見城徹(角川書店編集者→幻冬舎社長) 「直木賞製造マシーン」の異名から放たれる腐臭に耐えられず、早々に直木賞の枠から脱出。
見城徹(けんじょう・とおる)
- 昭和25年/1950年12月29日生まれ(現在62歳)。
- 昭和48年/1973年(22歳)慶應義塾大学法学部卒。廣済堂出版に入社。
- 昭和50年/1975年(24歳)角川書店に入社。『野性時代』編集部に在籍。のち昭和60年/1985年より『月刊カドカワ』編集長。
- 平成5年/1993年(42歳)幻冬舎を設立。社長となる。
編集者って存在は、なかなか表に出てこないものです。直木賞の受賞作や候補作に関わった編集者は、何百といるはずですが、現在よく知られている名前はごくわずかに過ぎません。
そのなかで、直木賞×編集者の視点でみたとき、言及数、メディア露出数などでトップクラスに入るのが見城徹さんでしょう。直木賞は作家のためだけに存在する大看板ではないぞ!ってことを、これほど世に知らしめた人が、他にあったでしょうか。
「昭和50年角川書店入社。『野性時代』の編集部に9年間在籍する。その間つかこうへい、村松友視、山田詠美など、5人の作家の直木賞作品を担当した。業界で付けられたあだ名が“直木賞製造マシーン”。」(『十人十色』平成3年/1991年3月号「ベストセラーの仕掛人 月刊カドカワ編集長 見城徹」より)
そう。昭和50年代から昭和60年代。直木賞の舞台に、ドーッと角川書店の小説が候補作として登場した時期がありました。
そのうち見城さんは、有明夏夫『大浪花諸人往来』(第80回 初出『野性時代』)、つかこうへい『蒲田行進曲』(第86回 初出同)、村松友視「時代屋の女房」(第87回 初出同)、山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』(第97回 初出『月刊カドカワ』)、景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回 初出『野性時代』)の5つの受賞作を担当したんだそうです。
この時期、候補になった角川書店刊行作または『野性時代』掲載作はまだまだたくさんあります。そのうち、つかこうへい「ロマンス」「かけおち」「ヒモのはなし」(第82回)、村松友視の「セミ・ファイナル」(第85回)と「泪橋」(第86回)、林真理子「星影のステラ」(第91回)のほか、直木賞落選作のいくつかも担当していたはずですが、落ちたハナシは葬り去られる運命なので、詳細は不明です。
で、ワタクシとしてはまず、最初の担当作(だったはず)の有明夏夫さんのことから始めたいところです。しかし残念、これも詳細は不明なのですよ。とにかく見城さんを取り巻く文献は、景気のいいハナシか、有名人との交流譚が多すぎるんですよねえ。有明さんのような地味な人は埋没してしまっています。泣く泣く今回は有明さんとお別れしまして、つかさんとのハナシを少しだけ。
つかさんに『つかへい腹黒日記』っていう本があります。『夕刊フジ』に連載されていたうち、一部を収録したものですが、単行本では冒頭、えんえんと見城さんとのやりとりから始まります。『蒲田行進曲』という題名に関する丁丁発止の口論。芝居がかった虚実あいまいなとこが、この日記の真骨頂です。
「見城は(引用者中略)『蒲田行進曲』という題名のもつ運の強さを力説して、
「『銀ちゃんのこと』なんて地味な題名より、絶対に売れます!」
とギョロ目をむいて、ぶ厚い唇からツバを飛ばして言った。
さすがオレも芸術家らしく、このときばかりは札を数える手が止まった。
「バカヤロウ、売れる売れないは関係ないんだ。文学をやるんだ、オレは。いいか、オレは行動すると派手だから、題名は地味でいいんだ。四の五の言わずに言った通りにしろ!」
