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2012年6月の5件の記事

2012年6月24日 (日)

鷲尾洋三(『文藝春秋』編集長、日本文学振興会常務理事) 「出版社のための直木賞」の選考会をどう司会進行するか、礎を築く。

鷲尾洋三(わしお・ようぞう)

  • 明治41年/1908年9月18日生まれ、昭和52年/1977年4月26日没(68歳)。
  • 昭和9年/1934年(25歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(37歳)文藝春秋新社の設立に参加、『文藝春秋』編集長に。
  • 昭和24年/1949年(40歳)より戦後復活した芥川賞の選考会司会を担当(のちに直木賞の選考会司会も)。

 ああ。「直木賞(裏)人物事典」というより、「文藝春秋編集者事典」になっていきそうな不穏な予感がしてきました。それは本意ではないんですけど、しかたない、直木賞は文藝春秋のものですからね。

 そうは言っても、鷲尾洋三さんです。「芥川賞(裏)人物事典」であれば何の問題もありません。何だ何だ、何を澄まして、直木賞専門ブログごときが、鷲尾さんについて書くんだ、場違いも甚だしいぞ、と怒る人たちもいることでしょう。ワタクシもそう思います。

 戦前の鷲尾さんは、直木賞のみならず、芥川賞ともあまり関わりがなかったそうです。ただ、佐佐木茂索派だったことは確かなようで、戦後、新社を設立するさいには、佐佐木さんを担ぎ上げる社員代表五人衆のひとりとなります。

「新社創立当時の陣容は、社長佐佐木茂索は云うまでもないが、編集局長池島信平、業務担当花房満三郎、出版部長澤村三木男、「文藝春秋」編集長鷲尾洋三――間もなく(引用者注:昭和21年/1946年)秋に「オール読物」が復刊され、編集長車谷弘、といったところである。」(昭和45年/1970年3月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『回想の作家たち』所収「佐佐木茂索とわたし」より)

 文春が解散、新社の誕生。この間、直木賞・芥川賞の運営機関だった日本文学振興会(以下「振興会」と略す)は、生きながらえていたものの休止状態でした。今後、両賞をどうするのか、といった議論はさまざまあったらしいんですが、理事長菊池寛の裁断により、直木賞は、香西昇さんらのいる昭和書房(のち日比谷出版社)に委嘱されることに決定。文藝春秋新社は芥川賞のみを引き継ぐことになりました。

 さて。ここで気になる点があります。委嘱先の企業が別々になって、両賞の選考会は、誰がどのような立場で司会役を務めたんだろう、ってことです。

 戦前は、振興会の理事だった永井龍男さんが担っていました。

「私(引用者注:宇野浩二は、第六回から第十六回までの、芥川賞の詮衡委員と、芥川賞詮衡の主査と、両方、まがりなりに、したが、その間、常任幹事の永井龍男の熱心さに、しじゅう、はげまされた。誠に、芥川賞の第一回から第二十回までの詮衡が、まがりなりにも一回も休まないで、つづいたのは、誰でもない、唯一人、永井龍男のお蔭である。」(宇野浩二「回想の芥川賞」より)

 と宇野浩二さんは永井さんの功績を書きのこしていますが、当の永井さんは、宇野さんについてこんな描写をしています。

(引用者注:選考会の)席上、この人ほど口をきかぬ委員も珍しく、新参加というような遠慮があってはと私は心配し、一応全委員の発言が終ると、宇野さん如何でしょうと、必ずこちらから声をかけた。(引用者中略)その候補作が気に入らなければ、面長で額の禿げ上った顔を横に振るか、「だめ」とたった一言洩らすだけであった。これは委員初参加以来辞任するまで少しも変らなかったが、「その作品は、私のところへは来ていないので読まなかった」と口外したことも何回かあった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より)

