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2012年7月の6件の記事

2012年7月29日 (日)

豊島澂(光風社社長) 3つの受賞作を出しても、なお版元は火の車。それが直木賞。

豊島澂(とよしま・きよし)

  • 大正9年/1920年8月19日生まれ、昭和53年/1978年12月9日没(58歳)。
  • 昭和19年/1944年(23歳)早稲田大学文学部卒。在学中の昭和18年/1943年に学徒出陣。
  • 昭和20年/1945年(24歳)大地書房に入社、その後同社の倒産に伴い、同光社磯部書房に移る。
  • 昭和32年/1957年(36歳)光風社を創業。昭和40年/1965年に倒産し、まもなく光風社書店として再建。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2012年7月22日 (日)

大森望(SF翻訳家) いつのまにやら、直木賞・芥川賞の性質をそのまま体現したかのような人に。

大森望(おおもり・のぞみ)

  • 昭和36年/1961年2月2日生まれ(現在51歳)。
  • 昭和58年/1983年(22歳)京都大学文学部卒。新潮社に入社。在職中よりSF小説の翻訳や、映画・書籍の紹介を行う。
  • 平成3年/1991年(30歳)新潮社を退社。
  • 平成15年/2003年(42歳)エキサイトブックス内に「文学賞メッタ斬り!」対談(対談相手は豊崎由美)が掲載される。

 平成16年/2004年3月以来、『文学賞メッタ斬り!』シリーズは4冊が刊行されてきました(いずれも大森望・豊崎由美・共著、パルコ刊)。まもなく8月には5冊目、「ファイナル」が発売されるそうです。とりあえず、書籍のかたちではそれが一区切りのようで、お疲れさまでした、と言いたい気分です。

 この8年間、直木賞を盛り上げてきた事象として、「文学賞メッタ斬り!」を挙げない人はおりますまい。うちのブログでも、やはり何度か取り上げてきました。

 今日の主役は、コンビのお一人、大森望さんです。

 と言いますのも、アレです。大森さんの「文学賞との関わり方」、あるいは「関わられ方」こそ、ある意味、文学賞(とくに直木賞・芥川賞)そのものを体現している、と言えるからです。

 昔から文学賞は、だいたい「文学の一事象」だととらえられてきました。文学賞に対して物をいう資格があるのは、作家であり文芸評論家であり、または文芸記者、文芸編集者あたりだ、と思われてきたフシがあります。

 しかし、当然だれだって気づいていたはずです。文学賞が文学? んな馬鹿な。

 石原慎太郎が話題になったり、村上龍の風貌が世間に知れ渡ったり、三好京三がボッコボコにされたり、高村薫の発言にミステリー厨が激怒したり。文学賞は、文学なんて別にどーでもよく暮らしているそこらの人たちが、「文学賞は何だかスゴいもの、っていう幻想」を前提に、その場その場で騒ぎに目を向けてきたことで、生き永らえてきた興行ではないか、と。

 つまり、文学賞って、文学専門でない人たちの力で支えられてきたんじゃないのか、と。

 斎藤美奈子さんも、一冊目の『文学賞メッタ斬り!』を書評したときに、こんな感想を述べていました。

「この本は文学賞そのものを俎上にのせ、裁く側である選考委員も裁いてしまえという大胆不敵な試みである。(引用者中略)

 もっとも、このレベルなら文学に多少興味のある人ならだれもが居酒屋談義の話題にしていたような内容ともいえる。」(『週刊朝日』平成16年/2004年4月16日号 齋藤美奈子「本のひとやすみ 巷の騒ぎに背をむけて」より)

 はい。そこ、重要だと思います。この本に付けられた両者の肩書きでいうなら「SF翻訳家」と「ライター」による、居酒屋談義がじつは、文学賞の現状を楽しく見させてくれる、という。

 もちろん、それは二人の芸達者さゆえなんですが、「文学賞」は、文学における既成の主流派でないところで語られても、十分面白い、っていう現実を、まざまざ示してくれました。とくにワタクシ、文学とは無縁な環境で直木賞が大好きになってしまった人間なものですから、もう嬉しいことこのうえない企画でした。

