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2012年9月 2日 (日)

上林吾郎(『文學界』編集長→『オール讀物』編集長) 直木賞や芥川賞を狙える作家を発掘して育てるために、公募の新人賞を創設。

上林吾郎(かんばやし・ごろう)

  • 大正3年/1914年7月30日生まれ、平成13年/2001年6月21日没(86歳)。
  • 昭和14年/1939年(24歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(32歳)復員後、文藝春秋新社に復社。以後、『文學界』編集長(昭和24年/1949年)、『オール讀物』編集長(昭和25年/1950年~昭和28年/1953年)、『文藝春秋』編集長(昭和29年/1954年~昭和31年/1956年)を歴任。
  • 昭和34年/1959年(44歳)『週刊文春』創刊、初代編集長となる。
  • 昭和59年/1984年(69歳)文藝春秋社長に就任(昭和63年/1988年まで)。

 しばらく文春関係者をスルーしていたので、この辺でおひとり。上林吾郎さんです。

 戦前、文春にゴロゴロいた縁故入社のうちのひとり。戦後、立ち直る同社を支え、ついでに直木賞と芥川賞の盛り上がりを長きにわたって守りつづけ、ついには社長にまで上り詰めてしまった、そんなお方です。

 まあ、上林さんの場合も、直木賞よりは芥川賞関係のエピソードのほうが豊富だったりします。仕方がありません。まずは芥川賞系のおハナシから。

 上林さんの名前が、芥川賞史に登場するのは、第22回(昭和24年/1949年下半期)からとなります。流れ流れてきた井上靖さんの持ち込み原稿「猟銃」と「闘牛」を拾い上げて、『文學界』の誌面を提供し、芥川賞まで取らせてしまった人として、です。

 井上さんの「闘牛」は、昭和22年/1947年に鎌倉文庫『人間』の第1回新人小説賞に投じられて選外佳作となったもの。「猟銃」は翌昭和23年/1948年の第2回に応募したもので、こちらは落選しました。

 その後、井上さんは秋永芳郎さんの紹介で、『日本小説』編集者の和田芳恵さんと会い、「闘牛」を預けます。しかし『日本小説』がつぶれてしまったことでお蔵入り。いっぽう「猟銃」のほうは、井上さんの毎日新聞の同僚が佐藤春夫さんと面識があった関係で、佐藤さんのもとに渡ります。

 佐藤さん、大層気に入り、これを『苦楽』を出していた大佛次郎さんに托します。大佛さんは、『苦楽』向きじゃないなあと思って、また別の人の手に渡す……、とある意味、たらし回しの運命をたどって、上林さんのところにやってきたのでした。

「当時、文藝春秋新社の「文學界」編集長は上林吾郎であった。上林は復員以来、北鎌倉に住んでいたが、出社前によく鎌倉在住の作家回りをした。夏のある朝、いつものように大佛邸へ立ち寄ると、「猟銃」の原稿一篇を託された。」(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇栄華物語』より)

 それで、大村さんの文によると、上林さんはこれを読んで「たとえようのない酩酊感に浸った」と。まだ当時の『文學界』は、名目上、同人組織が残っていたので、同人の今日出海や亀井勝一郎、神西清にも読んでもらった上で、「猟銃」を昭和24年/1949年10月号にてお披露目、となったわけでした。

 なにしろ、このころの芥川賞は、『文學界』掲載作だからといって候補になるような時代ではありませんでした。そこに10月号「猟銃」、12月号「闘牛」と間髪入れずに井上さんを採用し、芥川賞の予選を通過させてしまった上林吾郎さんの手腕なくして、戦後のニュースター(?)井上靖の登場はあり得なかった、と言えましょう。

 あるいは、もうひとり、文壇登場シーンに、よく上林さんの名前が出てくる作家がいます。松本清張さんです。

 これも清張文献にはいろいろ書かれている場面なので、とりあえず大村彦次郎さんの本から引用します。第25回(昭和26年/1951年上半期)の直木賞に「西郷札」が候補になった清張さんは、『オール讀物』編集部から他に原稿が書けたら見せてほしい、と連絡を受けます。

 ここがチャンスと清張さんは俄然奮起。昭和26年/1951年夏から昭和27年/1952年春にかけて「権妻」「行雲の涯て」「啾啾吟」を書いて提出します。……しかし、編集部から採用の報は届きませんでした。このときの『オール讀物』で編集長をしていたのが上林吾郎さんでした。

 「啾啾吟」はいきなり掲載されることなく、1年近くたって、なぜか第1回オール新人杯の最終候補作にされてしまいます。

(引用者注:昭和28年/1953年正月)小倉の自宅へ戻ると、「オール讀物」から電報が届いていた。編集長の上林名で今度、「オール讀物新人杯」(原文ママ)を新設するに当たり、松本の「啾啾吟」を最終候補作に繰り入れるが、異存はないか、という内容であった。勿論、当選の暁は、お受けする、と返電した。

 新人から送られてきた原稿は、たとえ出来がよくても、そのまま商業誌に掲載するのはネーム・ヴァリューに欠ける。いっそ新人賞のふるいにかけ、当選してから発表しても遅くはない、という考えが編集部側にはあった。」(同書より)

