清原康正(大衆文芸評論家) あえて直木賞については踏み込まず、常識的な大衆文芸研究に邁進。
清原康正(きよはら・やすまさ)
- 昭和20年/1945年1月2日生まれ(現在67歳)。
- 昭和43年/1968年(23歳)同志社大学文学部卒(同大学大学院文学研究科修士課程中退)。出版社に勤務。
- 昭和55年/1980年ごろ?(35歳)文筆業に専念。
各誌でよく名前を見かけるのに、いっこうに著書の少ない大衆文芸研究者。っていう点では、以前、武蔵野次郎さんに出てもらいました。その意味で、ポスト武蔵野は誰か、となれば満場一致で清原康正さんが選ばれることでしょう。
清原さんの仕事量、ハンパありません。新聞・雑誌の書評にはじまり、昔の大衆作家のいいトコを紹介するかたわら、出版文化に関する原稿や座談会、各所での講演、作家になりたい人のための創作教室で先生までやってしまう。そのほとんどが、その場限りで、後に残らず時代の激流に流されて大海に消えていく、という。
武蔵野さんのときにも思いました。まさに、そんな清原さんの生き方そのものが、時代が経てば市場から一掃され、多くの人から顧みられなくなる「大衆文芸」の姿に重なります。ああ。大衆文芸をこよなく愛す者としては、清原康正さん自身が、大衆文芸研究の興味ぶかい対象になり得るんですよねえ。
と言いつつも、ワタクシ、清原さんのことはほとんど知りません。清原さんって方は、その膨大なお仕事のなかに、まず自分のことを反映させたがらない書き手だからです。
たとえば、こんな文章があります。五木寛之さんが『小説現代』昭和63年/1988年6月号(小説現代新人賞50回記念特集号)で語った、五木さんデビュー当時のころの回想を紹介したものです。
「その当時の小説誌界を振り返って、彼はこうも述べている。
「ある種のケオス、混沌たる状況の中でたしかに胎動しているものがあって、当時の大学生たちが、たとえば「小説現代」とかいった雑誌をキャンパスの中で持ち歩くことがちょっと新しい感じがした時代なんですね」
昭和四〇年代初頭の風潮を語る貴重な証言で、昨今の状況に照らし合わせてみると、隔世の感がある。いま『小説現代』を持ち歩いているような大学生がいるだろうか。」(『出版ニュース』昭和63年/1988年6月上旬号 清原康正「中間小説誌の再生は可能か―「多様性とバランス」が活気をとりもどす―」より)
ちょうど昭和40年代初頭といえば、清原さん自身がその大学生だった頃です。自分の体験した時代です。大学生でもなかった五木さんが語るより、清原さんが当時の中間小説誌とどう付き合っていたかを書くほうが、よほど「貴重な証言」となるはずなんですが、それには触れません。もどかしいこと、この上なし。……言い換えれば、いさぎよくてすがすがしい。
清原さんが大衆文芸研究を志した経緯もよくわかりません。ただ、大学生の頃から関心が高かったことは確かなようです。いや、大衆文芸というより、尾崎秀樹に対する関心だったみたいですが。
「大学の学部時代の私の卒論が「尾崎秀樹論」で、大学院の修士課程(文学研究科)に進んでからは、尾崎さんの父・秀太郎と台湾日日新報のことを調べ始めもした。尾崎さんの諸著書に導かれて大衆文学評論の道に入った私にとって、尾崎さんを振り返ることは私自身の原点を再認識することになる」(『出版ニュース』平成11年/1999年12月中旬 清原康正「尾崎秀樹さんと大衆文学 作り手、送り手、受け手を三位一体のものとして」より)
いずれ、当ブログの「直木賞(裏)人物事典」でも、尾崎秀樹さんを取り上げる日がくるでしょう。当たり前です。尾崎さんを語らずして大衆文芸の歴史もへったくれもありません。尾崎さんはまた、直木賞のことについても、数々の興味ぶかい論稿を残してくれた人でした。オー。ラブリー・ホツキ。
ひるがえって、尾崎チルドレンのひとり、清原さんはどうでしょう。
直木賞そのものを正面切って見つめてくれる機会は、ほとんどないようで、そこはそれ、さすが大衆文芸研究の王道を進む方は、直木賞の無意味さをよくわかっています。それでも大衆文芸に関わって文筆業などされていると、無理やりにでも直木賞に触れなきゃいけない場面も出てきます。そんなとき、清原さんはこんなふうにして身をかわします。
「芥川賞と直木賞の両賞が文藝春秋社の菊池寛によって創設されたのは、一九三五年(昭和十年)のことであった。以来、年二回の授賞で七十年ということは、今回で第百四十回になるはずなのだが、一九四五年(昭和二十年)から一九四八年(昭和二十三年)の丸四年間は中止されていたから、第百三十三回という数字になる。第一回の受賞作は、芥川賞が石川達三の「蒼氓」、直木賞が川口松太郎の「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」他であった。戦後復活の第二十一回の受賞作は、芥川賞が由紀(原文ママ)しげ子の「本の話」と小谷剛の「確証」、直木賞が富田常雄の「面」「刺青」であった。」(『新刊展望』平成17年/2005年10月号 清原康正「新世紀文学館22回 芥川賞・直木賞創設七十周年」より)
デキる大衆文芸評論家としての顔を懸命におし隠し、凡庸なデータマンのふりをして、ただただ、大した意味もない事実関係を並べて文字数を稼ぐ、という手法です。
このあと、誌面上では6行文つづくのですが、そこにはキレ者清原の影はどこにもありません。誰でも言えることを、澄まして書く、その清原さんの心苦しさが行間から匂ってくるばかりです。
「この両賞が社会的な話題となるようになったのは、第三十四回芥川賞を受賞した石原慎太郎の「太陽の季節」以来のことである。従来の文壇ギルドとは無縁の新人作家の登場であった。以後、文学賞のショー化と作家のタレント化が云々され、文学の変質が取り沙汰されるようになったのだった。七十年間のそれぞれの受賞作を当時の時代状況と照らし合わせていくだけでも、日本文壇史の一面と小説自体の変貌のありようをすくい取ることができる。」(同)
尾崎秀樹さんの薫陶を受けた優秀な〈直弟子〉が、こんなどこかの新聞記事みたいな解説を書かなきゃいけなくなって、清原さん自身、心苦しくないわけがありません。よね?
で、この記事では、第133回受賞の中村文則「土の中の子供」と朱川湊人「花まんま」を(この順番もまた心苦しさ満点!)、お得意の書評で紹介したあと、最後に植村鞆音『直木三十五伝』を持ってくることで、大衆文芸愛好者の無念を、ちょびっとだけ晴らしてくれているわけです。
「芥川賞・直木賞創設の契機となったのは直木三十五の死であった。芥川龍之介はすでに八年前に亡くなっている。」(同)
と、清原さんは書いています。そうだそうだ、両賞のスタートは直木三十五の存在あったればこそなんだ、直木賞のほうが主で、芥川賞は付け足しなんだ、とワタクシ直木賞オタクは枕を高くして眠りにつくのでした……。
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