集責任に当たったり、東亜文学者大会や講演旅行に随行したり。

 『文学報国』には、戸川さんの、気味のわるいくらい威勢のいい文章が、各種掲載されました。そんな地位にのぼらなければ、きっと注目されなかっただろう戸川さんの文です。なにせ、大して実作の伴ってこなかった大衆作家の戯れ言ですからね。

 しかし文学賞史のなかに、戸川貞雄の名が半永久的に刻まれたのも、やっぱりそのせいなのでした。戸川さんが、おそらく報国会小説部会幹事の立場から、日本文学報国会小説賞設定に際して「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」の一文を寄せたからです。

 以前も少し紹介したことがあります。これは昭和19年/1944年当時に、日本の文学賞がどのように考えられていたかの一例を示す貴重な文章だと思います。

「文学賞は、古くは芥川・直木賞から近くは荒木大将の奉仕会の歴史文学賞まで、文報が授賞のお手伝ひをする奨励賞の数も少くはないのであるが、名実共に文報の面目と責任に於て行ふ賞は、先頃第一回を授賞した大東亜文学賞と今回の文学報国会賞とこの二つである。芥川・直木賞或ひは新潮賞の如きは、周知の如く、その目的は或ひは新人の推薦に在り或ひは優秀作品の推奨に存し、その存在は必しも否定さるべきではなく、今日まで長きに亘りその功績は充分高く評価されてよいのであるが、その設定の動機に関する限り、例へば芥川・直木の文名を記念する菊池寛の個人的情誼乃至文藝春秋社或ひは新潮社の営業政策から発したものであることは否定し難い事実で、文学報国会が国家の要請に応じて設立され全文学者の総意と責任とに於て『優秀なる作品の推奨』や『新進文学者の育成』に任じなければならぬ今日、既存のこれらの文学賞とは別個に、文学報国会賞を設定するの要あることは論を俟たぬところである。」(『文学報国』第15号[昭和19年/1944年1月20日] 戸川貞雄「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」より)

 たかだか9年の歴史しかない直木賞・芥川賞がすでに「古くは」の代表となっている点。両賞が、菊池寛の「個人的情誼」であり、また文藝春秋社の営業政策として開始されたことに、文学賞としての姿が問題視されている点。

 この二点だけは、少し表現を変えると、いまなお流布している直木賞・芥川賞観の一部と見分けがつきません。

 戸川さんにはいまひとつ、その報国会小説賞が決定したあとに書いた「文学賞の基準と性格」の文があります。受賞作となった豊田三郎『行軍』に対する選評、というより同賞の性格をしつこいぐらいに解説する内容ですが、これも見ておきます。

「既存の文学賞にも、優秀なる文学作品を推奨するといふ共通の目的に対して、それぞれ独自の意義と価値とが認められるとすれば、数多い、多過ぎるくらゐの既設文学賞の中へ、改めて文学報国会がその権威と責任に於て加へようとする文学賞には、おのずからに他と異なる、独自な、且つ有意義な性格が認められなければならない」(『文学報国』第28号[昭和19年/1944年6月20日] 戸川貞雄「文学賞の基準と性格」より)

 要は昭和19年/1944年段階で、文学賞は「多過ぎる」と言っています。多すぎるってあなた、おたくんとこの報国会がさらに輪をかけて何何賞、何何賞と次から次へ文学賞をつくるもんだからよけいに増えちゃったんでしょうが、とツッコみを入れる人はいなかったんでしょうか。

 まあ、文学賞に対する悪口のなかでも、「最近、文学賞はやたら数が多すぎる」つう部類は、ほんと、言う側にとっては安全で、人を傷つけず、お子様からおじいさんおばあさんまで、どなたでも安心して口にできる言葉ですもんね。きっと廃れることはないのでしょう。

          ○

 先に引用した『ピエロの口笛 おかしくもあり哀しくもあり』は、発行者の名前を見ればおわかりのとおり、いわゆる私家版です。あとがき「ちょっと一言」を、発行者の戸川雄次郎さんが筆名の「菊村到」名義で書いています。

「この小冊子は、すでにともに故人となってしまった、私の父の戸川貞雄と兄の猪佐武との対談をまとめたものです。(引用者中略)

 正確なところは、わかりませんが、この対談がおこなわれたのは、文中の発言から推して昭和四十九年ごろのように思われます。」(同書「ちょっと一言」より)

 貞雄さんと猪佐武さんの対談は、およそ時代順の出来事に沿っておこなわれているんですが、前掲の貞雄さんが中村武羅夫さんにも楯突いて『新潮』からも距離を置くようになった、その次の節が「芥川賞・直木賞」と題されています。

 『不同調』の仲間、今東光さんが直木賞をとったときのこととか、早稲田の先輩、鷲尾雨工直木三十五のケンカのこととか、そういう話題のあいまに、ふと往年の「文学賞論者・戸川貞雄」の顔がのぞいていて、興味ぶかい文献となっています。

 たとえば、こんな言葉とか。

「憎まれついでにね、芥川賞や直木賞なんてあんなの一雑誌社の営業政策で文芸的権威なんかあるのがおかしいなンて書いたものだがね、どういたしまして文芸春秋の隆々たる社運の伸展につれて権威が生じて、やがて文壇の登竜門たるの貫禄を示すに到った。」(同書より)

 よっぽど一社の営業政策ごときに権威のある状況が、気に障るご様子で。戸川さんは、時勢にあらがえずに文学報国会の重要ポストにおさまっていたとき、

「芥川・直木賞にせよ新潮賞にせよ、文学賞に対して過去の文学的業績による個人の文名を冠することは慎重考慮を要すべき事柄でもあるし、営利的な出版企業態の存続も許されない今日以後にかんがみ、この機会に一層いさぎよく文学報国会賞のうちに解消せしめては如何かと思ふ。」(前掲『文学報国』「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」より)

 なあんてこと書いていました。ふうむ、戦時下の興奮状態で全体主義に感化されて、心にもないことをぶち撒けてしまったんだろうな、と思っていましたが、案外それって、戸川さんの本心だったのかもしれませんね。

 それとか、猪佐武さんとの対談ではこんなことも言っています。

「直木賞、芥川賞ばかりでなく矢鱈と賞がふえたので、高田保がおれに障害物競争じゃァないが、文壇にも賞外競争でも設けてコンクールやらせたいくらいなもんだねと言ったことがある。賞の権威が落ちるというンだが、文学賞に限らず、叙勲でも何でも、ちと濫発気味だな。」(前掲『ピエロの口笛』より)

 おお。報国会小説賞なんて微妙な賞をつくって文学賞の権威を落とした責任者のひとりとも思えません。いや、いつの時代にあっても「文学賞は多い」と感じてしまうこの常識的な感覚。戸川さんを「時局便乗作家」たらしめた強みかもしれませんね。

 そういう戸川さんが報国会の理事でブイブイ言わせたのは、ハマリ役といいましょうか、就くべくして就いた役職といいましょうか。

 『文学報国』紙上では彼のほかにも、第17号(昭和19年/1944年2月10日)で「文学賞の諸問題」の総題のもとに、本間久雄が「権威ある審査組織―社会的責任に就て」を、本多顕彰が「三つの場合―文学賞の意義に就て―」を書いていて、ともに文学賞好きによる貴重な証言となっています。そのなかでも戸川さんはとくに、文学賞好きの精神を示したひとといえるでしょう。何だかんだ言って文学賞に気をとられる、つい文学賞に苦言を吐きつけたくなる、……常識的な文学賞好きの典型といいましょうか。 

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