佐藤賢一(第121回 平成11年/1999年上半期受賞) 「時期尚早だよ」「順調な人生だね」などと言われて、「違う!おれだって苦労してきたんだ!」と叫ぶ31歳。
佐藤賢一。『王妃の離婚』(平成11年/1999年2月・集英社刊)で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。
よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。
あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」などと呼んだら違和感ありますか?
ただ、まあ、アレです。「同じ舞台に立った他の誰よりも地味」っていう意味で、村山由佳さんより桐野夏生さんよりマイナー感を放っていますよね、いまでも。
「デビューの頃というと、あまり明るい思い出がない。(引用者中略)
デビュー作が売れていれば、もとの有頂天を取り戻せたのかもしれない。が、現実は甘くなかった。ぽっと出の新人が簡単に売れたり、話題になったりするものではないと、そういう慰め方も私にはできなかった。同時受賞が村山由佳さんで、その受賞作が今頃になって映画化されるまでもなく、いきなりベストセラーになったからだ。同じ年の純文学のほう、すばる文学賞が引間徹さんだったが、こちらも受賞作が芥川賞の候補になった。今年出た新人として、三人で左右に並んでおきながら、私ひとりが売れず騒がれずに埋没する体だったのだ。」(『青春と読書』平成19年/2007年2月号 佐藤賢一「苦悶煩悶の二年間」より)
ははあ。引間さんはどうだったか詳しくありませんが、村山さんを取り巻くビジュアル戦略まじりのスタート・ダッシュこそ、異常だったと思います。「小説すばる新人賞」受賞ぐらいでは、基本、それほど売れないでしょうなあ。
村山さんとの同時受賞だったのが運のツキと言いますか。売れない、目立たない。その状況を佐藤さん、「一度死にかけた」と回想しています。
「佐藤 新人賞を取ったときは、みんな「これで未来が開けた」みたいな気持ちになるわけなんですが、実際この世界って新人賞を取っただけで消えていく人もたくさんいるわけですから。
僕はそういった新人生き残りレースで、一度死にかけたところがあるわけで、そのときは非常に苦しかったですね。(引用者中略)
そのときはもう苦しい苦しいだけだったんですが、あとで振り返ると「おれはあのとき死にかけたんだな」と。僕は、単行本が出てそれが文庫本になるまで4年かかってるんです。普通は3年なんですが、僕は3年目では生き残れていなくて、その後でやっと生き残れたんで文庫になったんです。
宮崎(引用者注:宮崎緑) 文庫になることが作家として生き残ったということなのですか。
佐藤 何冊か続けて出る見込みがないと文庫にはなりませんから。僕はデビューしてから次回作が出るまで2年くらいかかったんですよ。その次回作が何とか出たんで、デビュー作も文庫にしてもらえた。だから、あのときに2作目を出せなかったら作家として死んでたんだなと思いますね。」(『週刊読売』平成11年/1999年10月10日号「宮崎緑の斬り込みトーク」より)
4年だの3年だのと、具体的な数字を出して話してくれるところが、ワタクシ、好きです。歴代の小説すばる新人賞受賞者のうち、「死んでしまった」認定された人は誰だったかな、と調べるときには集英社文庫リストを見ればいいので便利です(って、こらこら)。
それは冗談としまして。
新人賞のときだけではありません。直木賞のときも、佐藤さんのかたわらには、きらびやかな女性が立っておりました。多くの人の視線が、隣に向いてしまう事態、パート2です。
「(引用者注:桐野夏生と)東京会館の記者会見と文藝春秋の社屋で、二度ほど顔を合わせているが、たいへん御綺麗な方であることも手伝って、私は大いに気後れしたことを覚えている。記事や広告等々で何度も写真を拝見していたため、こちらは即座に桐野さんを見分けられた。有名人と会った、と些か興奮したくらいだ。が、桐野さんのほうは私の顔も名前も、全くの初見、初耳という感じだったに違いない。佐藤賢一? 誰だ、それ。記者会見場の衝立に潜みながら、そんな記者さんの言葉を現に私は聞いている。怒るより、苦笑する。無理もない、と思うからである。桐野さんに比べると、我ながら、ぽっと出の小僧の感が否めない。」(『青春と読書』平成11年/1999年9月号 佐藤賢一「冠の戴き方」より)
「佐藤賢一? 誰だ、それ」。……いいなあ、その言葉が耳に入ってきたことを忘れずにおいて、受賞記念エッセイに書きつける姿勢が。
晴れの舞台で、スポットライトを同時受賞者に奪われてしまう星のめぐり合わせ。さすが佐藤さん、モッてますねえ。そういうとこ、大好きなんです。
上記のちょっとした引用でもおわかりのとおり、少なくとも当時の佐藤さんは、ずいぶんと「売れる」「騒がれる」「他の作家と比べてどう」といったことに敏感でした。そして敏感な感覚をインタビューやエッセイなどで披露してくれています。
これはワタクシの当て推量というより、佐藤さん自身が語っています。いまはそういうことを考えなくなったが、かつては気にしていた日々があった、と。
