星川清司(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。
星川清司。「小伝抄」(『オール讀物』平成1年/1989年10月号)で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。
きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。
その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース(?)の上位に食い込み、俄然注目を浴びることになるとは。想像だにしなかった事態に直面して、驚いた方も多いと思います。ワタクシもそのひとりです。
「小説「小伝抄(こでんしょう)」で直木賞を受賞した作家、脚本家の星川清司(ほしかわ・せいじ、本名・星川清=きよし)さんが、肺炎のため平成20年7月25日に死去していたことが分かった。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。
星川さんは東京都生まれ。脚本家としては市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズなどを手がけた。
家族によると、大正15年10月27日生まれと公表してきた生年月日は、じつは大正10年で、亡くなったのは86歳だった。平成2年に直木賞を受賞したときは68歳で、古川薫さんが持っている受賞最年長記録より年長だったことになる。星川さんは家族に、自身の死を公表しないように伝えていた。大正15年生まれの妻に「運が強いから大正15年生まれをもらうよ」と語っていたという。」(『産経新聞』平成22年/2010年4月10日「訃報 星川清司氏死去 直木賞「最年長」受賞」より)
ほんとは68歳で直木賞受賞。なのに5歳サバ読んで、63歳で受賞、ってことにしていたという。68歳の受賞ともなれば、堂々の最高齢受賞です。タイトルホルダーです。直木賞のことが大好きな新聞各紙は、当然、この件にガツガツ食らいつきました。
おそらく、生前の星川さんは、こういう事態になるのがイヤだったんだろうなあ。
星川さんは、平成2年/1990年1月に直木賞を受賞しました。以後いくつかの場で、自分のことを語らざるを得ない状況に陥ります。彼はどう処したか。嘘(というか省略)をかなり含みつつ、自分を語りました。年齢のこと、名前のこと、小説執筆の遍歴のこと、などなど。
「三枝(引用者注:桂三枝) 「星川清司」さん……きれいなお名前ですね。
星川 そうでしょうか。
三枝 これ、ペンネームですよね、もちろん。
星川 いえ、本名です。
三枝 ご本名ですか。
星川 はい。」(『週刊読売』平成3年/1991年9月29日号「三枝のホンマでっか」より)
おお。この流れるような受け答え。とうてい嘘をついているようには読めませんが、星川さん、本名は「清(きよし)」さんというのだそうです。
この対談では『オール讀物』に登場するまでの経緯も語られています。こんな感じです。
「星川 小説書いてもそれを発表する場所のあてはなかった。あるとき、友人に聞いたんです。新人が最も登場しにくいのはどこだと。「オール読物」だろうという答えでした。まず新人賞に応募して、それを取って筋道をつけてから登場していくものだと、そう言うんです。
三枝 それで……?
星川 ですが、私はもう若くはなし、そんな暇(ルビ:いとま)はない、そう思いましてね。どのみち、これは腕だめしだから持ち込み原稿をやろうと、自分で決めたんです。それで「オール読物」編集部を訪れまして……。
三枝 全然、面識なかったんですか。
星川 はい。
三枝 向こう、何者だろうと思ったでしょうねえ。
星川 まあ、私が映画の世界にいた人間だということは知ってましたけれど……。そのとき渡しました作品が「小伝抄」です。」(同)
この対談以外でも、星川さんは、似たような説明をしたのかもしれません。昭和46年/1971年、中央公論社の人に焚き付けられて何篇かの小説を書いたものの、それは別として、本気で小説を書こうと思って発表にいたった第一作が「小伝抄」、それで突然直木賞を受賞……みたいなストーリーです。
しかし、このハナシ、信用できるでしょうか。星川さんが別に書いた自伝、「不運と幸運が綯い交ぜで」では、少し様相がちがっているんです。
「わたしはよっぽど強運なやつらしくて、「オール讀物」編集部に電話紹介してくれるひとがあらわれた。あす、文藝春秋へすぐにいきなさいという。もうすこし書きためてと思っていたのだけれど、あわてて原稿を持参した。当時編集部次長の設楽さんとおめにかかった。
「稀なる幸運に恵まれた」と設楽さんがいった。持ち込んだ原稿のうちのひとつ、百枚のものが、渡してから五日ほどして、「オール讀物」に掲載が決まった。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 星川清司「不運と幸運が綯い交ぜで」より)
