千葉治平(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) この人のせいで二人の選考委員のクビが飛んだ!とさえ言われてきた、強烈な受賞者の誕生。
千葉治平。「虜愁記」(『秋田文学』23号~27号[昭和39年/1964年8月~昭和40年/1965年11月])で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。
第54回(昭和40年/1965年下半期)の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役、新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物、千葉治平さんです。
どちらの人も地方の同人誌作家でした。東京の商業誌にまったく登場したことがありません。受賞直後、選考経過をまとめるにあたって新聞記者はこう書きました。
「今回の直木賞は、将来に期待できる新鮮な人を選んだのが特色。」(『毎日新聞』昭和41年/1966年1月18日「芥川賞高井有一氏 直木賞新橋、千葉氏 選考経過」より)
しかし奥さん。あなたは、その後の千葉治平さんの活躍をご存じですか?
千葉さんは身のほどをわきまえた方でした。「賞」に躍らされて東京進出、なんちゅう愚行をするはずがありません。秋田の地で定職に就きながら、終生、こつこつとおのれの道を邁進いたしました。
高橋春雄さんにいわせると、こういうことです。
「直木賞受賞後は『八郎潟・ある干拓の記録』等のほか創作は寡作。「虜愁記」では中国の風土に圧倒されている作者のロマンティシズムのふくらみが、職業作家に堪えられる質のものでなかったかとも思われ、思想の上の低迷があったかとも思われる。プロ作家になりきった新橋遊吉と対照的である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:高橋春雄)
寡作。いやもう、寡作どころの騒ぎじゃありません。まもなく、秋田を離れた地では、千葉さんのお名前や作品を見かけることが、ほぼなくなったほどです。受賞作の「虜愁記」ですら、文藝春秋がいちど単行本化しただけで、そのほかで読むことができない、という直木賞受賞者としては珍しい状況がつくり上げられていきました。
だからでしょう。かの有名な(?)直木賞の定説まで誕生してしまったのです。直木賞が「将来職業作家としてやっていける人」ではなく、「すでに職業作家として人気を勝ち得ている人」を選ぶようになったのは、昭和40年/1965年下半期のこの回が分岐点だった、っていう。
ええ、そうですね。この定説を語るのであれば、二人の選考委員のハナシを抜かすわけにはいきませんよ。小島政二郎さんと木々高太郎さんです。
お二人とも、第54回が終わってまもなく選考委員を辞任。いや、辞任といいますか、以前に小島政二郎「佐々木茂索」のエントリーでも確認したように、主催者日本文学振興会(つまり文藝春秋)の意向により解任されたらしいのです。
文壇周辺の界隈では、その件に関して、あるウワサ話がまことしやかに流れました。
どんなウワサでしょう。以下、うちのブログでは何度か引用した文章ですが、念のためもう一度。
「青山(引用者注:青山光二)は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋と千葉)は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』より)
ふうむ。このウワサ話、あらためて読み直すと、どうにも気色悪いですよね。
というのもアレです。新橋・千葉という『オール讀物』向きでない人を受賞させたのは、いかにも小島さんと木々さんの責任だと匂わせているからです。
だって、『オール讀物』の常連作家を生み出すのが直木賞の目的なのであれば、そうなりそうもない人を、予選で通過させなきゃいいだけのハナシですもん。文藝春秋の人たちが。
自分たちで候補に残しておきながら、いざ選ばれたら、ブウブウ文句を言うってどういう了見ですか。意図どおり動かない選考委員を解任できる力があるんなら、はじめから新橋さんや千葉さんを候補にするなよ、と言いたくもなります。どう見ても、新橋さんと千葉さんが選ばれたのは、文春の責任でしょう。なのに、小島・木々二人の批評眼をおとしめるようなウワサばかりが面白おかしく語り継がれるという。ああ、気色悪い。
「このとき新橋、千葉の二人をつよく推した三人の選考委員のうち小島、木々の二人はこの回を最後に委員を辞任し、次回からは新たに柴田錬三郎、水上勉の二人が新委員に任命された。」(大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より)
新橋・千葉の受賞をつよく主張した委員が、小島・木々など3人いた。……っていいますけど、ほんとですか? 選評を読んでもそうは分類できませんけど。
村上元三さんはこう分類していますし。
「大仏(引用者注:大佛次郎)、木々、小島の(引用者注:日露)戦前組は新橋遊吉氏の「八百長」を推し、源氏(引用者注:源氏鶏太)、松本(引用者注:松本清張)、村上の戦後組が千葉治平氏の「虜愁記」を推した。そして、ちょうど“戦中派”の海音寺潮五郎氏は中立という具合に色分けができた。その結果、二作とも受賞ときまったのです。」(『週刊文春』昭和41年/1966年2月21日号「盛会の芥川・直木賞授賞式」より)
事実はあやふやです。
それでも、なにせ千葉さんのその後の活躍ぶり(不活躍ぶり?)が強烈すぎました。「職業作家として使えない」度は、天下一品です。その千葉さんの姿に引きずられて、この回の受賞者を推した小島・木々の二人が、その責をとらされて解任された、みたいな風評は絶えることなく受け継がれてきたのでしょう。たぶん。
直木賞において千葉さんの存在が重要である、と思わされるゆえんです。
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