「売れるとか、騒がれるとか、他の作家さんと比べてどうとか、そんなことも考えなくなったからには、自信も回復したのだろう。音楽に譬えるならば、純文学はクラシックのようなもの、エンターテインメントのなかでも恋愛小説はポップス、ミステリーはロック、してみると、歴史小説は演歌なのだ。他と比べても仕方がない。苦節十年二十年は当たり前で、すぐには芽が出ない。爆発的に売れるジャンルでもないが、地道に続けてさえいれば、必ずや報われるのだ。」(前掲「苦悶煩悶の二年間」より)
そうであってほしいものだと思います。ほかの同種文学賞に比べて、直木賞はとくに歴史小説や時代小説にも温かい賞ですが、その姿勢がミステリー愛好者からボロクソ言われて歩んできました。苦節ン十年、地道に続けてきました、そんな直木賞は、いま報われていますもんね。
……ん? 報われているのかな。
○
佐藤さんが直木賞をとるまでの道のりは、「苦節十年」というには短すぎます。しかし、どう見ても部外者に「苦節」と受け取らせてしまう、濃厚な内容のエッセイが、受賞発表の『オール讀物』に載りました。
過去、同誌に掲載された「受賞記念エッセイ」のなかでも、一、二位を争う名エッセイ。といいますか問題作だと、勝手にワタクシは思っています。『オール讀物』平成11年/1999年9月号の「七年間の手帳」です。
平成4年/1992年7月、第5回小説すばる新人賞に「傭兵ピエール」が最終候補に残ったところから始まり、平成11年/1999年7月、直木賞を受賞するまで。東北大学大学院生だった佐藤さんが、研究者になるか作家になるか、迷い惑わされながら最終的に作家への道を選ぶ、そんな経緯が描かれています。
登場人物はほとんど仮名です。仮名なんですが、時期と人物関係がわかりやすいように書かれているため、ちょっと調べれば誰が誰だかわかってしまうのではないか、とドキドキさせる読み物になっています。
カタキ役っぽく書かれている、研究室のC教授とか。
「(引用者注:平成6年/1994年)四月十五日、大学研究室の新入生歓迎コンパ。退官なされたA教授に代わり、研究室のトップになったC教授に、皆の前で「作家気取り」と嫌味をいわれる。」
「(引用者注:平成7年/1995年)六月十六日、E助教授に呼ばれる。学会報告の予定が反故になる。(以下、メモ欄)私は推薦したんだが、C教授が、あいつは駄目だと反対してね。理由は髪が長いから。そんな言い種があるか。睨まれていることは前々から感じていたが、はっきり形になるとショック。」
「(引用者注:平成9年/1997年)四月十六日、(引用者中略)よくしてくれた先生もいるので、一方的に大学を否定したくない。現に古いタイプの学者には嫌われなかった。A教授然り、E助教授然り。理解があるというのではない。学問至上主義なので、小説など「女子供が読むもの」と、はなから相手にしていない。良くも悪くも、自信があるということか。この人達は高度な学術論文しか書かない。逆に一般向けの本を書きたがり、あるいは講演に出掛け、あるいは評論家と対談に臨み、あるいは雑誌にエッセイを書くような、新しいタイプの学者がC教授。A教授が退官なされ、頭上の重しがなくなるや、急に派手な仕事を始めた。」
などなど。
まあ、佐藤さんの主観による表現なので、じっさいのC教授がどうなのかは知らないのですけど、『王妃の離婚』が誕生するまでには、たしかに大学内の人間関係で神経ささくれる経験を経たらしいです。C教授もまた、直木賞劇の重要な登場人物、と言えなくもありません(いや、言えないか)。
「――学究の徒としては、前途を嘱望されていたにもかかわらず、挫折してしまうフランソワのキャラクターは、大学院の博士課程を中退したというご自分と、意識的に重ねるものがあったんですか。
佐藤 そうですね。自分と全く同じキャラクターではないですけど。やっぱり学問の世界での挫折や失望というのは独特の感覚があると思うんですよ。外から見たら、大学なんてあんなとこ、という感じもあるでしょうけど(笑)。実際に自分がそういう世界にいたことは、フランソワのキャラクターづくり、心の動きに確かに反映されてると思います。」(『オール讀物』平成11年/1999年9月号 「藤沢周平さんがいなければ小説はやめていた」より―聞き手:池上冬樹)
一作の小説が生まれるまでには、そりゃあ、こんなブログじゃ紹介し切れない要素がたくさん重なっていると思います。佐藤さん自身が明かしているところだと、塩野七生『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』、ギー・ブルトン『フランスの歴史をつくった女たち 第二巻』。あるいはバリー・リード『評決』。それらの本との出会いが、『王妃の離婚』執筆へのきっかけになったり、物語展開に影響を与えたと。
しかし、そのうえでやはり、大学の研究室で進路に悩んでいた、悩まされていた状況で書かれた、つうハナシは外せません。佐藤さんの直木賞受賞は31歳です。チャラチャラの若手です。見ようによっては、デビュー6年で直木賞は順調そのものです。「なに? 全然順調なんかじゃなかった、大変だったんだ!」と我が身の苦労を再確認するには、かっこうの苦労話と言えましょう。
「佐藤 人生順調にやってきた人よりは、いろんな失敗を経験してきた人のほうがよく書けるとは思いますね。
宮崎 ということは、これまでの人生、とくに20代にとんでもない挫折感を味わったこともあるのですか?
