阿川佐和子(『週刊文春』対談ホステス役) 直木賞の世界のなかでアガワといえば、今や弘之をさしおいて佐和子。
阿川佐和子(あがわ・さわこ)
- 昭和28年/1953年11月1日生まれ(現在58歳)。
- 昭和51年/1976年(22歳)慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
- 昭和56年/1981年(27歳)TBS「朝のホットライン」リポーターとなる。以後、同局「情報デスクToday」アシスタントキャスター、「筑紫哲也NEWS23」アシスタントキャスターを経て、平成4年/1992年より1年間、アメリカ遊学。
- 平成5年/1993年(39歳)『週刊文春』誌上(5月6日・13日合併号)で対談企画「阿川佐和子のこの人に会いたい」スタート。
『聞く力―心をひらく35のヒント』(平成24年/2012年1月・文藝春秋/文春新書)、祝!大ヒット! ……っていうことで、このエントリーを書くわけではないのです。阿川佐和子さんといえば、『週刊文春』の連載対談企画「この人に会いたい」のホステス。といえば直木賞受賞者がまず通る関門。いまでは直木賞とは切っても切れない存在です。当然、このブログで触れずには済まされない人であり、企画です。
1980年代初期、阿川弘之さんがほんの短い直木賞選考委員を務めていたころ、いったい誰がこんな展開を予想したでしょうか。直木賞におけるアガワといえば、阿川佐和子さんを指す事態になろうとは……(それは言いすぎか)。
阿川さんの対談企画が始まったのは平成5年/1993年5月。以来19年半。直木賞史のうえでは、第109回(平成5年/1993年上半期)から39期分となります。全歴史の4分の1を超えたくらいです。
その間、誕生した直木賞受賞者は51名。直木賞を受賞してから半年のあいだに、対談ゲストにお呼ばれした人は、うち18名に及びます。19年半で18名。平均すると、だいたい1年に1名の割合です。
しかし、もうちょっと正確に言いますと、「阿川佐和子のこの人に会いたい」の歴史における、直木賞受賞者の扱いは、19年半ずっと一定だったわけではありません。そこには、『週刊文春』という文藝春秋の支配するマス媒体の上で、直木賞と芥川賞、どちらをより優先して宣伝に回すか、熾烈な興亡と闘争のなかで直木賞が勝ち得た「18名」の数字なのです。
ええと、じっさいに熾烈な興亡と闘争があったかどうかは知りませんよ。あくまで「この人に会いたい」の人選の流れを追って、ワタクシがそう言っているだけです。
「この人に会いたい」は、先週の『週刊文春』平成24年/2012年10月25日号が第944回目でした(これがまたスゴい数字なんですけど、まあ、それは措いておきます)。そこまでの19年半、登場した直木賞受賞者は18名、対して芥川賞受賞者は10名。受賞してしばらくしてからお呼ばれしたゲストは含みません。あくまで「話題の人」枠、つまり次の期が訪れるまでに対談した人だけに限って数えました。
年代順に並べますと、こんな感じです。
- 〔芥〕第116回 柳美里(平成9年/1997年2月6日号)
「母に包丁で刺されそうになったことがあります」 - 【直】第117回 浅田次郎(平成9年/1997年11月20日号)
「僕は人を好きになると愛の言葉を百万回言います」 - 〔芥〕第119回 花村萬月(平成10年/1998年9月17日号)
「小学生の頃から校庭でクスリをやってました」 - 【直】第121回 桐野夏生(平成11年/1999年8月19日号)
「子どもが昼寝してるときに「それっ」て小説を書いてました」 - 〔芥〕第122回 藤野千夜(平成12年/2000年2月10日号)
「女装は、男と見られる不愉快から」 - 【直】第122回 なかにし礼(平成12年/2000年2月24日号)
「昭和の終了と共に作詞をやめた訳」 - 【直】第123回 船戸与一(平成12年/2000年8月10日号)
