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2012年5月の4件の記事

2012年5月27日 (日)

山崎豊子(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 発表するあてもなく7年かけて小説を書いていたワーキング・ウーマンが、あれよあれよと、出来すぎなデビュー。

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山崎豊子。『花のれん』(昭和33年/1958年6月・中央公論社刊)で初候補、そのまま受賞。『暖簾』でのデビューから1年。33歳。

 以前、司馬遼太郎さんの受賞について取り上げたことがあります。そのコメント欄で「君は、これほどの大作家を、ツマラなくて、どーでもいい観点でしか書けないのかよ。文章も下手くそだし」とバシッと指摘されちゃいました。

 今日も懲りずに、「大作家を、どうでもいい角度から取り上げる」愚行、ふたたびです。

 そう。山崎豊子さんといえば、直木賞専門ブログが紹介するまでもないほどの、押しも押されぬ有名な盗用作家です。……もとい、有名なベストセラー作家です。このような怪物作家の誕生に、直木賞が重大な役割を発揮していたことを、直木賞オタクとして嬉しく思います。

 ただ、惜しいかな、直木賞が彼女を見出したわけではありませんでした。先に山崎作品に高評価をくだしたのは、賞ではなく、大衆読者のほうだったみたいです。

「はじめて書いた長篇「暖簾」が本人が驚ろくほどの売行でたちまちベストセラー。映画になり芝居になって大変なブームをつくりあげた。これが昨年(引用者注:昭和32年/1957年)のこと。」(『週刊サンケイ』昭和33年/1958年8月10日号「話題の人にきく “土性ッ骨”のある男に惚れる 直木賞を受賞した山崎豊子」より)

 昭和32年/1957年4月に東京創元社から刊行された処女作『暖簾』。これがいきなり、十万部を超えるヒットとなり、当時の直木賞選考委員のほとんど全員が読みました。その影響があって、第二作目で早くも直木賞受賞につながった、と語っているのが吉川英治さんです。

「「花のれん」は、だいたい、うごかない或る位置をもつてゐた。一般の市評も手つだつてゐたが、山崎豊子氏の前作「のれん」(原文ママ)を誰も読んでをり、それに比べての進歩がたいへん信頼をつよめてゐたのである。だから席上で言はれたのは、その長所よりもむしろ欠点の方だつたが、にも関はらず推薦の座からは外されなかつた。直木賞の特質がこゝにもみられる。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 吉川英治選評「寸感」より)

 かように山崎さんの直木賞受賞には、一年前の『暖簾』が欠かせません。ってことで、ちょっとその辺りのことに目を当ててみましょう。

 『暖簾』は昭和32年/1957年4月刊。毎日新聞の先輩記者、大いなる薫陶を受けた井上靖さんの跋文も収められ、約1年後の段階で22回の増版。12万部売れたそうです。

 ド素人の小説が一作目で大当たり。この状況をみて、「ふん、あんなもの文学でも何でもないよ」と指摘したのは、我らが愛すべき十返肇さんでした。

「文芸評論家十返肇氏はこうして誕生したベスト・セラーにかなり批判的だ。

「たしかに『花のれん』は幾分うまくなっている。だが、『暖簾』は悪文で、ときに稚拙でさえある。それがウケたのは、ちょうど当時の“成功ものブーム”に乗ったからだろう」

 売れたのは文学作品としてではない。“百万長者になるには”式の立志伝なみに読まれたというわけ。

(引用者中略)

 しかも「暖簾」は、なお文学作品として読まれている。

「それは文壇がダラしないからだ。一般にも、昔のようなもったいぶった“文壇人”の権威なんか認めなくなったからでもある」

 だから、昨日まで無名の人でも一躍ベストセラーをものして、引張りダコという現象も起る。名前の新鮮なスターはマス・コミにとって、この上ない魅力だからである。」(『週刊東京』昭和33年/1958年2月22日号「アマチュア歓迎します あなたもタレントになれる」より)

 いかにも、文学作品と認められないものが大層売れるのは最近の特徴的な現象だ、と言いたそうな文章です。そうですか。でも昭和10年代前半、豊田正子や野澤富美子ら、ド素人小説が大ウケしたじゃないですか。昨日まで無名の人がベストセラーをものにするのって、さして時代のせいじゃない気もしますけど。

