鷲尾洋三(『文藝春秋』編集長、日本文学振興会常務理事) 「出版社のための直木賞」の選考会をどう司会進行するか、礎を築く。
鷲尾洋三(わしお・ようぞう)
- 明治41年/1908年9月18日生まれ、昭和52年/1977年4月26日没(68歳)。
- 昭和9年/1934年(25歳)文藝春秋社入社。
- 昭和21年/1946年(37歳)文藝春秋新社の設立に参加、『文藝春秋』編集長に。
- 昭和24年/1949年(40歳)より戦後復活した芥川賞の選考会司会を担当(のちに直木賞の選考会司会も)。
ああ。「直木賞(裏)人物事典」というより、「文藝春秋編集者事典」になっていきそうな不穏な予感がしてきました。それは本意ではないんですけど、しかたない、直木賞は文藝春秋のものですからね。
そうは言っても、鷲尾洋三さんです。「芥川賞(裏)人物事典」であれば何の問題もありません。何だ何だ、何を澄まして、直木賞専門ブログごときが、鷲尾さんについて書くんだ、場違いも甚だしいぞ、と怒る人たちもいることでしょう。ワタクシもそう思います。
戦前の鷲尾さんは、直木賞のみならず、芥川賞ともあまり関わりがなかったそうです。ただ、佐佐木茂索派だったことは確かなようで、戦後、新社を設立するさいには、佐佐木さんを担ぎ上げる社員代表五人衆のひとりとなります。
「新社創立当時の陣容は、社長佐佐木茂索は云うまでもないが、編集局長池島信平、業務担当花房満三郎、出版部長澤村三木男、「文藝春秋」編集長鷲尾洋三――間もなく(引用者注:昭和21年/1946年)秋に「オール読物」が復刊され、編集長車谷弘、といったところである。」(昭和45年/1970年3月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『回想の作家たち』所収「佐佐木茂索とわたし」より)
文春が解散、新社の誕生。この間、直木賞・芥川賞の運営機関だった日本文学振興会(以下「振興会」と略す)は、生きながらえていたものの休止状態でした。今後、両賞をどうするのか、といった議論はさまざまあったらしいんですが、理事長菊池寛の裁断により、直木賞は、香西昇さんらのいる昭和書房(のち日比谷出版社)に委嘱されることに決定。文藝春秋新社は芥川賞のみを引き継ぐことになりました。
さて。ここで気になる点があります。委嘱先の企業が別々になって、両賞の選考会は、誰がどのような立場で司会役を務めたんだろう、ってことです。
戦前は、振興会の理事だった永井龍男さんが担っていました。
「私(引用者注:宇野浩二)は、第六回から第十六回までの、芥川賞の詮衡委員と、芥川賞詮衡の主査と、両方、まがりなりに、したが、その間、常任幹事の永井龍男の熱心さに、しじゅう、はげまされた。誠に、芥川賞の第一回から第二十回までの詮衡が、まがりなりにも一回も休まないで、つづいたのは、誰でもない、唯一人、永井龍男のお蔭である。」(宇野浩二「回想の芥川賞」より)
と宇野浩二さんは永井さんの功績を書きのこしていますが、当の永井さんは、宇野さんについてこんな描写をしています。
「(引用者注:選考会の)席上、この人ほど口をきかぬ委員も珍しく、新参加というような遠慮があってはと私は心配し、一応全委員の発言が終ると、宇野さん如何でしょうと、必ずこちらから声をかけた。(引用者中略)その候補作が気に入らなければ、面長で額の禿げ上った顔を横に振るか、「だめ」とたった一言洩らすだけであった。これは委員初参加以来辞任するまで少しも変らなかったが、「その作品は、私のところへは来ていないので読まなかった」と口外したことも何回かあった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より)
永井さんひとりが司会だったかはわかりませんが、少なくとも、委員に発言を促すぐらいの役目は果たしていたと見て取れます。
昭和18年/1943年になりまして、佐佐木・永井グループは、文春内の権力争いに敗北しました。そこからの3~4回の両賞がどんな選考会を開いたのか、って話題はとりあえず今週は飛ばしまして、いよいよ戦後。永井さんの頃の伝統を受け継ぐのであれば、選考会の司会は、振興会から出ることになります。その職責に就いたのが、そう、鷲尾洋三さんでした。
戦後復活から3年たってはいますが、第26回(昭和26年/1951年・下半期)のことを回想した鷲尾さんの文章を引いてみます。