これが星川さんの『オール讀物』初登場作、「闇のささやき」(昭和63年/1988年11月号)の掲載経緯だといっています。
いったいこの食い違いは何なのでしょう。なぜ対談では、自分で持ち込んだように聞こえる言い方にしたのか。……「電話紹介してくれたひと」だの「編集部次長の設楽さん」だのの存在を敢えて省略したのかもしれません。彼らに要らぬ迷惑がかかることを避けるために。
新人の作品で百枚、百五十枚の長さのものは、そうやすやすと載せてくれるわけがなくて、昭和63年/1988年に第一作が出てから、約1年間、時間がかかった、その2作目がみなさんご存じの直木賞受賞作です、などといちいち説明するのは、たしかにかったるい。「小伝抄」より前に作品を発表していたことなど、どうせ多くの人は興味がないだろうから、そこは省いてしまおう、とも考えたかもしれません。
どうなんでしょう。正直わかりません。なにせ、星川さんは身の上話をイヤイヤしていたような人です。ワタクシらのような興味本位至上人間に、ほじくり返されるのがお気に召さないかのごとく。そんな彼の語ることの、どこまでを信用していいのでしょう。お手上げです。
「自伝とかいうようなものは、これから先、もう書かないつもりだ。書きたくない。これはいわば直木賞受賞者の義務だから、致し方なく、需めに応じて書くことにした。
身上咄の類いは、もうこれでおしまい。」(同)
まあたしかに、自分の死でさえも世間に隠そうとしていたほどですからねえ。よほど、身の上話を避けたかったようで。
ええ、そう考えますと、なぜ5歳年齢を詐称したのか。「寅年生まれは運が強いからと寅年の大正15年/1926年生まれを称した」と明かされたその理由までも、まだ真実を語っていないのではないか、と疑いたくもなろうというもんです。
○
と思っていましたら、「年齢詐称の理由は、そりゃひとすじなわでは解釈できないよ」と疑念を呈する方が、すでにいました。ああ、やはり。そうなんですね。
浦崎浩實さんです。
「脚本家から小説家に転じた星川清司氏が08年7月25日に亡くなっていたと、この4月になって新聞などが報じた。その際、生年も従来の1926(昭和1)年生れではなく、本当は1921(大正10)年生れとご遺族から公表された由。26年寅年の縁起を担いだそうだが、理由はそれだけだろうか?」(『キネマ旬報』平成22年/2010年7月下旬号 浦崎浩實「映画人、逝く」より)
というのも、星川さんは昔から、何度か年齢詐称の前歴(?)があって、かならずしも大正15年/1926年と称してきたわけではなかったのだそうです。浦崎さんが紹介してくれている例は以下の二つ。
- 媒体:『キネマ旬報別冊』「名鑑」(昭和34年/1959年)……生年:大正12年/1923年
- 媒体:『シナリオ』「シナリオ作家名鑑」(昭和40年/1965年1・2月合併号)……生年:大正14年/1925年
なある。たしかに、「寅年の縁起かつぎ」だけでは説明のつかない詐称ぶりです。
浦崎さんの推測をご紹介しますと、
「少しずつサバを読んで、昭和生れに辿り着いた趣である。三島由紀夫(大正14=1925年生れ)が大正生れを嫌い、久しく1926(大正15・昭和1)年生れを自称したのは有名だが、星川氏も昭和に拘泥があったかもしれない。」(同)
とのことです。
ははあ。昭和生まれでありたい!と願う人は、1926年を「大正15年」ではなく「昭和元年」と解釈しちゃうんですね。星川さんもそのひとりだったのかもしれません。
ただ、ワタクシのような直木賞オタクからしてみれば、アレです。つい妄想が膨らんでしまうのです。「小伝抄」が望外の直木賞候補作に選出されて、日本文学振興会からプロフィールの提出を求められた場面のことを。星川さんは「自分が最高齢受賞になる可能性があるぞ」と、ふと気づいてしまったのじゃないか、と。
過去の直木賞の最高齢は、調べればすぐにわかります。平成2年/1990年段階で、その記録の保持者は佐藤得二さん、64歳です。自分の年齢を数えてみる。68歳。まずいまずい。以前に自分がサバ読んだ大正14年/1925年生まれなら、どうか。64歳。まだ駄目だ。最高齢記録にならんでしまう。きっとマスコミなどで騒がれるに決まっている。
……「最高齢」の話題の餌食になることを避け、目立たなくするには、もう一年ごまかして、大正15年/1926年生まれにしちゃえばいいじゃん。つうことで、思い切って5年も若いことにしたのじゃなかろうか、と想像しちゃうのですよ。
星川さんのもくろみは成功しました。直木賞ではじめて星川さんを知る、ワタクシのような門外漢たちをケロリとだましおおせました。過去の年鑑をひっぱりだしてきて、「いや、星川さん、あなた最高齢受賞じゃないですか!」と告発するようなやつなど一人もいない、としっかり見抜いておりました。
星川さんの正確な生年が広まったのは、亡くなった後でした。ただ、没する平成22年/2010年7月より前に、生年はきちんと公表されていたんですね。
