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2012年5月27日 (日)

山崎豊子(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 発表するあてもなく7年かけて小説を書いていたワーキング・ウーマンが、あれよあれよと、出来すぎなデビュー。

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山崎豊子。『花のれん』(昭和33年/1958年6月・中央公論社刊)で初候補、そのまま受賞。『暖簾』でのデビューから1年。33歳。

 以前、司馬遼太郎さんの受賞について取り上げたことがあります。そのコメント欄で「君は、これほどの大作家を、ツマラなくて、どーでもいい観点でしか書けないのかよ。文章も下手くそだし」とバシッと指摘されちゃいました。

 今日も懲りずに、「大作家を、どうでもいい角度から取り上げる」愚行、ふたたびです。

 そう。山崎豊子さんといえば、直木賞専門ブログが紹介するまでもないほどの、押しも押されぬ有名な盗用作家です。……もとい、有名なベストセラー作家です。このような怪物作家の誕生に、直木賞が重大な役割を発揮していたことを、直木賞オタクとして嬉しく思います。

 ただ、惜しいかな、直木賞が彼女を見出したわけではありませんでした。先に山崎作品に高評価をくだしたのは、賞ではなく、大衆読者のほうだったみたいです。

「はじめて書いた長篇「暖簾」が本人が驚ろくほどの売行でたちまちベストセラー。映画になり芝居になって大変なブームをつくりあげた。これが昨年(引用者注:昭和32年/1957年)のこと。」(『週刊サンケイ』昭和33年/1958年8月10日号「話題の人にきく “土性ッ骨”のある男に惚れる 直木賞を受賞した山崎豊子」より)

 昭和32年/1957年4月に東京創元社から刊行された処女作『暖簾』。これがいきなり、十万部を超えるヒットとなり、当時の直木賞選考委員のほとんど全員が読みました。その影響があって、第二作目で早くも直木賞受賞につながった、と語っているのが吉川英治さんです。

「「花のれん」は、だいたい、うごかない或る位置をもつてゐた。一般の市評も手つだつてゐたが、山崎豊子氏の前作「のれん」(原文ママ)を誰も読んでをり、それに比べての進歩がたいへん信頼をつよめてゐたのである。だから席上で言はれたのは、その長所よりもむしろ欠点の方だつたが、にも関はらず推薦の座からは外されなかつた。直木賞の特質がこゝにもみられる。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 吉川英治選評「寸感」より)

 かように山崎さんの直木賞受賞には、一年前の『暖簾』が欠かせません。ってことで、ちょっとその辺りのことに目を当ててみましょう。

 『暖簾』は昭和32年/1957年4月刊。毎日新聞の先輩記者、大いなる薫陶を受けた井上靖さんの跋文も収められ、約1年後の段階で22回の増版。12万部売れたそうです。

 ド素人の小説が一作目で大当たり。この状況をみて、「ふん、あんなもの文学でも何でもないよ」と指摘したのは、我らが愛すべき十返肇さんでした。

「文芸評論家十返肇氏はこうして誕生したベスト・セラーにかなり批判的だ。

「たしかに『花のれん』は幾分うまくなっている。だが、『暖簾』は悪文で、ときに稚拙でさえある。それがウケたのは、ちょうど当時の“成功ものブーム”に乗ったからだろう」

 売れたのは文学作品としてではない。“百万長者になるには”式の立志伝なみに読まれたというわけ。

(引用者中略)

 しかも「暖簾」は、なお文学作品として読まれている。

「それは文壇がダラしないからだ。一般にも、昔のようなもったいぶった“文壇人”の権威なんか認めなくなったからでもある」

 だから、昨日まで無名の人でも一躍ベストセラーをものして、引張りダコという現象も起る。名前の新鮮なスターはマス・コミにとって、この上ない魅力だからである。」(『週刊東京』昭和33年/1958年2月22日号「アマチュア歓迎します あなたもタレントになれる」より)