「「イエスの裔」が直木賞の候補作に上ったと聞いてから、蔭ながら力瘤を入れていた奥野(引用者注:奥野信太郎)さんは、受賞がきまるとわがことのように喜んだ。
「柴田(引用者注:柴田錬三郎)はね、シナの古典にもなかなか詳しいし、ちょっとした雑学者だし、それにイマジネーションは豊かだ。構成力もあると思う。きっと伸びるよ、きみ……」
と、相好をくずしてわたしに云ったりした。そのころ、わたしは「日本文学振興会」の常務理事とやらで、不手際ながら芥川・直木両賞の詮衡会議の司会をつとめていた。そんな関係もあって、「イエスの裔」の受賞が決るまでの会議の空気など、奥野さんにかいつまんで説明したようにおぼえている。」(前掲『回想の作家たち』所収「東京の人・奥野信太郎」より)
いいなあ、奥野さん。ワタクシも鷲尾さんの口から、会議の空気とか聞いてみたかったぞ。
なんちゅう叶わぬ夢はいいとしまして。鷲尾さん、別の文ではこんな発言までして、ワタクシの度肝を抜いてくれます。
「戦後の直木賞の詮衡会議には、わたしは欠かさず陪席していると思うが、大佛(引用者注:大佛次郎)さんの作品鑑賞の基準はきわめて豁達で、小説という形式に鹿爪らしく拘泥しないようにも感じられる。」(昭和47年/1972年9月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『忘れ得ぬ人々』所収「大佛次郎」より)
え? まじ? 「戦後欠かさず」ってことは、つまり、あなた、他社が仕切った第21回・第22回の直木賞選考会にも顔を出していたんですか。もしも振興会常務理事の肩書でもって、昭和書房・日比谷出版の直木賞に乗り込んでいたのだとしたら、面白いなあ。いや、鷲尾さんの記憶が正しいかどうかは、ずいぶんあやしいんですけど。
あやしいんですが、鷲尾さんの回想文を読んでいると、明らかにひとつの推測が浮かんできます。昔は直木賞と芥川賞の二つの選考会は、同一人物が司会を行なっていた。それらを分業するようになったのはいつからだろう、選考会が同日同時刻に行われるようになった第30回(昭和28年/1953年・下半期)以降なのかなあ、と。
○
……なあんていう推測は浅はかだぞ、愚か者め、といったことを教えてくれるのも、また、鷲尾洋三という人なのでした。
そこに触れる前に、まずひとつの事件をご紹介しなければなりません。かの有名な松本清張「或る『小倉日記』伝」横すべり事件です。
鷲尾さんはこのとき、直木賞・芥川賞ふたつの選考会を仕切っていました。そんな人ならではの述懐が残っています。
「戦後、当初のうち芥川賞と直木賞とは、詮衡会議が別々の日にひらかれていた。
昭和二十七年下期、(引用者中略)直木賞の詮衡会議の方が、芥川賞より一週間ほど早く開かれたのである。その早さが、そういって良ければ、松本氏にもわたしたちにも幸いした。(引用者中略)
直木賞の詮衡会議がはじまると間もなく、当時は芥川賞ではなしに直木賞の委員だった永井龍男氏が、
「松本清張という人の“或る『小倉日記』伝”というのは、なかなか立派な作品だが、これは直木賞の作品ではなく、むしろ芥川賞候補の作品だね」
と云った。わたしは三、四日まえに「小倉日記」に目を通し、いくらか永井さんに同感めいた感じを抱いていたから、云われて少し慌てた。(引用者中略)
清張さんの運が好かったと云えば、「文藝春秋」の首脳陣が責任を回避するに似て、失礼に当るのは百も承知だが、永井さんの提唱がなければ、「小倉日記」の運命はどうなったか解らない。そういう意味では、確かに清張さんは好運だった。」(前掲『回想の作家たち』所収「芥川・直木賞詮衡委員の憶い出」より)
「少し慌てた」やら「失礼に当る」やら。正直な言葉遣いに、好感を抱いちゃいますよね。
たしかに、当の運営者・文春の人間が「松本清張は幸運だった」みたいな紋切型の解釈を、ぬけぬけと語っていたとしたら、オイオイ、って思いますもん。そりゃあ文春の人たちだって、見込み違いはしでかします。芥川賞の予選通過作にすべきものを、直木賞のそれにしちゃったり。あるいは、その逆にしちゃったり。
でも、それをただしてくれる選考委員がいました。文春側としては慌てるでしょう、また指摘されたことは幸いだったでしょう。以前にもこの件に触れたことがありますが、現実的にこの僥倖が生じ得たのは、直木賞と芥川賞の選考会が別々の日に開催されていたからこそでした。