 それだけではありません。そこから「文学賞メッタ斬り!」&大森さんがたどった道のりが道のりでした。いかにも文学賞そのものがたどりそうな道すじを歩んだのです。

 まずは「文学賞メッタ斬り!」の歩みを見てみます。

 この企画はブレイクするや否や、まわりからは「文学賞に対抗するカウンターカルチャー」、「文学賞の裏を暴く、反権力」と見られてしまったのです。本人たちの思惑とは裏腹に。

「前田さん(引用者注:前田塁+)の話を聞いていると、「『文学賞メッタ斬り!』は文学賞の欺瞞を暴いた、だから書評の欺瞞も暴け」というように、汚い大人社会の嘘を暴く役割を期待されている感じがしたんですが、べつにそういうつもりはなくてですね。豊崎さん(引用者注:豊崎由美)の言でいえば、「大相撲も八百長あるけど、八百長叩きも楽しいじゃん」みたいな感じで、もうちょっと別の見方をしましょうと。「いろんなことがあるけれど、それもコミでおもしろければいいじゃないか」という立場なので。もちろん個々のケースとしては、「いくらなんでもこの選考はひどい」みたいなことはありますけれど、必ずしもその嘘を暴こうとしているわけではない。少なくともぼくは社会正義の側に立っているつもりはないんですよ。」(『早稲田文学』2号[平成20年/2008年12月] 「早稲田文学十時間連続シンポジウム ポッド4読者と小説 批評と書評、文学賞」より)

 しかし、本人がどう思おうが、判断するのは読者や世間。つうのは、直木賞や芥川賞がさんざん受けてきた試練です。いや、直木賞・芥川賞に限らず、世にさらされたものは、たいがいそういうもんですけど。

「文学賞や文壇という権威にたてつくカウンター的存在として生まれ、それゆえに衆生の喝采を受けるに至ったにもかかわらず、気づけばおのれ自身が権威と化している。年度版になってからの「メッタ斬り!」シリーズからはそんな腐臭がぷんぷん臭うのだ。」(『週刊現代』平成20年/2008年6月14日号「ナナ氏の書評 反権威のはずがいつの間にか権威に変貌!?」より)

 権威と言いましょうか、スタンダード化してしまったと言いましょうか。新たに文学賞に接する人たち、あるいはそこまで文学賞に興味のなかった人たちが、いまの直木賞を見るときに、どうしても大森・豊崎フィルターから逃れられない、っていう現象は発生したと思います。

 最近、ネットを見ていたら「直木賞・芥川賞候補に、本命・対抗・大穴をつけて予想するのって、メッタ斬り!が発明したものでしょ」みたいな見方があって、感慨深いものがありました。あ、あのう、それってさんざん昔からスポーツ紙とかで行われてきた伝統なんですけども……。

 いやいや。何を言ってけつかる直木賞オタク。誰がどこで発明したかなんて、どーでもいいのさ。何となく聞きかじった知識と、想像・妄想・願望をミックスして語るなんて、文学賞の世界では当たり前ではないか。……ごもっとも。とくに、いま語られている直木賞が面白いのは、おおかた、そのような直木賞観が跋扈しているからであることは、ワタクシも認めざるを得ないのです。

 「文学賞メッタ斬り!」もまた、大森さんや豊崎さん自身の手を離れ、まわりから好き勝手放題に言われる。まさに本家・文学賞の姿を見ているかのようです。ワクワクします。

 ちなみにワタクシは、この企画の大ファンです。じつは、直木賞を権威と見なす人間が一定数いることで直木賞が面白く見えるのと同じように、「文学賞メッタ斬り!」を権威と感じる人がいてくれるほうが面白いよなあ、とこっそり思っています。

 時も時、本日7月22日24時から、第147回の結果編が放送されます。書籍は「ファイナル」だそうですが、お二人の直木賞談義は、ずーっと先まで続けてほしいと願っています。

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2012年7月17日 (火)

