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2012年11月の4件の記事

2012年11月25日 (日)

岡崎満義(『オール讀物』編集部員→『文藝春秋』編集長) 直木賞の歴史を書いた文春マン。ワタクシ、勝手ながら縁を感じます。

岡崎満義(おかざき・みつよし)

  • 昭和11年/1936年11月8日生まれ(現在76歳)。
  • 昭和35年/1960年(23歳)京都大学文学部西洋哲学科卒。文藝春秋新社入社。『週刊文春』編集部に配属。以後、『オール讀物』など各誌編集部を経る。
  • 昭和55年/1980年(43歳)スポーツグラフィック『Number』創刊にあたり編集長就任。その後は『文藝春秋』編集長、編集局長など。
  • 平成11年/1999年(62歳)取締役として文藝春秋退社。

 先日、大森望さんが講演会で、「文藝春秋の元編集者は直木賞・芥川賞のウラバナシを書ける立場という意味で、退社後は、回想録出版の話が来やすい」、って感じのことを語っていました。ワタクシもそれを聞いて、ああ豊田健次さんとか、高橋一清さんとか……と即座に思ったのですが、さて岡崎満義さんなどはどうでしょうか。

 岡崎さんは平成22年に『人と出会う――一九六〇~八〇年代、一編集者の印象記』(平成22年/2010年5月・岩波書店刊)を上梓しました。いやいや。これは直木賞・芥川賞回想なんちゅう、オタク野郎しか興味のないような狭い範囲の本じゃなく、人選は多岐にわたり、両賞のハナシなどほとんど出てきませんよ。ただ、岡崎さんは主に二つの理由で、このブログにご登場いただくのにふさわしい方です。思い切って「(裏)人物事典」に加えさせてもらいました。

 ちなみに、『人と出会う』のなかでは、直木賞の影は薄いわけですが、芥川賞のハナシにはチラッと触れられています。たとえば、こんな一節とか。

「立原さん(引用者注:立原正秋はなかなか気性の激しい作家だった。「剣ヶ崎」という小説が惜しいところで芥川賞になりそこねた。そんな場合、受賞作とともに惜しくも受賞を逸した候補作もいっしょに、『文藝春秋』に掲載するのが長年のならわしだった。昭和四十年上半期、第五十三回の芥川賞は津村節子さんの「玩具」が受賞作となった。

 そのとき、立原さんは編集長宛に「あの『玩具』と並べられるのは嫌だ。どうしても載せるというのなら、私の小説には“候補作”ではなく“落第作”としてもらいたい」という手紙を送ってきたものだ。」(『人と出会う』「立原正秋――早春の産毛」より)

 やっとりますねえ、立原さん。「候補作」なら駄目で、なぜ「落第作」なら我慢できるのか、あまりに心理の機微すぎて、ワタクシのような凡人には理解できないところがありますけど、この利かん気の強さが立原さんの魅力(?)ですよねえ。

 『人と出会う』の「II 文壇・文士・学者あれこれ」の章では、立原正秋さんのほか、司馬遼太郎さん、黒岩重吾さん、田中小実昌さんら直木賞受賞者のエピソードが撒かれています。そのなかに堂々、喰い込んでいるひとりが有馬千代子さん。有馬頼義の夫人です。

 岡崎さんと有馬千代子さんの縁、といえば何でしょう。本文でも書かれているとおり、『オール讀物』(平成2年/1990年8月号~平成5年/1993年10月号)に連載された「想い出の作家たち」シリーズです。

 これは、亡き著名作家の遺族のもとに、岡崎さんが話を聞きに行って構成されたインタビューシリーズ。のち『想い出の作家たち』二巻本(平成5年/1993年10月、平成6年/1994年3月・文藝春秋刊)にまとめられました。奥付のうえでは「編者 文藝春秋」となっていますが、この二冊、まぎれもなく岡崎満義さんの本と言ってもいいでしょう。

 このシリーズは、『オール讀物』という媒体、あるいは最初に採り上げられているのが色川武大(語る人 色川孝子)、ってことからもわかるとおり、直木賞関連作家が次々と出てきます。直木賞そのものというより、直木賞をとった人たちの実生活での楽しい挿話満載、といった本です。