そういう利点もあることですし、いっそ、もう一度、別日開催に戻すのも手かもしれないですよねえ。いまみたいに同日開催するより、ひょっとして、新たな両賞の姿が展開していくかもしれませんし。
理由は知りませんが、別日開催だった両賞の選考会は、第30回(昭和28年/1953年・下半期)から同じ日に行われることになりました。しかし、そうなると、問題が出てきます。司会ひとりでは足りなくなるわけです。
ははあ。直木賞は『オール讀物』編集長が、芥川賞は『文藝春秋』編集長が、それぞれ担当するようになったのは、そこからか。
と思ったんですが、鷲尾さん、その推測に待ったをかけます。第34回(昭和30年/1955年・下半期)を思い起こして、次のように語っているんです。
「第三四回芥川賞は石原慎太郎氏の「太陽の季節」と決ったが、この時分には、芥川賞と直木賞とが、同日同時刻に、同じ料亭「新喜楽」で、別々の部屋で行われるようになっていた。わたしが担当の直木賞の会議をすませてから、芥川賞の座敷へ入ると、入った途端に、議論が白熱の極点に達しているのが、ピリリと皮膚に感じられた。」(同)
ん? 「担当の直木賞」って何ですか。当時の『オール讀物』編集長、小野詮造さんが直木賞の司会をしていたんじゃなかったんですか。
『オール讀物』の編集長など一度もしたことのない鷲尾さんが、司会ひとり体制の名残りで、そのまま直木賞の司会をしていたのか。それとも、司会役とは別に、振興会の理事が「担当」として同席しているものなのか。そして鷲尾さんぐらい偉くなると、担当でもない賞のほうにも自由に出入りできるものなのか。
よくわかりません。ただ、わからないながらも、鷲尾さんが芥川賞だけでなく、直木賞の運営にも尽力してくれていたことはわかります。毎回陪席していた、っつう彼の働きが、直木賞をつつがなく継続させる一助となっていたのはたしかでしょうし、だからうちのブログで取り上げたっていいじゃないですか、怒らないでください、芥川賞ファンのみなさん。
ええと、芥川賞に関心をもつ方にとって、鷲尾さんといえば、別の一面で強烈な印象をのこしているかもしれません。彼こそ「文藝春秋の社員が、選考会を巧みにリードして、社に都合のよい授賞へ導く」悪役の原型となった人だからです。ほんとうはその面にも触れなきゃいけないんでしょう。だけど、ほぼ芥川賞のハナシになっちゃうので以下割愛します。
……割愛しようと思ったんですが、すみません、宇野浩二さんの選評だけ紹介させてください。芥川賞選考会の司会役、鷲尾洋三さんについて費やされた指摘の数々です。
「文藝春秋の芥川賞の係りの人も、この(引用者注:井上靖の)『闘牛』がこんどの芥川賞になることが、あたかも、前から、きまってゐたかのやうな『けはひ』をしめした。」(第22回選評「読後感」より)
「第一回の会の時から、「なるほど、田宮(引用者注:田宮虎彦)は、うまいけれど、すでに、『中央公論』、『世界』、『展望』、その他の、いはゆる、一流の雑誌に、作品を、出してゐるから、今さら、田宮の小説を、芥川賞として、雑誌に、出しても、『文藝春秋』のテガラにならぬ、」とでも思って、もやもやしてゐたらしい、文藝春秋新社の係りの人たちは、坂口(引用者注:坂口安吾)が、いきほひよく調子づいた声で、(引用者注:辻亮一の)『異邦人』を激賞する説を延べはじめると、文字どほり、『愁眉』をひらいた顔つきになった。」(第23回選評「銓衡感」より)
「文藝春秋新社が目でたく創立し、昭和二十四年の上半期に、芥川賞の制度が復興してから、その銓衡会には、鷲尾洋三が、司会者となり進行係となった。その時から鷲尾が、候補作品と、名を一と通り読みあげてから、各委員のだいたいの意見を聞きながら、『芥川賞』に該当しない作品の題名を一つ一つ消してゆくといふやうな方法を取った。」(第25回選評「銓衡難」より)
戦前、選考委員である作家たちが選考の主役だったころから転じ、戦後、文藝春秋新社という出版社が、その座にすわった時代。鷲尾さん(だけじゃなく、司会は複数人で行なっていた説もありますが)が手さぐりで、出版人・編集者としての文学賞選考の司会進行のありかたを模索し、それが現在の直木賞・芥川賞のそれの礎となっています。
その意味でも鷲尾洋三さん、直木賞史に欠かせないひとりと言えるでしょう。
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