第147回直木賞(平成24年/2012年上半期)決定の夜に

 7月17日、決まらないわけがないのです。第147回(平成24年/2012年・上半期)直木賞が決まってしまいました。

 今回は、上位の二作品『鍵のない夢を見る』と『楽園のカンヴァス』がかなり接近した票だったそうです。山周賞に続いて二度はさすがに負けないわよ!の、頼もしい受賞者が誕生して、ホッとしました。……と言いつつ、結局は直木賞オタクなんで、毎回受賞者が決まれば、なんだかんだ勝手にホッとしているんですけど。

 そうだ。ひと息ついている場合じゃありませんでした。まずは、直木賞候補の打診をイヤがらずに受けて、日本の片隅でほそぼそ生きている一人の直木賞オタクをワクワクさせてくれた、4人の方にお礼を申し上げなければなりません。

 直木賞をとらずとも、『楽園のカンヴァス』はまだまだ読者層を広げていくんでしょうね。原田マハさんの「情熱」に、ワタクシも圧倒された口です。うちのサイトで原田さんの近年の著作一覧をまとめていて、その旺盛な執筆量にびっくりしてしまいました。きっと今後も引く手あまた、でしょうが、ゆっくりじっくりと、アートの素晴らしさ、また教えてください。

 宮内悠介さんが直木賞とったら爽快だよなあ、とニヤニヤする体験が何日間もできて、幸せな時間でした。ほんとに勝手なハナシですが、じつは直木賞オタクにとっては、この体験がこたえられないんですよねえ。直木賞をとらなくても何ひとつ影響なく活躍している先輩作家がこれだけいますので、宮内さんもきっとその一人になるんだろうなあ。……って、アレ? 今後もずっと受賞できないかのようなこと言って、すみません。

 今日もお仕事お疲れさまです。完全に〈直木賞〉の側のほうが食われちゃいましたね、朝井リョウさんには。だいたいワタクシは、すでに話題作を出していて、しかも候補になったこと自体がニュースになる、ってことはその作家のほうが直木賞を超えた存在である、と思うので、ああ、直木賞、朝井さんに負けてるなあ、と思わされたことでした。直木賞の気持ちを代弁させてもらいますと、「また、お手合わせお願いします」。

 貫井徳郎さん。貫井さあん! 『新月譚』、ワタクシの心には突き刺さりましたよ。直木賞には何の興味もない圧倒的多数の読者たちにも支持されつつ、ワタクシのような直木賞オタクまで喜ばせるなんて、もう。何ちゅうテクニシャン(←ベテラン作家に失礼なこと申しました)。受賞しようがしまいが、この作品は直木賞史に残ることは確定しているわけですので、大切に語り継いでいきたいと思います。きっと何十年後かに現れる直木賞オタクも、これ読んで、貫井さんのことが好きになりますよお。

          ○

 お若いのに安定感ありまくりで、「辻村深月、直木賞受賞」と言われて、どこにも不自然さが見当らないという。過去2回(第142回第145回)のときに書いた自分自身のコメントを見返してみて、ああ、今回だめだったら、もう書くことがないネタ切れ状態だったことに気づきました。その点でも今回の受賞で、ホッとひと息。

 ……というのは冗談ですが、『鍵のない夢を見る』では「不穏なツジムラ」の姿を見せてくれて、グッときました。うまい。うまいっすねえ辻村さん。行く手には、「直木賞受賞者だととる確率が上がる」数々の文学賞が待っています。心あたたかなファンたちもたくさんいるようですし、どうかおからだに気をつけて、ぐいぐいとエンタメ小説界を牽引していってやってください。

 おそらく作品の映像化もこれから続々と……って、あ。この話題は余計でしたね。失礼をば。

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2012年7月15日 (日)

第147回直木賞(平成24年/2012年上半期)発表翌日のニュース予定稿。

 第147回(平成24年/2012年上半期)の選考会が近づいてきました。決定する前の、このタイミングでしか味わえない、この時期ならではの風物詩、っていうものが直木賞界隈には存在します。

 最も代表的な例は「予想」でしょう。うちのブログでも以前から、事あるごとに取り上げてきました。「予想」、それは直木賞の一部にして、いまやそれ単体のみでも十分に魅力を感じることのできる、別の事象といえるほどまでに成長、発展(?)してきています。