 梅崎春生さんの天真爛漫さ、とか。

「『桜島』でデビューしたあと、たとえば改造社の編集の方が見えて「小説をお願いします」と言われたりすると、ほんとに小躍りして喜ぶのです(笑)。人一倍の自信と矜恃はあったと思うのですが、初めは自分はなかなか世に出ないし、一流の出版社から原稿依頼があるとは思ってなかったかもしれませんから、喜ぶのは無理はありませんが、私はもう少し泰然自若としていれば立派に見えるのに、と思う反面、あまりの喜びようを見て、無邪気で可愛い人だな、と思ったり(笑)。」(『想い出の作家たち1』所収「梅崎春生 語る人 梅崎恵津」より)

 かわいいっすね。

 山本周五郎さんの次男、清水徹さんが語る「賞嫌いのおやじ」のこととか。

早乙女貢さんが一度、仕事場の間門園に来て、ぼくもたまたまそこにいたとき、「ぼくは先生の弟子ですから」と言うと「おれは小説の弟子は持った覚えはない」とはっきり言うのをこの耳でたしかに聞いています。

 書くものというのは、その人の才能だからそれを口で教えたりして伝わるものではないと言っていました。自分で読んで、どういうふうな表現の仕方をしているかを習うわけで、弟子なんか出来るわけがない、弟子なんかとれるわけがない、と親父は口癖のように言っておりましたね。

 親父は賞と名のつくものはすべて断わったということで有名ですけど、これやっぱりらしいんじゃないですか。「魚屋が魚をいっぱい売ったからといって、誰かが表彰してくれるか」(笑)、「いっぱい安く売った魚屋は買ってくれたことだけで表彰されたようなものだ。小説は読者にいっぱい読んでもらえたら、それが賞なんだ」と言いました。(引用者中略)

『樅ノ木は残った』がNHKのテレビドラマになって、文学碑が建てられましたが、親父が生きていたら、まず絶対に建てさせなかったでしょうね。碑なんかできたら、ハンマーを持って壊しに行く、とよく言ってましたから(笑)。」(『想い出の作家たち2』所収「山本周五郎 語り手 清水徹」より)

 なある。新潮文芸振興会なんて、イの一番にハンマーもって怒りくるった周五郎さんに殴り込まれるでしょうなあ。

 ほかにも、柴田錬三郎(語る人 斎藤エイ子)、新田次郎(語る人 藤原てい)、海音寺潮五郎(語る人 末富明子)、立原正秋(語る人 立原幹)、向田邦子(語る人 向田せい)、有馬頼義(語る人 有馬千代子)、今東光(語る人 今きよ)と、みんなによーく知られた直木賞受賞者の日常が、たくさん書かれています。『想い出の作家たち』を読んだだけでお腹いっぱい。大満足。

 ……といったところで、岡崎さんを「直木賞(裏)人物事典」のひとりとして数える理由に、ようやく進みたいと思います(前置きが長すぎた……)。

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2012年11月18日 (日)

中谷博(大衆文芸評論家) 大衆文芸の通俗化をくい止めようと孤軍奮闘した、直木賞の「戦友」。

中谷博(なかたに・ひろし)

  • 明治32年/1899年12月1日生まれ、昭和46年/1971年10月25日没(71歳)。
  • 大正15年/1926年(26歳)早稲田大学文学部卒。第一早稲田高等学院のドイツ語担当講師となる。のち同学院の教授、教務主任や、早稲田大学文学部講師などを経て、昭和24年/1949年、早稲田大学文学部教授。
  • 昭和9年/1934年(34歳)『新文芸思想講座』八巻、九巻(文藝春秋社刊)に「大衆文学本質論」を発表。
  • 昭和14年/1939年~(39歳)第三次『大衆文藝』を舞台に作家論、月評等を数多く発表。
  • 昭和45年/1970年(70歳)早稲田大学を定年退職、名誉教授となる。

 直木賞がまだ、芥川賞と比較にならないぐらい光が当たらず、文芸ネタのなかでも蚊帳の外に置かれていた時代。大衆文芸? なにそれ、愚民に迎合して「売れりゃ何でもいい」と思っている浅はかな連中が書いた、芸術性のかけらもない、紙の無駄遣いのこと? ……みたいに、威張りくさった文学亡者たちが馬鹿にしていた時代。

