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2012年4月の5件の記事

2012年4月29日 (日)

千葉治平(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) この人のせいで二人の選考委員のクビが飛んだ!とさえ言われてきた、強烈な受賞者の誕生。

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千葉治平。「虜愁記」(『秋田文学』23号~27号[昭和39年/1964年8月~昭和40年/1965年11月])で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。

 第54回(昭和40年/1965年下半期)の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物、千葉治平さんです。

 どちらの人も地方の同人誌作家でした。東京の商業誌にまったく登場したことがありません。受賞直後、選考経過をまとめるにあたって新聞記者はこう書きました。

「今回の直木賞は、将来に期待できる新鮮な人を選んだのが特色。」(『毎日新聞』昭和41年/1966年1月18日「芥川賞高井有一氏 直木賞新橋、千葉氏 選考経過」より)

 しかし奥さん。あなたは、その後の千葉治平さんの活躍をご存じですか?

 千葉さんは身のほどをわきまえた方でした。「賞」に躍らされて東京進出、なんちゅう愚行をするはずがありません。秋田の地で定職に就きながら、終生、こつこつとおのれの道を邁進いたしました。

 高橋春雄さんにいわせると、こういうことです。

「直木賞受賞後は『八郎潟・ある干拓の記録』等のほか創作は寡作。「虜愁記」では中国の風土に圧倒されている作者のロマンティシズムのふくらみが、職業作家に堪えられる質のものでなかったかとも思われ、思想の上の低迷があったかとも思われる。プロ作家になりきった新橋遊吉と対照的である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:高橋春雄)

 寡作。いやもう、寡作どころの騒ぎじゃありません。まもなく、秋田を離れた地では、千葉さんのお名前や作品を見かけることが、ほぼなくなったほどです。受賞作の「虜愁記」ですら、文藝春秋がいちど単行本化しただけで、そのほかで読むことができない、という直木賞受賞者としては珍しい状況がつくり上げられていきました。

 だからでしょう。かの有名な(?)直木賞の定説まで誕生してしまったのです。直木賞が「将来職業作家としてやっていける人」ではなく、「すでに職業作家として人気を勝ち得ている人」を選ぶようになったのは、昭和40年/1965年下半期のこの回が分岐点だった、っていう。

 ええ、そうですね。この定説を語るのであれば、二人の選考委員のハナシを抜かすわけにはいきませんよ。小島政二郎さんと木々高太郎さんです。

 お二人とも、第54回が終わってまもなく選考委員を辞任。いや、辞任といいますか、以前に小島政二郎「佐々木茂索」のエントリーでも確認したように、主催者日本文学振興会(つまり文藝春秋)の意向により解任されたらしいのです。

 文壇周辺の界隈では、その件に関して、あるウワサ話がまことしやかに流れました。

 どんなウワサでしょう。以下、うちのブログでは何度か引用した文章ですが、念のためもう一度。

「青山(引用者注:青山光二は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋と千葉)は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 ふうむ。このウワサ話、あらためて読み直すと、どうにも気色悪いですよね。

 というのもアレです。新橋・千葉という『オール讀物』向きでない人を受賞させたのは、いかにも小島さんと木々さんの責任だと匂わせているからです。

 だって、『オール讀物』の常連作家を生み出すのが直木賞の目的なのであれば、そうなりそうもない人を、予選で通過させなきゃいいだけのハナシですもん。文藝春秋の人たちが。

 自分たちで候補に残しておきながら、いざ選ばれたら、ブウブウ文句を言うってどういう了見ですか。意図どおり動かない選考委員を解任できる力があるんなら、はじめから新橋さんや千葉さんを候補にするなよ、と言いたくもなります。どう見ても、新橋さんと千葉さんが選ばれたのは、文春の責任でしょう。なのに、小島・木々二人の批評眼をおとしめるようなウワサばかりが面白おかしく語り継がれるという。ああ、気色悪い。

「このとき新橋、千葉の二人をつよく推した三人の選考委員のうち小島、木々の二人はこの回を最後に委員を辞任し、次回からは新たに柴田錬三郎水上勉の二人が新委員に任命された。」(大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より)