 しかし、今日のエントリーが注目するのは「予想」ではありません。予想に比べればはるかに影が薄いんですが、しかし、今の時期にしか生まれ得ない、賞味期限のみじかい期間限定の美味。あるいは珍味。……「ニュース予定稿」です。

 いまさら説明するのも恥ずかしいんですが、いちおう、予定稿とは何かを書いておきます。

 直木賞が決定しますと、かならず翌日の新聞に、受賞の記事が載ります。それこそ石原慎太郎さんが第34回(昭和30年/1955年下半期)の芥川賞を受賞するずっと以前から、直木賞と芥川賞の決定報は、ほぼ毎回、新聞で扱われていました。長い歴史があります。

 それでも戦後しばらくは、受賞者の氏名と略歴を紹介する程度のものでした。それが時代を経るに従ってだんだん充実したものになっていったのはご存じのとおり。昭和30年代には、一人の人物を囲みで紹介するコーナーの定番として、直木賞・芥川賞受賞者が登場するようになりました。

 受賞インタビューは、当然受賞後に行うのが当たり前でした。これも次第に進化(?)していきまして、事前に候補者が判明しているんだから、選考前に事前取材したっていいだろう、と各紙が判断しはじめます。備えあれば憂いなし。ってことで、受賞が決まる前に、すべての候補者に関して「受賞したときに載せる記事」=予定稿を、ほぼ書いておくのが主流となり、現在にいたっているわけです。

 「使われるかもしれない記事」が、そのときを待って、各新聞社で眠っている。ああ、想像しただけでヨダレが出てきますね。何が受賞するのかを想像する以上に(以上に、ってことはないですか)、翌日の新聞にどんなインタビュー記事が出るのか想像すると、ワクワクしてきます。

 しかし、予定稿ファンには悩みがあります。現実に読むことができるのは、ほんとうに受賞した人の分だけで、他の候補者のものにはお目にかかることができないのです。悲しい。悲しすぎる。ああ、予定稿。捨てないで。

 ……と、ワタクシの切実なる悩みを憐れんだ心やさしい知り合いの新聞記者がおりまして、今回の直木賞候補者、朝井リョウ辻村深月貫井徳郎原田マハ宮内悠介、各氏それぞれが受賞した場合を想定した、貴重な予定稿を見せてくれることになりました。以下、転載させていただきまして、全国の予定稿ファンといっしょに楽しみたいと思います。

          ○

 まずは、この作家の分から。

「「僕より立派なものを書いている先輩作家はたくさんいる。ほんとに僕なんかでいいのかなと」。

 直木賞の歴史のなかで男性では最も若い受賞者となった。

 受賞作は現代の二十歳前後の男女を描いた連作集。選考委員からは「装いはイマドキでも、正統派の青春小説。若者の悩みや希望をすくい取る才能は、天賦のもの」と称賛された。

 デビューは大学生時代、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞。以降二年で四作の小説を発表し、作品ごとに若手の注目株として期待を集めてきた。しかし本人はいたって冷静。「自分の妄想を書いて、ほんとにお金をいただいていいのかな、という感じ。同じ大学で純文学の好きな人に言わせると、僕の小説なんか超嫌いだそうです」。

 今年の春、就職して会社員となった。執筆の合間に働く、といった気持ちはまったくない。「毎日叱られて、きちんと〈新社会人〉やっていますよ。会社員と作家が両立していけるかは、僕にもわかりません」と、平成生まれ世代らしく自然体で気負ったところを感じさせない。しかし最後に力強く断言した。「小説は書き続けます」。小説界に頼もしい新人が登場した。」

 ちなみに担当記者いわく、「選考委員が評している箇所は、じっさいの会見を聞いてから、差し替えます」とのこと。なるほど。どんな選後評がきても、だいじょうぶなように書いてあるわけですね。さすがです。

         ○

 つづきまして二人目。

「ここ数年、立てつづけに文学賞の候補に挙がり、常に周囲から直木賞を期待されてきた。「プレッシャーなんて感じる余裕はありませんでした。多くの人に自分の物語が読んでもらえることだけが嬉しくて」。