 「大衆文芸」の果てしない可能性と将来性に賭けて、後押しをしてくれた人といえば、千葉亀雄さんや菊池寛さん、木村毅さん。それと中谷博さんあたりの名前が思い浮かびます。

 とくに中谷さんといえば、大衆文芸論を書き出したのが、ちょうど昭和9年/1934年ごろ。直木賞が生まれるタイミングと重なっています。

「大衆文学評論家としては、三田村鳶魚、千葉亀雄、木村毅の諸氏が先輩として論陣をはった。中谷博が「大衆文学本質論」を発表したのは昭和九年であって、奇しくもそれは白井喬二氏が、十年批評するなかれと宣言して第一次『大衆文芸』を創刊してから、ほぼ十年を経た頃であった。それはこれら先人批評家の筆がやや以前ほどの熱ぽさを失いかけていた時であったし、何よりもこの新興の文学が、文学運動としての生命力を次第に喪失しはじめていた頃であった。このことが彼をして大衆文芸評論のペンをとらしめたとも言える」(昭和48年/1973年9月・想い出の中谷博・刊行会刊『想い出の中谷博』所収 中谷治夫「父への手紙から」より)

 要は、「大衆文芸」なる用語の広まりはじめて約10年。とかく人間は飽きっぽいので、そろそろ「大衆文芸」といっても新鮮さはなくなり、通俗小説の類いと混ざり合って、「文芸作品より劣等なもの全般」と区別がつかなくなっていた時期でもありました。

 あるいは、「大衆文芸」っていう呼称の弊害、と言っていいかもしれません。いまでもまだそうでしょうが、だいたいこの単語を聞いた人はすぐ、「大衆のための文学」と考えて、その思い込みから外に出ようとしません。「直木賞は、大衆向けに書かれた小説だからうんぬん」なんて言葉は、21世紀になってなお、そこかしこで見ることができます。

 中谷博さんって方は、呼称に縛られたそういう観念に、決然と異を唱えた人です。

「大衆文学とは大衆の読む文学である。従って大衆の読む文学なれば何でも大衆文学である。これでは話にならない。

(引用者中略)

大衆小説作者は世のあらゆる読者に、甲乙なく読んで貰おうとしては筆を取らない、特に愛好して呉れる一団の読者を目標として制作しているのだ。そしてその一団の読者とは、云うまでもなく、知識人である、大人である。若し大衆文学が変則的な発展をして来たとするならば、それは正しく此の一団の読者の存在が、それを行わしめたのであろう。即ち此の知識人の大衆文学への要求とその要求に答えんとする作者の精進とが、それを結果したものであろう。」(昭和48年/1973年7月・桃源社刊 中谷博・著『大衆文学』所収「大衆文学本質論」より)

 中谷さんは言っています。「大衆の文学」と名が付いているのは、あくまで建前であって、実は大衆文学とは知識人のための文学だ。純文学が文学青年のための文学であるのと違って。……と。

 あるいはこんな表現も使っています。「大衆文学の作者は決して車夫や馬丁を対象として制作をしておらない。明かに知識人を相手に書いているのだ」。つまりは、通俗小説の類いや、大衆文学ならぬ「大衆的文学」は、車夫馬丁相手の読み物であって、大衆文芸はそういうものを指していない、ってことです。

 まあ、おのれの位置を高く表現するために、他の事物を持ってきて低きに置く、士農工商なんとやらの論法のような気もしますけど、主張の内容はともかく、昭和9年/1934年の段階でこういう問題意識をもっていた中谷さんの姿は、おのずとその年暮れに制定された直木賞の姿を思い出さないわけにはいきません。

「純文学の世界に昭和のルネッサンスといわれた一時期があったように、大衆文学の分野でも、昭和十年前後にひとつのもりあがりがみられた。大正の末年にチャンバラ小説として誕生した日本の大衆文学は、次第に新講談的な部分を洗い落し、新興文学としての内容と形式を成熟させ、マスコミとの癒着をつよめた。

(引用者中略)

 直木賞の制定は大衆文学の時代的なひとつの曲り角に位置していたことは明きらかだ。」(『直木賞事典』所収 尾崎秀樹「直木賞と大衆文学状況」より)