 永井さんひとりが司会だったかはわかりませんが、少なくとも、委員に発言を促すぐらいの役目は果たしていたと見て取れます。

 昭和18年/1943年になりまして、佐佐木・永井グループは、文春内の権力争いに敗北しました。そこからの3~4回の両賞がどんな選考会を開いたのか、って話題はとりあえず今週は飛ばしまして、いよいよ戦後。永井さんの頃の伝統を受け継ぐのであれば、選考会の司会は、振興会から出ることになります。その職責に就いたのが、そう、鷲尾洋三さんでした。

 戦後復活から3年たってはいますが、第26回(昭和26年/1951年・下半期)のことを回想した鷲尾さんの文章を引いてみます。

「「イエスの裔」が直木賞の候補作に上ったと聞いてから、蔭ながら力瘤を入れていた奥野(引用者注:奥野信太郎)さんは、受賞がきまるとわがことのように喜んだ。

「柴田(引用者注:柴田錬三郎はね、シナの古典にもなかなか詳しいし、ちょっとした雑学者だし、それにイマジネーションは豊かだ。構成力もあると思う。きっと伸びるよ、きみ……」

 と、相好をくずしてわたしに云ったりした。そのころ、わたしは「日本文学振興会」の常務理事とやらで、不手際ながら芥川・直木両賞の詮衡会議の司会をつとめていた。そんな関係もあって、「イエスの裔」の受賞が決るまでの会議の空気など、奥野さんにかいつまんで説明したようにおぼえている。」(前掲『回想の作家たち』所収「東京の人・奥野信太郎」より)

 いいなあ、奥野さん。ワタクシも鷲尾さんの口から、会議の空気とか聞いてみたかったぞ。

 なんちゅう叶わぬ夢はいいとしまして。鷲尾さん、別の文ではこんな発言までして、ワタクシの度肝を抜いてくれます。

「戦後の直木賞の詮衡会議には、わたしは欠かさず陪席していると思うが、大佛(引用者注:大佛次郎さんの作品鑑賞の基準はきわめて豁達で、小説という形式に鹿爪らしく拘泥しないようにも感じられる。」(昭和47年/1972年9月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『忘れ得ぬ人々』所収「大佛次郎」より)

 え? まじ? 「戦後欠かさず」ってことは、つまり、あなた、他社が仕切った第21回第22回の直木賞選考会にも顔を出していたんですか。もしも振興会常務理事の肩書でもって、昭和書房・日比谷出版の直木賞に乗り込んでいたのだとしたら、面白いなあ。いや、鷲尾さんの記憶が正しいかどうかは、ずいぶんあやしいんですけど。

 あやしいんですが、鷲尾さんの回想文を読んでいると、明らかにひとつの推測が浮かんできます。昔は直木賞と芥川賞の二つの選考会は、同一人物が司会を行なっていた。それらを分業するようになったのはいつからだろう、選考会が同日同時刻に行われるようになった第30回(昭和28年/1953年・下半期)以降なのかなあ、と。

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2012年6月17日 (日)

佐佐木茂索(文藝春秋社専務→文藝春秋新社社長) 気まぐれな親分が言い出したタワゴトを真に受けて、ほんとに直木賞をつくってしまった人。

佐佐木茂索(ささき・もさく)

  • 明治27年/1894年11月11日生まれ、昭和41年/1966年12月1日没(72歳)。
  • 昭和6年/1931年(37歳)より文藝春秋社の経営をひきつぎ、専務。
  • 昭和10年/1935年(40歳)より直木賞・芥川賞選考委員。
  • 昭和21年/1946年(51歳)に文藝春秋新社を設立、社長。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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第6期のテーマは、直木賞を支えてきた人物いろいろ。彼らがいたから、いまの直木賞がある。「(裏)人物事典」です。

 やめる機会も見つからず。やればやるほど、深みにはまって、このブログも6年目です(過去5年の悪戦苦闘のリストはこちら)。

 いつまでやっても終わりは見えません。なぜだろう。やっぱり、昭和10年/1935年以来70数年もつづいている、っていうこの無駄に長い歴史が、掘っても掘ってもいつも面白い、直木賞の魅力の源泉であり、ひるがえって直木賞研究者が苦しめられる原因かもしれません。