佐藤 20代はハッピーじゃなかったですね。本当に何をやってもうまくいかなかった時期とかありましたから。
宮崎 ああ、やっぱり。
佐藤 というのも、デビューから6年で直木賞を取ったというと、皆さん大変順調な作家人生だと思われるでしょうけど、その過程ではすごく苦労したんですよ。」(前掲「宮崎緑の斬り込みトーク」より)
売れなくて地味な歴史小説がようやく直木賞を受賞しました、涙・涙、っていうかげには、やっぱり何か「苦労」がくっついてきていないと、サマになりませんものね。
○
サマになるかどうかは別としましても、この時期の佐藤さんには「おれは苦労してきたんだ」みたいな実感が必要だった、とは言えそうです。
『本の雑誌』ベストワン、なんちゅう、それこそ小説好き以外、格別関心を抱くこともない評価しか受けていない。同じくデビューした誰それは、もはや売れっ子作家。心の支えは、コツコツやっていけばいつか報われる、という信念のみ。
突然に直木賞候補になり、突然に受賞しました。そのとき、佐藤さんの耳にどんな声が聞こえてきたか。ワタクシらのような能天気な観客どもが発する、心ない声でした。
「実際、時期尚早であるとか、複雑怪奇な選考の綾が生み出した、偶然の産物であるとか、そんな辛い批評が私本人の耳にも届いている。選考の結果を伝える新聞、週刊誌のコメントにも、ものによっては、そんなニュアンスが感じられないではない。」(前掲「冠の戴き方」より)
わかる。わかります。わけ知り顔の、いわゆる「直木賞ツウ」は、ツウぶって、これまでの直木賞の傾向からすると……などと言いたがるものです。ワタクシもそうですから。
この回の直木賞の下馬評と、開けてびっくり玉手箱、の様子については、『読売新聞』が次のように伝えてくれています。
「今回ほど、いわゆる〈下馬評〉が、いかに当てにならないかを証明したこともない。自戒を込めて分析してみれば、そこにはやはり、「ベストセラー話題作」と直木賞受賞作は違う、という当たり前の事実がある。
選考前、評論家や出版関係者の間でもっぱら本命視されていたのは、天童荒太氏の「永遠の仔」(幻冬舎)。(引用者中略)
改めて複数の選考委員に聞いてみると、そこには、高い下馬評が及ぼした「逆効果」もあったようだ。「ものすごく期待したのに、評判ほどではなかった」と漏らす委員もいた。もし「永遠の仔」がそれほど知られていない作品だったら、評価は多少変わっていたかもしれない……と想像しても、意味はないのだが。」(『読売新聞』平成11年/1999年7月21日「直木賞に“大穴”「王妃の離婚」」より ―署名:(汗))
「ロック」な「ミステリー」愛好者たちの、ぶうぶう言う声が、裏から聞こえてきそうですよね。
でも、佐藤さんにとっちゃ「偶然の産物」とか言われて、ムッとしたかもしれません。おれだってこんなに苦労してきた、苦節の作家なんだ、偶然なんかじゃない、胸を張ったっていいんだ……と自分に言い聞かせたかもしれません。
「苦しみながらも書き続けて、デビュー六年目の九九年には、直木賞までいただけることになった。苦しんだという自覚が、そのまま自信になっていた。それが自惚れでなく、一定の評価も得られたと思えば、いよいよ私は大きな顔で作家を名乗るようになった。」(『小説すばる』平成15年/2003年12月号 佐藤賢一「十年目の苦悩」より ―太字下線は引用者による)
どうぞどうぞ、大きな顔でいてください。
50年後、100年後……。村山由佳も桐野夏生も天童荒太も、だーれも読んでいないけど佐藤賢一の小説は読み続けられている、なんちゅう状況になるのかどうか、ワタクシも確認してみたいものです。それまで生きていられないのが残念です。
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