 尾崎秀樹さんは、このころを内容と形式の成熟期と見ます。対して中谷博さんは、ジャーナリズムによって味噌もクソも大衆文芸と呼ばれてしまい、そもそもの文学運動がかき消されていった時期だ、と論じています。

 そこに直木賞が誕生しました。「優秀な大衆文芸の新人」を見出して顕彰しよう、というなかなか挑戦的な賞です。

 さて直木賞は、尾崎視点、中谷視点、どちらの方向性に近かったのでしょうか。……といえば、「どちらも採り入れようとした」、ってことになるでしょうね。

 かつての大衆文学の枠では計り切れない内容や形式をもった、さまざまな作品を、直木賞に組み入れようとする動き。井伏鱒二さんの記録もの、橘外男さんの饒舌なる実話ふう読物、神崎武雄さんの現代小市民物語、などなど。戦後にいたっては、受賞作群を「大衆文芸」なんて一言でくくるの、とうてい無理でしょ、といった景色となっていきます。

 いっぽうでは、通俗に堕してはならない、っていう矜恃が直木賞のなかで大きな存在感を持ちました。小島政二郎選考委員あたりがその急先鋒です。かつて中谷博さんは大衆文芸を、「車夫馬丁とはちがう、知識人としての大人のための小説」と考えました。1970年、80年代ごろからは直木賞の界隈では、「子供の読み物とはちがう、大人のための小説」に与える、みたいなことが言われました。いまでも、「大人の小説」に固執する選考委員が残っていることが、この路線の根強さを物語っていましょう。渡辺淳一さんとか。

 どっちがいいとか悪いとか、そういうハナシではありません。たかが大衆文芸、たかが直木賞ですし。

 どちらにせよ、大衆文芸や直木賞は、昭和9年/1934年のころにはすでに、誤解やら無理解やらを受け、商業主義に手を入れられてグチャグチャにされ、はっきりとしたかたちのないシロモノであったんでしょう。そのなかで、周囲の(とくに純文芸至上主義の連中の)冷たい視線に耐えながら、直木賞はがんばって続けました。中谷さんもがんばって大衆文芸評論を書きつづけました。

 中谷さん。あなたのことは、直木賞からすれば戦友と呼ばざるを得ません。

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2012年11月11日 (日)

石井英之助(『オール讀物』編集部員→六興出版社社長) 直木賞の候補にあがるような作品を次々と載せる雑誌をつくったことは、幸運か不運か。

石井英之助(いしい・えいのすけ)

  • 明治42年/1909年生まれ、昭和37年/1962年10月24日没(53歳)。
  • 昭和7年/1932年ごろ(23歳)東京商科大学卒業、文藝春秋社に入社し代理部に勤務。のち『オール讀物』編集部に移る。
  • 昭和20年/1945年(36歳)応召。復員後に〈六興出版部〉に入社。
  • 昭和24年/1949年(40歳)〈六興出版社〉雑誌編集局長として『小説公園』を創刊。
  • 昭和27年/1952年(43歳)〈六興出版社〉の社長となる。

 戦後、大衆文芸誌の世界は百花繚乱。もはや古雑誌マニアしか興味を示さないような種々もろもろの雑誌が群立しました。「大衆文芸誌」を「中間小説誌」と言い換えたっていいです。

 その数多い雑誌群のなかで、ひときわ直木賞予選委員たちに気に入られ、いくつもの候補作を生み出した雑誌。『小説公園』。河内仙介さんの息子が務めていた、ってところでも触れましたね。〈六興出版社〉の雑誌です。

 で、〈六興出版社〉は直木賞と縁の深い出版社、といえば、誰もが賛同してくれるでしょう。ならば、「(裏)人物事典」で取り上げるのは吉川晋さん。……でもいいんですが、ここはひとつ、石井英之助さんに代表してもらいましょう。直木賞候補・小磯なつ子さんの旦那だし。

 石井さんを説明するには、まず〈六興出版社〉のことを語らなければなりません。もう、この会社そのものが、大変わかりづらい経緯をもつ会社でして、たとえばwikipediaの「六興出版」の項などは、「いかにして、もっともらしく嘘をつくか」を競い合うwikipediaらしい記述となってしまっています。なので、別の文献を参照します。