と、本来のオレのアカデミックな生きざま、その高尚なる文学観を知らしめんものと怒鳴りつけた。が、見城はここぞとばかり、
「ケッ、なに言ってんの、売れなくて何の文学よ。アンタ、ほんとは金ほしいくせに、カッコつけんじゃないよ」
と、オレに向かってくる。」(昭和57年/1982年8月・角川書店刊 つかこうへい・著『つかへい腹黒日記』より ―初出『夕刊フジ』昭和57年/1982年2月16日~3月10日「つかへい犯科帳番外篇」を改題加筆)
「売れなくて何の文学よ」。見城さんのセリフがピリッと効いています。30年たった今読んでもまるで違和感がありません。見城さんのその後の一貫した姿勢のおかげです。
「篠原(引用者注:篠原進) 文学を商品として戦略化したのが八文字屋なんです。その文脈に添って言えば、本は売れなければ意味がないし、どんなきれいごとを言っても売れないと意味がないと思うんです。
見城 そうです。文「学」なんてつけるからおかしいんです。」(平成20年/2008年12月・太田出版刊 見城徹・著『異端者の快楽』所収「幻冬舎は現代の八文字屋か」より ―初出『西鶴と浮世草子』1号[平成18年/2006年6月])
おそらく、こういう思考の方にとっては、直木賞なんてものは実は大して意味のないものに違いありません。直木賞は、売れようが売れまいが、格別な痛手を被らずに粛々と続けられていくシロモノですからね。
ある時期、見城さんが目をつけた新人作家が、何人か直木賞をとって売れる小説を書くようになった、というだけのことです。基本、見城さんの考える「売れる小説を生み出すための装置」の役目は、直木賞にはありません。
少なくとも、直木賞は創設からン十年間は、なにがしかの権威は保っていたかもしれませんが、受賞作が売れる、なんて世界からはおよそ遠い世界にありました。おそらく見城さんが、直木賞を運営していたら、とっくに廃止していたかもしれない、っていうほどです。
ホラーサスペンス大賞の短い命を見るにつけ。
「あの強気で知られる幻冬舎の見城徹社長が、壇上で肩を落としていた。
「ピナ・バウシュがクラシックバレエの基礎を押さえた上で、まったく違うものを踊るように、やはり作家も、オーソドックスなものが書けてこそ、新しいものが書ける。そういう新人を育てる努力を怠っていたかもしれない」
新潮社、テレビ朝日との共催で2000年にスタートした新人賞「ホラーサスペンス大賞」は、総額1300万円という当時最高クラスの賞金と、ライバル同士の出版社が垣根を越えて手を組むという話題性で注目されたが、わずか6年で幕を下ろした。見城社長の“敗戦の弁”は、その最後の授賞式でのものだ。
「要は、ベストセラーを出せなかった」と担当編集者の一人。」(『読売新聞』平成18年/2006年3月3日夕刊「金曜コラム 「受賞作なし」も勇気」より ―署名:石田汗太)
直木賞といえば、蝸牛の歩みと言いますか、思われているほど大した即効力を持たない軟弱者と言いますか。飽きっぽくて、常に転がり続けていないと気が済まない見城さんに、ついていける脚力もありませんでした。
短いお付き合いでした。直木賞の世界に現れたスーパー編集者、見城徹さんは、ほんの10数年で直木賞を引き離し、別のところに旅立っていくのでした。
○
見城さんが平成5年/1993年、角川書店を退社し幻冬舎を興すに至った経緯のなかで、角川春樹さんの逮捕、といった他に語られる理由のなかに、直木賞のこともチラッと出てきます。
「人間は、年を取ったり社会的な地位や評判が上がってくると、なかなか自分をゼロに戻すことができなくなる。現状維持がいちばんラクだからね。自分をゼロに戻すのは極めて難しい。僕自身、そうした危機感をずいぶん前から覚えるようになっていたんですよ。このままではいい仕事はできなくなる。売れる本を量産し、直木賞作品を五つ生み出した自分は、その名声に少なからず酔っていた。「角川の見城」というブランドに寄って来る人間に笑顔を見せている。