 受賞作・候補作リストだけでも圧倒的な分量です。眺めているだけで、時がたつのを忘れます。受賞者だけに絞ってみても、それだけで一冊の本ができるほどです。まあ、いつもどおり芥川賞とセットではありますが、以前紹介したような、『芥川賞・直木賞 受賞者総覧』(平成2年/1990年3月・教育社刊)、『芥川・直木賞名鑑』(平成11年/1999年11月・名鑑社刊 新装改訂版)なんてものが出版されているくらいで。

 しかし、ワタクシは思います。直木賞の歴史は、受賞者だけがつくってきたわけではないぞ。そこに、候補者や選考委員を加えても、まだ足りない。いまこうして、直木賞が虚名を張って生き延び、半年に一回、やんややんやと馬鹿にされて騒がれているのは、それ以外の、支えてきた人たちがいたからではないですか。と。支えている意識が彼らにあるかないかは別として。

 編集者。評論家。書評家。ジャーナリスト。ときに読者。などなどです。

 直木賞、つう枠で語られることは少ないんですが、じっさい、こういった人たちが直木賞をつくってきました。受賞作家や候補作家、選考委員たちのことだけで直木賞を語ろうだなんて、直木賞の片面すらとらえ切れていないですもんね。と、まずは自分に言い聞かせつつ。

 「直木賞(裏)人物事典」とテーマ名を付けました。事典というからには、氏名の五十音順とか、生年順とか、職業順とか、系統立てて書かないと恰好が悪いんですが、そこはそれ、思いつきでやっているブログですから、目をつぶってもらいましょう。取り上げる順番はランダムです。というか、誰を取り上げるのか、まだあまり見えていないわけですけど。

 ……つうことで、いちばん最初の「(裏)人物」は、裏と呼ぶにはなじまない、超重要、超有名人物から行きたいと思います。

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2012年6月10日 (日)

井上ひさし(第67回 昭和47年/1972年上半期受賞) 半年前だったら受賞できていなかったよね、と言う人あり。相当レベルの高いもの、と言う人あり。いろいろ。

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井上ひさし。「手鎖心中」(『別冊文藝春秋』119号[昭和47年/1972年3月])で初候補、そのまま受賞。『ブンとフン』での小説家デビューから2年半。37歳。

 昨年平成23年/2011年6月、司馬遼太郎さんから始めまして、今日の井上ひさしさんで50人目です。

 どんなに偉くなろうが、周囲から祀り上げられようが、井上さんもまた、初候補で直木賞を受賞した人です。取り上げないわけにはいきません。

 昭和40年代。新橋遊吉千葉治平のエントリーでも確認したように、当時の直木賞は「いかに中間小説誌で活躍できそうな作家か」がひとつの受賞予想基準になっていました。ご注意ください。「受賞基準」ではありません。「受賞予想基準」です。

 つまり、まわりで好き勝手なことを言い立てる直木賞ファンたちが、好き勝手に設けた基準です。彼らは中間小説誌の発展(要は部数右肩上がり)のなかで生きてきました。

 そういう人たちにとって、井上ひさしの存在はどう見えていたか。『小説現代』でモッキンポット・シリーズつう大変ユニークな小説を書いて評判をとり、それよりもちょっと出来は落ちるけど、『別冊文藝春秋』に新作を発表したことで、まあ無難に直木賞路線だね。……って感じでしたでしょうか。

 井上さんも「モッキンポット」ものみたいなのが(引用者注:直木賞の)候補作だったら、もらえる感じが薄くなると思うよ。おかしいのは、受賞が決まったあとの記者会見で、松本清張が、「第二の野坂 (引用者注:昭如)」とかいっているでしょう。井上さんは、こんど初めて小説を書いたわけじゃないし、そんなに才能があるんだったら、この前のときに候補にもならなかったということがおかしいわけですよ。(引用者中略)今回も、いままでの「モッキンポット」風のものだったら取れなかったかもしれない。