 この出版社の興りについては、清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』で、かなり詳しく描かれています。なにしろ清水さん、六興出版草創期の中心人物のひとりだった、ってわけですから。

 そもそも、同社の設立に奔走したのは、当時の東宝でPR雑誌『エスエス』の編集をしていた大門一男さんだそうです。

「大門一男に出版をやってみようという気を起こさせたのはベストセラー『風と共に去りぬ』を翻訳した大久保康雄だった。大久保は『風と共に去りぬ』につづいてヘミングウェイ、デュ・モリアなどに手をつけて、翻訳書ブームを起こした三笠書房の原動力になった。(引用者中略)大久保は大門の実直な人柄を気に入って、うちとけて話をするようになり、翻訳をやりなさい、手づるがあるなら出版をやりなさい、とすすめた。それがきっかけだった。」(昭和60年/1985年4月・早川書房刊 清水俊二・著『映画字幕五十年』「12 バイブルの話はうまくない」より)

 人の縁ってのは異なものです。あるとき、大阪商船ビルの地下にあるバーで、大門さんは、商事会社〈六興商会〉の社長、小田部諦さんと知り合います。清水さんの文によると、小田部さんは「おもしろいように入ってくる金を何か意義のあることに使いたい」と言ったとか。大門さんはそこに出版事業の夢を押し込み、昭和15年/1940年、〈六興商会出版部〉ができたのでした。

「私(引用者注:清水俊二)は嘱託ということで、夕方になると、内幸町のパラマウントから(引用者注:六興商会出版部のある)日本橋まで出かけた。文藝春秋社の「オール読物」編集長香西昇、編集部員石井英之助、吉川晋もしじゅう顔を見せた。この三人は六興出版誕生前から大門一男の強力なブレーンで、大門が出版社設立の意志をかためたことにはこの三人の存在が大きくものをいっていたようだ。それにしても、この三人は天下の文春にいて、どんな不満があったのだろう。三人とも、六興出版に異常なほどの肩入れをしていた。」(同)

 出ました。石井さんです。しかし、まだそのころ石井さんの籍は文藝春秋社にありました。その後、石井さんは昭和20年/1945年3月に応召するまで、ずっと文春にいて『オール讀物』編集に携わりました。ということは、改題後の『文藝讀物』編集部員でもあったわけです。このころ、同誌の編集部員として高見順さんの家に足しげく通っていたことは、『高見順日記 第二巻ノ下』に、たびたび出てきます。

 戦火がおさまったのち、石井さんは復員しました。その直後、昭和21年/1946年2月より前ですが、石井さんは同じく『オール讀物』編集部にいた吉川晋さんといっしょに、文春を去り、〈六興出版部〉に入ります。そう、このときは社名〈六興出版部〉でした。

 なぜ彼らは文春を辞めるにいたったのか。菊池寛さんの動向と結びつける説が有力なようです。

「晋は、英治(引用者注:吉川英治が「青年太陽」を廃刊した時、菊池寛に頼んで文芸春秋社へ入社させてもらっていたが、戦後の菊池社長退陣劇に、英治は菊池に義理を立てて晋を退社させたものだった。」(昭和59年/1984年9月・講談社刊 松本昭・著『吉川英治 人と作品』「無常こそ、わがテーマ」より)

 もしも菊池さんがあのまま文藝春秋社をやっていたら、石井さんも吉川さんも、文春に残っていたのかもしれません。〈六興出版部〉に拾われた、と言って言えないことはないでしょう。六興は六興で、旧社員たちによる再建が始まっていたころでした。小田部さんの後を継いだ二代目社長、矢崎義治さんを中心に。

「小田部社長の死後、次席だった矢崎義治氏が後継者として采配を揮い、機械だけでなく、つくだに、たらこ、ウイスキー、釘、布団、蚊帳、たきつけと、何んでもござれ商っていた。こうして着々資本を蓄積、出版への野望を燃やしていたのであるが、その頃、入ってきたのが文芸春秋社員だった石井英之助氏と吉川晋氏(吉川英治氏令弟)である。矢崎氏と友人関係にあったからである。

