光岡明(第86回 昭和56年/1981年下半期受賞) よーし、小説どんどん書くぞ、の意欲を封じ込めてでも生きる、デキる地方在住ビジネスマンのジレンマ。
光岡明。『機雷』(昭和56年/1981年・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。
中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。
光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。
「受賞決定の目まぐるしさから一段落した光岡は「これまで以上にスピードを上げて書き続ける覚悟は、もう完全に据わった」と言った。芥川賞候補に四回挙げられ、同人誌にも属さず独力でやってきた自負もさることながら、直木賞の性格から、今後も小説を書き続けられる人間と認められたという重みを身にしみて感じ取っている。「『機雷』はデビュー作と考えたい。代表作はこれから。六十五歳ぐらいまでは全力を挙げて取材する覚悟で」。」(『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点」より)
……ええと、こんなにヤル気まんまんだったのに、受賞してから遺作まで、光岡さんが出すことのできた小説は、『千里眼千鶴子』『前に立つ空』『薔薇噴水』のわずか3冊。エッセイやノンフィクションの類を加えても、10冊にも達しません。うおう。せつない。
「熊本市での受賞祝賀会で、出版社関係から「どうか地方の名士に祭り上げてくれるな」という意味の挨拶があったが、頼まれてもそうなるような人柄ではないというのが、周囲の一致した見方。」(同)
ああ。ため息が洩れちゃいます。
「頼まれてもそうなるような人柄ではない」ですと? どなたですか、そんな無責任なこと言ったのは。頼まれて頼まれて頼まれ尽くして、光岡さん、そうなっちゃったんじゃないんですか?
「52歳で新聞社を辞め、85年~95年まで、熊本近代文学館の初代館長に。県や市の各種委員就任への依頼は増え、「書く時間が足りない」とぼやいたが、「むげに断れるほど偉くない」とエッセーに書いている。」(『朝日新聞』夕刊 平成17年/2005年1月31日「惜別 作家・元熊本近代文学館館長 光岡明さん 記者意識、礎に」より ―署名:渡辺淳基)
周囲の人には、地元の名士に祭り上げる気はなかったかもしれません。だけど結果、「県在住の唯一の直木賞作家」みたいな肩書きが、光岡さんの創作時間を奪い取り、寡作作家へのレールを敷いたことは否定できません。
「館長時代は時間が細切れにしか取れず、小説もなかなか書けませんでした。十年間で短編二本ぐらいでしょうか。」(『西日本新聞』平成7年/1995年5月30日「近況 公職やめ小説に専念、光岡明」より)
「昨年三月、新聞社退職後、十年間務めた熊本近代文学館長を退いた。「在任中は企画展が年四回、各種審議会の委員が三十三も重なる」相当な激務。小説を書く心境ではなかったようだ。」(『西日本新聞』平成8年/1996年10月27日「ひと・仕事の内そと 短編小説集を刊行した、光岡明さん」より ―署名:藤田中)
ちなみに光岡さんの年譜は、井上智重さんが『恋い明恵』(平成17年/2005年8月・文藝春秋刊)の巻末「光岡明さんのこと」内でまとめてくれています。それによると、直木賞受賞の49歳のときには熊本日日新聞社編集局次長の職にあり、同年、論説副委員長。さらに熊日情報文化センターに社長として出向後、昭和60年/1985年に退社、52歳で熊本近代文学館館長に就任します。そこから10年。平成7年/1995年までの10年間、62歳まで、館長としての激務――言い換えれば地元の名士として熊本県文化向上のために精一杯つくした、と。
65歳までは全力を挙げて取材するのじゃ!と創作意欲もえたぎっていた光岡さんの、貴重な貴重な10数年でした。でしたのに。
もちろん、「直木賞作家」の肩書きだけのせいじゃありません。なにせ光岡さん自身、真面目で誠実で、打ち込むとなればトコトン打ち込む人です。しかも50歳。まわりのことや社会のことを考えなければいけない、いい大人です。頼まれれば断らない、それどころか小説執筆をおいてまで、「地元の名士」に情熱を傾けました。
