溝川徳二(『芥川・直木賞名鑑』編者) 直木賞は文芸の世界のためだけのものではない。みんなのものだ。
溝川徳二(みぞかわ・とくじ)
- 昭和11年/1936年生まれ(現在75-76歳)。
- 昭和34年/1959年頃(23歳)早稲田大学卒。貿易商社に入社。2年後、出版社に転職。
- 昭和44年/1969年頃(32歳)グロリア日本支社に入社。4年後、百科事典編集次長となる。
- 平成2年/1990年(53歳)編集委員会代表として『芥川賞・直木賞―受賞者総覧―』(教育社刊)を刊行(平成4年/1992年に改訂二版)。
- 平成12年/2000年(63歳)編者兼発行人として『芥川・直木賞名鑑』(名鑑社刊)を刊行(上記の新装改訂版)。
もう5年も前になりますか。うちのブログで「直木賞関連の書籍」を紹介していたことがあって、教育社の『芥川賞・直木賞―受賞者総覧―』、および名鑑社の『芥川・直木賞名鑑』を取り上げました。書名は違えど中身はほぼ一緒、後者は前者の「2000年度新装版」です。
なあるへそ、平成2年/1990年に初版を出して、平成12年/2000年に新装版。10年ごとに新たな受賞者プロフィールを追加して改訂していこうって寸法か。……とワクワクして平成22年/2010年を迎えたものの、何の音沙汰もなく、期待を外されてガックリきたんですよね。なあんてハナシはおいときまして、今日はこの本の編者、溝川徳二さんのことです。
いや、ワタクシもこの方のことは、ほとんど存じ上げません。ご存命かどうかも知りません。直木賞に関する文献のなかにも、まず登場することのない方です。
20代のときからン十年間、編集・出版稼業に勤しみ、多くの人脈を得て、そのひとつの仕事として本書に関わっただけなのかもしれませんし、フツーの編集者がもっている芥川賞・直木賞への興味から、とくに抜きん出ている空気も感じません。
それでも気になるのです。溝川さん。ノーベル賞受賞者、文化勲章受章者、といった名鑑のひとつに、「芥川賞・直木賞受賞者」の本を加えてくれた壮挙。というか暴挙。直木賞(裏)人物事典として、見逃すわけにはいかない人です。
で、溝川さん自身のプロフィールは、ほとんど公表されていないのですが、出身地は明確です。鹿児島県出水市です。それが縁で、『出水文化』という地域誌の会員に昭和58年/1983年の第52号から加わりました。出水文化の会の理事長、宮路道雄さんから強く勧められ、同誌の第61号(昭和60年/1985年10月)から第67号(昭和62年/1987年10月)まで、断続的に4回にわたり、「離郷三十年―私が出会った人々―」と題するエッセイを発表しています。
「「それは君の貴重な財産だよ」と私がいろいろな人に会った話をするとこうおだててくれる人もある。(引用者中略)人間三十年も都会でフラフラしていると私ならずともいろいろな人に出会うことになるだろう。少し私が違う点は私の職業が出版の編集とささやかな経営をやってきた関係で普通の人よりは少し多目に多様な人間に出会ったかも知れない。(引用者中略)ここまで深く接した人だけでなく、路上ですれ違った人、講演を聴いた壇上の人までをも含めて印象に残る人を取り上げてみたい。」(「離郷三十年(上)」より)
そう、これはタイトルのとおり、溝川さんが東京に出てきた出会った(あるいはチラッと見た)有名無名の人びとのことを、断片的に綴ったもの。具体的な年月や社名などを省いて書かれているところも多く、溝川さんのプロフィールをつくるまでの役割は果たし得ないエッセイですが、ある程度の来歴はそこで知ることができます。