 で、山崎さんの場合、並の「ポッと出ベストセラー作家」とちがったとすれば、発表する当てもない小説を7年かけて完成させた、その準備期間の長さでしょうか。『暖簾』を書き始めたのは昭和26年/1951年、井上靖さんが毎日新聞を退社したころのことでした。

 20代後半から30代にかけて。新聞記者としてむちゃくちゃ忙しいこの時期に、コツコツ書きつづけた持続力。偉いですよなあ。

「よく宣伝文などには七年がかりの労作というふうに言われますが、私はこの言葉が非常につらいんです。と申しますのは、七年がかりの労作といっても、ともかく新聞という激しい仕事を持っておりますので、毎日曜日にしか執筆できないわけです。ですから延べ執筆日数というものはおのずからおわかりと思いますが、七年がかりの労作といわれるほどのものではないのです。しかし、ともかく私が考えたことは、小説というものは才能があるとかないとかということよりも、七年間同じことを同じ姿勢で同じ情熱を持って続けて行くということは、非常にむつかしいことで、もしも私をお認めいただけるとすれば、小説の反響とか話題よりも、七年間同じことを同じ姿勢でやり続けてきたその忍耐力をお認めいただくのが私にとって一番ありがたいと思います。」(『大阪商工会議所Chamber』昭和33年/1958年5月号 山崎豊子「大阪人と大阪の文学―小説『暖簾』をめぐって―」より)

 丹精込めて小説を書き上げた山崎さん。井上靖さんはじめ、知り合いの誰かれに読んでもらったらしいですが、知人の手を介して東京創元社に持ち込みます。なぜ、この出版社だったのか。はなから山崎さん自身、本を出すなら創元社から!と決めていたらしいです。

「本屋にはS社(引用者注:東京創元社)を選びました。学生時代以来私の教養の糧となり、私を育ててくれたものが、そこのS選書だったからです。私は一生にたゞ一冊でいいから、いい本を出してご恩返ししたいと思っていたのです」(『若い女性』昭和32年/1957年6月号「いとはん作家登場」より)

 一冊の著書もない無名の人が、若いころからずっとファンだったからといって、その出版社に原稿を持ち込み、希望どおり出版が決まり、しかも予想以上にガッツリ売れて、ほんとうに恩返しできてしまう。どうですか、この流れ。ちょっと出来すぎの感がしないでもありません。

 世の中そんなに甘くありませんよ、マスコミ熱なんてものが大して長続きしないことは、古今東西共通していますしね。幸運なデビューを果たした直後は、山崎さん、各新聞・各雑誌にひっぱりダコだったわけですが、時を経るうちに徐々に、「出来すぎ」なデビュー騒ぎも下火になって……。

 いくかと思いきや。下火にならなかったのですよ御同輩。山崎さんの「出来すぎ」って、トップクラスの「出来すぎ」に属するよなあと思わされるゆえんです。

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2012年5月20日 (日)

佐藤賢一(第121回 平成11年/1999年上半期受賞) 「時期尚早だよ」「順調な人生だね」などと言われて、「違う!おれだって苦労してきたんだ!」と叫ぶ31歳。

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佐藤賢一。『王妃の離婚』(平成11年/1999年2月・集英社刊)で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。

 よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。

 あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」などと呼んだら違和感ありますか?

 ただ、まあ、アレです。「同じ舞台に立った他の誰よりも地味」っていう意味で、村山由佳さんより桐野夏生さんよりマイナー感を放っていますよね、いまでも。

「デビューの頃というと、あまり明るい思い出がない。(引用者中略)

デビュー作が売れていれば、もとの有頂天を取り戻せたのかもしれない。が、現実は甘くなかった。ぽっと出の新人が簡単に売れたり、話題になったりするものではないと、そういう慰め方も私にはできなかった。同時受賞が村山由佳さんで、その受賞作が今頃になって映画化されるまでもなく、いきなりベストセラーになったからだ。同じ年の純文学のほう、すばる文学賞が引間徹さんだったが、こちらも受賞作が芥川賞の候補になった。今年出た新人として、三人で左右に並んでおきながら、私ひとりが売れず騒がれずに埋没する体だったのだ。」(『青春と読書』平成19年/2007年2月号 佐藤賢一「苦悶煩悶の二年間」より)

 ははあ。引間さんはどうだったか詳しくありませんが、村山さんを取り巻くビジュアル戦略まじりのスタート・ダッシュこそ、異常だったと思います。「小説すばる新人賞」受賞ぐらいでは、基本、それほど売れないでしょうなあ。