 このたび第百四十七回の直木賞を、三度目の候補で受賞。感想を問われると「まわりの人たちの応援や励ましのおかげだと思っています」と謙虚に語る。

 子供のころから学校の図書館に入り浸った。一冊ごとに、これまで見たことのなかった世界に触れられる楽しみから、読書に夢中になった。自分の書いた小説で、自分が味わってきた読書の喜びを、他の人が感じてくれることが最高の幸せ。作家になってから、そう実感するようになったという。

 デビューはミステリー小説だったが、いまではその枠に収まらない小説を生み出している。受賞作は、普通に暮らす人たちがさまざまなきっかけで犯罪に手を染める心理を巧みに描いた短篇集。

 「人間を描いていきたいという思いは強くあります。今回の小説は、これまでにもまして、経験豊富な世代の方にも読んでもらえることを意識して書きました。その作品で賞をいただけたことは光栄です。これから新しい試みにチャレンジしていく勇気もいただいた気がします」。」

 ほほう。この記者は、「若者に支持されてきた」みたいなハナシをあえて強調せずに、記事をまとめたのかな。新聞の主な読者層である、おじさん・おばさん世代を意識してのことなんだろうなあ。

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2012年7月 8日 (日)

木村さく(「新喜楽」女将) ほかの並み居るライバル料亭をおさえて、文春幹部の心をつかんだ、デキる経営者。

木村さく(きむら・さく)

  • 明治17年/1884年8月生まれ、昭和56年/1981年2月25日没(96歳)。
  • 明治29年/1896年頃(12歳)赤坂の料亭「兵庫屋」に下働きとして出る。
  • 大正6年/1917年(32歳)築地の料亭「新喜楽」を、先代女将の子供から譲り受け二代目女将に。
  • 昭和25年/1950年頃(65歳)「新喜楽」が直木賞・芥川賞選考会場のひとつとして使われるようになる。
  • 昭和36年/1961年(76歳)より直木賞・芥川賞選考会はすべて「新喜楽」で行われるようになる。

 7月、あらたな直木賞候補作が発表されました。そんな大事な週なのに、文学や小説とまるで縁のない人物、きっと直木賞好きですら首をかしげる人物を、いま、あえて取り上げようという。

 ええ、この偏屈さこそ、「直木賞のすべて」ブログの特徴だと自負しています。そうさ、胸を張っていこうぜ。

 木村さくさん。東京築地の料亭「新喜楽」で60年以上にわたって女将を務めました。彼女がいなかったら、直木賞・芥川賞の歴史は変わっていたかもしれない、……かどうかは知りませんが、両賞がつつがなく運営されることに尽力した、裏方中の裏方であることは確かです。

 まずは、賞の運営事務と、選考委員と、両方を経験した永井龍男さんの言葉を紹介しておきましょう。

「戦前戦中の銓衡会場は、芝公園の浪花家とか赤坂山王の星ヶ岡茶寮とかを、交互に使った。前後三回に及ぶことも珍しくはなかったので、気分を変えるためにもそれが必要だったが、戦後は築地の新喜楽ときまって、今日まで動いたことは一度もないだろう。

 大柄で、貫禄たっぷりな女将さんが、玄関内にどっしり座を構えてわれわれを迎える。

(引用者中略)新橋駅からぶらぶら銀座通りを歩き、昭和通りを突切って築地川添いに真直ぐ数分、左へ曲るとその角が新喜楽である。せいぜい二十分ほどの道々、あれにするかこれにするか絶えず考えていることもあるが、いつに変らぬこの女将の顔に逢うと、あの作品にするかと踏ん切りのつくような日もあった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第三章」より)

 ここに登場する「大柄で、貫禄たっぷりな女将さん」。名前を木村さくさんといいます。

 「新喜楽」は戦前、直木賞が創設された昭和10年/1935年に、すでにありました。それどころか、『文藝春秋』誌ができるずっとずっと前、明治のころから、築地で営業していました。それなのに、戦前は選考会場に使われたことはなかったようです。

 戦後になってなぜ急に、使われるようになったのでしょうか。

 その疑問を解いてくれる文献に、ワタクシ、まだめぐり合っておらず、以下推測になっちゃうんですが。まずひとつ、運営事務の労を減らしたい、っていう主催者側の事情はあったと思います。主催者……要するに文藝春秋幹部クラスの思惑です。