「小説家に固執する気は全然ない」 - 【直】第124回 山本文緒(平成13年/2001年2月15日号)
「血管が切れそうなほど欲しかった直木賞」 - 【直】第125回 藤田宜永(平成13年/2001年8月30日号)
「「愛と感動のドラマ」が書けない理由は?」 - 〔芥〕第127回 吉田修一(平成14年/2002年9月5日号)
「年収って百万もなかったと思います でも、貧乏生活の意識がなくて……」 - 〔芥〕第128回 大道珠貴(平成15年/2003年2月20日号)
- 〔芥〕第130回 金原ひとみ(平成16年/2004年2月5日号)
- 【直】第130回 江國香織(平成16年/2004年3月11日号)
「一晩にシャンパンをあんなにいっぱい飲んだことはなくて、もう幸せでした」 - 〔芥〕第131回 モブ・ノリオ(平成16年/2004年10月21日号)
「芥川賞とった今、介護してるときよりイライラしてる(笑)」 - 【直】第134回 東野圭吾(平成18年/2006年2月23日号)
「直木賞候補のドキドキに比べたら他のドキドキなんて大したことない」 - 【直】第135回 森絵都(平成18年/2006年9月14日号)
「自分が好きで続けられそうなことは作文で……。作家になろうと決めました」 - 〔芥〕第136回 青山七恵(平成19年/2007年3月1日号)
「芥川賞をいただいた後、自分の書いた小説をドキドキしながら点検するような感じで読みました」 - 【直】第138回 桜庭一樹(平成20年/2008年2月21日号)
「直木賞受賞後、「よかったよかった」って一人でカレーヌードルをもそもそ食べました」 - 〔芥〕第139回 楊逸(平成20年/2008年8月7日号)
「留学、結婚、出産、そして天安門。 新芥川賞作家、激動の半生を語る」 - 【直】第139回 井上荒野(平成21年/2009年1月15日号)
「夫は私の小説を臆面もなく褒めてくれる。臆面もなく、というとこが重要です(笑)」 - 【直】第140回 天童荒太(平成21年/2009年3月12日号)
「『悼む人』は一つの大きな到達点。無名の「死」に心が共振して生まれました」 - 【直】第141回 北村薫(平成21年/2009年8月27日号)
「直木賞候補6回は名誉なことですよ。編集者には申し訳なかったけど(笑)」 - 【直】第142回 佐々木譲(平成22年/2010年2月25日号)
「文学者じゃなく、職人作家として書き続けたことに意味があったんですね」 - 【直】第143回 中島京子(平成22年/2010年8月26日号)
「初めての小説が父に見つかって怒られた。我が家で有名な「執筆停止事件」です(笑)。」 - 〔芥〕第144回 朝吹真理子(平成23年/2011年2月24日号)
「自分から「小説家」と明言することに、今も逡巡や戸惑いがあります」 - 【直】第144回 道尾秀介(平成23年/2011年3月17日号)
「ボン・ジョヴィになりたかった高校時代、『人間失格』を読んで本当にびっくりした。」 - 【直】第145回 池井戸潤(平成23年/2011年8月25日号)
「普通の小説好きの人たちに、企業小説も読んでもらいたい。僕はそれを常に意識しています。」 - 【直】第147回 辻村深月(平成24年/2012年9月6日号)
「瞬間瞬間の自分を大事にしたい。同じ考え方で小説を書くことって、きっと二度とないから。」
まず気づくことがあります。「この人に会いたい」が開始して4年弱は、この企画は直木賞・芥川賞の話題とは距離を置いていた、ってことです。時に4年をすぎた平成9年/1997年は、この対談企画がはじめて「傑作選」としてまとめられ文春文庫から刊行された年でした。『週刊文春』誌の顔として、内外ともに認められた時期だったのかなあ、と思わされます。
ちなみにそれまでの「この人に会いたい」に出てくる作家といえば、当然、流行作家、大物が多かったのが特徴です。はじめてゲストになった作家は、平成5年/1993年7月8日号、連載第9回目のマイクル・クライトン。と、これは別格としましても、日本人作家第一号は、同年8月5日号、第13回目の伊東昌輝・平岩弓枝夫妻。イェーイ、まったく、直木賞オタクの誇りです。