「新聞社にいたときは記者として、文学館に移ってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。同時にその人脈は県内の行政、民間の両方にまたがって隈なく拡がっていた。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読む、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡さんは思っていた。」(井上智重「光岡明さんのこと」より)
周囲の人たちがもう少し、光岡さんへの公職依頼を遠慮していてくれたら。光岡さんがもう少し、わがままを通す人で作品を生み出すほうに専念していてくれたら。まだあと何作も、ワタクシたちは光岡作品を読めたかもしれません。
きっと光岡さん自身も悩んだことでしょう。あたら「直木賞」などという、虚飾の最たる肩書きを背負わされたばっかりに、思い通りの執筆活動ができなくて。
直木賞が運んでくるのは、職業作家への扉をあけるカギばかりではない、地元民たちの期待にくるまれた社会的な役割までも、どっさりと押し付けられる……。デキる作家でもあり、デキるビジネスマンでもあった光岡さんは、そんな直木賞の性格を、痛いほどに体感させられたのでしょう。
「――受賞時は熊本日日新聞の編集局次長でしたね。作家との両立は大変だったでしょう。
光岡 作品に対して与えられた賞が、同時に社会的地位を高めるということを実感しましたね。講演依頼やいろんな委員会の委員就任要請が殺到し、受賞後の二、三年は異常な状況でした。新聞記者なので地域社会のお役に立ちたいという気持ちはあったが、一方で書く時間がなくなる。正直言って、私の心の中ではかなりの葛藤(かっとう)がありました。」(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1 賞の意味」より)
光岡さんは、ついに、直木賞をとりながら寡作のままで逝ってしまいました。誰の責任でしょうか。直木賞のせい。地元の人たちのせい。光岡さん自身のせい。……ううむ、どれとも言いがたい。せつないです。
○
光岡さんが、はじめて小説の世界で注目されたのは昭和50年/1975年、42歳のときでした。昭和47年/1972年ごろから『日本談義』の荒木精之さんに、小説を書けと言われて書きはじめたらしいです。同誌昭和50年/1975年2月号に掲載された「卵」が、『文學界』に全国同人雑誌優秀作として転載されました。
地方紙記者の光岡さんが、なぜ小説を書くようになったのか。最も有力な説は、昭和48年/1973年に父親が死んだこと、なのだそうです。有力な、と言いますか、光岡さんご本人が書いています。
「小説は日記ではない。発表を前提としない人はいないだろう。その上、一人でも多くの人に読んでもらいたい、というのが本心であるはずだ。さて、とそこで立ち止まる。だれが私の書いたものに興味を持ってくれるか。(引用者中略)
私は父の死亡記事を私が働く新聞に書く段になって、全く父のことを知らないことに気がついた。父の死亡記事は葬儀日取りを含めて七行で終った。百字あまりである。私が小説を本気で書き出したのはそれからだが、父がもしいまも生きているとして、父が喜んで私の書いたものを読んでくれるだろうか。」(昭和53年/1978年9月・文藝春秋刊 光岡明・著『草と草との距離』「あとがき」より)
「本気で」書き出したのは、41歳からだった、と。
では、本気でなくともいいから、光岡さんが小説を書き出した経緯はどこにあったんでしょう。ってことを追ってみますと、もう少し昔までさかのぼれます。
井上智重さんの「光岡明さんのこと」によれば、熊本の宇土高校時代に、
「文芸部と演劇部に属し、好きな女の子が出てくる小説を書くなど、積極的で成績も優秀であったという。」
とあります。また、熊本大学を経て熊本日日新聞に入社後、昭和36年/1961年に見合い結婚をするのですが、
「最初のデートのとき、「僕は小説を書いている」と打ち明けたという。」
小説への関心はずーっと光岡さんのなかにあったようです。
ただ、実はルポライターに憧れていた、っていう説もあります。いや、説と言いますか、これもご本人が言っていることです。
光岡さんは昭和41年/1966年~昭和45年/1970年、33歳~37歳のときに東京支社で働いています。この間、ルポを書くことの魅力にハマったらしいんですね。