 当時文芸春秋社は社長菊池寛氏の追放をめぐって嶮悪な空気が立ちこめていたときで、菊池氏に加担する石井、吉川両氏が同社を去ることは、菊池氏としては非常に淋しかったと見えて六興入社の挨拶に行くと、例の小さな童眼をしょぼしょぼさせて、「向うに行って食えるかい? 食って行けるならいいけれど……」と行末を案じたものである。」(昭和29年/1954年6月・学風書院刊 山崎安雄・著『著者と出版社』「六興出版社と吉川英治」より)

 ここで吉川英治の弟、吉川晋さんの入社したことが、運のツキだったのかもしれません。

 〈六興出版部〉は新潮社が出していた吉川英治・著『新書太閤記』を、ガッツリ手中に収めて出版。増刷増刷の大にぎわい。さらに、講談社の吉川英治・著『宮本武蔵』も、すったもんだのいざこざの末に、ゲットに成功。増刷増刷の大にぎわい。

「営業担当だった青木武は語る。

(引用者中略)吉川英治先生の『宮本武蔵』『新書太閤記』で儲けた利益で雑誌が持てた。六興の経営に先生から資金が出たことはないと思う。」」(昭和60年/1985年8月・新潮社/新潮選書 木本至・著『雑誌で読む戦後史』所収「吉川英治後援の豪勢な中間小説雑誌 小説公園」より)

 昭和24年/1949年には正式に社名を〈六興出版社〉と変更。雑誌編集局長に石井さんが、編集長に吉川晋さんが就き、鳴り物入りで『小説公園』を創刊することになるのです。

 お待たせしました。六興がついに直木賞とねんごろな関係になります。それは、つまり、六興凋落の道でもありました。おお。貧乏神・直木賞の神通力、すさまじ。

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2012年11月 4日 (日)

北上次郎(ミステリー評論家) 「直木賞をとったものには、もう興味ない」。というのは、直木賞病のひとつの症状です。

北上次郎(きたかみ・じろう)

  • 昭和21年/1946年10月9日生まれ(現在66歳)。
  • 昭和45年/1970年頃(23歳)明治大学文学部卒。いくつかの会社に就職するが長続きせず。
  • 昭和51年/1976年(29歳)『本の雑誌』創刊、同誌の発行人となる。
  • 昭和58年/1983年(36歳)『冒険小説の時代』(集英社刊)刊行、以後著書多数。

 まずは肩書きのハナシから。これまで取り上げてきた人同様、北上次郎さんの場合も、なかなか肩書きをつけるのが難しい人物です。ここでは目黒考二・著『一人が三人――吾輩は目黒考二・藤代三郎・北上次郎である。』(平成12年/2000年7月・晶文社刊)にある「著者について」の記述をそのまま使用しまして、「ミステリー評論家」と付けさせてもらいました。他意はありません。

 いや、他意はやっぱりあります。北上さんを、たとえば「文芸評論家」としてもイイんでしょうが、何といいましょう。「文芸評論家」っていう五文字からは、メジャー観、本流観、正統観みたいなものを感じてしまうのです、ワタクシ。

 そもそも北上さんを、なぜ直木賞専門ブログで取り上げるのか。北上さんは特別、直木賞に関する言及の多い人ではありません。というか逆に、あまり直木賞をとらないような本を猛烈プッシュしてきた方です。

 いわば、「文芸? んなもん、しゃらくせえぜ」の匂いが、(一時期の)北上さんの文章からは存分に発散されていました。そういう方に「文芸評論家」の肩書きをかぶせるには、どうしても違和感があります。

 直木賞を文芸の、大衆文芸の本流と見なす向きには、北上さんの選書眼って、まるでそんな流れとは無縁なものに見えるに違いありません。北上さん自身、べつに直木賞のことなど意識していないのは事実でしょう。

 しかしワタクシは、どうしても直木賞を念頭に置いてしかモノを考えることのできない直木賞病重症患者です。そんなワタクシの目から見ると、北上さんも、やはり直木賞の関連人物としか見えないのです。

 たとえば北上さんは、第117回直木賞受賞作の篠田節子『女たちのジハード』を大・大・大援護しています。なのに年度ベスト10のなかには入れようとしません。そんな北上さんの姿勢を見るにつけても。