で、平成9年/1997年以後は、芥川賞受賞者を皮切りに、直木賞・芥川賞ほぼ平等に取り上げられる期間が続きました。だいたい楊逸さんの頃まで。約10年くらいのあいだです。
第140回をすぎた頃からの、怒濤の直木賞受賞者登場率の高さは、もう直木賞ファンとして嬉しいことこのうえありません。阿川さんの『聞く力』では、インタビューのときの心得が、さまざまな例を挙げながら紹介されているんですが、たとえば、こんな文章を読むとつい飛び上がってしまいます。
「たとえば対談相手の作家が眼帯をしていらしたとする。その眼帯が煩わしくて、目に痛みもあり、本当なら今日のアガワのインタビューは欠席したいと思ったが、頑張って家を出てきたんだと、心の中で思っていらっしゃる人の前で、会うなり、
「ああ、初めまして。このたびは直木賞受賞、おめでとうございまーす!」
もちろん、その挨拶も大事ではあろうけれど、本人としてみれば、それより目が痛いし眼帯が煩わしいことの問題のほうが頭を占拠しているはずです。」(『聞く力』「I 聞き上手とは」より)
ここで、「芥川賞受賞」ではなく「直木賞受賞」の言葉を、阿川さんがさらっと選択するところが、近年の「この人に会いたい」における直木賞率の高さをまざまざ物語っている気がするのです。
むろん、「この人に会いたい」=『週刊文春』=文藝春秋の企画なので、受賞作が文藝春秋から出れば出るほど、ゲストになる確率が高い、とは言えましょう。しかし、どんな手を使ったっていいのです。直木賞のほうが芥川賞より勝っている点が、そんなことでもいいから一つでもある、っていうのは、個人的にはすごく落ち着きます。
これから直木賞は、文藝春秋なぞは脇において、もっと広く「えっ! 何これ、こんなのが直木賞!?」みたいなものをどしどし選んでいってほしいんですが、そうなっても、「この人に会いたい」にだけは、直木賞受賞者を優先してセッティングしてほしいと切に願います。
○
直木賞なんてものは文藝春秋の意向で踊り踊らされるシロモノです。それが『週刊文春』に載った載らないでグダグダいうのは、野暮の極みです。ええ、ワタクシのことです。
ともかく、直木賞受賞者の「この人に会いたい」は、阿川さんの対談ってだけでも楽しいのに、さらに直木賞の話題が乗っかっていて、お得感倍増。本エントリー後半は、阿川マジックに乗せられて直木賞のことを語る、各受賞者の発言から、ワタクシお気に入りのやりとりをピックアップしてお茶を濁したいと思います。
桐野夏生さんが、日本文学振興会からの電話を受けたときの迫真の場面。おそらく電話の相手は、以前取り上げた高橋一清さんです。
「桐野 それで、(丁寧な口調で)「桐野夏生さんでいらっしゃいますか」。
阿川 ゆっくり喋る方なんですか。
桐野 そう。「もう早く言ってよォ」みたいな(笑)。
阿川 アッハッハ。
桐野 いい方なんですけど、ものすごくゆっくりおっしゃるの、「あなたさまの『柔らかな頬』が、このたび第百二十一回直木賞に選ばれましたが、お受けいただけますか」。「受けますッ、受けますッ」(笑)。
阿川 即答して。
桐野 一緒に待ってた人たちに早く知らせたいんだけど、電話がなかなか終わらなくて(笑)。「メモを取ってください。これから東京會舘にて記者会見がございます。来ていただけますか」とか、延々続くんです。「伺います、伺います」って、五回ぐらい言っちゃった(笑)。」(『週刊文春』平成11年/1999年8月19日号より)
船戸与一さんは、葉巻をふかしながら余裕の答弁。
「船戸 僕は逢坂剛が選考委員になったとき山本周五郎賞がポトッと落ちて来て、今度は北方謙三が選考委員になったら直木賞がポトッと落ちて来たんですよ。だから、早く大沢在昌が柴田錬三郎賞の選考委員にならないかなと(笑)。
阿川 ハハハ。船戸さんも大藪春彦賞の選考委員をなさってるんですよね。