 新橋・千葉の受賞をつよく主張した委員が、小島・木々など3人いた。……っていいますけど、ほんとですか? 選評を読んでもそうは分類できませんけど。

 村上元三さんはこう分類していますし。

「大仏(引用者注:大佛次郎、木々、小島の(引用者注:日露)戦前組は新橋遊吉氏の「八百長」を推し、源氏(引用者注:源氏鶏太、松本(引用者注:松本清張、村上の戦後組が千葉治平氏の「虜愁記」を推した。そして、ちょうど“戦中派”の海音寺潮五郎氏は中立という具合に色分けができた。その結果、二作とも受賞ときまったのです。」(『週刊文春』昭和41年/1966年2月21日号「盛会の芥川・直木賞授賞式」より)

 事実はあやふやです。

 それでも、なにせ千葉さんのその後の活躍ぶり(不活躍ぶり?)が強烈すぎました。「職業作家として使えない」度は、天下一品です。その千葉さんの姿に引きずられて、この回の受賞者を推した小島・木々の二人が、その責をとらされて解任された、みたいな風評は絶えることなく受け継がれてきたのでしょう。たぶん。

 直木賞において千葉さんの存在が重要である、と思わされるゆえんです。

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2012年4月22日 (日)

新橋遊吉(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) 大衆小説文壇に、いきなり現われていきなり去っていき、独自の道を駆け抜けた。

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新橋遊吉。「八百長」(『讃岐文学』13号[昭和40年/1965年8月])で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。

 そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。

 「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです。

「この作品は新橋さんの第一作。その後は、三十九年(引用者注:昭和39年/1964年)暮れに夫婦で同人になった豊中の同人雑誌「行人」に「内輪外輪」を発表しているだけである。

 だから直木賞受賞に驚いたのは新橋さんだけではない。マスコミ関係者も驚いた。

「ほんまに新橋さん、書きはったんですか」

 新進作家に対してたいへん失礼な愚問がでる。」(『週刊サンケイ』昭和41年/1966年2月7日号「女房が授けた直木賞・新橋遊吉」より)

 32歳になるまで、いったい新橋さんは何をしてきたのか。どうして突然、小説など書いたのか。ってことを少し追ってみたいと思います。

 同記事で妻の玲子さんが、こんな証言をしてくれています。

「この人はテレ性なんで、人さんの前ではウマのことばっかりいうてますけど、病気のときは小説や文学もずいぶん読んでたようですよ」(同)

 そうかあ、新橋さん、テレ性なのかあ。だから、いつも冗談みたいなことばっかり言って、どこまでがホントで、どこからが脚色なのか判然としないんだそうです。

 ってことはですよ。直木賞を受賞してから、各媒体で語ったこと書いたことも、きっと新橋さん、面白おかしく誇張したり省略したりしたんだろうなあ、とは想像がつきます。そのせいなのでしょう、新橋さんのプロフィールは、書く人によって微妙に細部が違っているんですよ。んもう。研究者泣かせなんだから。

 たとえば、武蔵野次郎さんはこんな文を書いています。

「初芝高校卒。七年間にわたる療養生活をおくり職業も転々としたが、その間も小説勉強に励み、昭和四〇年下期第五四回直木賞を『八百長』(昭和四一・四 文芸春秋)で受賞。」(昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典 第二巻』より)

 「その間も小説勉強に励み」ってどういうことなのでしょう。なにしろ新橋さん本人は、「八百長」まで小説を発表したことがないと証言しています。小説をたくさん読んできた、とは言っていますが、通俗小説ばかりだったそうで、とうてい小説勉強に励んできた形跡がありません。

 はて。武蔵野さんは、どんな具体的な行為を指して「小説勉強に励み」なる表現にたどりついたのでしょうか。不明です。

 あるいはもうお一人。木村行伸さんは、こう解説します。

「初芝高校卒。七年間の療養生活や、様々な職業を転々としていたが、昭和40年に作家を志して同人誌「讃岐文学」に参加。そこで発表した『八百長』(昭41)が直木賞を受賞。」(平成16年/2004年7月・明治書院刊『日本現代小説大事典』より)

 ははあ。「小説勉強」の部分をばっさりカットしちゃっていますね。昭和40年/1965年『讃岐文学』に参加したタイミングを、「作家を志した」時と認定しています。

 いったい、どういうことなんでしょう。「小説勉強」とは何だったのか。作家を志したのは、ほんとに『讃岐文学』に入った頃なのか。その点に注目しながら、いくつかの文献を読んでみました。