触れられている人物の名前をざっと挙げてみます。おおよそ登場順です。谷川健一、相沢治夫、長谷川龍生、正宗白鳥、三島由紀夫、湯川秀樹、芦田均、四方諒二、田代格、中西悟堂、川端康成、大佛次郎、井伏鱒二、本田正次、荒垣秀雄、ネール、ロバート・ケネディ、茅誠司、黒川利雄、ファーズ博士、坂西志保、坪井忠二、中曽根康弘、岩松睦夫、竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、守随憲治、藤岡謙二郎、ターナー・キャトリッジ、武田泰淳、橋川文三、小谷澄之、林髞(木々高太郎)、内藤濯、布川角左衛門、山本達郎、平塚益徳、吉川幸次郎、中野好夫、大塚久雄、森恭三、古橋廣之進、白井義男、荻村伊智朗、小野喬、小野清子、春日野親方(元横綱栃錦)、土光敏夫、淀川長治、高木東六、木村健二郎、宗像英二、中村仁一、安田元久、佐藤巌、和歌森太郎、尾鍋輝彦……。
人脈というか、雑人脈みたいな装いです。
残念ながら、溝川さんのエッセイでは、直木賞のことはあまり語られません。しかしトップバッターとして谷川健一さんとの交流が書かれています。はっきり言って、直木賞を語る溝川さんの姿を垣間見ることができるのは、この部分だけです。ほんのわずかです。でも、ワタクシは満足です。
「病床で書いた「最後の攘夷党」という谷川氏の処女作はその年の直木賞有力候補となり黒岩重吾、立原正秋の三人で競った。選考委員の大佛次郎、海音寺潮五郎の二人は谷川氏の作品を激賞したが、芥川賞と違って安定感と手堅さを重視する直木賞では「もう一作見てから」と見送られた。大佛と海音寺はわざわざ谷川氏に書簡を送って励ましている。氏はこの書簡を大切に保存していると私に話した。
この年の受賞は黒岩重吾で立原正秋も数年後に受賞、二人とも全集を持つ作家に成長した。」(「離郷三十年(上)」より)
どうです、この事実関係のムチャクチャさ。谷川健一さんが直木賞候補になった第55回(昭和41年/1966年・上半期)、受賞したのは立原正秋さんです。黒岩重吾なんて名前、いったいどこから出てきたのでしょう。謎です。
ただ、こんなところからも、細かな事実に頓着しないで、記憶と思い出を大事にする人間・溝川徳二がまざまざ魅力をもって、眼前に現われるようではありませんか……。
谷川さんと直木賞バナシ、もう少し続きがあります。
「谷川氏はその後小説を書かなかった。もし書いていれば直木賞作家谷川健一は間違いなく誕生していたろう。「小説を書いてくれた方がよかった。原稿料もこちらが高いでしょうから」と夫人は今でも冗談をいうそうだ。かの司馬遼太郎を直木賞で見出し将来性を感じたという名伯楽の海音寺が明治四年、久留米藩の反政府事件にテーマした谷川の「最好(原文ママ)の攘夷党」に大きな可能性を感じていたとすれば谷川氏が小説を中断したのは惜しまれる。本人も若干の未練があるのかこの時の話を時々するし、最近は何本かの民俗学に取材したユニークな作品を発表している。」(同)
おお、評者としての海音寺さんを相当高く買っているのですね。そうですか。海音寺さんが強力に推した野村尚吾さんとか、海音寺さんが頑として認めなかった池波正太郎さんらに聞かせてあげたいです。
と、イジ悪いようなことを書いたのは他でもありません。たかだかひとりの選考委員の、直木賞における賛成や反対などの価値を、あまり買い被りすぎないほうがいいんじゃないか、ってことです。自戒をこめて。
まあ、それでも溝川さんが本業としてではなく、手すさびで書いた文章の間違い・勘違いを、キャッキャ、キャッキャと喜んで取り上げるなんて、peleboも大人げないよな、とは思います。なので、溝川さんが編者のお仕事で関わった『芥川・直木賞名鑑』のなかで、ワタクシの好きなところを挙げておきます。
巻頭に「芥川賞・直木賞テーマ別解説」っていうページを設けて、両賞の楽しみ方にはいろいろな視点があるのだ、ってことを表明してくれている点です。そのページで紹介されている切り口は以下のようなもの。
「受賞辞退」「選考場所と授賞会場」「医師の受賞」「受賞者と趣味」「二足のわらじ」「受賞逃し」「候補から超人気・実力作家へ」「夫婦作家」「兄弟受賞」「ポルノ作家も元候補」「異色候補(1)~(3)」「両賞ともに候補」「超有名候補作品」「候補者の選考委員」「選考委員最長記録」……。