 村山さんとの同時受賞だったのが運のツキと言いますか。売れない、目立たない。その状況を佐藤さん、「一度死にかけた」と回想しています。

佐藤 新人賞を取ったときは、みんな「これで未来が開けた」みたいな気持ちになるわけなんですが、実際この世界って新人賞を取っただけで消えていく人もたくさんいるわけですから。

 僕はそういった新人生き残りレースで、一度死にかけたところがあるわけで、そのときは非常に苦しかったですね。(引用者中略)

 そのときはもう苦しい苦しいだけだったんですが、あとで振り返ると「おれはあのとき死にかけたんだな」と。僕は、単行本が出てそれが文庫本になるまで4年かかってるんです。普通は3年なんですが、僕は3年目では生き残れていなくて、その後でやっと生き残れたんで文庫になったんです。

宮崎(引用者注:宮崎緑) 文庫になることが作家として生き残ったということなのですか。

佐藤 何冊か続けて出る見込みがないと文庫にはなりませんから。僕はデビューしてから次回作が出るまで2年くらいかかったんですよ。その次回作が何とか出たんで、デビュー作も文庫にしてもらえた。だから、あのときに2作目を出せなかったら作家として死んでたんだなと思いますね。」(『週刊読売』平成11年/1999年10月10日号「宮崎緑の斬り込みトーク」より)

 4年だの3年だのと、具体的な数字を出して話してくれるところが、ワタクシ、好きです。歴代の小説すばる新人賞受賞者のうち、「死んでしまった」認定された人は誰だったかな、と調べるときには集英社文庫リストを見ればいいので便利です(って、こらこら)。

 それは冗談としまして。

 新人賞のときだけではありません。直木賞のときも、佐藤さんのかたわらには、きらびやかな女性が立っておりました。多くの人の視線が、隣に向いてしまう事態、パート2です。

(引用者注:桐野夏生と)東京会館の記者会見と文藝春秋の社屋で、二度ほど顔を合わせているが、たいへん御綺麗な方であることも手伝って、私は大いに気後れしたことを覚えている。記事や広告等々で何度も写真を拝見していたため、こちらは即座に桐野さんを見分けられた。有名人と会った、と些か興奮したくらいだ。が、桐野さんのほうは私の顔も名前も、全くの初見、初耳という感じだったに違いない。佐藤賢一? 誰だ、それ。記者会見場の衝立に潜みながら、そんな記者さんの言葉を現に私は聞いている。怒るより、苦笑する。無理もない、と思うからである。桐野さんに比べると、我ながら、ぽっと出の小僧の感が否めない。」(『青春と読書』平成11年/1999年9月号 佐藤賢一「冠の戴き方」より)

 「佐藤賢一? 誰だ、それ」。……いいなあ、その言葉が耳に入ってきたことを忘れずにおいて、受賞記念エッセイに書きつける姿勢が。

 晴れの舞台で、スポットライトを同時受賞者に奪われてしまう星のめぐり合わせ。さすが佐藤さん、モッてますねえ。そういうとこ、大好きなんです。

 上記のちょっとした引用でもおわかりのとおり、少なくとも当時の佐藤さんは、ずいぶんと「売れる」「騒がれる」「他の作家と比べてどう」といったことに敏感でした。そして敏感な感覚をインタビューやエッセイなどで披露してくれています。

 これはワタクシの当て推量というより、佐藤さん自身が語っています。いまはそういうことを考えなくなったが、かつては気にしていた日々があった、と。

「売れるとか、騒がれるとか、他の作家さんと比べてどうとか、そんなことも考えなくなったからには、自信も回復したのだろう。音楽に譬えるならば、純文学はクラシックのようなもの、エンターテインメントのなかでも恋愛小説はポップス、ミステリーはロック、してみると、歴史小説は演歌なのだ。他と比べても仕方がない。苦節十年二十年は当たり前で、すぐには芽が出ない。爆発的に売れるジャンルでもないが、地道に続けてさえいれば、必ずや報われるのだ。」(前掲「苦悶煩悶の二年間」より)

 そうであってほしいものだと思います。ほかの同種文学賞に比べて、直木賞はとくに歴史小説や時代小説にも温かい賞ですが、その姿勢がミステリー愛好者からボロクソ言われて歩んできました。苦節ン十年、地道に続けてきました、そんな直木賞は、いま報われていますもんね。

 ……ん? 報われているのかな。

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2012年5月13日 (日)

