川崎竹一(『文藝通信』編集部員) 直木賞・芥川賞が創設されるきっかけになった記事を書いたのは私だ、と言った男。
川崎竹一(かわさき・たけいち)
- 明治37年/1904年3月23日生まれ、昭和57年/1982年4月28日没(78歳)。
- 昭和4年/1929年(25歳)九州帝国大学仏文科卒業。文藝春秋社入社。
- 昭和6年/1931年(27歳)『オール讀物』(『文藝春秋オール讀物號』)創刊、編集メンバーに加わる。昭和7年/1932年に『文藝春秋』編集部へ異動。
- 昭和8年/1933年(29歳)『文藝通信』創刊。時期不明ながら編集メンバーに加わる。『文藝通信』は昭和12年/1937年に廃刊、『文學界』に合併される。
- 昭和14年/1939年(35歳)『文學界』編集長ののち、調査部長(昭和15年/1940年)。
- 昭和19年/1944年(40歳)文藝春秋社を離れ、フランス文学者として著述業に就く。
直木賞をつくった面々のひとり、永井龍男さんを太陽とするならば、川崎竹一さんは月でしょう。いや。ほとんど光量がないため、望遠鏡でも肉眼では確認できないくらいかもしれません。
なにせ、チョイ役ぶりが甚だしいです。たとえば永井さんの残した直木賞・芥川賞に関する回顧文では、その名前は触れてさえもらっていません。
「その年(引用者注:昭和9年/1934年)の十月初め、東京新聞社の裏手にあった花の茶屋で新年号の編集会議が行われ、席上菊池寛の意中にした芥川・直木賞の実施が発表され、翌日からわれわれ部員は細則の検討に、両賞銓衡委員の選定に依頼に、持ち場をさだめて動き出した。なお、両賞の事務一切は常任理事という体裁のよい肩書をもらった私の担当ということになった。(引用者中略)
創設された芥川・直木賞の事務一切が、編集部員のかたわら私の担当であった。数ある同人雑誌を整理し眼を通し、それぞれ気難しい委員達の通読をもうながさなければならなかった。委員会の会場の取り決めから、正賞の時計を購入することも役目で、財団法人の規約に従う記帳や、委員の送迎、選評の編集と、佐佐木茂索専務が几帳面だっただけに、私はよく働いた。昭和十七年頃、満洲文藝春秋社創立のために、新京へ渡るまで、一人で事務を処理したが、この仕事に関する限り私は心残りを持っていない。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より ―初出『文學界』昭和53年/1978年1月号~12月号 下線太字は引用者によるもの)
ええと、「一人で事務を処理」っていうのはどういう意味でしょうか。ほんとに誰の手も借りずにやったのか。それとも、何人かで手分けしたけれども、自分が担当責任だったから、我ひとりの仕事だと言っちゃっているのか。わかりません。
おそらく、昭和52年/1977年に植田康夫さんが「芥川賞裏話」(『創』昭和52年/1977年3月号)において、川崎竹一さんの回想を紹介しておかなかったら、いまでもすべて永井発言のみが信用されていたことでしょう。
植田さんは言います。……菊池寛がそもそも直木賞・芥川賞をつくろうと思った動機のひとつに、川崎さんが『文藝通信』に書いた海外文学賞事情の記事があったのだと。菊池は、この記事を読み、日本にも権威ある文学賞をつくって作家の育成に当たるべきだと書いてあったことを「いい提案だ」と褒めたうえで、川崎さんに賞創設の準備を進めるように指示したのだと。
もしこれが本当なら、永井回想はとんでもなく重要な部分を端折っていることになります。いったい、この両説の掛け違いは何なのでしょうか。
……ってことで、植田さんの紹介文に頼っていてもラチが明きません。川崎竹一さんの発表した原文を見ることにしましょう。『東京新聞』昭和47年/1972年7月18日夕刊に載った「芥川・直木賞創成記」です。
本当は全文引用したいところですが、そうは行きません。重要な箇所だけかいつまみながら引用してみます。
「これは、現代の日本文学発展史のために書いておかなければならないことの一つである。
