木村さく(きむら・さく)
- 明治17年/1884年8月生まれ、昭和56年/1981年2月25日没(96歳)。
- 明治29年/1896年頃(12歳)赤坂の料亭「兵庫屋」に下働きとして出る。
- 大正6年/1917年(32歳)築地の料亭「新喜楽」を、先代女将の子供から譲り受け二代目女将に。
- 昭和25年/1950年頃(65歳)「新喜楽」が直木賞・芥川賞選考会場のひとつとして使われるようになる。
- 昭和36年/1961年(76歳)より直木賞・芥川賞選考会はすべて「新喜楽」で行われるようになる。
7月、あらたな直木賞候補作が発表されました。そんな大事な週なのに、文学や小説とまるで縁のない人物、きっと直木賞好きですら首をかしげる人物を、いま、あえて取り上げようという。
ええ、この偏屈さこそ、「直木賞のすべて」ブログの特徴だと自負しています。そうさ、胸を張っていこうぜ。
木村さくさん。東京築地の料亭「新喜楽」で60年以上にわたって女将を務めました。彼女がいなかったら、直木賞・芥川賞の歴史は変わっていたかもしれない、……かどうかは知りませんが、両賞がつつがなく運営されることに尽力した、裏方中の裏方であることは確かです。
まずは、賞の運営事務と、選考委員と、両方を経験した永井龍男さんの言葉を紹介しておきましょう。
「戦前戦中の銓衡会場は、芝公園の浪花家とか赤坂山王の星ヶ岡茶寮とかを、交互に使った。前後三回に及ぶことも珍しくはなかったので、気分を変えるためにもそれが必要だったが、戦後は築地の新喜楽ときまって、今日まで動いたことは一度もないだろう。
大柄で、貫禄たっぷりな女将さんが、玄関内にどっしり座を構えてわれわれを迎える。
(引用者中略)新橋駅からぶらぶら銀座通りを歩き、昭和通りを突切って築地川添いに真直ぐ数分、左へ曲るとその角が新喜楽である。せいぜい二十分ほどの道々、あれにするかこれにするか絶えず考えていることもあるが、いつに変らぬこの女将の顔に逢うと、あの作品にするかと踏ん切りのつくような日もあった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第三章」より)
ここに登場する「大柄で、貫禄たっぷりな女将さん」。名前を木村さくさんといいます。
「新喜楽」は戦前、直木賞が創設された昭和10年/1935年に、すでにありました。それどころか、『文藝春秋』誌ができるずっとずっと前、明治のころから、築地で営業していました。それなのに、戦前は選考会場に使われたことはなかったようです。
戦後になってなぜ急に、使われるようになったのでしょうか。
その疑問を解いてくれる文献に、ワタクシ、まだめぐり合っておらず、以下推測になっちゃうんですが。まずひとつ、運営事務の労を減らしたい、っていう主催者側の事情はあったと思います。主催者……要するに文藝春秋幹部クラスの思惑です。
そりゃそうです。毎回毎回、イチから選考会場を選定して、予約の段取りをとって、一度で決まらない場合は二回目の会場、その次の三回目の会場とスケジュールを組み直して、それを直木賞と芥川賞の二つ分こなして……なんてことをやるより、毎期につき選考会は一回、直木賞・芥川賞とも同じ日に、しかもずっと定まった場所で行う、と決めちゃうほうが効率的ですもん。
永井さんは「戦後は新喜楽ときまって、動いたことはないだろう」と言っていましたが、そんなことはありません。戦後もしばらくは、直木賞と芥川賞とで別々の日に選考会が開かれ、そのたびに会場もちがっていました。「錦水」「岡田」「なだ万」「加寿於」「金田中」などの店名が、選考会の開かれた場所として記録にのこっています。
それが、両賞同日の開催となった第30回(昭和28年/1953年下半期)を過ぎて、1年ほどたった第33回(昭和30年/1955年上半期)からは、新喜楽で両賞の同時選考を行う回数が増えていきます。
なんといっても当時の文藝春秋新社社長、日本文学振興会理事長だった佐佐木茂索は、戦後まもないころから、「新喜楽後援会」に参加していたほどです。銀座を愛し、料亭文化を愛し、さらにはきっと女将の人柄を愛したゆえの、新喜楽への肩入れだった、と見たいところです。
「終戦後、あまり時日を経過してなかったと思うが、ある財界人につれられて、そこに出掛けたところ、その財界人が「われわれ二十数人が、新喜楽後援会というものをつくって、この家の再建を援助している」と、一種の自慢のように語ったことである。そして、職業柄そのメンバーを知った時、驚いたのである。その顔触れというのは、東京急行会長の五島慶太老にはじまって、ニッポン放送会長・元通産大臣稲垣平太郎、日興証券会長遠山元一、山一証券会長小池厚之助、元男爵大倉喜七郎、朝日麦酒社長山本為三郎、松竹会長大谷竹次郎、興国人絹パルプ社長金井滋直、前大和証券会長渡辺安太郎、帝国ホテル会長金井寛人、文芸春秋社長佐々木茂索等々、文字通り一流人ばかりであったからだ。」(『財界』昭和30年/1955年1月新春特集号 尾鷲節太「新興行師物語 徳をもつ日本一の女将 木村さく」より)
うわあ、「一流人」を語るにあたって、これだけ肩書きを羅列されると、思わず嘔吐感がこみ上げてきますが、我慢して先に進みましょう。
「新喜楽」と他の料亭とは、何がちがうのか。いろいろあるようなんですが、ひとつ、そこかしこの文章で触れられているのが、「客からの信用」です。たとえば『日本女性人名辞典』(平成10年/1998年10月・日本図書センター刊〔普及版〕)では、木村さくさんを紹介するに、
「新喜楽で行う極秘裏の話は一切外に漏れないという信用から、多くの政財界人に利用された。」
との見解を採用していますし、『週刊読売』の記事でも、その点が大きくピックアップされています。
「新橋が(引用者注:赤坂などの)他の料亭地域と大きく異なっていたのは、口の堅さだった。赤坂の話はどんな極秘裏の話もいつか世間に流れてしまう。しかし、新橋ではどんなことがあっても、高い塀のなかの出来事は、一切外に漏れない、という信用だった。
「新喜楽」はその頂点にあった。それが、秘密の多い政界人を安心させた。(引用者中略)主人となったさくさんは、その初日から、すべての客を玄関で平伏して迎えた。謀議はさくさんの目の前で開始され、さくさんの案内する密室で深まった。」(『週刊読売』昭和56年/1981年3月15日号「日本の政界文化界トップに密室を提供して60年 「新喜楽」女将木村さくさん(96)の通夜の客」より)
ダダもれ文化の華やかな現代日本には、とうてい相容れない舞台ですよなあ。
しかしそんな舞台を目の前にして、1960年当時の日本文学振興会は、「ここだ。直木賞・芥川賞の選考会場にぴったりな場所は、ここだったんだ!」と喜び勇んで涙を流しました。以後、直木賞と芥川賞の選考会はすべて「新喜楽」で行われ、高い塀のなかで決定してきたわけです。
そうです。候補作が発表されただけで、ワーキャー騒がれる。受賞が決まったら決まったで輪をかけて、みんな盛り上がり狂う。だけど、じっさいその途中の、決定過程は、絶対外に洩れない鉄壁の密室で行われる、という。このギャップ。
かように緩急、濃淡、陰影のくっきりしているところが、直木賞・芥川賞の魅力を、よりいっそう高めていることは否めません(……いや、否めるか)。
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