 そりゃそうです。毎回毎回、イチから選考会場を選定して、予約の段取りをとって、一度で決まらない場合は二回目の会場、その次の三回目の会場とスケジュールを組み直して、それを直木賞と芥川賞の二つ分こなして……なんてことをやるより、毎期につき選考会は一回、直木賞・芥川賞とも同じ日に、しかもずっと定まった場所で行う、と決めちゃうほうが効率的ですもん。

 永井さんは「戦後は新喜楽ときまって、動いたことはないだろう」と言っていましたが、そんなことはありません。戦後もしばらくは、直木賞と芥川賞とで別々の日に選考会が開かれ、そのたびに会場もちがっていました。「錦水」「岡田」「なだ万」「加寿於」「金田中」などの店名が、選考会の開かれた場所として記録にのこっています。

 それが、両賞同日の開催となった第30回(昭和28年/1953年下半期)を過ぎて、1年ほどたった第33回(昭和30年/1955年上半期)からは、新喜楽で両賞の同時選考を行う回数が増えていきます。

 なんといっても当時の文藝春秋新社社長、日本文学振興会理事長だった佐佐木茂索は、戦後まもないころから、「新喜楽後援会」に参加していたほどです。銀座を愛し、料亭文化を愛し、さらにはきっと女将の人柄を愛したゆえの、新喜楽への肩入れだった、と見たいところです。

「終戦後、あまり時日を経過してなかったと思うが、ある財界人につれられて、そこに出掛けたところ、その財界人が「われわれ二十数人が、新喜楽後援会というものをつくって、この家の再建を援助している」と、一種の自慢のように語ったことである。そして、職業柄そのメンバーを知った時、驚いたのである。その顔触れというのは、東京急行会長の五島慶太老にはじまって、ニッポン放送会長・元通産大臣稲垣平太郎、日興証券会長遠山元一、山一証券会長小池厚之助、元男爵大倉喜七郎、朝日麦酒社長山本為三郎、松竹会長大谷竹次郎、興国人絹パルプ社長金井滋直、前大和証券会長渡辺安太郎、帝国ホテル会長金井寛人、文芸春秋社長佐々木茂索等々、文字通り一流人ばかりであったからだ。」(『財界』昭和30年/1955年1月新春特集号 尾鷲節太「新興行師物語 徳をもつ日本一の女将 木村さく」より)

 うわあ、「一流人」を語るにあたって、これだけ肩書きを羅列されると、思わず嘔吐感がこみ上げてきますが、我慢して先に進みましょう。

 「新喜楽」と他の料亭とは、何がちがうのか。いろいろあるようなんですが、ひとつ、そこかしこの文章で触れられているのが、「客からの信用」です。たとえば『日本女性人名辞典』(平成10年/1998年10月・日本図書センター刊〔普及版〕)では、木村さくさんを紹介するに、

「新喜楽で行う極秘裏の話は一切外に漏れないという信用から、多くの政財界人に利用された。」

 との見解を採用していますし、『週刊読売』の記事でも、その点が大きくピックアップされています。

「新橋が(引用者注:赤坂などの)他の料亭地域と大きく異なっていたのは、口の堅さだった。赤坂の話はどんな極秘裏の話もいつか世間に流れてしまう。しかし、新橋ではどんなことがあっても、高い塀のなかの出来事は、一切外に漏れない、という信用だった。

 「新喜楽」はその頂点にあった。それが、秘密の多い政界人を安心させた。(引用者中略)主人となったさくさんは、その初日から、すべての客を玄関で平伏して迎えた。謀議はさくさんの目の前で開始され、さくさんの案内する密室で深まった。」(『週刊読売』昭和56年/1981年3月15日号「日本の政界文化界トップに密室を提供して60年 「新喜楽」女将木村さくさん(96)の通夜の客」より)

 ダダもれ文化の華やかな現代日本には、とうてい相容れない舞台ですよなあ。

 しかしそんな舞台を目の前にして、1960年当時の日本文学振興会は、「ここだ。直木賞・芥川賞の選考会場にぴったりな場所は、ここだったんだ!」と喜び勇んで涙を流しました。以後、直木賞と芥川賞の選考会はすべて「新喜楽」で行われ、高い塀のなかで決定してきたわけです。