その時、自分が腐っていることをいつも感じていた。吐き気すら催すほどに、「このままじゃ駄目だ。自分をゼロにして、また新しい一歩を踏み出さなければ」と、心の中で叫んでいた。」(平成19年/2007年3月・太田出版刊 見城徹・著『編集者という病い』所収「見城徹の編集作法」より ―初出『編集会議』平成15年/2003年6月号 太字下線は引用者によるもの)
おお、見城さん。あなたが、たかが5つの直木賞作を生み出しただけで、名声に酔って腐っている、というのなら、70ン年間直木賞作を生み出し続けて名声に酔ってきた直木賞そのものは、どれほど腐っているというのですか! 腐り切って異臭を放ち、無惨な姿をさらけ出しながら、そこにウジ虫がたかっている、って感じでしょうね。ワタクシのようなウジ虫が。
……そのハナシは措いとくとしまして、まっさらな気持ちで新たなスタートを切った見城さん。幻冬舎が続々と放つ文芸書は長いこと、直木賞の場で冷や飯を食いつづけることになります。もはや自分の考える路線は、直木賞なんて枠とは別モノなんだ、といった発言を繰り返すことになるわけですが、たとえば『永遠の仔』について。
「僕にとっては作品としてよくできているか、大事なものが描けているかどうかというのが一番大事なことなわけで、体裁が整っているかどうかは、あまり意味がないんです。たとえば、『永遠の仔』という作品は芥川賞にも直木賞にも無縁だったですけれども、あれだけ大きなテーマ、つまり生きるということの根幹に触れている作品を描けるというのは大変なことですよ。確かに何らかの欠陥はあるかもしれません。文章が長すぎるとか、説明過剰、まだるっこい、あるいは十二歳の子どもがこんなふうにものを言わないなどとも言われましたけれども、そんなことを全部取っ払っても、あれほど生きるという大切さに触れている作品をほかの誰が描けるかと思う。でも、それを芥川賞的な目から見たら、粗いとか、余分な表現が多すぎるという評価になってしまう。」(前掲『異端者の快楽』所収「震える魂のありかを求めて」より 対談相手:石原慎太郎 ―初出『東京の窓から日本を3』平成15年/2003年4月)
こらこら、『永遠の仔』を落選させた名誉を、勝手に芥川賞のほうに与えないでください。直木賞ですよ第121回直木賞。
直木賞と芥川賞をいっしょくたに語る、という見城さんの姿勢が意識的なのか無意識なのか、よくわかりません。ただ、それぞれの賞を分化して語らないところが、もはや見城さんが両賞の腐り切った現場から立ち去ったことを、如実に示している気もします。基本、直木賞だろうが芥川賞だろうが、どっちでもいいことですからね。本を売るためには。
「見城 僕は芥川賞と直木賞が、出版のクオリティを保ってきたことは凄いことだと思っていますが、逆に出版をダメにしているところもあると思うんです。
篠原 幻冬舎でとりたいと思わないですか?
見城 いただけるなら、とりたいですよ。
篠原 運動すれば、とれるのじゃないですか?
見城 それはとれないですよ。レコード大賞とは違うんです。幻冬舎は新参ということもあってなかなかとれない。
(引用者中略)
見城 芥川賞、直木賞の作品というのは国民的賞になっているのに、まったく時代の「ひりつき」を反映していなかったりする。人の営みを描いていないか、または人の営みを描いても面白くもなんともないという作品が選ばれたりするから、どんどん小説というのは売れなくなっていくんだと思います。
篠原 でも幻冬舎が出した本にくれるといったらもらうのですか?