 いかにも、文学作品と認められないものが大層売れるのは最近の特徴的な現象だ、と言いたそうな文章です。そうですか。でも昭和10年代前半、豊田正子や野澤富美子ら、ド素人小説が大ウケしたじゃないですか。昨日まで無名の人がベストセラーをものにするのって、さして時代のせいじゃない気もしますけど。

 で、山崎さんの場合、並の「ポッと出ベストセラー作家」とちがったとすれば、発表する当てもない小説を7年かけて完成させた、その準備期間の長さでしょうか。『暖簾』を書き始めたのは昭和26年/1951年、井上靖さんが毎日新聞を退社したころのことでした。

 20代後半から30代にかけて。新聞記者としてむちゃくちゃ忙しいこの時期に、コツコツ書きつづけた持続力。偉いですよなあ。

「よく宣伝文などには七年がかりの労作というふうに言われますが、私はこの言葉が非常につらいんです。と申しますのは、七年がかりの労作といっても、ともかく新聞という激しい仕事を持っておりますので、毎日曜日にしか執筆できないわけです。ですから延べ執筆日数というものはおのずからおわかりと思いますが、七年がかりの労作といわれるほどのものではないのです。しかし、ともかく私が考えたことは、小説というものは才能があるとかないとかということよりも、七年間同じことを同じ姿勢で同じ情熱を持って続けて行くということは、非常にむつかしいことで、もしも私をお認めいただけるとすれば、小説の反響とか話題よりも、七年間同じことを同じ姿勢でやり続けてきたその忍耐力をお認めいただくのが私にとって一番ありがたいと思います。」(『大阪商工会議所Chamber』昭和33年/1958年5月号 山崎豊子「大阪人と大阪の文学―小説『暖簾』をめぐって―」より)

 丹精込めて小説を書き上げた山崎さん。井上靖さんはじめ、知り合いの誰かれに読んでもらったらしいですが、知人の手を介して東京創元社に持ち込みます。なぜ、この出版社だったのか。はなから山崎さん自身、本を出すなら創元社から!と決めていたらしいです。

「本屋にはS社(引用者注:東京創元社)を選びました。学生時代以来私の教養の糧となり、私を育ててくれたものが、そこのS選書だったからです。私は一生にたゞ一冊でいいから、いい本を出してご恩返ししたいと思っていたのです」(『若い女性』昭和32年/1957年6月号「いとはん作家登場」より)

 一冊の著書もない無名の人が、若いころからずっとファンだったからといって、その出版社に原稿を持ち込み、希望どおり出版が決まり、しかも予想以上にガッツリ売れて、ほんとうに恩返しできてしまう。どうですか、この流れ。ちょっと出来すぎの感がしないでもありません。

 世の中そんなに甘くありませんよ、マスコミ熱なんてものが大して長続きしないことは、古今東西共通していますしね。幸運なデビューを果たした直後は、山崎さん、各新聞・各雑誌にひっぱりダコだったわけですが、時を経るうちに徐々に、「出来すぎ」なデビュー騒ぎも下火になって……。

 いくかと思いきや。下火にならなかったのですよ御同輩。山崎さんの「出来すぎ」って、トップクラスの「出来すぎ」に属するよなあと思わされるゆえんです。

          ○

 昭和32年/1957年春。『暖簾』を世に問うやいなや、いきなり天下の(?)『中央公論』の編集者に見初められ、しつこく原稿を依頼されはじめたのです。

 ちなみに当時の『中央公論』といえば、まだ老舗雑誌としての威光があった時代。ここに小説を載せる、っていうのは一応、それなりの作家でなければならない、と旧来からの観念に縛られた人が、少しは生き残っているときでもありました。

 だからでしょうか、

「三十三年一月から『中央公論』に「花のれん」を連載する。この小説の新連載を予告した時、一部ではまだ早いのではないかとの声もあったようである。」(『直木賞事典』「直木賞作品事典」より ―執筆担当:鈴木靖子)