 そうだろうな。推せんする人だって、なんとなく落ちそうだというのはわかるわね(笑い)。

 だけど、井上さんの場合、受賞作の「手鎖心中」だけの評価ではないと思う。いままでの実績とか力量みたいなものをふくめて評価されているんじゃないかな。野坂昭如の再来といういい方は、それからきているんじゃないかな。

 あれ一作だけの評価とは考えられないからね。

 考えられない。ぼくは、「手鎖心中」は井上さんの作品としてはあまり買わない。

 井上さんの作品としては、やや直木賞向けという感じはあるよね。」(『噂』昭和47年/1972年9月号「直木賞作家誕生!編集者匿名座談会 三度目の正直で生まれた受賞作」より)

 このころの井上作品の代名詞でもあった「ナンセンス」と、少しの「諷刺」。プラス、高齢の選考委員にも配慮した「時代もの」。何より、候補にしてもらうための強力な援軍を得ることができる「文春の雑誌に掲載」と。これらを掛け合わせたうえで「手鎖心中」は生まれ、直木賞をとるべくして書かれた、と言っても過言ではありませんでした。

 ここら辺のこと、どこまで信用していいかわからない書き手、としておなじみの、西舘好子さんの回想文から引いておきます。

(引用者注:「手鎖心中」の)担当は中井勝さん、(引用者注:『別冊文藝春秋』の)編集長は西永達夫さんだった。担当の中井さんは穏和な洞察力のある人で、井上さんの文体で江戸を書かせたいと考え、「戯作者」というテーマを持って来た。時代物を井上さんにぶつけてきたのだ。

 当時の直木賞の選考委員には高齢者が多く、そのことも考慮に入れたのかもしれない。

 いくら文学とはいえ、話題性と部数が勝負の世界だ。

 心ある編集者は優秀な作家の発掘と、賞を受賞させるための作品に命を削っていた。」(平成23年/2011年9月・牧野出版刊 西舘好子・著『表裏井上ひさし協奏曲』「第四章 あっという間に直木賞」より)

 一瞬目を疑いましたが、誤植ではありませんよね? 「賞を受賞させるための作品に命を削」る編集者のことを、はっきり「心ある編集者」と言っちゃっています。

 そのあとの文章を読んでも、西舘さん、ずいぶんと直木賞の威力を見せつけられたというか、直木賞から多大なる恩恵を蒙ったそうですからねえ。たいてい、賞に狂奔する作家や編集者は、心ある人たちから馬鹿にされる対象だとばかり思っていましたよ。西舘さんのチョー肯定的な文学賞観に出会って、ワタクシはホッとしています。

 ということで、心ある編集者、中井勝さんの証言を。

「「井上さんに書いてもらおうと思ったのは、はっきりいえば直木賞ねらいですね。最短距離にいる人だと考えていました。(引用者中略)別冊のお願いをしたい、と言いますと、井上さんはこうおっしゃったんです。

『いろんな人からいろんなものを書けと言われてますけれど、もし別冊文春から注文があったら書きたいと思っていたテーマが二つあるのです。これは誰に言われても書かなかったテーマです』と。

 それが『手鎖心中』と『江戸の夕立』だったと思います。(引用者後略)」」(平成13年/2001年6月・白水社刊 桐原良光・著『井上ひさし伝』「第五章 芝居が、舞台がぼくの先生だった」より)

 なんか微妙に西舘さんのハナシと違っている気がしますが、どうなんでしょう。『別冊文春』=直木賞狙い=江戸もの、の方程式を考え出したのが井上さん本人だったのか、中井さんだったのか。よくわかりません。

 当時の『別冊文藝春秋』は、「直木賞第二の機関誌」の名に恥じず、直木賞候補になりそうな作家に中篇を書く場を、積極的に提供していました。じっさいに力のこもった数多くの掲載作が、直木賞候補作になりました。

 なぜ直木賞候補が「モッキンポット師」でなくて「手鎖心中」になったのか。といえば、そりゃあなた、候補作を決める立場の近くに、『別冊文春』の編集者がいたからです。先の『噂』誌匿名座談会でも語られていたとおりに。いや、社内事情にくわしくない人の証言だけじゃありません。当の中井勝さんも認めています。