見城 もちろんですよ。それは商売としてそのほうがぜんぜんいいからもらう。ただ僕はいろんなところで言っています、活字にもなっていますけれども、芥川賞、直木賞を棚上げする、その気概がなければ、幻冬舎の将来はないと。幻冬舎の出しているものが本当に面白い小説なのだと言われない限り、幻冬舎の先はないというふうに思ってますよ。」(前掲「幻冬舎は現代の八文字屋か」より)
今さら何を言っているんだ、って感じではありますが、正論でしょう。直木賞なんて旧弊の枠組みにかかずらわうより、新しいことにどんどんチャレンジしていくほうが、見城さんにはお似合いです。
さようなら見城さん。またいつか会う日まで。
| 固定リンク
« 溝川徳二(『芥川・直木賞名鑑』編者) 直木賞は文芸の世界のためだけのものではない。みんなのものだ。 | トップページ | 川崎竹一(『文藝通信』編集部員) 直木賞・芥川賞が創設されるきっかけになった記事を書いたのは私だ、と言った男。 »
「直木賞(裏)人物事典」カテゴリの記事
- 尾崎秀樹(大衆文芸評論家) 大衆文芸研究界ですら傍流の「直木賞研究」にまで、熱いまなざしを向けた稀有な人。(2013.06.09)
- 小野詮造(文藝春秋新社・事業調査部長→『オール讀物』編集長) 50年代の「直木賞黄金時代」の中枢にいた名部長、名編集長。(2013.06.02)
- 長谷川泉(「直木賞事典」編集人) 芥川賞は芥川賞のことだけで語れます。直木賞は、芥川賞といっしょでないと、語ることなどできないのです。と。(2013.05.26)
- 平野謙(文芸評論家) 「純文学の変質」を語っていたら、ちょうど直木賞・芥川賞の受賞作の境界があいまいになったので大喜び。(2013.05.19)
- 進藤純孝(文芸評論家) 純文学の変質を語るときに、大衆文学の代表、という役を直木賞に当てはめる。(2013.05.12)
コメント
1年9か月かけて執筆の家康と側室お万の方の目次を大河小説 徳川家康側室 養珠院お万お方(蔭山殿)
「命燃ゆる=家康公の寵愛を一身に」 安藤三佐夫
戦国時代末期より徳川時代の初期、一所懸命の武将たちの離合集散に一家の平穏を奪われた勝浦城主正木家の姫君は、伊豆三島の宿で家康に見染められて大奥に入り、紀州と水戸徳川家の藩祖をもうける。
養珠院お万の方の波乱の生涯を記録と伝承をもとに想像力豊かに描く。なお、お万の方は、法華経日蓮宗の熱心な庇護者として現在も崇敬されている。
2011年12月18日 ~2013年9月22日| 記
第一部
「お母上さま」
目を覚ました養珠様は、握りしめた手のひらが汗にびっしょり湿っていた。
布団の中で今見た夢を思い出すのだった。
それは、幼いお万さまが、母に抱えられて、断崖絶壁を降りていく。
「しっかりと捉まっているのですよ」
いつもは、もの静かで、優しい声の母様が、とても厳しい声で、強くお万様を抱きしめた。
眼下には、太平洋の荒波が、走る馬のたてがみのように沖から磯辺に向かって寄せては返していた。海は満月の光を浴びて、白銀のような美しさだったが、何か恐ろしいことが起きたのではないか、と小さな胸にも感じられるのである。
「お目覚めでございますか」
お付の女中が、ふすまの外から声をかけたので、夢であることに養珠様は気付いた。
「おお、そうじゃ。今日は、水戸の松坊が来る日であった」
紀州家の隠居所に住む養珠様は、孫たちと遊ぶのを楽しみにしているのであった。
お万布さらし
三つとせぇ
身の毛もよだつ絶壁を
布をさらしてお母さま
背負うて城を抜けいだす
母上様は、しめておられた腹帯を崖の上の松の木に結ぶと、それに取りすがり、お万さまを背負って、目もくらむ真下の磯辺へ降りて行かれた。下には、小舟が用意されていて、腕の立つ漁師が二人、待っていた。