船戸 ただ俺は選考委員の資質がないんですね。まず本を読むスピードが他の選考委員に比べると三倍かかる。候補になる本も賞の性質上みんな厚いんですよ。それが五冊ぐらい来るから辛いですね。
阿川 船戸さんの本も厚いっすけど。
船戸 ハハハハ。」(『週刊文春』平成12年/2000年8月10日号より)
東野圭吾さんは、落選つづきだった頃の心持ちを丁寧に解説してくれています。
「阿川 「直木賞なんかいらねえや!」
東野 あ、それは全然なかったです。楽しかったんですよ、挑戦するのが。もちろん直木賞狙って書くなんてことは、ありえないんですよ、僕は。書きあがって候補になったら、またゲームに参加できるなって。(引用者中略)
選考委員の先生方に向かって書くのではなくて、よりたくさんの、より広範囲の読者を楽しませるために円を広げたものを書き続けていれば、必ずその中に選考委員の方たちも入ってくるだろうという信念で書いていました。だから、落ちると「まだちっこいのかよ」「まだあの方々の面白いところまではいかないのかよ」と。チャレンジでしたね。
阿川 たとえば渡辺淳一さん(選考委員)を唸らせるぐらい円を広げようとか。
東野 そうそう。やっぱりハードルは高く、壁は厚いほうが面白い。」(『週刊文春』平成18年/2006年2月23日号より)
天童荒太さんは、『永遠の仔』が落ちたときの「ホッとした」心境を吐露。
「天童 『永遠の仔』が選に漏れたときは、私を支えてくれている人や、『永遠の仔』を支えに生きようとしている読者に申し訳ない想いもありましたが、実は個人的にはホッとしたんです。
阿川 それはどうして? だってベストセラーになってたし、直木賞確実と言われてましたでしょう。反響が大きくて、読者からのお手紙も、五千通ぐらい来たんですって?
天童 ええ。自分が受けた虐待や性暴力の経験、家族が自殺や事故で亡くなったことを綴った手紙が本当に多くて、それを一通一通読んでいると……。
阿川 全部読んだんですか!?
天童 はい、全部。(引用者中略)一介のもの書きがこの人たちの辛い経験、訴え、ある種の叫びにどう応えられるのかを悩むうちに、神経をすり減らして倒れたりして。
阿川 そりゃ、倒れますよ。
天童 そんな時期に直木賞候補になったので、受賞したら精神的にも肉体的にも大変なことになる、とわかっていました。だから、選に漏れたときは複雑な想いだったんですが、残念会の帰りに家内が、「皆さんには申し訳ないけど、私はホッとした」と、僕が言葉にできなかったことを言ってくれて。」(『週刊文春』平成21年/2009年3月12日号より)
北村薫さんは、当然、阿川さんからのツッコみにも柔和に返す、いつものお姿を見せてくれました。
「阿川 候補六回目で受賞なさいましたけど、今まで辛かったですか。
北村 山口瞳先生がお書きになったもので直木賞を待つというのを読んでいたので、最初のうちは賞待ちは面白かったですね(笑)。
阿川 悔しくなかったんですか。
北村 直木賞を受賞することは作家だったらみんな憧れてますから、候補になるだけで非常に大きな評価だし、ましてそれが何回か続くということはそれだけ評価していただいたわけだから名誉なことだと思いますね。
阿川 いいほうに解釈したご意見としては、まずそれが一つで……(笑)。
北村 いや、本音ですよ。ただ、いただけないと、期待されてる編集者の方々に申し訳ない気にはなりますよね。ああ、がっかりさせちゃったなと。」(『週刊文春』平成22年/2010年2月25日号より)
最後は、堂々「阿川対談リスト」の仲間入りを果たしたばかりでホヤホヤ、辻村深月さん。3回挙がった直木賞候補のときのハナシを、ツルツル話しております。
「阿川 今回が三度目の候補だったんですよね。
辻村 そうです。最初は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』という作品で(平成21年度下期)。あのときがいちばんびっくりしました。
阿川 というと?