 要は、なるべく光の当たらないものにこそ光を当ててみせたい北上さんの心理が、直木賞と微妙に重なったり、離れたりして垣間見える、と言いますか。

「現代ミステリーの一部の作品が普通小説にかぎりなく接近して、各賞を席巻しているとのは他誌で書いたのでここでは繰り返さないが、皮肉なことにその普通の現代小説は、ミステリーやSF、ホラー小説、時代小説などのジャンル小説と違って、なかなか注目を集めにくい。つまり、ミステリーから接近した普通小説は注目を集めても、もともとの普通小説は死角に入っているのである。(引用者中略)

 ではどういうものを普通小説というのかというと、具体的に言えば、篠田節子『女たちのジハード』である。(引用者中略)

 篠田節子『女たちのジハード』は直木賞を受賞した作品であるから、全然、埋もれていないし、可哀相でもない。したがって、普通小説だって注目を集めてるじゃないのと言われるかもしれないが、これは特例であることも書いておいたほうがいいだろう。直木賞受賞作で、中身も本当にいい作品は最近珍しいのだ。なにしろこの賞は、過去に宮部みゆき『火車』と、浅田次郎『蒼穹の昴』を落とした前科があるのだから、九七年は例外と思えばいい。

 しかし、九七年度の一位に『女たちのジハード』をあげることにはやはり抵抗がある。もうこれだけ注目を集めているんだもの、できれば違う作品にスポットライトを浴びせたい。」(『一人が三人』所収「エンターテインメント・ベスト10 一九九七年度」より)

 本来の〈普通小説〉が埋もれてしまって可哀相、でも〈普通小説〉の傑作『女たちのジハード』は直木賞をとって十分に認められたし、ほかの作品を挙げなければ可哀相、……。という姿勢。北上さんのおすすめ法の根底には、どれもそんな心境があるみたいです。

 で、直木賞オタクの視点から、ちょっと上の引用文を見返してみます。

 たしかに北上さん、直木賞の「前科」に触れていて、直木賞に対して厳しい意見を言っているようにも見えます。ただ、ほら、直木賞ほど〈普通小説〉に寛容で、かつ世間にスポットライトを浴びせる力を備えた賞は、他にはないよなあ、とも思ってしまうのです。

 赤瀬川隼『白球残映』、海老沢泰久『帰郷』、出久根達郎『佃島ふたり書房』、伊集院静『受け月』、ねじめ正一『高円寺純情商店街』、と平成9年/1997年から数年さかのぼっただけでも、〈普通小説〉の受賞作はボロボロ出てきます。これらに替わって、全部の回の直木賞が、ミステリーや時代小説ばかりに与えられていたら、北上さんはいったいどんな感想を抱いたことでしょう。

 北上さんはともかくとして、ワタクシはそんな偏向した直木賞、イヤです。読者の興味が「ミステリー風の日常小説」に移ってきたからといって、時代の空気を読んで、そんな受賞作ばかりを生んじゃう賞になど、魅力は感じませんもん。

 まあ、1980年代の冒険小説隆盛のころからしばらく、まるでそれらジャンルを認めようとしなかった直木賞の頑固さは、やりすぎの感がなくはありません。胡桃沢耕史さんには『黒パン俘虜記』よりも前の、ヘンテコリン小説で直木賞をとってほしかった、と胡桃沢さんのためにも、直木賞のためにも、悔まれます。

「胡桃沢耕史『天山を越えて』は不思議な小説だ。(引用者中略)

 この著者の小説は、特に直木賞受賞前の作品にこういう不思議な味わいの作品が多い。他の作家が考え得ないホラ話すれすれの物語と言ってよく、その自由奔放な小説は小さくまとまった小説が多い中では大変爽快である。(引用者中略)

 胡桃沢耕史は直木賞受賞作『黒パン俘虜記』より、受賞前のこれらの作品のほうが段違いにすぐれている。」(平成9年/1997年11月・本の雑誌社刊 北上次郎・著『面白本ベスト100』所収「波瀾万丈小説 ホラ話すれすれの奇妙な物語」より)

 ですよね。段違いにすぐれているはずの小説を落として、シマッタとあわてて次の候補作に賞をおくる直木賞。何度指摘されても、いつまでも同じことを繰り返す直木賞。どんくさくて、オチャメで、ほんと憎めないやつです。大目にみてやってください。

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