「社内で、直木賞に『モッキンポット師』を推す人もいたのですが、デスクの豊田健次とぼくが、いま、すごいのができるから待ってくれ、と説得したのです。それには相当レベルの高いものが必要だったのですが、それ以上のものができたということですね」(同)

 担当編集者ですからね、心ある編集者として賞を狙い、「レベル以上のものができた」と胸を張るのは当然でしょう。いや、ワタクシも一読者として井上ひさしさんが「手鎖心中」で受賞したこと、嬉しいですよ。好きな小説ですし。

 ただ、ほんとうに「手鎖心中」が「モッキンポット師」を超える一大傑作なのか、もし回がズレていたら受賞できていなかったんじゃないか、と指摘する人たちがいたことも、併せてご紹介しておきます。

 例の匿名編集者の面々です。直木賞は前々回の第65回、前回の第66回は「受賞作なし」でした。2回連続見送りの次だから、綱淵謙錠『斬』と「手鎖心中」とが受賞圏内にすべり込めたのではないか、みたいな見解を繰り広げています。

 今回受賞した二人でも前回だったらどうかといえば、どうもわからない。

 競馬のワク順有利みたいなところがあるな(笑い)。

 綱淵さんの「斬」も、出版されるタイミングがズレて前回に候補になったら、危なかったと思う。井上さんだってそうだね。

 前回なら“二回連続受賞作なし”でもおかしくないんだ、二人とも“処女候補”であれば、見送られた可能性のほうが強いな。」(前掲『噂』編集者匿名座談会より)

 ふうむ。そうかもしれません。さすがに『斬』は前回候補でも受賞できていたと思いたいですけど。

 まあ、決まっちゃったあとなので、どうとでも言えるんですけどね。少なくとも、「直木賞に選ばれたから」っていう理由で、賞の権威に知らず知らず心を動かされて、その小説を名作扱いしたり、評判作などと煽ったりするのは、バカっぽいことだよなあ、と思わされました。

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2012年6月 3日 (日)

中村正軌(第84回 昭和55年/1980年下半期受賞) 小説執筆は趣味のひとつと固く決めているので、直木賞ごときでは動じない。

120603

中村正軌。『元首の謀叛』(昭和55年/1980年7月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。同作でのデビューから半年。52歳。

 せつなくなります。名前の〈ノリ〉の漢字がパソコンで呼び出しづらい(䡄=車偏に几。当ブログでは「軌」の字で代用)ゆえではありません。すでに直木賞作『元首の謀叛』は入手難ですが、この先も、新刊書店に並べられる期待はほとんど持てないからです。

 なにしろこの作、東西ドイツがまだ分かれていた時代に書かれた国際政治モノ。「二つのドイツが一緒になるなんて、まあ当分、無理だよね」っていう状況下だからこそ、逆にリアリティあふれる小説として受け入れられた感があります。

 さらに、原稿用紙1200枚のボリューム満点な長篇。文庫化にあたって上下巻に分けられたのも当然の処置でした。しかし、あなた。さくっとお手軽な薄ーい本ならいざ知らず、こんな長大な二分冊が復刊されたりするんでしょうか。格別「名作」扱いされているわけでもないし。

 そして愕然とすることに、作者の中村正軌さんが寡作中の寡作ときています。ここ十数年、小説の発表はなく、新作の刊行も期待薄です。今じゃ「誰それ?」の領域に入ってしまいました。

 「忘れられた直木賞作家、直木賞受賞作」への道まっしぐらです。止めようがありません。こういう作家の旧作を、復活させてくれるほど出版界の懐が深ければいいんですけど……。

 と愚痴っていても仕方ありませんね。こんな事態を引き起こしたのも、中村さんの強い信念といいますか、確固たる人生観のなせるわざです。その意味で、そんじょそこらの直木賞受賞者とは一線を画す中村さんらしい状況、と見ることもできましょう。