(引用者中略)
菊池寛は、芥川・直木賞制定について、文芸春秋の「話の屑篭」の中に、次のように書いている。
……いつか「話の屑篭」に書いて置いた「芥川」「直木」賞をいよいよ実行することにした。主旨は亡友を記念する旁々、無名、若しくは無名に近き新進作家を世に出したい為である。だから芥川賞の方は、同人雑誌を主として詮衡するつもりである。また広く文壇の諸家にも候補者を推薦して貰うつもりである。……(原文のまま)
こうして日本文学振興会の名のもとに芥川・直木賞は発足した。
(引用者中略)
昭和八、九年ごろから十一年ごろまで、文芸春秋には、付録的な小冊子の「文芸通信」がついていた。
作家や匿名の作家や、ジャーナリストたちが、文壇の批評やニュースなどをゴシップ的に気軽に執筆したもので、菊池寛の発案によるものだった。その記事の中には、社中同人の私や、永井龍男(作家)などの執筆や匿名記事も入っていた。
そのころたまたま「文芸通信」を担当した私は、昭和九年のある号に、フランスの文学賞のゴンクール賞や、スウェーデンのノーベル文学賞など、海外の世界的に権威のある文学賞と、世に出た作家のことを紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設けて、なぜ作家の育成と文学の隆盛を大いに進めないのか、と、アジテートするような短い記事を「文芸通信」に書いた。
ところが、この記事を読んだ菊池寛が、自分もかねて、そういう腹案を持っていたらしく、「これはいい提案だから、早速実現しよう。ついては、文学賞の設定、発表と共に、すぐに発足の準備がいる。まず、社中で、準備委員会を作り、また、賞の選考委員には、熱心な作家を十人ほど依頼したい。早速とりかかってくれ」といった。
そこで、私や永井君など数人が、準備委員に指名されて、活動をはじめた。
賞の選考委員の中で、若い人の作品や、同人雑誌に通暁していた、瀧井孝作と今の文芸春秋の前社長の佐佐木茂索や、菊池寛と親しかった久米正雄などを、特に協力者にたのみ、数多い同人雑誌、文学雑誌、その他、半年間に発表された小説類を社中で予選し、専門委員にはかった上で、候補作をおよそ十編ほどにしぼって、選考委員に作品を回し、いよいよ会議に上程して、会を重ねていった。
選考委員会の熱心な討議の席で、会の進行を受け持っていた私や永井龍男は、白熱の議論や採決の場で、手に汗を握る思いをしたことがたびたびだった。」(川崎竹一「芥川・直木賞創成記」より)
まず、この文章からわかることがあります。川崎さん、おそらく原典に当たっていないか、当たっていても勘違いしたまま書いているなあ、ってことです。
例を挙げてみます。川崎さんがわざわざ「原文のまま」として引いている菊池寛の文は、「話の屑籠」に書いたものではありません。『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号の「芥川・直木賞宣言」記事に菊池が寄せた「審査は絶対公平」のなかの文章です。
また、「日本文学振興会の名のもとに」発足した、というのも間違い。当時はまだ、そんな名前の組織は存在していませんでしたから。
かような川崎文を、いったいどこまで信用していいのか、と疑いながら読み進めると、問題の『文藝通信』の「短い記事」の件が出てきます。
調べました。『文藝通信』創刊号(昭和8年/1933年10月号)から昭和9年/1934年12月号までを。……見当りません。海外文学賞について、ノーベル賞、ゴンクール賞やその受賞者を合わせて紹介した文など、どこにも。ただ、私の見落としの可能性もありますので、見つけた方はぜひご教示ください。
さて、見当りませんと言いました。しかしです。「フランスの文学賞のゴンクール賞や、スウェーデンのノーベル文学賞など、海外の世界的に権威のある文学賞と、世に出た作家のことを紹介した」記事が、同誌に載っていないわけではありません。載ってはいますが、それは昭和10年/1935年2月号なんです。直木賞・芥川賞の制定が発表されたあとです。
