石井英之助(『オール讀物』編集部員→六興出版社社長) 直木賞の候補にあがるような作品を次々と載せる雑誌をつくったことは、幸運か不運か。
石井英之助(いしい・えいのすけ)
- 明治42年/1909年生まれ、昭和37年/1962年10月24日没(53歳)。
- 昭和7年/1932年ごろ(23歳)東京商科大学卒業、文藝春秋社に入社し代理部に勤務。のち『オール讀物』編集部に移る。
- 昭和20年/1945年(36歳)応召。復員後に〈六興出版部〉に入社。
- 昭和24年/1949年(40歳)〈六興出版社〉雑誌編集局長として『小説公園』を創刊。
- 昭和27年/1952年(43歳)〈六興出版社〉の社長となる。
戦後、大衆文芸誌の世界は百花繚乱。もはや古雑誌マニアしか興味を示さないような種々もろもろの雑誌が群立しました。「大衆文芸誌」を「中間小説誌」と言い換えたっていいです。
その数多い雑誌群のなかで、ひときわ直木賞予選委員たちに気に入られ、いくつもの候補作を生み出した雑誌。『小説公園』。河内仙介さんの息子が務めていた、ってところでも触れましたね。〈六興出版社〉の雑誌です。
で、〈六興出版社〉は直木賞と縁の深い出版社、といえば、誰もが賛同してくれるでしょう。ならば、「(裏)人物事典」で取り上げるのは吉川晋さん。……でもいいんですが、ここはひとつ、石井英之助さんに代表してもらいましょう。直木賞候補・小磯なつ子さんの旦那だし。
石井さんを説明するには、まず〈六興出版社〉のことを語らなければなりません。もう、この会社そのものが、大変わかりづらい経緯をもつ会社でして、たとえばwikipediaの「六興出版」の項などは、「いかにして、もっともらしく嘘をつくか」を競い合うwikipediaらしい記述となってしまっています。なので、別の文献を参照します。
この出版社の興りについては、清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』で、かなり詳しく描かれています。なにしろ清水さん、六興出版草創期の中心人物のひとりだった、ってわけですから。
そもそも、同社の設立に奔走したのは、当時の東宝でPR雑誌『エスエス』の編集をしていた大門一男さんだそうです。
「大門一男に出版をやってみようという気を起こさせたのはベストセラー『風と共に去りぬ』を翻訳した大久保康雄だった。大久保は『風と共に去りぬ』につづいてヘミングウェイ、デュ・モリアなどに手をつけて、翻訳書ブームを起こした三笠書房の原動力になった。(引用者中略)大久保は大門の実直な人柄を気に入って、うちとけて話をするようになり、翻訳をやりなさい、手づるがあるなら出版をやりなさい、とすすめた。それがきっかけだった。」(昭和60年/1985年4月・早川書房刊 清水俊二・著『映画字幕五十年』「12 バイブルの話はうまくない」より)
人の縁ってのは異なものです。あるとき、大阪商船ビルの地下にあるバーで、大門さんは、商事会社〈六興商会〉の社長、小田部諦さんと知り合います。清水さんの文によると、小田部さんは「おもしろいように入ってくる金を何か意義のあることに使いたい」と言ったとか。大門さんはそこに出版事業の夢を押し込み、昭和15年/1940年、〈六興商会出版部〉ができたのでした。
「私(引用者注:清水俊二)は嘱託ということで、夕方になると、内幸町のパラマウントから(引用者注:六興商会出版部のある)日本橋まで出かけた。文藝春秋社の「オール読物」編集長香西昇、編集部員石井英之助、吉川晋もしじゅう顔を見せた。この三人は六興出版誕生前から大門一男の強力なブレーンで、大門が出版社設立の意志をかためたことにはこの三人の存在が大きくものをいっていたようだ。それにしても、この三人は天下の文春にいて、どんな不満があったのだろう。三人とも、六興出版に異常なほどの肩入れをしていた。」(同)
出ました。石井さんです。しかし、まだそのころ石井さんの籍は文藝春秋社にありました。その後、石井さんは昭和20年/1945年3月に応召するまで、ずっと文春にいて『オール讀物』編集に携わりました。ということは、改題後の『文藝讀物』編集部員でもあったわけです。このころ、同誌の編集部員として高見順さんの家に足しげく通っていたことは、『高見順日記 第二巻ノ下』に、たびたび出てきます。