 そうです。候補作が発表されただけで、ワーキャー騒がれる。受賞が決まったら決まったで輪をかけて、みんな盛り上がり狂う。だけど、じっさいその途中の、決定過程は、絶対外に洩れない鉄壁の密室で行われる、という。このギャップ。

 かように緩急、濃淡、陰影のくっきりしているところが、直木賞・芥川賞の魅力を、よりいっそう高めていることは否めません(……いや、否めるか)。

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2012年7月 1日 (日)

小松伸六(文芸評論家) 同人雑誌の小説のなかから賞を選ぶんだから、日本の文学賞はけっこうフェアだ、と指摘。

小松伸六(こまつ・しんろく)

  • 大正3年/1914年9月28日生まれ、平成18年/2006年4月20日没(91歳)。
  • 昭和15年/1940年(25歳)東京帝国大学独文科卒。
  • 昭和30年/1955年(40歳)立教大学講師に就任(のち教授)。昭和55年/1980年(65歳)定年退職。
  • 昭和32年/1957年(42歳)より『文學界』「同人雑誌評」を久保田正文・駒田信二・林富士馬とともに担当。昭和56年/1981年(66歳)まで。

 一時期の芥川賞は、同人誌をやっている文学青年・文学少女たちに支えられていました。彼らの多くは、芥川賞をとることを夢みていました。あるいは芥川賞を強烈に意識していました。そのおかげで、芥川賞が余計に祀り上げられていった、って構図です。

 直木賞のほうはそれほどでもありません。でも、芥川賞人気が圧倒的すぎて、自然とそれに引きずられます。文藝春秋は同人誌作家群のなかからも、直木賞をとれそうな若芽を探しました。

 その視点で見るとき、『文學界』の名物コーナー「同人雑誌評」は、確実に直木賞のひとつの歴史を築きました。

 ……といったところが、同人雑誌推薦作として『文學界』に転載され、そのまま直木賞候補になった顔ぶれです。直木賞オタクにとってはおなじみの面々ばかりですが、おそらく、「誰だそれ?」と思う人のほうが多いでしょう。

 直木賞とは、売れっ子や、すでにいくつか賞をとって著作もたくさんあるような、そんなエンタメ作家のための賞ではない。受賞しなけりゃいつかは消えていくような、無名の同人誌作家にも夢を見させる。そんな役割を、直木賞が担っていたこともあったわけです。

 今日の主役、小松伸六さんも言っています。

「昼は働き、夜、同人誌のために筆をとり、なけなしの身ぜにをきって同人雑誌を出すというのは、大へん日本的な慣習なのだ。名もなく、貧しく美しく、そしていつか消えてゆく、それが日本の同人誌の運命なのである。」(『読売新聞』夕刊 昭和46年/1971年12月25日 小松伸六「同人雑誌の運命」より)

 「小松伸六って、そいつこそ誰?」とか言わないでくださいな。

 小松さんは、当時の『文學界』「同人雑誌評」の担当者。地方の大学(や旧制高校)で教鞭をとった経験もあるからか、東京以外の同人誌作家にひとかたならぬ期待を寄せていました。

 そのうえ、専門がドイツ文学ときています。日本の官制文学賞の嚆矢「文藝選奨」がそのお手本としたシラー賞発祥の地、プロイセンの流れを汲むドイツです。小松さんは河盛好蔵さんと並び、日本の文学賞はヨーロッパに比べてまだまだ少なすぎる、もっと多くたっていい、と主張した文学賞拡大主義者のひとりでもありました。

小松 (引用者中略)ドイツでは新人が短篇をいくら書いても賞の対象にはならないし、いわゆる文壇にも出られないわけです。必ず長篇でなくちゃダメだ。だからどうしても、新人の作品は大学の先生の推せんだとか、有名な作家の紹介で出版社にもってゆき、単行本として出されるようにきいております。(引用者中略)フランスの場合なんか賞になるのはサロンの中でいろいろ運動して賞をもらうという話も聞くのですから、それに比べたら日本の方がフェアな気もするので、同人雑誌の存在は決して悪いものじゃないと思うんです。短篇が日本で盛んだというのもやっぱり同人雑誌からの逆影響があるんだろうと思うんですけど。