ね。日本の文学とか小説の歴史とは、ほぼ関係のない切り口。「直木賞・芥川賞」っつう枠組みを外したら何の意味ももたない種々の小ネタを、堂々と「解説」と銘打って構成しちゃっています。ワタクシのような、その後を追いかける者の目から見ますと、この名鑑の白眉だと思います。
○
先に溝川さんの「離郷三十年」では、具体的な固有名詞の省略がある、と書きました。じっさい、溝川さんが在社した出版社名で明瞭に記されているのは、東雲堂とグロリア日本支社ぐらいしかありません。
グロリアでは「JAPAN BOOK OF KNOWLEDGE」という日本版の百科事典をがんばって編集。エッセイでも、この編集業務のあいだのことが長く書かれています。
アメリカにチャールズ・バートン・ファーズという人がいました。ロックフェラー財団人文科学部長、駐日文化担当公使、マイアミ大学国際学部長を経て、グロリア社編集顧問。このファーズ博士の日本での世話役に溝川さんが当てられ、博士と行動をともにします。
「私は博士のサインによって海外留学をした人たちの面会申し込みや、逆に博士から連絡を付けてほしいという人々との、会見、会食の窓口役になった時期があった。そんな時博士は私の同伴をすすめ、同席させることで私の知己を増やす配慮をしてくれた。おかげで十年かけて親しくなる相手と私は一晩で親しくなるといった風で、若く実績もない私がよい知己を増やせた。」(「離郷三十年(中)」より)
どうやら、このことが溝川さんが『芥川・直木賞名鑑』を編集したいちばんの縁、らしいのです。下記、『名鑑』に載っている溝川さん自身の文章より。
「かつて同博士の斡旋でロ財団から留学した中村光夫、福田恆存、大岡昇平、阿川弘之、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、有吉佐和子、江藤淳ら芥川・直木賞につながる人びとの話題の中にいつもいた。〔安岡氏は『アメリカ感情旅行』(岩波新書)のはしがきに同博士への留学の謝辞を述べている。〕特に中村光夫氏には近代文学関連項目で直接教示を受けた。」(『芥川・直木賞名鑑』所収「自註・〈芥川・直木賞〉編集の縁について」より)
とくに、溝川さんは文芸編集者として生きてこられたわけじゃないようです。そんな方にとっての直木賞・芥川賞との〈縁〉って、まあ、上記の文章みたいになっちゃうんでしょう。つうか、その程度の縁でよくぞ、直木賞に関する名鑑をつくってくれました!そして後世に残してくれました!と、ワタクシは感謝したい気持ちです。
直木賞は、文芸の世界だけのものじゃないんだぞ。広くみんなのものなんだぞ、ってことを溝川さんが身をもって体現してくれている、それが『芥川・直木賞名鑑』なる書物なんだと思います。
さて。グロリア社にいた溝川さんですが、がんばって百科事典の編集に奔走しました。たくさんの知り合いもできました。ところが、同社の労働紛争が激化してしまったせいで、結局、百科事典の刊行は中止になっちゃったそうです。
「私はその頃、出版界にいささか嫌気がさして方向を変えようかと考え、前から縁のあった中曽根康弘事務所に訊ねたりして代議士秘書なども考えていた。(引用者中略)結局、私は今の会社を自分で始めることを決め、」(「離郷三十年(中)」より)
とあるんですが、その溝川さんの始めた会社が、ここからではよくわかりません。他の文章と照らし合わせると、教育社、教育社出版サービス(いまのニュートンプレス)っぽい感じもするんですけど、ここら辺はさらに調査しなくちゃいけません。
……と言いますか、調査しなくちゃいけないのかどうかも、よくわからなくなってきました。これ、何のブログでしたっけ? 溝川徳二って誰?
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