 そもそも新橋さんと『讃岐文学』との縁を取り持ったのは、妻の玲子さんでした。これはどうやら確かなようです。前掲の記事によれば、

「新橋さんは、療養中に玲子夫人と知り合い、玲子さんが同人雑誌「讃岐文学」の同人だったことから玲子さんのすすめで、この会合に顔を出しはじめたのである。(引用者中略)

 玲子さんと新橋さんとは半年の交際の後、三十八年十月十日、堺の天神さんで結婚式をあげた。(引用者中略)

 新橋さんは昨年(引用者注:昭和40年/1965年)の春ごろから正式に「讃岐文学」の同人になった。どこの同人誌にも“書かざる同人”はいるものだが、新橋さんもその例にもれず、最初のうちは、いっこうに小説らしいものは書かなかった。」(前掲『週刊サンケイ』記事より)

 この経緯だけ追えば、作家を志したから昭和40年/1965年に正式な同人になったのだろうな、とは読めます。読めるんですが、新橋さんののらりくらりな証言は、その認定に水を浴びせてしまうのです。困った人です。6年後にこんな回想を残しています。

「早いもので私が讃岐文学十三号に「八百長」を発表してから、今年で七年が経つ、思えばその頃、女房曰く、

「あんたの話は聞いていると面白い、小説に書けばいい作品が出来るかも…」

 などと調子よくおだてられ、主宰者の永田敏之さんに、

「ほんなら一丁、大小説を同人雑誌に発表するべェか」

 などといい、私の方は冗談半分であったのに、永田さんが本気で受け取り、「貴兄の作品を十三号の巻頭に持ってゆきたい、ぜひとも年末までに脱稿の上、郵送されたし……」

 と十二月に入ってから矢の如き催促、(引用者中略)

 十二月も半ば過ぎると寒く、この年はときどき雪がちらついた。貧乏暮らしなのでガスストーブは費用がかさむと敬遠され、石油ストーブで暖をとりながら日付けが変る頃まで、私は「八百長」を女房はオール読物新人賞に応募するのだといい「天保の乱余聞」を書いていた。(引用者中略)それでも何とか間に合って(引用者注:『讃岐文学』発行所のある)高松へ送った。」(『讃岐文学』21号[昭和47年/1972年9月] 新橋遊吉「あれから七年」より)

 これを信ずるなら、新橋さんがはじめての小説「八百長」を書いたのは昭和39年/1964年暮れです。作家を志したのは、昭和40年/1965年になる前だった、と解釈せざるを得ません。

 だいたいアレです。少なくとも『讃岐文学』より以前に、新橋さんはほかの同人誌に属していた経験があるんですもの。昭和40年/1965年に突如、小説を書く気になったと考えるのは違和感があります。

 『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号の記事では、「大阪の同人雑誌の会合で知り合った亀山玲子さん(筆名)と結婚。」と紹介されています。「大阪の同人雑誌」の誌名は紹介されていませんが、新橋さんが『讃岐文学』や『行人』を知る前であることは確実です。

 その同人誌の候補をひとつだけ挙げておきます。堺市の『文学地帯』です。かつて北原亞以子さんが所属していたことでも知られる雑誌ですが、

「「文学地帯」は(引用者中略)現在の関西の同人誌の中では、「VIKING」「文学雑誌」「雑踏」などに続く歴史を持ち、直木賞作家の新橋遊吉さんや、企業小説の門田泰明さんらを送り出している。」(『読売新聞』夕刊[大阪版]平成5年/1993年8月17日「直木賞作家支える同人誌」より)

 なあんて語られていたりするわけです。武蔵野次郎さんはこの辺りを意識して「小説勉強に励み」と書いたのかもしれません。

 しかし、作家業に憧れを抱き、同人誌に参加したからといって、小説勉強に励んでいたとは限りません。この辺が新橋さんの、いわゆる療養生活中のあやふやなところです。

 胸を病んで療養中、昭和31年/1956年のことです。石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞しました。このころのことを、新橋さんはこう振り返っています。

「石原慎太郎が湘南地方の若者の風俗を描いた『太陽の季節』で芥川賞を受賞、学生作家としてデビューした。(引用者中略)