 と時期尚早論が飛び出すありさま。山崎さん自身までも、連載を渋ります。ただ、そんな声を押し切って、山崎豊子の連載にこだわって、説得した編集者がいたのだとか。

「処女作に次いで、「中央公論」の連載小説の依頼を受けた時は、『暖簾』一冊書くのに七年もかかった者が、毎月三十枚という連載ができるはずがないという恐怖感から固辞したが、担当記者の熱意ある説得に心を決し、執筆をはじめたのが、第二作目の『花のれん』である。」(平成21年/2009年11月・新潮社刊『山崎豊子自作を語る2大阪づくし私の産声』所収 山崎豊子「産声」より ―初出『山崎豊子全作品 第一巻月報』昭和60年/1985年8月・新潮社刊)

 半年ほど依頼されつづけ、断りつづけ、最後には井上靖さんから「君ならできる」と後押しされて、ようやく引き受けました。

 『中央公論』と直木賞といえば、第23回(昭和25年/1950年・上半期)を思い出します。小山いと子さんの「執行猶予」が直木賞に選ばれたのですが、『東京新聞』の「大波小波」が、「大衆文芸の賞のくせして、『中央公論』掲載の小説を選ぶのかよ、ヘンなの~」などと皮肉ったからです。小山さんは通算二人目の女性受賞者。8年たって山崎豊子さんが、通算三人目の女性受賞者。奇縁ですなあ。

 いずれにせよ、『花のれん』は連載が終了して単行本化され、直木賞の候補作に挙げられました。さてはて、いったい、まわりはどのようにそれを受け止めたでしょうか。

 前年に処女作がベストセラー。二作目にして早くも、有名誌『中央公論』に連載。けっ、単にブームに乗っているだけの素人小説じゃん、愚かな大衆どもは喜んで買い求めるかもしれんけど文学としてはどうなのか……、みたいな空気があったかどうかはわかりません。ただ、先に挙げたように、十返肇さんあたりは、そんなふうに思っていたかもしれませんよね。

 いまも、売れている新人作家に、似たような批判が投げつけられることがあります。そんな作家が直木賞の候補になったりすると、俄然盛り上がります。当時もそうだったかもしれません。

 山崎さん自身はのちになって、『花のれん』は受賞から遠いとまわりにも思われていた、と証言しています。榛葉英治さんの回のエントリーでも引用した文ですが、もう一度。

「候補作品に入った時、どうせはじめて候補に入ったばかりだからと、たいして期待せず、受賞者発表の日も、いつも通りの勤務をしていた。マスコミ関係者も、誰一人として私に受賞の際の予定談話の依頼などしてこられる方もなく、学芸部に入って来るニュースも、芥川賞は大江健三郎氏、直木賞は榛葉英治氏が本命であった。」(同)

 この時代も、いまも同様、マスコミ界隈には下馬評好きな人たちが棲息していました。榛葉さんの受賞は当てられたのに、山崎さんは無印だった、と。そうかあ、『花のれん』が受賞するのって、そんなに意外な出来事だったのかあ。

 ……と、ワタクシは最近まで思っていました。ところが、じつは山崎さんもかなり本命視されていたっぽいのです。山崎さん本人は知らなかったかもしれませんが。

下馬評どおりに決まったのは、それだけ(引用者注:山崎豊子の)実力が認められているからだろう。」(『読売新聞』昭和33年/1958年7月22日「時の人 第39回直木賞の山崎豊子」より ―太字下線は引用者による)

 「下馬評」とか「本命視」は、当時も、「一般読者による人気」「作品の売れ具合」といった要素からの影響を強く受けていたのかもしれません。いまもその傾向はかなりあります。先週ご紹介した「天童荒太『永遠の仔』の本命視、その結果の落選」などは、その代表例です。

 榛葉、山崎の二作を本命と目していたのだとすると、ばっちり正解したっていう意味において、昭和33年/1958年の下馬評者たち、鋭かったんですなあ。あなどれませんなあ。現代のマスコミ人たちも、彼らに負けないよう、より精進してほしいと思います(……と、自分のことは棚にあげて)。

          ○

 わずか2作目にして、直木賞を受賞。さあ、これで注文も増えるし、多少苦しくてもバンバン書きましょう、そうしなきゃ世間に忘れられますよ。……というのは林真理子さんの直木賞受賞者観ですが、山崎さんはその意見にツバを吐きます。