戦火がおさまったのち、石井さんは復員しました。その直後、昭和21年/1946年2月より前ですが、石井さんは同じく『オール讀物』編集部にいた吉川晋さんといっしょに、文春を去り、〈六興出版部〉に入ります。そう、このときは社名〈六興出版部〉でした。
なぜ彼らは文春を辞めるにいたったのか。菊池寛さんの動向と結びつける説が有力なようです。
「晋は、英治(引用者注:吉川英治)が「青年太陽」を廃刊した時、菊池寛に頼んで文芸春秋社へ入社させてもらっていたが、戦後の菊池社長退陣劇に、英治は菊池に義理を立てて晋を退社させたものだった。」(昭和59年/1984年9月・講談社刊 松本昭・著『吉川英治 人と作品』「無常こそ、わがテーマ」より)
もしも菊池さんがあのまま文藝春秋社をやっていたら、石井さんも吉川さんも、文春に残っていたのかもしれません。〈六興出版部〉に拾われた、と言って言えないことはないでしょう。六興は六興で、旧社員たちによる再建が始まっていたころでした。小田部さんの後を継いだ二代目社長、矢崎義治さんを中心に。
「小田部社長の死後、次席だった矢崎義治氏が後継者として采配を揮い、機械だけでなく、つくだに、たらこ、ウイスキー、釘、布団、蚊帳、たきつけと、何んでもござれ商っていた。こうして着々資本を蓄積、出版への野望を燃やしていたのであるが、その頃、入ってきたのが文芸春秋社員だった石井英之助氏と吉川晋氏(吉川英治氏令弟)である。矢崎氏と友人関係にあったからである。
当時文芸春秋社は社長菊池寛氏の追放をめぐって嶮悪な空気が立ちこめていたときで、菊池氏に加担する石井、吉川両氏が同社を去ることは、菊池氏としては非常に淋しかったと見えて六興入社の挨拶に行くと、例の小さな童眼をしょぼしょぼさせて、「向うに行って食えるかい? 食って行けるならいいけれど……」と行末を案じたものである。」(昭和29年/1954年6月・学風書院刊 山崎安雄・著『著者と出版社』「六興出版社と吉川英治」より)
ここで吉川英治の弟、吉川晋さんの入社したことが、運のツキだったのかもしれません。
〈六興出版部〉は新潮社が出していた吉川英治・著『新書太閤記』を、ガッツリ手中に収めて出版。増刷増刷の大にぎわい。さらに、講談社の吉川英治・著『宮本武蔵』も、すったもんだのいざこざの末に、ゲットに成功。増刷増刷の大にぎわい。
「営業担当だった青木武は語る。
「(引用者中略)吉川英治先生の『宮本武蔵』『新書太閤記』で儲けた利益で雑誌が持てた。六興の経営に先生から資金が出たことはないと思う。」」(昭和60年/1985年8月・新潮社/新潮選書 木本至・著『雑誌で読む戦後史』所収「吉川英治後援の豪勢な中間小説雑誌 小説公園」より)
昭和24年/1949年には正式に社名を〈六興出版社〉と変更。雑誌編集局長に石井さんが、編集長に吉川晋さんが就き、鳴り物入りで『小説公園』を創刊することになるのです。
お待たせしました。六興がついに直木賞とねんごろな関係になります。それは、つまり、六興凋落の道でもありました。おお。貧乏神・直木賞の神通力、すさまじ。
○
ここからの石井さんの歩みを語るには、やはり妻・小磯なつ子さんに登場してもらわなければ恰好がつきません。小磯さんというか、佐藤碧子さんです。
佐藤さんの書くものは、さすがに正確な年月までは信頼性が薄いので、あまり引用しないようにしてきましたが、ここから先は仕方ありません。昭和24年/1949年に五人目の女児を授かり、〈六興出版部〉の経営も上向き、そして昭和25年/1950年を迎えたころ、の場面です。
「七草がすぎると、ふいに夫(引用者注:石井英之助)は私に中間小説を書く気はないかと言った。六興出版部では、二月つまり三月号を創刊として、『小説公園』という大判の娯楽雑誌を発行する。頁数が一五〇頁から一六〇頁で、定価は九十五円。二号の陽春四月号に、百四、五十枚の中篇を書いて見ないかというのであった。新人の登場だから、ペンネームも新しく選び、題も派手で魅力のあるものがよい、と、夫も真剣であった。