 私が文学に対して関心を持つようになったのもこの頃からで、原稿を書いて銭になれば、こんないいことはないと思ったものの、とても自信などなく、いたずらに無為徒食の日が明け暮れた。

 ただ、まだ働くということは無理な身体だったので、療養中の大義名分があったから、精神的にはそれほど苦痛を感じなかった。」(昭和60年/1985年6月・グリーンアロー出版社/グリーンアロー・ノベルス 新橋遊吉・著『競馬有情 無頼編』より)

 7年の療養とは言いますが、実際には3年ほどで全快し、その後4年は仕事を探しながら無職の日々を送っていたそうです。推測するに、昭和30年代前半、健康が回復するにつれて作家を志すようになり、大阪の同人誌に顔を出すようになったのではないでしょうか。しかし実際に小説を書くことはできず、「書かざる同人」のまま、競馬・競輪などにうつつを抜かしていたと。

 そこで亀山玲子さんと出会い、また永田敏之さんとも縁ができたのが運のツキでした。書いたらいいよ、書け書けと背中を押す人が現われたのです。せっつかれて、ようやく昭和39年/1964年、第一作を書き上げることができた。……っていうのが、「八百長」完成までの流れなんだろうなあ、と思います。

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2012年4月15日 (日)

中島京子(第143回 平成22年/2010年上半期受賞) 家族たちがかもし出す静かで温かな受賞光景。出版界の馬鹿さわぎがかすんで見えてきます。

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中島京子。『小さいおうち』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『FUTON』での小説家デビューから7年。46歳。

 ついこないだの出来事です。誰の記憶にも、きっと新しいはずです。

 うちのブログはたいがい、古い時代のハナシにばかり目を向けて、ご機嫌をうかがっています。何でまた、2年も経っていない中島京子さんの受賞のことを取り上げるのか。……といえば中島さんが「初候補で受賞した」人だからです。

 初候補での受賞は、第131回(平成16年/2004年上半期)の熊谷達也さん以来、6年ぶりでした。じつは初候補受賞者を手ぐすね引いて待っていた人たちが世のなかにはたくさんいたらしくて、中島さんの受賞が決まるや、いっせいに喜びを爆発させました。

 その一端は直接、中島さんの耳にも届いたそうです。

「初ノミネートでいきなり受賞は珍しいと、いろんな人に言われた。」(『毎日新聞』夕刊 平成22年/2010年7月29日 中島京子「直木賞に選ばれて 「とにかく、書く」ということで」より)

 「喜びを爆発させた」は、ちょっと表現が間違ったかもしれません。

 うちのブログでは昨年6月より毎週、「初ノミネートでいきなり受賞」した作家を紹介しています。今週の中島さんで42人目です。まだあと23人もいます。直木賞史においては、とくに珍しくこととは言えませんよね。中島さんのまわりにいる直木賞に詳しい人たちも、んなことは先刻ご承知でしたでしょう。それでも、「珍しい」などと口走ってしまったのは、6年も待たされた反動から、つい嬉しくなっちゃったからなのだろうな、と推察したわけです。

 いっさい新人賞をとった経験のない作家。デビューして7年、小説13冊目。着実に新作を上梓しつづけているものの、時代小説とかミステリーとかSFとかホラーとかラノベとか、そういうわかりやすいジャンル区分の世界にはいない、基本、初版止まり作家。

 こういう人に、バシッと一発目で賞を授けることができたのです。直木賞にとってこのうえなく理想的で、ある種「直木賞らしい」ともいえる授賞です。……直木賞の好きな人たちが、ついつい喜んでしまったのも、故なしとしません。

 ワタクシにとっても嬉しい出来事でした。そして、あまりの嬉しさに、口が滑らかになってしまった人もいました。選考委員の林真理子さんです。お得意の、記者会見で余計な発言を炸裂させてくれました。よっ! 待ってました、真理子さん。

「こうして今回は芥川賞、直木賞ともに初候補作品が受賞という、珍しい結果に終わった。さらにもう1つ異例といえるのが、林(引用者注:林真理子)選考委員が総括として「今回は、全体として作品が小粒だった。小説が売れない時代に、直木賞は指針を示すものでなければならない」と、小説界全般に対して直木賞が果たすべき役割を言明したことだ。