星川清司(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。

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星川清司。「小伝抄」(『オール讀物』平成1年/1989年10月号)で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。

 きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。

 その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース(?)の上位に食い込み、俄然注目を浴びることになるとは。想像だにしなかった事態に直面して、驚いた方も多いと思います。ワタクシもそのひとりです。

「小説「小伝抄(こでんしょう)」で直木賞を受賞した作家、脚本家の星川清司(ほしかわ・せいじ、本名・星川清=きよし)さんが、肺炎のため平成20年7月25日に死去していたことが分かった。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。

 星川さんは東京都生まれ。脚本家としては市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズなどを手がけた。

 家族によると、大正15年10月27日生まれと公表してきた生年月日は、じつは大正10年で、亡くなったのは86歳だった。平成2年に直木賞を受賞したときは68歳で、古川薫さんが持っている受賞最年長記録より年長だったことになる。星川さんは家族に、自身の死を公表しないように伝えていた。大正15年生まれの妻に「運が強いから大正15年生まれをもらうよ」と語っていたという。」
(『産経新聞』平成22年/2010年4月10日「訃報 星川清司氏死去 直木賞「最年長」受賞」より)

 ほんとは68歳で直木賞受賞。なのに5歳サバ読んで、63歳で受賞、ってことにしていたという。68歳の受賞ともなれば、堂々の最高齢受賞です。タイトルホルダーです。直木賞のことが大好きな新聞各紙は、当然、この件にガツガツ食らいつきました。

 おそらく、生前の星川さんは、こういう事態になるのがイヤだったんだろうなあ。

 星川さんは、平成2年/1990年1月に直木賞を受賞しました。以後いくつかの場で、自分のことを語らざるを得ない状況に陥ります。彼はどう処したか。嘘(というか省略)をかなり含みつつ、自分を語りました。年齢のこと、名前のこと、小説執筆の遍歴のこと、などなど。

三枝(引用者注:桂三枝) 「星川清司」さん……きれいなお名前ですね。

星川 そうでしょうか。

三枝 これ、ペンネームですよね、もちろん。

星川 いえ、本名です。

三枝 ご本名ですか。

星川 はい。」(『週刊読売』平成3年/1991年9月29日号「三枝のホンマでっか」より)

 おお。この流れるような受け答え。とうてい嘘をついているようには読めませんが、星川さん、本名は「清(きよし)」さんというのだそうです。

 この対談では『オール讀物』に登場するまでの経緯も語られています。こんな感じです。

星川 小説書いてもそれを発表する場所のあてはなかった。あるとき、友人に聞いたんです。新人が最も登場しにくいのはどこだと。「オール読物」だろうという答えでした。まず新人賞に応募して、それを取って筋道をつけてから登場していくものだと、そう言うんです。

三枝 それで……?

星川 ですが、私はもう若くはなし、そんな暇(ルビ:いとま)はない、そう思いましてね。どのみち、これは腕だめしだから持ち込み原稿をやろうと、自分で決めたんです。それで「オール読物」編集部を訪れまして……。

三枝 全然、面識なかったんですか。

星川 はい。

三枝 向こう、何者だろうと思ったでしょうねえ。

星川 まあ、私が映画の世界にいた人間だということは知ってましたけれど……。そのとき渡しました作品が「小伝抄」です。」(同)

 この対談以外でも、星川さんは、似たような説明をしたのかもしれません。昭和46年/1971年、中央公論社の人に焚き付けられて何篇かの小説を書いたものの、それは別として、本気で小説を書こうと思って発表にいたった第一作が「小伝抄」、それで突然直木賞を受賞……みたいなストーリーです。

 しかし、このハナシ、信用できるでしょうか。星川さんが別に書いた自伝、「不運と幸運が綯い交ぜで」では、少し様相がちがっているんです。

「わたしはよっぽど強運なやつらしくて、「オール讀物」編集部に電話紹介してくれるひとがあらわれた。あす、文藝春秋へすぐにいきなさいという。もうすこし書きためてと思っていたのだけれど、あわてて原稿を持参した。当時編集部次長の設楽さんとおめにかかった。

 「稀なる幸運に恵まれた」と設楽さんがいった。持ち込んだ原稿のうちのひとつ、百枚のものが、渡してから五日ほどして、「オール讀物」に掲載が決まった。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 星川清司「不運と幸運が綯い交ぜで」より)