 受賞して騒がれようが何だろうが、自分は自分のペースで納得いくものだけを書く。そう言い切りました。

「執筆態度は、半年勉強して、半年書くことが、私の一番望むところである。小説などというものは急がされて、ねじハチ巻きでぎりぎり書くものではないと思う。自分の書きたい時に、書きたいものを、書きたいだけ書くのが、小説のダイゴ味だと信じている。

 ある出版社の編集者が、私に次のような話をした。

「現代の小説家には三つの型がある。ジャーナリズムがのせに行くと、①すぐのっかってつぶれる人、②逆手にとって利用し、自分のブームを作りあげる人、③かたくなに自分のペースを守ってのらない人、この三通りです」

 考えてみたところ、①になるほどオッチョコチョイでもないし、さりとて②になるほどの器量はないから、さしずめ③で押しきって行きたいというのが、私の念願である。」(前掲『山崎豊子自作を語る2大阪づくし私の産声』所収「植林小説」より ―初出『東京新聞』昭和33年/1958年9月25日 談)

 実際に、山崎豊子は「一年一作主義」などとぬかして大家気取りで、平気で原稿依頼を断りやがる、生意気だ、みたいな事態を生むこととなります。

「――原稿を断わることについて。

「少し評判にのぼると、いわゆるマスコミに追いかけられます。執筆を辞退することは、原稿を書くよりむずかしい。はじめは、なまいきやとか、無礼やとかいわれました。そうなるとわたしも大阪人やから辛抱づよい。ねちーっと断わりますねん。そのうちに、日イ暮れる思いはるのやろか、あきらめて帰らはります。」」(『朝日ジャーナル』昭和35年/1960年5月29日号「人間面接 日曜作家からの脱皮」より ―署名:堀川直義)

 いやあ、直木賞を受賞してまだ数年の、働きざかりのときです。ほかのインタビューでは、自分の名前など忘れられてもいい、書いた作品があとあとまで読まれてくれれば、などとも言っています。

 きゃー、山崎さん、毅然たる態度、カッコいいー。

 と、ここまで持ち上げておいて何なんですが。そうは言っても山崎さんも人の子です。自分の希望ばかり押し通せば、発表したてくも発表できなくなる、ということぐらい計算はできます。やっぱり実績の浅い新人作家は、ある程度、自分のペースを乱してでもひんぱんに書いて、名前を売っておかなければならない、とわかっていて、それを実践した人でもありました。

 あ、その意味では、林真理子さんのお仲間なのかもしれませんね。

「渋沢さん(引用者注:渋沢敬三)が「せっかく「暖簾」のような小説を書いたのだから、あなた三年間は何も書かないで勉強しなさい」とおっしゃって下さいました。私はそのお言葉を守って行くつもりでいましたが、日本のジャーナリズムというものは大へん短気で三年間も何も書かなかったら、今度はそれを載せてくれない。活字にしてくれませんので『暖簾』は昨年の四月二十五日に出ましたけれども半年おいて昨年の十二月から中央公論で「花のれん」という題で、今度は男の大阪商人の「暖簾」に対して女の大阪商人の「花のれん」を書きまして、」(前掲『大阪商工会議所Chamber』記事より)

 その後の山崎さんの活躍ぶりは、ごぞんじのとおりです。歴代の直木賞受賞者が中心となった騒ぎのなかでも、強烈なインパクトのある騒ぎを、一度、二度、三度、数度も巻き起こしてくれました。その意味でも林真理子さんのお仲間……ってくどいですね、失礼。

 まあ、直木賞のほうに視点を向けてみますと、処女作『暖簾』をスルーしたのはいいとして、わずか二作目でこの人を大衆文壇の世界にひっぱり上げることができました。この賞にしては、珍しく手の早いことで、拍手を送りたいと思います。その後、山崎さんが「直木賞作家」として、文壇や世間にボコられ続け、と同時に「直木賞」そのものの意義や責任といった面も長く注目を浴びてきた、この数十年を見るにつけても。

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