 文学界の権威の選考によって小説の魅力を位置づける直木賞。だが、最近は「本屋大賞」のような作家以外の人による小説のランク付けに販売力で及ばないなど、影響力の低下がささやかれる。林委員の発言は、こうした危機感の表れといえるだろう。」(『日経エンタテインメント!』平成22年/2010年9月号「選考委員の平均年齢も若返り “売れる”本に言及した直木賞」より ―文:土田みき)

 ははあ、なるほど。そんな意識が、1年後の第145回(平成23年/2011年上半期)で展開された、林さんの『ジェノサイド』推しにつながっているのかな、などと想像させてくれたりもして。

 まあ、林さんは、何に対してそんな使命感を燃やしているのか、とツッコミを入れたくなるほど、直木賞の受賞を過大に考えるきらいのある方ですから。仮想の敵と常に闘う女、マリコ嬢。温かく見守ってあげたいなと思います。

 偉そうなことを言いますけど直木賞がゴールじゃなくて、これからが頑張りどきですよ。気を緩めているとすぐに忘れられてしまいます。(引用者中略)私も書き続けて、後世の語り部にならなきゃいけない使命を帯びているんじゃないかと思うんです。ほんとに中島さんには頑張ってほしいなと思います。私たちって大量に書き続けなきゃいけないわけで。直木賞を獲ったからって安心できないんですよ、活字文化にとってやさしい時代でもないですしね(笑)。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 林真理子×中島京子「受賞記念対談 戦前日本は、明るく豊かだった」より)

 またそうやって、直木賞をとって寡作を貫いたような、信念の作家を「直木賞受賞者としては傍流」みたいに、決めつけちゃうのですね。林さんの直木賞観はあまりに熱くて濃くて、そして狭すぎて、肩がこりますよ。忘れられるのが、そんなに恐怖ですか?

 直木賞はもっと自由なものだと思います。たかが直木賞です、気楽にいきましょうよ。

 当の中島さんは、直木賞のことをかなり自由な発想でとらえてくれているようで、なんだかホッとしました。

「直木賞は伝統のある文学賞で、懐の深い賞でもある。ベテラン作家に授与されることもあれば、私のようなものが受賞することもある。そうなるときっと、直木賞の意味合いも受賞者によって違うと解釈すべきだろう。(引用者中略)

 これからどんな作家人生が待ち受けるのか想像もつかないが、「とにかく、書く」ということで。後のことは、またまた運に任せるしかない。」(前掲「「とにかく、書く」ということで」より)

 直木賞は懐が深い!との指摘に、思わずうなずいてしまいます。

 まったくです。100人の直木賞受賞者がいれば、100通りの直木賞があるってわけでして。「直木賞とは、どんな賞か」と問われて、最も的確な答えは、「自由な賞である」というものでしょうから。

 受賞傾向も「自由」なら、受賞者の筆歴、作家としての歩みもバラバラ。とったあとの活動だって、当然、書いたっていいし書かなくたっていい。

豊崎(引用者注:豊崎由美) (引用者中略)わたしは中島さんが直木賞を受賞して、ほんとうによかったと思っているんです。大きな賞をとると、より書きたいものが書ける自由を得るという利点がありますから。

中島 そういえば山田詠美さんもすごく喜んでくださって、「実用的な賞だからとっておくといいわよ」とおっしゃっていました。

豊崎 その通り。これまで以上に書きたいものを書いてください。」(『書評王の島』4号[平成22年/2010年12月] 「ロングインタビュー「中島京子」ができるまで」より ―聞き手:豊崎由美、構成:石井千湖)

 そして、書けば書いたで、ワタクシらのような無責任な読者からは「濫作だ」「紙の無駄づかい」とあしざまに言われ、本が出なくなると「低迷」「地味」「忘れられた」と言われる。それもこれも全部含めての直木賞。何と魅惑的で心おどる事象なんでしょう!