 これが星川さんの『オール讀物』初登場作、「闇のささやき」(昭和63年/1988年11月号)の掲載経緯だといっています。

 いったいこの食い違いは何なのでしょう。なぜ対談では、自分で持ち込んだように聞こえる言い方にしたのか。……「電話紹介してくれたひと」だの「編集部次長の設楽さん」だのの存在を敢えて省略したのかもしれません。彼らに要らぬ迷惑がかかることを避けるために。

 新人の作品で百枚、百五十枚の長さのものは、そうやすやすと載せてくれるわけがなくて、昭和63年/1988年に第一作が出てから、約1年間、時間がかかった、その2作目がみなさんご存じの直木賞受賞作です、などといちいち説明するのは、たしかにかったるい。「小伝抄」より前に作品を発表していたことなど、どうせ多くの人は興味がないだろうから、そこは省いてしまおう、とも考えたかもしれません。

 どうなんでしょう。正直わかりません。なにせ、星川さんは身の上話をイヤイヤしていたような人です。ワタクシらのような興味本位至上人間に、ほじくり返されるのがお気に召さないかのごとく。そんな彼の語ることの、どこまでを信用していいのでしょう。お手上げです。

「自伝とかいうようなものは、これから先、もう書かないつもりだ。書きたくない。これはいわば直木賞受賞者の義務だから、致し方なく、需めに応じて書くことにした。

 身上咄の類いは、もうこれでおしまい。」(同)

 まあたしかに、自分の死でさえも世間に隠そうとしていたほどですからねえ。よほど、身の上話を避けたかったようで。

 ええ、そう考えますと、なぜ5歳年齢を詐称したのか。「寅年生まれは運が強いからと寅年の大正15年/1926年生まれを称した」と明かされたその理由までも、まだ真実を語っていないのではないか、と疑いたくもなろうというもんです。

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2012年5月 6日 (日)

大沢在昌(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) ライバル作家に続いて、遅まきながらいよいよこの人も。文学賞をとって大にぎわい。……ってハナシは3年前に終わってますけど。

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大沢在昌。『新宿鮫 無間人形』(平成5年/1993年10月・読売新聞社刊)で初候補、そのまま受賞。「感傷の街角」でのデビューから14年半。37歳。

 ひとりの直木賞ファンとして、「くやしい」作家ってのがいます。大沢在昌さんはまさに、多くの直木賞ファンをくやしがらせた人、と言っていいでしょうなあ。

 というのも、「大沢在昌ブレイク」の手柄を、みんな他に奪われてしまったからです。

 '91年版の「このミス」(平成3年/1991年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'91年版』)にはじまって、平成3年/1991年春の吉川英治文学新人賞、それから日本推理作家協会賞。

 『新宿鮫』(平成2年/1990年9月刊)の一作は、大沢在昌ここにあり、を世間に知らしめた記念碑的な作品でしたが、まず読者たちから熱い称賛を受けました。永久初版からの脱出を果たしました。そして、平成2年/1990年刊行物を対象とした賞レース。直木賞はボヤボヤして、何もからむことができませんでした。くやしいと言うほかありません。

 元来、文学賞は良さ、利点、うまみといったものも持っています。そのことを先に大沢さんに教えたのは、くやしいかな、吉川新人賞のほうでした。直木賞でなくて。

「今回の受賞(引用者注:吉川英治文学新人賞受賞)で自分は物凄く幸せだと思ったことがあるんです。例えば吉川賞のとき、推理作家協会理事の山村正夫さんが「飲みに出ておいでよ」とおっしゃってくれたし、選考委員の謙ちゃん(引用者注:北方謙三も「大沢、出てこい」って。彼は「大沢に対して強い立場にあったけど、これでもう俺は権力を失った」なんていってましたけど、自分のことのように喜んでくれました。(引用者中略)

 小説家というのは、お互い友だちであると同時にライバルでもあるわけです。だから、誰かが賞を取ると“良かったな”と思う反面、“ちくしょう。どうして俺じゃないんだ”と思う部分がないといえば嘘になる。なのに、みんながみんなと言っていいほど、僕の受賞を凄く喜んでくれました。僕はこの人たちに嫌われてなかった、良かったと、しみじみ思いました。」(『週刊文春』平成3年/1991年4月25日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 大沢在昌」より)