「さあ、はようお乗りなされ!奴らが攻めて来ますぞ」
大多喜城で一族の正木憲時の内乱がおきて、太田新六郎などが討ち死にして、味方は南の里見の領地へ落ち延びて行くと言う。早くしないと、この勝浦城にも押し寄せるかも知れないので、女たちが先に逃げることになったのである。
小舟は、大波にもまれて、木の葉のようにゆうらりゆらりと沖を目指して乗り出した。
振り返ってお城を見ると、折からの満月に照らされて、母さまの腹帯が白く、滝のように下がっていた。
勝浦の城下の者たちは、幼いお万さまが無事に鴨川の浜へ着くようにとお祈りしたそうだ。
それからは、月見のお供えの団子や芋などを縁側に供える習わしを取りやめてしまったほどだ。
それは、かわいい盛りのお万さま四歳、天正八年の満月の夜のことであった。
=目次=
第一部
鴨川の波太(なぶと)浜へ上陸 松坊(幼い水戸光圀)と
仁右衛門島に隠れる母子 帰り路に―日蓮ゆかりの寺院
勝浦城にもどる お万さまの成長
城中の新年祝賀 勝浦城下の根小屋市
房総の地に戦乱が起こる 長狭街道から保田へ
長狭路を行く 磨崖仏のお顔
保田の海と猟島 保田の朝―鯨が上がる
風待ち、潮待ち 三浦岬に渡る
油壺の海 小田原の町
兄為春の元服の祝い 伊豆に逃れる母子
村人の訪問 小田原城落城
河津の里を去る 天城峠を越えて、吉奈の湯宿に
吉奈の湯宿 お父上のお帰り
愛の目覚め 妙国寺の灌仏会(花まつり
木苺の熟すころ お父上の話
第二部
家康公の書状 三島の本陣
家康公のご接待 箱根路を越え、小田原宿へ
太閤一夜城 再会―小田原の宿
東海道を江戸城へ 江戸築城の歩み
お梶の方に再会 部屋子たちの腕くらべ
お万の方(蔭山殿) 駿府城に立ち寄る
顰め顔の肖像画 岡崎の宿で
築山殿と長男信康君 京の都へ入る
家康公のお尋ねに お茶会―古田織部殿との出会い
第三部 関ヶ原の戦い前夜
家康公の行列 将棋の駒
金山奉行大久保長安 江戸城と町づくり
太閤秀吉の死
秀吉の遺言状(慶長三年八月四日)
秀よりの事、なり立ち候やうに、此かきつけしゆへ、しんにたのみ申候。
なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。
太閤
いへやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと(毛利輝元)かけかつ(上杉景勝)秀いへ(宇喜多秀家)
返々、秀より事、たのみ申候。
五人のしゅ、たのみ申候。いさい五人の物に申しわたし候。
なごりおしく候
※この時、秀頼様は、6歳であった。
読み終わると、家康公は、しばし眼を閉じられておられたが、おもむろにこう言われた。
「いかがであろう。亡き太閤殿は、秀頼様を皆の衆で支えられよと言う思し召しである」
「左様とお聞き申しまする」
大老たちは、口々にこう申されると、互いにうなずき合った。
江戸城に家康公の書状が届けられたのは、その後、十数日を経ていた。
「阿茶と、万は、急いで伏見へ 家康」と書かれていた。
太閤秀吉の遺言
家康公は、秀吉様側近の石田三成を呼び出して
「太閤殿のご遺書は、おありかな」
と、お尋ねになられた。
「ははっ、これに御座りまする」
三成様は、かねて用意してあった漆塗りの文箱を恭しく捧げて、五大老の前に差し出した。
家康公は、それを受け取ると、袱紗を開いて、遺書をゆっくりと声に出して読み上げた。居並ぶ大老と奉行衆は、頭を下げて、遺書の内容を聞いた。
大阪城の談合 養父蔭山氏広様ご逝去
伏見城の戦い―鳥居元忠の死 江戸城中―しばしの平穏
佐倉城―武田信吉公 日遠上人との出会い
法華経の「方便」―日遠上人の講話 夢見ごこち