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2012年4月 8日 (日)

光岡明(第86回 昭和56年/1981年下半期受賞) よーし、小説どんどん書くぞ、の意欲を封じ込めてでも生きる、デキる地方在住ビジネスマンのジレンマ。

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光岡明。『機雷』(昭和56年/1981年・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。

 中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。

 光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。

「受賞決定の目まぐるしさから一段落した光岡は「これまで以上にスピードを上げて書き続ける覚悟は、もう完全に据わった」と言った。芥川賞候補に四回挙げられ、同人誌にも属さず独力でやってきた自負もさることながら、直木賞の性格から、今後も小説を書き続けられる人間と認められたという重みを身にしみて感じ取っている。「『機雷』はデビュー作と考えたい。代表作はこれから。六十五歳ぐらいまでは全力を挙げて取材する覚悟で」。」(『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点」より)

 ……ええと、こんなにヤル気まんまんだったのに、受賞してから遺作まで、光岡さんが出すことのできた小説は、『千里眼千鶴子』『前に立つ空』『薔薇噴水』のわずか3冊。エッセイやノンフィクションの類を加えても、10冊にも達しません。うおう。せつない。

「熊本市での受賞祝賀会で、出版社関係から「どうか地方の名士に祭り上げてくれるな」という意味の挨拶があったが、頼まれてもそうなるような人柄ではないというのが、周囲の一致した見方。」(同)

 ああ。ため息が洩れちゃいます。

 「頼まれてもそうなるような人柄ではない」ですと? どなたですか、そんな無責任なこと言ったのは。頼まれて頼まれて頼まれ尽くして、光岡さん、そうなっちゃったんじゃないんですか?

「52歳で新聞社を辞め、85年~95年まで、熊本近代文学館の初代館長に。県や市の各種委員就任への依頼は増え、「書く時間が足りない」とぼやいたが、「むげに断れるほど偉くない」とエッセーに書いている。」(『朝日新聞』夕刊 平成17年/2005年1月31日「惜別 作家・元熊本近代文学館館長 光岡明さん 記者意識、礎に」より ―署名:渡辺淳基)

 周囲の人には、地元の名士に祭り上げる気はなかったかもしれません。だけど結果、「県在住の唯一の直木賞作家」みたいな肩書きが、光岡さんの創作時間を奪い取り、寡作作家へのレールを敷いたことは否定できません。

「館長時代は時間が細切れにしか取れず、小説もなかなか書けませんでした。十年間で短編二本ぐらいでしょうか。」(『西日本新聞』平成7年/1995年5月30日「近況 公職やめ小説に専念、光岡明」より)

「昨年三月、新聞社退職後、十年間務めた熊本近代文学館長を退いた。「在任中は企画展が年四回、各種審議会の委員が三十三も重なる」相当な激務。小説を書く心境ではなかったようだ。」(『西日本新聞』平成8年/1996年10月27日「ひと・仕事の内そと 短編小説集を刊行した、光岡明さん」より ―署名:藤田中)

 ちなみに光岡さんの年譜は、井上智重さんが『恋い明恵』(平成17年/2005年8月・文藝春秋刊)の巻末「光岡明さんのこと」内でまとめてくれています。それによると、直木賞受賞の49歳のときには熊本日日新聞社編集局次長の職にあり、同年、論説副委員長。さらに熊日情報文化センターに社長として出向後、昭和60年/1985年に退社、52歳で熊本近代文学館館長に就任します。そこから10年。平成7年/1995年までの10年間、62歳まで、館長としての激務――言い換えれば地元の名士として熊本県文化向上のために精一杯つくした、と。

 65歳までは全力を挙げて取材するのじゃ!と創作意欲もえたぎっていた光岡さんの、貴重な貴重な10数年でした。でしたのに。

 もちろん、「直木賞作家」の肩書きだけのせいじゃありません。なにせ光岡さん自身、真面目で誠実で、打ち込むとなればトコトン打ち込む人です。しかも50歳。まわりのことや社会のことを考えなければいけない、いい大人です。頼まれれば断らない、それどころか小説執筆をおいてまで、「地元の名士」に情熱を傾けました。

「新聞社にいたときは記者として、文学館に移ってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。同時にその人脈は県内の行政、民間の両方にまたがって隈なく拡がっていた。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読む、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡さんは思っていた。」(井上智重「光岡明さんのこと」より)

 周囲の人たちがもう少し、光岡さんへの公職依頼を遠慮していてくれたら。光岡さんがもう少し、わがままを通す人で作品を生み出すほうに専念していてくれたら。まだあと何作も、ワタクシたちは光岡作品を読めたかもしれません。