 でしょう、でしょう。自分自身の喜びを超えて、まわりの人たちも喜んでくれる、文学賞の温かさ。それを、大沢さんに実感してもらうチャンスは(『新宿鮫』一作の件でいえば)、先に直木賞のほうにあったのに……。

「この原稿は、吉川英治文学新人賞の授賞式の翌日に書いている。(引用者中略)正直、プレッシャーに怯えていた。これほどにも運に恵まれた作品のシリーズ第二作、手が動かないのではないだろうか、と。

 だが、不思議なことに、至極スムーズに手は動いた。なぜだろう、たぶん、ふたつの賞(引用者注:吉川新人賞と日本推理作家協会賞)の重みが、私の手を動かざるをえないようにしているのだ。つまり、上からの圧力ではなく、中からの圧力として働いて。

 恥ずかしい作品は書けない。が、これも不思議なことだが、恥ずかしい作品にならない予感もある。

 いただいてわかったこと。賞とは、もの書きにとり、すばらしい栄養剤である。」(平成10年/1998年1月・小学館/小学館文庫 大沢在昌・著『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』所収「栄養剤二本」より)

 でしょう、でしょう。文学賞ってすばらしいものでしょう。だけど、そのすばらしさを伝え得たのは、直木賞ではなかったわけで……。

 大沢さんは平成3年/1991年、『新宿鮫』がダブル受賞!って話題を受けて、数多くのメディアに登場しました。3年後、平成6年/1994年に第110回直木賞を受賞したときも、同じくさまざまなインタビューを受けました。

 語ることといえば、子ども時代の読書体験、慶應大学で遊び呆けて中退し、父親に怒られたこと、小説推理新人賞をとるまでの経緯、とってからの「売れない」期間の長さ、「永久初版作家」と言われたこと、冒険作家クラブを中心としたライバル作家たちの交流、などなど……。直木賞後に語られるハナシはほとんど、3年前に、吉川新人賞・推理作家協会賞のときに流布したストーリーの繰り返し、といっていいほどだったんです。

 この展開を目の当たりにして、くやしくならない直木賞ファンなどいるのでしょうか。

 大沢さんと賞、っていう世界のなかでは、直木賞なんてのは、同じ味の料理のおかわり、と言いますか。視聴率を集めたドラマの昼間の再放送、と言いますか。それはそれで意味はあるけど、新鮮味に欠けるのはいかんともしがたい。

 大沢さんに言わせますと、直木賞とは、以前の賞に比べて、この程度の違いしかなかったようなのです。

三枝(引用者注:桂三枝) やっぱり直木賞受賞すると、周りの雰囲気とか変わってくるもんですかね。(引用者中略)

大沢 四年前に『新宿鮫』というのを出しまして、それで賞をもらって、本も急に売れるようになったんです。そういう意味では多少、免疫ができていたつもりでいたんですけれども、やはり、ちょっと違う賞かなと。

三枝 ほおぅ。

大沢 例えば、この前、飲んでたら、伊集院静さんに呼び出されまして、何人かお連れの方がいらしたんですが、「こちらが直木賞とった大沢さんだよ」って伊集院さんが言うと、座ってた人たちが一斉に、「あッ」と言って立ち上がるんですね。これが直木賞かいなあ、とねえ(笑)。」(『週刊読売』平成6年/1994年2月20日号「三枝のホンマでっか!」より)

 何だか文学賞を毛嫌いする人たちが、なぜ毛嫌いするのか、その理由がわかるようなエピソードじゃありませんこと? 作品の内容とか、作家としてのこれまでの歩みとか、そういうのを語らずして、単に「何何賞をもらった」というだけで周囲の扱いが変わる気持ち悪さ。

 文学賞のおいしいところは全部、吉川新人賞あたりに持っていかれてしまい、イヤな面、チャカされる面、馬鹿にされる面を直木賞がひっかぶる構図、とでも言いましょうか。まあ、そうですよね、直木賞ってけっこう損な役回りですもんね、と愛おしくなる場面でもあります。

 『新宿鮫』でだって、四作も待たずに、ズバッと一作目で受賞させて、おお直木賞もなかなかヤルじゃん、と拍手されるチャンスはあったのに。いや、それ以前だって、プロフェッショナルなエンタメ作家、でもあまり世間に評価が広がっていない作家、そういう人を世に紹介する、なんちゅう直木賞が威力を発揮する恰好の舞台が、大沢在昌さんのまわりには何年もあったのに。

 直木賞君。かわいそうだけど、あなたの損な役回りは自業自得のようです。

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