 ええ、そりゃそうでしょう。でも、この先どうなるかわからない新人賞創設の段階で、ほんとうにここまで考えたのかは不明です。

 いろいろあった挙句、清張さんは最終的に第28回(昭和27年/1952年下半期)芥川賞を受けました。オール新人杯の最終候補に入った直後の、昭和28年/1953年1月のことでした。上林さんが、この男使えると見込んで、バンバン『オール讀物』に登場させていたら、果たして清張さんの芥川賞受賞はなかったに違いないよなあ、と思わせてくれます。

 ……というか、松本清張の直木賞受賞、っていう至極自然な光景が見られることになっただけかもしれないですけど。

 それはそれとして、直木賞における「オール新人杯」(いまのオール讀物新人賞)の役割、ってやつは、以前ちらっと書いたことがありますが、そりゃもう革命的でした。新人賞ができる前までは、『オール讀物』から直木賞候補に選ばれるのは、たいてい中堅どころで、清張さんや柴田錬三郎さんが新人の割り込むスキもない、と嘆いたのも当然、といった状況でした。

 たとえば今日出海さんは第23回(昭和25年/1950年上半期)の直木賞受賞者です。受賞作「天皇の帽子」は『オール讀物』に載ったものです。今さんといえば、当時すでに新人と呼ぶのは憚られるほどの文壇人で、上林さんとのお付き合いのなかで、この作品は生まれたそうです。

上林 そのころ(引用者注:終戦後)は大仏邸の横におられたんでしょう。

 あの家は弟に売っちゃってたので、僕は弟の同居人だったんですよ。だから、ぼくがあの家で建てたのは書斎だけなんだけれども……。

上林 玄関を入った左のほうのところが、今さんの部屋でしたね。あそこで「天皇の帽子」というのができたんでしたね。

 書かせたのは君じゃないか。

上林 ぼくももう「オール」の編集長をしていたんですね。

 していましたよ。

上林 今さんは原稿を書かれると早かったですね。だけど、わりと面倒くさがりでしょう。全部読み返しをされないんで、スーッと書かれたのを、そのまま持って行ったんですよ。」(『新刊展望』昭和48年/1973年4月号 今日出海、上林吾郎「対談 池島信平氏を偲んで」より)

 昭和28年/1953年に新人杯ができてからは、それを受賞した新人が、続々と直木賞の場に送り込まれていくようになります。これにより、文藝春秋新社は、自社の雑誌から直木賞までのルートを築きあげることができたわけですから、新人杯の創設時に『オール讀物』を仕切っていた上林吾郎さんの功績を、無視することはできません。

 結果的に、そのあとにできた文學界新人賞も、芥川賞のほうで同じような役割を果たすことになるわけですし。

          ○

 ……といったような、上林吾郎が抱いていた直木賞・芥川賞への思いについては、西永達夫さんがサクッとまとめてくれていますので、ご紹介します。ちなみに西永さんは、上林さんのもとで働いた文春マンです。

「彼が戦後復刊された「文學界」の編集長になったのは昭和二十三年暮、三十四歳のときである。(引用者中略)彼は「文芸誌の編集長の最大の責務は新しい作家を発掘し育てること」と割り切って構えた。

(引用者中略)「要するに、自分の仕事は芥川賞をとれる新人を発掘し育てることだ」、上林はこう考えて、自らのキャリア不足というハンディをカバーすることにしたのだ。」(平成15年/2003年8月・新書館刊『時代を創った編集者101』所収 西永達夫「上林吾郎」より)

 井上靖の芥川賞受賞は、その流れのなかにあったものだ、というわけです。

 さらに上林さんは、『オール讀物』から『文藝春秋』と移り、昭和32年/1957年から2年間、ふたたび『文學界』担当となります。

「これは時の編集長が病いに倒れたためのピンチヒッターだったのだが、実は彼の本領がもっとも発揮されたのはこのときだった。

 就任早々、彼は部員に対して「文學界も別冊(引用者注:『別冊文藝春秋』)も大家はいらない。どちらも新人中心でゆく」と指示する。

 その前々年、上林がかねてから目論んでいた「文學界」の新人賞が他誌にさきがけて創設され、石原慎太郎『太陽の季節』が受賞、世はふたたびの新人の季節到来に沸いていた。この機を逸すべからずとかねての持論を旗印に高く掲げたわけである。」(同)

 なぬ。文學界新人賞の創設も、上林さんは以前から目論んでいたのですと。なるほど。上林さんひとりがつくったものではないでしょうけど、オール新人杯―直木賞ラインと、文學界新人賞―芥川賞ラインと、似たような二つの仕組みの構築に、彼が関わっていたと。

 たしかに、上林さん自身、こうも言っているものなあ。

「戦後私はさまざまの雑誌の編集をやってきた。総合雑誌、娯楽雑誌、文芸雑誌と一通りやり、やらなかったのは児童、婦人雑誌ぐらいである。しかし、そのどれもが月刊雑誌だったし、共通の体験と勘とが通用する世界だった。」(『図書』昭和34年/1959年4月号 上林吾郎「新しい編集法」より)

 同じ発想法でもって、両賞につながる新人賞をつくろうとした、と見るのは何の不自然さもありません。

 その後、上林さんは、『週刊文春』の編集長に起用され、創刊から悪戦苦闘し、常務時代には映像ソフト会社「日本映像出版」、社長時代には『エンマ』や『ノーサイド』といった失敗事業を生みだすなど、敬愛する菊池寛さんと同様に、大きな成功も大きな失敗もやらかす人になっていくのですが、それは割愛いたします。

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