 きっと光岡さん自身も悩んだことでしょう。あたら「直木賞」などという、虚飾の最たる肩書きを背負わされたばっかりに、思い通りの執筆活動ができなくて。

 直木賞が運んでくるのは、職業作家への扉をあけるカギばかりではない、地元民たちの期待にくるまれた社会的な役割までも、どっさりと押し付けられる……。デキる作家でもあり、デキるビジネスマンでもあった光岡さんは、そんな直木賞の性格を、痛いほどに体感させられたのでしょう。

「――受賞時は熊本日日新聞の編集局次長でしたね。作家との両立は大変だったでしょう。

光岡 作品に対して与えられた賞が、同時に社会的地位を高めるということを実感しましたね。講演依頼やいろんな委員会の委員就任要請が殺到し、受賞後の二、三年は異常な状況でした。新聞記者なので地域社会のお役に立ちたいという気持ちはあったが、一方で書く時間がなくなる。正直言って、私の心の中ではかなりの葛藤(かっとう)がありました。」(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1 賞の意味」より)

 光岡さんは、ついに、直木賞をとりながら寡作のままで逝ってしまいました。誰の責任でしょうか。直木賞のせい。地元の人たちのせい。光岡さん自身のせい。……ううむ、どれとも言いがたい。せつないです。

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2012年4月 1日 (日)

渡辺喜恵子(第41回 昭和34年/1959年上半期受賞) 直木賞をとったら華やかに活躍しなきゃいけない、とは誰も期待せず、本人も意識しないで書き続けた栄光。

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渡辺喜恵子。『馬淵川』(昭和34年/1959年5月・光風社刊)で初候補、そのまま受賞。『いのちのあとさき』でのデビューから17年。45歳。

 昭和34年/1959年上半期の直木賞は、女性2人が受賞しました。同時受賞者がともに女性、っていうのは初めてでした。

 時にマスコミこぞって「文壇才女時代」なる言葉に囚われていた頃です。当然、才女だ才女だと煽り立てようとしました。

「芥川賞は斯波(引用者注:斯波四郎と決定した。(引用者中略)別室では直木賞作家が誕生している。渡辺喜恵子の「馬淵川」と平岩弓枝の「鏨(たがね)師」。両女流作家の登場である。

 新聞・テレビの記者は、発表をきくと同時に、深夜を八方にとんだ。三人の受賞者を追いもとめながら。

 だれかがいっていた、今年の文学も、また才女時代と新聞記者作家がまだつづくのか、と。

(引用者中略)

 直木賞受賞の二人の女流作家の方が、話題となるのではないかとみる人もいる。直木賞の歴史を考えてみても、一度に二人の女性が受賞した記録はないし、衰えかかった才女時代という看板をたて直すにはまたとない好機だからだ。」(『週刊文春』昭和34年/1959年8月3日号「文壇のニューフェース 25年目の芥川賞・直木賞」より)

 意味不明です。「衰えかかった才女時代という看板をたて直す」って、いったい誰視点なんでしょうか。

 しかしです。せっかく誰かが目論んだ「才女時代のたて直し」も、残念なことに予想どおりにはいきませんでした。平岩さんはいいとして、一方が渡辺喜恵子さんですよ。45歳。地味。謙虚。コツコツ型。ゆっくりじっくり書く自分のペースを崩す気はまったくなし。……才女と呼ぶにこれほど似合わない作家がいたのか!っつうぐらいでして。

 賞さわぎの慌ただしさを経ても、渡辺さんは、自分の書きたいように書く、っていう考えを守りました。「直木賞受賞、即、流行作家」みたいな世間のイメージにさらされてしまって、困惑すらしています。まじめな人です。

「賞をもらったからといって、何も昨日に変って突然偉くなったわけでもないのに、まして金持ちになったというわけでもないのに、時どき変なことをきかれて私は困ってしまう。

 印税がたくさん入ったでしょうと電話をかけてよこす人があるかと思うと、あなた気をつけなさい、税務署が来るわよなどと、親切におどかしてくれる人もいる。(引用者中略)いくら税務署だって、書きもしない、受けもしない稿料にまで税金をかけるわけはないのだから、相手はあんまり書けそうもない私をからかっているのだと思った。」(『朝日新聞』昭和34年/1959年9月6日 渡辺喜恵子「直木賞・それから 訪問客」より)