「「西南と東北」と題した民俗的で、土着性の強いルポを連載した。実に数多くの作家、画家、芸能人たちに会っている。「日本談義」昭和四十三年一月号に「東京の中の熊本人」として活写しているが、彼が意図的に会っているのは演劇関係だ。」(〔熊本県教育委員会〕ホームページ 井上智重「光岡明の風景 その生涯と作品」より)
在京中には大宅壮一ノンフィクション塾にも入塾しました。「西南と東北」という記事は『熊本日日新聞』に連載され、じつは文藝春秋主催の第1回大宅壮一ノンフィクション賞に、予選候補のひとつとして挙げられたりしたのです。
塾生だから予選候補になったのか、それとも逆なのか。判然としません。いずれにせよ光岡さんが、そこから先、新聞記者活動の延長として、ノンフィクション物を書いて脚光を浴びる可能性は十分にありました。
ところがこの時期に、光岡君、きみにはルポは向いていないね、とアドバイスしてくれた人がいました。大宅塾塾監の草柳大蔵さんでした。
「光岡 私は、もともと新聞記者で、それもルポライターになりたいと思っていた。ところが、東京支社勤務時代に大宅壮一さんの塾生になり、塾監の草柳大蔵さんに私の原稿を見せたところ「君はルポライターよりも小説家の方が向いている」と言われ、それからですよ、小説を書き始めたのは。当時、三十七歳だったかなあ。スタートとしてはかなり遅かった。」(前掲「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1 賞の意味」より)
37歳。昭和44年/1969年か昭和45年/1970年ごろのことです。
光岡さんに小説を勧めたのは、果して草柳大蔵か先か、荒木精之が先か。そんな問題を突きつけられて、ワタクシは回答できず、たじろぐばかりです。ただ、ああ光岡さん、奇しくも昔から文藝春秋とは縁があったのだなあ、とその運命の面白さに、のんきに詠嘆しているところです。
○
全国同人雑誌優秀作として「卵」を引き上げてくれたのも、文藝春秋の『文學界』。その後、4度の芥川賞候補はいずれも、『文學界』掲載の作品。直木賞を受賞して、発表の舞台が広がるかと思いきや、光岡さんの小説が載った媒体は、いずれも文藝春秋の発行する『オール讀物』か『別冊文藝春秋』か『文學界』。
そして、とった賞が文藝春秋の直木賞。
書き下ろしの受賞作『機雷』だけが、講談社から出版されたものでした。これがかなり浮いて見えるほど、光岡さんといえば(小説家としての顔に絞って見れば)文藝春秋専属のおもむきです。
小説を書きはじめたころ、光岡さんは後輩記者に、こう言っていたそうです。
「新聞社に入社したばかりの三十年近く前、昼休みに光岡さんから喫茶店に誘われた。
身を固くしている新米に、既に俊才の誉れが高かった学芸記者は言った。
「おれは新聞記者とモノ書きの二足のわらじを履いている。いずれ文壇で名を成して見せる」
自信をみなぎらせた表情に、「この人はただ者ではない」と畏敬(いけい)と憧憬(しょうけい)の念を抱いた。」(『熊本日日新聞』平成16年/2004年12月23日「評伝 光岡明さん」より ―署名:龍神恵介)
いずれ文壇で名を成す。……直木賞をとったぐらいで「名を成した」と思ってくれるオメデタイ人は少ないでしょうけど、果たして光岡さんは宣言どおり、文壇で名を成したと評価していいのでしょうか。たとえば、たった一つの出版社だけじゃなく、もっともっと多くの雑誌に小説を書いてくれて、広く評価されていたと認識できれば、ワタクシも気持ちよく、光岡さんは名を成した、と言い切れるのですけど。今は何とも、ムニャムニャした気分です。
しかし、亡くなってまもないころ、安永蕗子さんは堂々と言ってくれました。
「昨年12月に72歳で亡くなった直木賞作家、光岡明さんを偲(しの)ぶ会が10日、熊本市の市民会館で開かれた。(引用者中略)親交のあった熊本市在住の歌人、安永蕗子(ふきこ)さんは「光岡さんの文字と言葉は長く生き続ける」と述べた。」(『朝日新聞』西部地方・熊本版 平成17年/2005年2月11日「功績・人柄、400人が偲ぶ 直木賞作家・光岡明さん」より ―署名:渡辺淳基)
そうだそうだ、長く生き続けてほしいぞ。『機雷』の重厚な感じも捨てがたいんですが、文学館館長の激務から解放されてのちに出した『薔薇噴水』なぞも、かなりイッちゃっている設定の、楽しい短篇集です。
ほんと、地方の名士に祭り上げたままにしておいてほしくないよなあ。
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