関が原の戦い
第四部 子宝
お母上を見舞う―韮山代官、江川屋敷の宴
お母上の元へ
お懐かしゅう御座りまする
子宝の湯―吉奈温泉へ
大阪城の夜 大阪城の女性たち
子宝に恵まれる 黄金の昇天龍
家康公の薬好き 子宝に恵まれる
お目出た続き 日遠上人様の書状
玉沢妙法華寺への寄進 黄金の鶴の羽ばたき
淀君のお怒り 大御所さま駿府ご入城
日遠様一大事(慶長の法難) 白装束2着
日遠上人を伊豆の河津へ 鶴千代様をご養子に
お喜びと悲しみと 鷹狩りのお供で上総東金へ
東金御殿 鷹狩りの折に―東国を固める談合
大御所さまの企み
第五部 関ヶ原の戦い
大坂冬の陣 使者の役割
阿茶局と大蔵卿 大阪城中へ砲弾お万さまの書状
外堀を埋め、石垣を崩す 大御所様のお怒りー大阪夏の陣
為春様への書状 千姫を助けよ
大御所様のお怒りー大阪夏の陣
天王寺・岡山の戦い
豊臣軍 幕府軍 豊臣方の作戦
天王寺口の戦い 岡山口の戦い
第六部 跡継ぎ
大御所様のつぶやき 春日局さま駿府城へ
大御所様江戸城へ 大御所さま江戸に止まる
本門寺参詣 中山法華経寺参り
お題目のお勤め 本土寺参詣
佃島を訪ねる 仏教談義―天海僧正
大野山本遠寺の建立 古田織部様の自刃
第七部 大御所の遺言
朝のお勤めー百辺題目
「のう、万よ。余は、はたして極楽往生が出来るかのう」
「何ゆえに左様なことを申されまするか。法華経の教えをお守りするなれば、必ず成仏できると、
徳の高きお坊様は、申しておりまする」
「余は、若き頃より戦に明け暮れて、信心の行をおろそかにして参った故、あやめた者どもの呪い
が、夜毎に余を襲うて来るように思われてならぬ」
「大御所様、お目覚めにお題目を百辺ほど唱えますると、えろう気持ちが爽やかになりまする。わ
らわは、幼き頃より父母の勧めにて、馴染んでおりまする故、日課となりておりまする」
お万様は、大御所様のお目ざめの青白きお気色を御心配なされて申し上げたので御座りまする。「そちが、いつも唱えておる南無妙法蓮華経の7文字を唱えるのじゃな」
「左様に御座りまする。さらに手を清め、文机に向こうて静かに炭を磨り、細き筆を持ち、南無妙法蓮華経と、唱えつつ、文字を認めまする」
「余は、題目などと言うものを認めたことはなき故、そちの如き手習いは無理であろうのう。父上や母上の面
影を思い描きて、南無阿弥陀仏と、時には唱えることはあるのじゃがのう」
「左様なれば、百辺とは言わず、十辺ほどなれば、すぐに取り掛かれましょうぞ。すずり、筆と御
料紙は、わらわの物をお使い下されませ」
「ふうむ、そちが勧ることなれば、余もそちの真似ごとを致してみるかのう。そちは南無妙法蓮華
経じゃが、余は南無阿弥陀仏じゃ」
「大御所様、善は急げと申しまするによって、早速明日より初めて下されませ」
大御所様の朝のお勤めは、かくして最期の病の床にお着きになられまするまで続けられたので御座りまする。
「万よ、余も百辺ずつお題目を認めるようになったのじゃ。そちの申すようにこれはなかなかに良
き習わしであるのう」
と、大御所様はお喜ばれになられ申した。
家康公日課念仏
智光曼荼羅
味談義=安土饗応膳 お万様の歌の道
上総と下総の歌 再び東金へ
金山奉行大久保長安の罪 お万さまの悩み
好々爺、徳川家康公 病いの床
竹千代は、まだか 竹千代様のお見舞い
万、そなたは余の命じゃ 極楽浄土に行けるかのう
天海に会うのじゃ 遺言をお万さまへ
大御所の遺言
京の都より崇伝僧上様も駿府に駆けつけられて、大御所様のお枕元には、お万さま、本多正純様と、天海様、崇伝様がお揃いになられまして御座りまする。これは、大御所様のお言いつけに御座りまする。
「その方らにはこの場で申す故、よう聞きおけよ」