佐藤忠男・編の『日本の映画人―日本映画の創造者たち』が刊行されたのは平成19年/2007年6月です。ここでは星川さんの生年月日が「大正10年(1921年)10月27日」と記載されていました。
そのときに、「おやおや。ってことは星川さんが最高齢受賞者じゃないか」と気付けなかったのかpeleboよ。まったく面目ありません。直木賞を愛し、直木賞の情報を愛する者として、不覚でした。まだまだ精進が足りませんね。
○
星川さんが小説の世界で名を知られたのは60歳すぎでした。ただ、若いころからずーっと、文学に対する憧れというか関心は強かったみたいです。
身すぎ世すぎのために、シナリオ作家の道に入ったものの、「自分はこのままでいいのかという思いが、絶えずあった」と言います。昭和45年/1970年に「わが父北斎」のシナリオを書いて、芸術祭賞などを受賞しました。それをしおに、シナリオ執筆を休むことにしたんだそうです。
「この作品(引用者注:「わが父北斎」)の後、賞をいただいて一区切りになったし、しばらく休もうと思いました。というのは、自分はこのままでいいのかという思いが、絶えずあったんです。でも、何をやるかはっきりしない。それなら、二、三年やめて、身の振り方を考え直そうと思いました。子供はいませんし、それなりに気楽に生きていかれるほどの蓄えはありましたから。
そうしたら、「中央公論」から呼ばれまして「あなたのエッセーを読んだが、小説を書けるはずだから、書いてみませんか」って言うんです。それで、平安朝を舞台にした、『菩薩のわらい』というのを八十枚ほど書いてお渡ししました。」(『週刊文春』平成2年/1990年3月1日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」より)
どうやら中央公論の担当者に、そうとう見込まれたらしく、「なんとか小説で身の立つようにしてあげるから」とまで言われました。星川さんも「幾つかの短篇を載せてもらい、小説に専念しようかと思った」と回顧しています。
じっさい、シナリオ書きを休んだ矢先に、小説を何篇か書いて発表していたわけですから、「小説に専念した」と表現してもいいと思います。
そこからもう一度、余儀なくシナリオライターの道に逆戻りしました。星川さんの回想によれば、
「うかつにも保証人になって判をついたばかりに、あからさまに金額を申し上げるのはイヤですけれども、莫大な借財を背負い込みました。」(同)
ということで、小説では稼げないし食えない、カネを稼げるのはシナリオの仕事だ、っていうんで借財を返済するために、10数年せっせとシナリオを書いたのだという。
それで返済が終わったのち、星川さんの決意した道は「小説を書くこと」でした。よほど文学に惚れ込んでいたんでしょう。あるいは、「シナリオを書き続けることは、自分の望む道ではない」とはっきり認識していた、というべきでしょうか。
再出発の小説の世界で、運よく直木賞なんてものを受賞してしまいます。認められることは嬉しかったでしょう。反面、「直木賞」はなにしろ傍若無人なパワーを振り回してきます。作者自身のことがいろいろ世間に知られ、望むと望まざるとにかかわらず、有名人として遇されることとなってしまいます。
星川さんが、その境遇を心底うれしがった、とはにわかには信じられません。
晩年のエッセイに「身の置きどころ」っていうのがあります。星川さんの好む生き方の一端が、うかがい知れる一篇です。
「わたしは世にいう偉い人物を書くのは苦手で、興味もない。ましてや、歴史をひっくりかえしてみせるというような仕事は、まっぴら御免で、いちばん好きなのは、巷をうろついている男や女たち。得体のしれぬ群集のすがたである。
遊行者、流離者、放下、遊狂、風狂という世捨人ばかりに惹かれるのは何ゆえだろうか。(引用者中略)
身の置きどころが気に入っている作者の一人に、B・トレイヴンというひとがいる。
わからないことばかりの作者で、どこにいるかわからない。国籍がわからない。年齢がわからない。顔を見た者は誰もいないという念の入りよう。
世捨ての極みで羨しいかぎり」(『オール讀物』平成13年/2001年2月号「身の置きどころ」より)
自分には世捨ての覚悟はない、でも世捨てに憧れる、と綴っています。
自身の正体をつかませず、世俗的なことから距離をおいて作品を発表する作家、それを「世捨て」として気に入る星川さん。そりゃもう、そんな星川さんですもの。直木賞の台風に取り込まれるにあたって、本名を隠したり、年齢で嘘ついたりしたのは、自然なことなのかもしれません。
文学賞のなかでもとくに「個人情報暴露機能」の発達した直木賞に対して、めいっぱい抵抗し、立ち向かった人でした。そういった人物として、星川さんが直木賞史に多大なる名を残し、ワタクシはうれしく思います。けっきょく星川さん自身はイヤでしょうけど。
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