 「あんまり書けそうもない」ことは、渡辺さん自身、十分わかっていました。選考委員たちに、

「「あとは書けまい」という声も委員中にはだいぶ出た」(『オール讀物』昭和34年/1959年10月号 吉川英治選評より)

 だの、

「大佛氏は「この作家は『馬淵川』一篇より書けないかも知れないが、それでもよいではないか。この一作だけに賞を贈りたい」といった。」(同 川口松太郎選評より)

 だの、

「将来も職業作家として立って行ける人を選ぶ、という直木賞の条件に、こんどは頑迷なほどわたしはこだわって、渡辺喜恵子氏の「馬淵川」に初めから終いまで反対をした」(同 村上元三選評より)

 だのと書かれますが、無理やり直木賞を押しつけられたかっこうの渡辺さんは、困惑したでしょう。

 家では商業写真家の木下利秀さんと二人暮らし。あくせく原稿を売り歩く必要はなく、目立たないように慎ましく生きていくことを信条としているかのような様子。小説も、ゆっくりと書くのを好む人です。

「小説の場合、私は好んで長い作品を書きたがる。一気に書くより、ゆっくり書く方が性に合っているようだ。短篇小説の場合も長篇小説の場合も、とりかかるときの作者の心構えにそう変りはないと思うのだが、なぜか私は長篇の題材を選んでしまう。」(昭和56年/1981年12月・女子栄養大学出版部刊 渡辺喜恵子・著『北国食べもの風土記』「はじめに」より)

 また、渡辺さんはことさら大きなことを言って衆目を集める、みたいな人でもありません。きっと渡辺喜恵子さんと聞いて日本人の九割以上が「謙虚」を連想するほどです(……いや、連想してほしい)。

 処女出版の『いのちのあとさき』の頃から、そうでした。クソまじめで面白みのない謙虚な文章。これぞ渡辺喜恵子その人です。

「これは、私が始めて世に出す、まづしい作品集であります。志した文学の道ははるかに遠く、至りつくといふことの難しさを識りました。唯この作品集を世に出す所以は、私の文学修業の一つの標識ともなればといふ望みからであります。」(昭和17年/1942年9月・国文社刊 渡辺喜恵子・著『いのちのあとさき』「あとがき」より)

 あるいは、直木賞受賞後のインタビューでも。

「私は苦節10年といわれていますが、この年になりますと、この10年間は尊いものです。若い方たちのものおじのなさはうらやましいですが、私にはもう自分の限界もわかっていますし、いくじもなくなりますね」(『週刊読売』昭和34年/1959年9月20日号「書斎訪問」より)

 まあ、こういうこと言いながら、実は創作意欲旺盛で年に何冊も出したり、次々と連載小説に手を染めたりしたら、イヤな人です。渡辺さんは正真正銘、地道な人でした。受賞しても、同人誌が主な活動舞台だった頃と、ほとんど変わらない書きぶりを貫きました。

 そんなふうに作家生活を送りましたので、小川和佑さんのように、こんな感想を持った方もいたことでしょう。

「より文学性の強い渡辺の作風は、マス・コミの中間小説の作風には向いていない。むしろ、長い時間をかけて自己の文学を育てていくタイプの渡辺には、受賞の騒音の去った後こそ、本来の仕事に還れるのであろう。(引用者中略)その文学の本質からいえば、直木賞作家というタイトルが今となってはあらずもがなではあるまいか。(『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:小川和佑 太字下線は引用者によるもの)

 ええ。あらずもがな、でしょうね。

 ただ、直木賞をとった人が一生「直木賞作家」と言われ続けるのは、強固な砦です。それを突き崩すのは困難なことです。ワタクシは渡辺さんを一人の直木賞受賞者として認識しています。それがそんなにイケないことですか?

 受賞当時から、渡辺さんが獅子奮迅の大活躍をするだろうとは、まわりの人も期待していませんでしたし、本人も意識しませんでした。次第に知る人も少なくなり、その作品は忘れ去られ、光の当てられる機会が稀な作家となっていきました。そして、「華やかさのない直木賞受賞者」っていう、栄光ある地位を築いたのです。

「直木賞作家のその後としては地味で、華やかに取り沙汰されることはなかったが、着実な歩みで自己の文学世界を熟成していった。」(平成18年/2006年1月・日本図書センター刊『日本女性文学大事典』より 執筆担当:林正子)

 一種の栄光ですよね、これは。

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