記者 先月のこの対談で文学賞のことをやりまして、その中で河盛さんが文学賞はもっとたくさんあってもいいという発言をしていらっしゃる。やはり同人雑誌の作家たちにとってその方が望ましいわけでしょうね。

小松 たくさんあった方がいいんじゃないでしょうか。フランスはものすごく多いそうです。ドイツだってかなりありますし、地方は地方でずいぶんやっています。」(『風景』昭和37年/1962年6月号 浅見淵、小松伸六「対談 同人雑誌の諸問題」より)

 「貧しく美しい」同人雑誌作家に、少しでも光が当てられるように、文学賞の数をもっと増やせ、みたいなことでしょうか。

 その後、日本では、小松さんのお好きなドイツのごとく、泉鏡花文学賞を皮きりに、地方都市がさまざま文学賞をおっ始めるようになりました。まだまだフランスやドイツには負けるかもしれません。でも、日本の文学賞の数もそこそこ増えました。ああ、よかったね小松さん。よかったよかった。

 ……と喜びたいところですが、物事はうまくいかないようです。

 ごぞんじのとおり直木賞も芥川賞も、「同人雑誌から新人を発掘」なんて事業からは撤退してしまいました。当時、小松さんは「これに比べれば日本のほうがマシ」とさえ言って、フランスの汚濁まみれの文学賞界を紹介していましたが、いまワタクシたちの前に展開されているのは、まさにフランスっぽい文学賞界、のようでもあります。

「ボワデッフル「小説はどこへ行くか」(望月芳郎訳、講談社)のなかに「文学賞」という項目がある。フランスの文学賞を知りたい方は、ぜひ、お読みになるといい。(引用者中略)

 ゴンクール賞受賞作品は読者数を普通より十万人増加させ、フェミナ賞、ルノード賞は約八万人、アンテラリエ賞は(ジャーナリスト作家にあたえられる)約五万人の読者を増加さすそうだから、文学賞は商策となり、一部からは「年末の文学賞こそ諸悪の根源」と批判されるわけだ。

 それを裏づけるように「才能ある作家でも受賞の翌年には、読者の九割を失い、他の受賞者はすべてを失い、“名前だけ”の作家になってしまっている。もうけたのは出版社だけだ」とボワデッフルは書いている。なお、ルナール、ジード、モーリャック、サン・テクジュペリ、サルトル、カミユなどはゴンクール賞をもらっていないのは、その委員会の選択力の弱さによるものだという。日本ではどうだろうか。」(『ちくま』11号[昭和45年/1970年2月] 小松伸六「文学賞の話」より)

 いやあ。フランスの文学賞界隈も、泥だんごの投げつけ合いみたいで楽しそうだなあ。日本が、そんなフランスのようになっていくのは、歓迎このうえありませんよ。ワタクシみたいな文学賞好きにとっては。

 でもまあ、小松さんは地味な同人作家たちの営為が大好きな人でしたもんね。そんな日本の文学賞の変節を喜んでいたとは、とうてい思えません。

「「地道な同人誌」に毎月、目を通し、そこからいい作品を発見するというのが、私の仕事の一つで、苦しい実務だとはおもうものの、Hな中間小説をよみまくるよりは、おさなくとも「文学の根」をもつ同人誌小説のほうが、はるかに救いになることだけは事実なのである。(引用者中略)

 文学賞の功罪は、私にもよくわからぬことだが、それがひとつのはげみになる以上、新人顕彰の文学賞はあった方がいい。」(同)

 縮小傾向ながらも、いまも日本全国には同人誌がたくさんあります。そこで小説書いている人たちにとって、芥川賞は励みになっているんでしょうか。いや、さらに言ってしまえば、直木賞は励みになっているんでしょうか。

 小松さんの描いた「理想の文学賞像」どおりでは決してないにしても、その性質の一部でも、いまの直木賞に残っていてくれれば、いいんですけども。

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