一月半ばには会社の人に頼んで女中も見つけてくれた。ぼんやりしてはいられなかった。片瀬の海の近くに住んでいるから小磯、樋口一葉の本名なつ子を貰って、ペンネームは「小磯なつ子」とした。題はどんな内容にも適当な自然現象をとって「雪化粧」ときめた。」(昭和61年/1981年7月・恒文社刊 佐藤碧子・著『瀧の音 懐旧の川端康成』「不可解」より)
出だしの売れ行きの悪かった『小説公園』誌から、早くも直木賞候補作が生まれます。「雪化粧」は第23回(昭和25年/1950年上半期)の候補に選ばれました。
その後、第24回中村八朗「白い蝙蝠」、第25回峰雪栄「秋寒」、第26回藤原審爾「藤十郎狸武勇伝」(『別冊小説公園』所載)と梅崎春生「零子」。たてつづけに候補を輩出。第28回(昭和27年/1952年下半期)にいたっては、ついに立野信之「叛乱」という直木賞受賞作を誕生させました。
「「小説公園」が2・26事件を描いた立野信之「叛乱」の連載(27年1月スタート)で「持ち直した」(青木氏(引用者注:青木武))のは昭和史ブームの先駆と言えよう。もとプロレタリア作家の立野は28年3月「叛乱」で直木賞受賞。「『叛乱』は11万5000部出てベストセラー、映画(佐分利信監督)にもなった」(青木氏)」(前掲『雑誌で読む戦後史』より)
まったくこの間、〈六興出版社〉はひどく経営が悪化し、その責任をとって社長の矢崎義治さんが代表から引き、かわって石井英之助さんが社長に就きます。昭和27年/1952年のことでした。
「叛乱」の受賞で、多少は持ち直したのかもしれません。ただし、直木賞ごときにひとつの会社を救えるほどの力がないことは、豊島澂さんのエントリーでもご紹介したとおりです。佐藤碧子さんの回想でも、苦しい家計事情が綴られています。
「六興出版社の借金(原稿料、紙、印刷、広告料、税金など)は、膨れる一方で、私の微々たる稿料も皆無になり、家を売り子供たちの新学期に間に合うように、東京に安い建売住宅を探して引越すことを、毎晩夫と話しあった。」(前掲『瀧の音』「姓名判断」より)
『小説公園』からはその後も、直木賞候補作は出て、第29回中村八朗「玉手箱」、第30回池田みち子「汚された思春期」、第31回長谷川幸延「裏道」と続きました。しかし社運は傾くばかり。昭和33年/1958年に及んで同誌は廃刊、また、そのころから再び〈六興出版部〉を名乗るようになっていた同社も、昭和34年/1959年には、こんな状況に落ち込んじゃいます。
「六興出版社は、蠣殻町の社屋を売却、同区内の浪花町に木造の小さい事務所を借り、少数の人で出版をつづけることになった。出版は吉川英治のものだけである。(引用者中略)夫は、日々浮かぬ顔である。稿料の不払いで迷惑をかけた作家にも、いつかは返せる存念が無くなった。六興出版社は潰れ、残ったものは、出せば売れる個人作家の出版を、生活のために続けるだけなのだ。工夫も張合いも失って、ひとつに取縋らねばならない夫の辛さは解る。」(前掲『瀧の音』「年さまざま(二)」より)
50歳前後にして、生きる気力を失う石井さん。『瀧の音』の「春の旅」では、石井さんが碧子さんに寝床で、みずからの生まれから碧子さんと結婚するまでの回想を語る場面が出てくるのですが、んもう、涙なくしては読めません。さすが碧子さん、筆がうまい。
「「子供ほど可愛いものはない。思い出したくもない僕の不幸は、おやじの早死に端を発してると思うと、できるだけ生きていてやりたい。邪魔にならぬように消えてやりたいと思うね。不思議な同士だったんだ、君とは。君に逢わなければ、僕は一所懸命に仕事をする気にはならなかったろうよ。駄目だったのはツキがなかったのさ」
夫は疲れて黙った。」(前掲『瀧の音』「春の旅」より)
出版業では失敗したでしょうけど、自分の半生のことを、これだけ本に書き残してくれる妻をもって、けっこうツキあったじゃないですか。って、ぜんぜん慰めの言葉になっていませんか。
ツキがあろうがなかろうが、ワタクシにはどうでもいいことです。石井英之助さんが、一念発起で〈六興出版部〉に入り、文芸路線の大衆読物誌に手を出したことが、どれだけ戦後の直木賞の様相を面白くしてくれたことか。ええ。面白くしてくれましたとも。自信もってください、石井さん。
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