辻村 やっぱり、自分が書いたものをちゃんと誰かが読んでくださっていたんだという純粋な喜びですね。それは涙が出るくらい光栄なことだなって思いました。
(引用者中略)
阿川 二度目のときは?
辻村 二度目の『オーダーメイド殺人クラブ』(平成23年度上期)は中学生を書いた話だったから、それを大人の読み物として評価される場に挙げていただいたことが嬉しかったんです。でも、ちょっと受賞は難しいだろうなと。
阿川 わりと冷静なのね。
辻村 しかもそのとき、出産間近だったんですよ。
阿川 「今は困る」って?
辻村 今いただいても、阿川さんと対談できないわって(笑)。
阿川 何言ってんだか(笑)。で、今回は?
辻村 二〇〇八年に仕事を辞めて東京に出てきた際、連載をいっぺんにたくさん始めたんですね。それが順々に本にまとまった時期で――。
阿川 たくさんってどのくらいですか。
辻村 八本です。
阿川 八本!?
辻村 (引用者中略)並行して書いた連載のうち最後に本になったのが『鍵のない夢を見る』なんですね。それを評価していただいたのは、その時期の仕事全部が評価されたようで……。八本全部で取ったんだという気持ちです。」(『週刊文春』平成24年/2012年9月6日号より)
来年は「この人に会いたい」企画スタート20周年です。ここはひとつ、直木賞受賞者の対談だけ集めた傑作選なぞを出してもらえれば、『直木賞全集』の存在しないこの空のもとで息苦しく暮らす直木賞ファンの飢渇感も、少しは潤うのですが。
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コメント
まさか阿川佐和子さんが出てくるとは!ビックリしましたけどナイス人選だと思います(笑)
逢坂剛さんが山本周五郎賞の選考委員?予選委員をされてたんでしょうか?
東野さんのインタビューで淳一先生のお名前が出るとドキッとしますねぇ。
辻村さんは対話がお上手ですよねぇ。こういう企画のホスト役もできそう。
投稿: しょう | 2012年10月28日 (日) 21時32分
しょうさん、
「ナイス人選」とのお言葉、ありがとうございます。
「直木賞(裏)人物事典」は、なるべく、「変化球な」人選にしたいんですが、
なかなか、そういうふうな人、いないのですよねえ。
その点、阿川さんは堂々、直木賞ブログで取り上げるにふさわしい「変化球な」人だと、私も思います。
逢坂剛さんは、山周賞で第5回~第12回まで8年間、選考委員をされまして、
その初回、第5回のときに船戸与一さんが受賞したわけです。
柴田錬三郎賞のほうは、まだ大沢在昌さんは委員になっておらず、
船戸さんも受賞していないので、
将来もし、大沢さん委員就任なんてことになったら、注目ですね。
投稿: P.L.B. | 2012年10月31日 (水) 18時42分
あっ、ホントだ!逢坂さんされてましたね(汗)
丁寧に教えていただきありがとうございます。
投稿: しょう | 2012年11月 5日 (月) 15時19分