脇息に凭れながらも大御所様の眼光は、いつも以上に鋭く輝いておられまする。
「将軍のまつりごと、宜しからずして、万民難儀することあらば、ただちに将軍を代えるべし。余は、余の力にて天下の将軍となれり。もしや、余のまつりごと、あやまてるなれば、その方らの力で遠慮のう将軍の地位をとって代わるべし。
このことは、書状に認め、江戸の秀忠公にも伝え、徳川家の家訓と致すべし。よいか、正純よ、必ず届けよ」
「ははあ、畏まりてお伝え申し上げまする故、ご安堵下されませ」
ほっと一息つかれた大御所様は、
「万よ、筆と紙を持て」
嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空
と、辞世のお歌を認められ申した。
病床の大御所様を囲む お万さま剃髪―養珠院尼に
調度品分け 母と子
第八部 伊豆と房総を見舞う
大野山本遠寺 日遠上人像
八十姫、駿府城へ 日遠上人様との出合い
大震災のお見舞いに 大地震(ない)ふる
養珠尼公様、伊豆へ 吉奈の湯宿
湯宿の腰かけ石 天城峠越え
北条屋敷 北条屋敷の夜
河津川
天城小唄
所かわれば吉奈にござれ 吉奈子宝湯の香り
さっても昔のお坊様 ここに杖つき お湯が出て
お湯が出たので お万さま来れば目出たや 子が出来て
いざ、房総へ 上総一宮玉前神社
英勝院さまは上総一宮へ、
尼公様は安房の正木村へ
長狭街道を行く 小湊誕生寺参詣
ふるさと勝浦 大多喜城下本多忠朝の墓参
参 考『意訳ドン・ロドリゴの日本見聞録』
帰り路―久留里街道 久留里城下へ
馬来田の万葉歌 馬来田の嶺(東歌)
江戸城中、駿府殿お部屋
第九部 紀州お国入り
駿府より紀州へ とんぼ返り
大御所様追善三回忌 女人禁制のお山
七面山登詣の水垢離 敬慎院の修行僧
水垢離を終えられて 三つ葉つつじの花咲く山路
女人踏み分けのお山 別当上人の説法
奥之院の影嚮石(ようごうせき) 夢うつつに
柳脩一郎撮影
お山にかかる彩雲 赤沢宿の女人遥拝所
菩提寺を大野山本遠寺に 千代松をお呼び
お山にかかる彩雲 赤沢宿の女人遥拝所
菩提寺を大野山本遠寺に
養珠院お万の方寄進の手鏡(七面山・複製)
別れと追善
元和2年、大御所様のご逝去、ただちにお万の方は剃髪なされて「養珠尼公」と名乗られる。
元和5年、養珠尼公様は、身延山久遠寺にて東照大権現(大御所)様の三回忌の追善千僧供養を行い、白糸の滝にて七日間の水垢離をとられ、女人禁制の七面山に登詣なされた。
元和六年、お父上正木頼忠殿は御長男三浦為春様と、お孫徳川頼宣公にみとられて、紀州にてご逝去なされた。
元和七年、尼公様は、東照大権現家康公の追善のために松戸本土寺を御参詣になられる。この年、尼公様の母代りの阿茶局様は、秀忠公5女和子姫の入内に従うて京の都に向かわれる。
元和九年、家光公三代将軍に就かれる。
寛永五年、水戸家に千代松君(後の徳川光圀公)ご出生。
寛永十七年、尼公様は東照大権現様追善二十五回忌を大野山本遠寺にてとり行い、七面山にご登詣なされる。
寛永十九年、師と仰ぐ日遠ご上人様、池上本門寺にてご逝去(大野山本遠寺に葬られる)。また、お姉上代りのお勝の方様、ご逝去(鎌倉英勝寺に葬られる)。
慶安元年、東照大権現様三十三回忌を再建なされた本遠寺にてとり行う。
慶安三年、東照大権現様三十五回忌を本遠寺にてとり行い、二カ月間御滞在なされる。この折に七面山に山駕籠にてご登詣なされる。
慶安四年、徳川将軍家光公ご逝去。
承応元年、お兄上、紀州家城代家老三浦為春殿ご逝去。百か日の御供養を身延山久遠寺にてとり行う。
夢うつつに(一)~(六 極楽往生)
ご遺体は本遠寺へ
荼毘の炎
送りますので出版ご検討下さい。
投稿: 安藤操(三佐夫) | 2013年9月27日 (金) 09時48分