山崎豊子(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 発表するあてもなく7年かけて小説を書いていたワーキング・ウーマンが、あれよあれよと、出来すぎなデビュー。
山崎豊子。『花のれん』(昭和33年/1958年6月・中央公論社刊)で初候補、そのまま受賞。『暖簾』でのデビューから1年。33歳。
以前、司馬遼太郎さんの受賞について取り上げたことがあります。そのコメント欄で「君は、これほどの大作家を、ツマラなくて、どーでもいい観点でしか書けないのかよ。文章も下手くそだし」とバシッと指摘されちゃいました。
今日も懲りずに、「大作家を、どうでもいい角度から取り上げる」愚行、ふたたびです。
そう。山崎豊子さんといえば、直木賞専門ブログが紹介するまでもないほどの、押しも押されぬ有名な盗用作家です。……もとい、有名なベストセラー作家です。このような怪物作家の誕生に、直木賞が重大な役割を発揮していたことを、直木賞オタクとして嬉しく思います。
ただ、惜しいかな、直木賞が彼女を見出したわけではありませんでした。先に山崎作品に高評価をくだしたのは、賞ではなく、大衆読者のほうだったみたいです。
「はじめて書いた長篇「暖簾」が本人が驚ろくほどの売行でたちまちベストセラー。映画になり芝居になって大変なブームをつくりあげた。これが昨年(引用者注:昭和32年/1957年)のこと。」(『週刊サンケイ』昭和33年/1958年8月10日号「話題の人にきく “土性ッ骨”のある男に惚れる 直木賞を受賞した山崎豊子」より)
昭和32年/1957年4月に東京創元社から刊行された処女作『暖簾』。これがいきなり、十万部を超えるヒットとなり、当時の直木賞選考委員のほとんど全員が読みました。その影響があって、第二作目で早くも直木賞受賞につながった、と語っているのが吉川英治さんです。
「「花のれん」は、だいたい、うごかない或る位置をもつてゐた。一般の市評も手つだつてゐたが、山崎豊子氏の前作「のれん」(原文ママ)を誰も読んでをり、それに比べての進歩がたいへん信頼をつよめてゐたのである。だから席上で言はれたのは、その長所よりもむしろ欠点の方だつたが、にも関はらず推薦の座からは外されなかつた。直木賞の特質がこゝにもみられる。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 吉川英治選評「寸感」より)
かように山崎さんの直木賞受賞には、一年前の『暖簾』が欠かせません。ってことで、ちょっとその辺りのことに目を当ててみましょう。
『暖簾』は昭和32年/1957年4月刊。毎日新聞の先輩記者、大いなる薫陶を受けた井上靖さんの跋文も収められ、約1年後の段階で22回の増版。12万部売れたそうです。
ド素人の小説が一作目で大当たり。この状況をみて、「ふん、あんなもの文学でも何でもないよ」と指摘したのは、我らが愛すべき十返肇さんでした。
「文芸評論家十返肇氏はこうして誕生したベスト・セラーにかなり批判的だ。
「たしかに『花のれん』は幾分うまくなっている。だが、『暖簾』は悪文で、ときに稚拙でさえある。それがウケたのは、ちょうど当時の“成功ものブーム”に乗ったからだろう」
売れたのは文学作品としてではない。“百万長者になるには”式の立志伝なみに読まれたというわけ。
(引用者中略)
しかも「暖簾」は、なお文学作品として読まれている。
「それは文壇がダラしないからだ。一般にも、昔のようなもったいぶった“文壇人”の権威なんか認めなくなったからでもある」
だから、昨日まで無名の人でも一躍ベストセラーをものして、引張りダコという現象も起る。名前の新鮮なスターはマス・コミにとって、この上ない魅力だからである。」(『週刊東京』昭和33年/1958年2月22日号「アマチュア歓迎します あなたもタレントになれる」より)
いかにも、文学作品と認められないものが大層売れるのは最近の特徴的な現象だ、と言いたそうな文章です。そうですか。でも昭和10年代前半、豊田正子や野澤富美子ら、ド素人小説が大ウケしたじゃないですか。昨日まで無名の人がベストセラーをものにするのって、さして時代のせいじゃない気もしますけど。
で、山崎さんの場合、並の「ポッと出ベストセラー作家」とちがったとすれば、発表する当てもない小説を7年かけて完成させた、その準備期間の長さでしょうか。『暖簾』を書き始めたのは昭和26年/1951年、井上靖さんが毎日新聞を退社したころのことでした。
20代後半から30代にかけて。新聞記者としてむちゃくちゃ忙しいこの時期に、コツコツ書きつづけた持続力。偉いですよなあ。
「よく宣伝文などには七年がかりの労作というふうに言われますが、私はこの言葉が非常につらいんです。と申しますのは、七年がかりの労作といっても、ともかく新聞という激しい仕事を持っておりますので、毎日曜日にしか執筆できないわけです。ですから延べ執筆日数というものはおのずからおわかりと思いますが、七年がかりの労作といわれるほどのものではないのです。しかし、ともかく私が考えたことは、小説というものは才能があるとかないとかということよりも、七年間同じことを同じ姿勢で同じ情熱を持って続けて行くということは、非常にむつかしいことで、もしも私をお認めいただけるとすれば、小説の反響とか話題よりも、七年間同じことを同じ姿勢でやり続けてきたその忍耐力をお認めいただくのが私にとって一番ありがたいと思います。」(『大阪商工会議所Chamber』昭和33年/1958年5月号 山崎豊子「大阪人と大阪の文学―小説『暖簾』をめぐって―」より)
丹精込めて小説を書き上げた山崎さん。井上靖さんはじめ、知り合いの誰かれに読んでもらったらしいですが、知人の手を介して東京創元社に持ち込みます。なぜ、この出版社だったのか。はなから山崎さん自身、本を出すなら創元社から!と決めていたらしいです。
「本屋にはS社(引用者注:東京創元社)を選びました。学生時代以来私の教養の糧となり、私を育ててくれたものが、そこのS選書だったからです。私は一生にたゞ一冊でいいから、いい本を出してご恩返ししたいと思っていたのです」(『若い女性』昭和32年/1957年6月号「いとはん作家登場」より)
一冊の著書もない無名の人が、若いころからずっとファンだったからといって、その出版社に原稿を持ち込み、希望どおり出版が決まり、しかも予想以上にガッツリ売れて、ほんとうに恩返しできてしまう。どうですか、この流れ。ちょっと出来すぎの感がしないでもありません。
世の中そんなに甘くありませんよ、マスコミ熱なんてものが大して長続きしないことは、古今東西共通していますしね。幸運なデビューを果たした直後は、山崎さん、各新聞・各雑誌にひっぱりダコだったわけですが、時を経るうちに徐々に、「出来すぎ」なデビュー騒ぎも下火になって……。
いくかと思いきや。下火にならなかったのですよ御同輩。山崎さんの「出来すぎ」って、トップクラスの「出来すぎ」に属するよなあと思わされるゆえんです。
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