 ごぞんじのとおり、中村さんは受賞時、職業作家ではありませんでした。サラリーマン生活が充実していたさなかでもあり、作家になるつもりはなかったそうです。

「東京駅の前の本社から横須賀線で横浜の家に帰ることになりますと、坐りながらも会社のことを考えてるわけですね。それに気づいて、電車の中では、会社とは関係のない本を読もうと決めたんです。(引用者中略)眼鏡屋に行ったら、老眼のなり初めだから、電車の中で細かい字を読まないほうがいい、と忠告されましてね。仕方がない、会社とは関係のないテーマをきめて、電車の中で考えてたらどうだろう、ついでにそれを書きとめとけばいいじゃないかと思いたったんです。(引用者中略)ですから、本にして出版しようという気はなかったんです。」(『週刊文春』昭和56年/1981年2月5日号「イーデス・ハンソン対談 処女作が直木賞!「フォーサイスを越える」と称された“大型新人”は日航の部長さん」より)

 また、首尾よくデビューできたからといって、日本航空調達部長のポストを手放す気もありませんでした。

ハンソン (引用者中略)これからは文章の注文も殺到するでしょうし、お仕事と両方、大変ですね。

中村 ただ、私は日本航空という会社が好きですし、いまの仕事に生き甲斐を感じてますから、両立しなくなって、手抜きせざるをえなくなったら、はっきりさせます。すべきだと思ってます。」(同)

 当時の中村さんは、直木賞受賞者として多くの記事に取り上げられました。その多くで「二足のワラジ」なる言葉が多用されました。頻出しました。ぜんぶ同じ記者が書いているんじゃないの、と思えるぐらいに。

 と言いますのも、中村さんがインタビューなどで執筆時間のことをきっちり説明する様を表現するのに、「飛行機の運航ダイヤ並に秩序正しく正確」といった比喩が、いくつもの記事で使われているんですもん。いかにもうまいこと言った感のある表現は、ひとりが使うならいいですが、こうも各媒体で軒並み使われると、こっちが恥ずかしくなってきます。

 で、安易なテンプレでお茶を濁すマスコミに対し、デキる男・中村さんは憤然とこう言い放つわけです。

「サラリーマンと作家の二足のワラジ――といわれますが、ぼくはそうは思わない。会社に迷惑をかけない、一時間の余暇の使い方ですから。ですから“二足のワラジ”というのはあたりません。」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年2月6日号「新・ライフスタイル研究 もう一人の日航作家中村正軌氏の『二足のワラジ』」より)

 しっかりと人生を見据えて50年生きてきた、ブレない男を前にすると、チャラチャラした直木賞はまるで形なしですね。「作家はねー、直木賞をとって2、3年が勝負だよー」なんちゅう誰それの声も、中村さんにはまるで効きません。

 いっときの騒ぎに乗じて浮かれたり、虚勢をはったりしない人でした。昭和63年/1988年3月、60歳の定年で日航を退社するまでの7年、中村さん、マジで小説執筆から一切遠ざかった、という。

「1981年に、東西ドイツの統一をテーマにした国際小説「元首の謀叛」で第84回直木賞を受けた後、筆をおいていた中村正軌(まさのり)さん(60)が、定年で3月かぎりで日本航空を辞め、作家として復帰することになった。

 その後、執筆しなかったのは「二君(にくん)に仕えず。二足のわらじは、納得できなかったから」と信念を初めてもらした。「日本航空で全力投球。人間、自分のベストを2分することはできない」とも。」(『朝日新聞』夕刊 昭和63年/1988年4月6日「人きのうきょう 中村正軌さん 日航を退職し作家復帰」より)

 じゃあ、定年退職してからは一気に作家業フル回転で、続々と新作を発表か……というとそうでもなく、その後の10年間で残した著作は4冊。あくせくしたところの見受けられない、悠然たる歩みでした。

 部長職にまで上り、養う子供もなく、まだ日航が安泰だったころの退社ですから、さぞかし幸せな定年後人生を送った(送っている)ことでしょう。

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