「世界文学賞物語」と題された無署名のものです。こちらは別サイトに、全文を写しておきました。ご興味があればご参照ください。
上記「世界文学賞物語」も、いくつか間違いの散見される記事なんですよね、ってことがまた、川崎さんの手による感じを匂わせています。
それはそれとして。川崎さん自身、「昭和九年のある号」と書いているほどです。実物を確認しなかったんでしょうか。40年近く前のことを、記憶にたよって書いた。そう見るのが自然でしょう。
そして記憶には、当然ながら脚色が混じります。意識的に、無意識的に。
○
永井龍男さんの回想をいま一度、確認してみましょう。菊池社長から下じもの者に、賞制定の意思が発表されたのは、昭和9年/1934年10月初めだとあります。編集会議の席上だったそうです。
仮に、川崎さんの回想文から、「これはいい提案だから、早速実現しよう。」っていう一文を取ってみてください。そのまま菊池寛が10月初めの編集会議で言ったものと解釈して、何ら不自然さがありません。
どうも川崎さんの頭のなかで、昔のことがゴッチャになっていたのではないか。「世界文学賞物語」の記事が、菊池さんから褒められたのは事実かもしれません。しかし、それが両賞制定をうながす動機になった、と見るのはチト(大いに)苦しいのではないでしょうか。
いっぽうの永井さんも永井さんです。そりゃあ、菊池や佐佐木茂索に認められて、両賞の事務担当を拝命したのは事実でしょう。だけど、川崎さんや他、数名の準備委員の名前をまったく挙げないのはどうかと思います。
ちなみに永井さんと川崎さん。生まれは同じ明治37年/1904年ですが、文春への入社は永井さんのほうが早く昭和2年/1927年でした。昭和9年/1934年当時は二人とも30歳の中堅社員(川崎さんは「社中同人」なんて表現を使っていますが)でしたが、出世というか地位というか、より重用されていたのは永井さんのほうが一枚も二枚も上でした。すでに『オール讀物』『文藝通信』の編集長ポストを任された経験があったんですもの。対して川崎さんのほうは、ずーっと諸誌の編集部員扱い。
川崎さんは、「私や永井龍男」といった言い方をしています。ううむ。実態としてはやはり永井さんのほうが、役職上では偉くて、先輩と後輩、もしくは上司と部下、エリート社員と非正規の同人、といった関係性だったに違いありません。
想像を逞しくすれば、そのあいだにあった競争意識、敵対心、プライド、もろもろ漂っていたかもしれないなあ……とハナシは広がりそうですが、両者の回想からそこまで指摘するのは無茶なので、止めておきます。
いずれにしても。直木賞・芥川賞の創設を、菊池寛ひとりの手柄と見るのは論外としても、佐佐木茂索さんがいたってまだ足りず、その下にいた永井龍男さんの働きは大きかったでしょうが、川崎竹一さんをはじめ、本エントリーでは名前を挙げられなかった「準備委員会」メンバーの存在がなければ、昭和9年/1934年12月初旬の、両賞創設発表は実現できていなかった、ってことです。そのことだけは忘れたくないもんです。
最後に。先に紹介した植田康夫さんの「芥川賞裏話」は、『芥川賞の研究――芥川賞のウラオモテ』(昭和54年/1979年8月・日本ジャーナリスト専門学院出版部刊)に収録されています。ワタクシも非常に参考にさせてもらうことしばしばなんですが、当然、川崎竹一さんの記事も、参考文献として記載されています。このように。
「川崎竹一「芥川・文学賞創成記」(東京新聞昭和四十七年七月十八日)」
……。いくら芥川賞が主役だからって、この誤植、あんまりじゃないですか。
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コメント
今日は~^^またブログ覗かせていただきました。よろしくお願いします。
投稿: グッチ 財布 | 2012年10月16日 (火) 20時10分